最終話 変わらないもの

 半ば放心状態で帰路に着いた。暗い部屋のベッドの上で私は身を横たえていた。

 どうして石橋さんが私と彼女の関係を知っていたのだろうかとかそういったことは些細な問題だった。結局私と彼女の関係の中には私と彼女しかいなくて外側でその関係を誰に知られていようと私たちには関係のない話だった。むしろ小学校の時の人たちみたいに私たちの関係に疑問を呈さずそれどころか私たちの関係を案じるような言葉をくれた石橋さんについての心配事は何もなかった。それ以上に石橋さんの言葉は私に様々な事実を突きつけた。

 私は彼女からずっと逃げ続けているということに。私が彼女に向ける気持ち。彼女が私に向ける気持ち。これら全てから逃げ続けているということに。

 どうしたら私は彼女ときちんと向き合えるのだろう。恋も好きも私にはまだわからなくて私にあるのはただ彼女の隣にいたいって気持ちだけなのに。そんな私がどうやって彼女と向き合えるだろう。変身を終え蛹を破り感情の綺麗な羽を広げた彼女に対して蛹のままの私がどうやって向き合えばいいのだろうか。

 私は以前、彼女に自分の気持ちを伝えようとした時のことを思い返す。あの時の私は、ただもう一度彼女と友達になりたかった。部活を始めて恋を知って変身してしまった彼女の世界で友情じゃ一番にはなれないと思って、だからせめてその他大勢の友情でもいいから彼女の隣にいたいと思っていた。せめて私も彼女の世界の一員でいたかった。けれど私のそんな妥協にまみれた願いは拒絶された。なぜなら彼女が私に求めるものは愛とか恋とかそういったものだったから。彼女の恋のベクトルは私に向いていたから。そんな彼女の告白を私は受け入れた。だって彼女と一緒にいたかったから。

 私にとって結局友情は彼女と一緒にいるための手段でしかなかった。私の最大の願いは彼女とずっと一緒にいること。それだけだった。友情でも愛情でもなく、それが私の願いだった。ただ恋とか愛が私にはなくて、それがゆえに彼女を傷つけて、それでもそんな私の願いは少しも変わってはいなかった。だって再び訪れた彼女がいない日々はこんなにも悲しくて寂しい。

 例えばこの想いを全て彼女にぶつけたらどうだろうか。前みたいな妥協にまみれた生半可な告白じゃなくて、私の今の気持ちの全てを、ずっと抱え続けてきた願いの全てを彼女にぶつけたら、そうすれば"彼女ときちんと向き合う"ということになるのではないだろうか。ふとそんなことを思った。

 それは彼女の告白に比べたらちっぽけで些細なものかもしれないけれどそれでもこのまま何もせずに蛹の中で今の閉塞感を抱えたままで朽ちていくよりは随分マシだ。それに何より、もうこれ以上彼女がいない世界には耐えられない。

 一度その考えが浮かぶとそれは私の頭の中でどんどんと大きいものになっていった。私の想いの全てを伝える。もう私に残された方法はそれしかないように思えた。何もできない閉塞感に苦しみ続けていた私にとってそれは目の前に突如垂らされた蜘蛛の糸のようなものだった。瞬時に覚悟が固まった。

 明日彼女が学校に来ていたら、今度は私が

「一緒に帰ろう」と誘おう。もし来ていなかったら家に押しかけてでも気持ちの全部を告白しよう。彼女を突き飛ばしてしまったことへの申し訳なさ。恋とか好きが今の自分にはまだ良くわからないこと。そして何よりもずっと彼女の隣にいたいというその願いを。決して変わらないこの願いを。このまま私の世界から彼女が消えてしまわないように。少しでも彼女の住む世界に近づけるように。そのために私は今度こそ変身しなければいけない。





          ◇





 廊下を歩いているだけなのに動悸が激しかった。ここ最近はいつもそうだった。彼女が学校に来ているのか来ていないのか。それが気になって心臓の鼓動が早くなっていた。

 けれど私今抱いている心境はこれまでとは少し違うものだった。

 もちろん、彼女と顔を合わせることへの恐れはある。けれどそれ以上に今日は彼女が学校に来てくれればいいのにと思っている。

 私は昨日固めた決意を早く行動に移してしまいたかった。恐怖心に飲み込まれる前に。彼女との関係が手遅れになってしまう前に。その前に自分の気持ちの全部を打ち明けてしまいたかった。

