エピローグ

第35話 夏休み

「獲ったどー!!!!」

 乾の声が森林公園に響いた。

 乾と桐乃、加納さんが遊んでいる。

 周辺には、神崎団長と小野を含めた応援団もいた。


 夏休みに入って早々、彼らは暇になった。

 部活動の活動が2週間、禁止になったからだ。つまり7月いっぱいは部活に参加することはできない。


 原因は、我妻が提示した折衷案だ。

 我妻は、花宮美由のみならず、事件の調査に参加した生徒全員を処罰対象に加えてほしいと提案した。

 つまり、学校側は処罰を与えることでメンツを保ちつつ、これ以上の調査をけん制する。僕ら生徒側は、集団で処罰を受けることで個々のダメージを減らす。ということだ。


 僕や我妻をはじめとする、部活動に所属していない生徒は、分厚い反省文を。応援団や加納さんのような生徒は、部活動を一時禁止する。という処罰になった。

 桐乃はまだ小学生のためおとがめなしだ。


 そのようなわけで、夏休み早々暇になった、ということで、みんなと桐乃は遊んでくれている。

 僕は暇を持て余して楽ちんだ。


「アンニュイな顔だな。中田くん」

 我妻が僕を見下ろす。おちゃらけても、我妻には通用しないらしい。

「別に」

「今日も花宮美由には会えなかったかい?」

「うん」

 終業式後、花宮さんは家に引きこもっている。僕は心配で毎日花宮さん宅に出向いている。しかし目立った成果は上げられない。

 今日こそは会えればと、それでなくともせめて言葉を送れればと思ったが、無理らしい。

 明日からは、僕は向かうことはできないかもしれない。

 僕は血がにじんだ親指を撫でた。

「ほら」

 親指を近づけた口元に、触れたのは紙の感触。

 我妻がばんそうこうを差し出していた。

「あ、ありがと」

 赤くなった親指にばんそうこうを巻く。

「まったく、感服するよ。君の、その慈愛……いや、自愛には」

 我妻の言葉を、僕は受け流す。

「家庭環境故に、抑圧され、自身を愛せなかった君は、しかし。花宮美由という自己投影を見つけた。ランニングをしている彼女に、そして結果を掴んだ彼女に。自身の姿を重ねた。花宮美由は、中田風太の分身だった」

「僕の中ではね」

 花宮さんが努力している姿を、花宮さんが成功している姿を、僕は自分自身のように感じ取っていた。

 花宮さんからすれば、勝手にそんなことをされて、という気持ちだろう。

「共感性の高さゆえに生まれた変態だ。君は他者の痛みをまるで自分のことのように扱うことができる。そして、他者の喜びもまた同様に」

「はた迷惑だろ。そんなの」

「謙遜するな。面白いじゃないか。君の、利他的な自己愛は」

 我妻は愉快そうに嗤う。

「そんな愛を、花宮美由本人は理解できていないようだが。かなしいかい?」

 分かり切った愚問だ。我妻も、答えは理解できているだろうに。

「まったく。だって、それが花宮さんだもん」

 自分のために頑張って、自分のために生きる。

 我妻はエゴイズムしかない人間だと称した。けれど、そんな花宮さんだから、僕は彼女にあこがれた。

 だから僕は嫌われたってかまわない。僕自身が、僕を好きではないのだから。

 僕は僕自身を愛してほしいんじゃない。自分自身が大好きな人を、ずっと見ていたいだけだ。

「自分の中で、自分が一番だって言える人が、その強さが、僕は好きなんだ」

 僕の中の優先順位は、一位に花宮さん。そこから母と、桐乃と、家族。そしてうんと下に僕がいる。

 自分を優先することは思った以上に難しいんだ。

「でも、少し……」

 あの憎々し気な表情を思い出す。ばんそうこう越しに親指の爪を撫でた。

 そして、デパートで握られた手の体温を思い出す。

「期待してしまったんだな……」

 花宮さんへの僕の思いが、報われる必要などなかったのに。


「花宮美由がどの時点で君に殺意を覚えたか、わかるかい?」

 我妻の言葉に、僕は顔を上げる。

「どのって。デパートの前くらいじゃないの?」

 あるいは、ケツリコーダー事故での、加納さんを助けた件だろうか。

「違うよ。ナイフを持ち出したときの直前だ。君が、花宮美由に執着した理由を語ったとき。あのとき、花宮美由の心に確かな殺意が芽生えた」

「え?!」

 殺意を持たれるなんて、やっぱり、一方的に話されて気持ち悪かったのだろうか。

「君が想像している理由とは、異なるよ」

 我妻は肩をすくめる。

「花宮美由は、秘密が秘密でなくなるから、君を殺そうとしたんだ」

「秘密?」

「花宮美由にとって、中学以前の自分は秘匿されるべきものだ。しかし、君は中学時代の花宮美由を知っていた」

 確かに、花宮さんの過去は、花宮さん自身が暴露という形で明かすまで秘されていた。

「秘密というものはね、誰も知らないから効果があるんだ。三浦学園という箱庭で、過去という秘密を知っている君は、花宮美由にとって絶対に排除しなければならない異物だったのさ」

 そうか、僕は、根本的に花宮さんに受け入れられる人間ではなかった。花宮さんにとって、踏み入れてはいけない場所に土足で入ってしまった人間なのだ。

 僕はじりじりと陽光を反射する地面に目を伏せた。

 耳には、桐乃たちの遊ぶ声が響く。

 彼女らと、花宮さんを隔てたもの。それは『秘密』を共有できるかだ。僕は愚考する。

 僕にも、我妻にも、みんなにも、秘密がある。それを、共有することを僕らは許している。秘密が公然になることを許容している。

 けれど、花宮さんにはそれができなかった。

 花宮さんの秘密は花宮さんの中で秘匿される。

 花宮さんは自分の横に歩くものを許さない。

 だから、花宮さんはいつも舞台の上で一人きり。たった一人。

 それを花宮さんは望んでいる。


 僕は大きくため息を吐いた。


 その姿を、我妻は愉しそうに嗤う。

「ふふ。かわいそうに、自己投影相手依存先に君の愛などいらぬと突っぱねられた。傷心の中田くん。かわいそうにねぇ」

「別に、傷心じゃないけど」

 疲れているのはお前のせいだ。我妻よ。

「ところで」

「そんな中田くんに、傷心旅行のお誘いだ。パパの地元は小さな漁村でね。海と山を楽しめるタイプなんだよ。ぜひ行きたくはないかね?もちろん。桐乃ちゃんを連れてってもいいんだよ」

「……その心は?」

「パパの地元で、変態的な事件が起きたんだ。ぜひ君の反応を見たい」


 どんな事件? と僕は考える前に聞いていた。


 僕の視線は、目の前。桐乃たちと遊ぶ、小野や加納さん、乾へ。

 我妻とかかわったことで、僕は花宮さんという存在を失ってしまった。僕は花宮さんに否定された。ぽっかりと開いた空間は、傷心と呼ぶのだろうか。

 でも。しかし。その代わり。

 僕は別のものを手に入れたのではないだろうか。

 楽しそうに遊ぶ桐乃に、楽しそうに遊んでくれるみんなに。そして僕の隣で嗤っている我妻に。僕は自然と口角が上がった。

 今僕が笑っているのは、あのとき、我妻が僕を見つけてくれたからだ。

 今は正面切って肯定できないが、悪くはなかったのだと思いたい。

 そして、我妻の誘いに乗ることで、それを証明したい。


 僕は、再び、我妻の手を取った。

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変態図鑑 染谷市太郎 @someyaititarou

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