 そんなことを考えている間に教室の前にたどり着いた。ドアの前、深く息を吸い込む。動悸が呼吸に乗ってその音を鼓膜に響かせる。それをかき消すように私はドアを開けた。

 私の視線は瞬時に無意識に彼女を捉えた。彼女はまるで数日休んでなどいなかったようにのように自然に部活仲間の輪に加わって談笑をしていた。久しぶりに見る彼女の姿はそれを心の中で思い浮かべすぎて、逆に現実味が無かった。

 程なくして彼女も私に気づいてこちらに視線を向けた。それから取り繕うように視線を戻して再び談笑の輪に戻った。今まで幾度となく繰り返してきたそんなやりとり。私たちの関係と中学校での生活は隔たって並行に存在していた。それは中学校が始まってすぐの彼女の、私を避けるような態度の名残だった。周りに私たちの関係を悟られないこと、それがいつのまにか暗黙の了解と化していた。それは初めは辛く、彼女の告白を受けてからは秘密を共有しているようで楽しくもあった。

 けれど、もういいや。

 私は一直線に彼女とその仲間の輪に向かった。狭い教室でそこにたどり着くのはすぐだった。煩い心臓に意識を向ける間もなかった。

「とまりちゃん」

 私はいつも呼ぶみたいに彼女の名前を呼んだ。

 談笑がぴたりと止んだ。彼女と石橋さんは驚いたような顔でこちらを見た。

「今日一緒に帰ろうよ。部活があるなら待ってるから」

私はそう言った。その瞬間、二つの線が一つに交わった。

彼女は動揺を隠すように

「うん。いいよ」

と静かな口調で言った。

「じゃあ教室で待ってるね」

 そう返事をして私は踵を返して自分の席に向かった。少しの間彼女らは言葉を交わしていなかった。

 けれど私が席に着いてそちらに目を向ける頃には再び、彼女らは言葉を交わし始めていた。

「そうそう。実は小学校の時から仲良くてさ」

 彼女のそんな明るい声が聞こえた。

「へーそうだったんだ」

 石橋さんもそんな風に明るい口調の相槌を打っていた。私たちの関係を恐らくは知っていながらそれを話の種にすることはなくいつもの談笑の雰囲気を維持するように振る舞っていた。残りの二人も私と彼女の仲を不審がる様子は見せなかった。

 そこに小学校時代のような空気はなかった。それに少しホッとした。良い人たちだなと思った。けれど仮に私と彼女の仲を不審がられても私は別に構わなかった。そんなことよりも早く彼女と一緒に帰る約束を取り付けたかったし、それに周囲の人に私と彼女に繋がりがあることを認知してもらいたいという気持ちすらあった。私は今日の告白が何の効果も為さずに関係の修復に失敗したとしても、私と彼女のつながりが自然消滅することだけは避けたかった。いくら気まずくても私は彼女と何らかの繋がりを保っていたかった。私と彼女の関係が彼女の友達に周知されていることはそのための保険になるような気がした。

 いざ動き始めればどんどんと自分の気持ちが浮き彫りになっていく。私はやっぱり彼女と離れたくないのだ。どうなっても彼女の隣にいたいのだ。その気持ちを早く伝えたくて仕方がなかった。


 私は図書室で以前借りた本を返却した。彼女を突き飛ばした日に読み終わった本を。そして暇つぶしに新しい本を読み始めた。その本にもやはり恋愛の描写はあって、相変わらず登場人物の心情に共感することはできなかった。だから私は文字を読み流しながら彼女のことを考えていた。今日一日ずっとそうだった。それは別に今日に限った話ではないけれど今日はその思考に向かうべき行き先があるような感じがした。それはまさに押し込められていたものが殻を突き破って飛び出す瞬間の期待感だった。

 よく考えれば私は彼女に自分の気持ちをろくに伝えたことがなかった。その気持ちはずっとぐるぐると私という蛹の中で何になるでもなくかき混ぜられていたものでそれがこれから遂に日の目を見る。もしかしたらそれは羽にもなりきれていなくて、確かな形や名前を持たない気持ちなのかもしれないけれど、とにかくそれを伝える他に今の私ができることはない。

 例えそこに、今読んでいる本の中にあるような、そして彼女の中にあるような恋や好きが無くても。例えその結果、私と彼女の感情の差異が浮き彫りになって、彼女の気持ちが私から離れることになっても。それでも私は無理矢理にでも彼女を私に縛り付けておきたいと思う。私の感情というのはそういったことまで含まれている。そういったドス黒い部分まで全部を今日は彼女に見せる。伝える。

 手元の本を半分と少し読み終えたくらいで6時半になった。私は本を棚の元の位置にしまって教室へと戻った。

 教室に入ると、ちょうど紫月さんがノートをカバンにしまって帰りの準備をしているところだった。紫月さんはドアの鳴る音に反応してこちらを見た。私はそんな紫月さんに話しかけた。

「紫月さん今日も委員会のお仕事?大変だね。お疲れ様」

「そうなの。本当に二年生になったら絶対に委員長になんてならないって心に決めてる。広田さんは赤熊さん待ち?」

「うん」

「赤熊さん最近休んでたもんね。風邪、治ってよかったね」

「うん」

 私は相槌を打ちながら紫月さんが以前に言ってくれた言葉を思い返していた。その言葉があったからあの時私は彼女に声をかけようと決めたのだった。

「じゃあ私はこれで」

 立ち去ろうとする紫月さんに私は尋ねる。

「ねえ、紫月さん。私ととまりちゃんってどんな風に見える?」

 私の言葉に紫月さんは立ち止まって振り向いた。その顔には困惑の表情が張り付いていた。けれど私の顔をみて戸惑いながらも落ち着いたトーンで話し始めた。

「仲良しだと思うよ。だって仲良しじゃなかったら一緒に帰ったりしないと思うし。それに、なんか広田さんと赤熊さんってタイプは違うけど纏ってる空気が一緒っていうか、なんかそんな感じがする」

 紫月さんはポツリポツリと考えをまとめながら話すようにそんなことを言った。

「ありがとう。ごめんね変なこと聞いて。」

「ううん。大丈夫。こっちこそこんな答えで何かの参考になった?」

「うん!お礼に今度委員会の仕事手伝うね」

「本当は遠慮するべきなんだろうけどそれはすごい嬉しいかも。一人だと飽きてきちゃうし。じゃあ今度、広田さんが赤熊さん待ってる時にお願いしてもいい?」

「大丈夫!」

「ありがとう。それじゃあ私はこれで。ばいばい」

 そう言って紫月さんは手をひらひらと振ってから帰っていった。

「ありがとう。ばいばい」

 私もその背中に向けて手を振った。ドアからでる直前紫月さんはチラッとこちらを見て軽く微笑んだ。

 私はそんな紫月さんの態度に、好きだなと思った。紫月さんはいつでも私の欲しい言葉を的確に、むしろそれ以上をくれる。しかもそれでいて私が踏み込んできてほしくないところには一切踏み込んでこない。紫月さんは私が彼女以外で掛け値のない好感を持っている唯一の人かもしれなかった。

 ただこの好きはただの純粋な好感で、当たり前だけれど彼女が私に向ける類の好きとは別のもので、またその好きは私が彼女に向ける感情ともまた別の種類のもので。

 結局最後まで私の彼女に向ける感情だけがはっきりとはしなかった。けれどその明文化されていない感情をこれから私は彼女に伝えるのだ。綺麗な部分も汚い部分もそのままに。そうすればその感情にも何か名前が付くのだろうか。別に名前なんて付いても付かなくても良いから彼女と離れたくないなとそんなことを思った。

 その思考がふっと途切れた。ガラガラという音が響いた。教室のドアが空いて彼女が姿を現した。




          ◇




 かんざしと一緒にいたい。悩んだ末に出た答えはそんなシンプルなものだった。私は例え恋人じゃなくなってもこの熱情を胸の内に秘めなければいけなくなってもかんざしと一緒にいたかった。

 だから私は学校に来た。このままかんざしから逃げ続けていたら覆しようのない隔たりが生まれてしまいそうで、私とかんざしの関係が丸ごと無かったことになってしまいそうで、それを避けるために私は学校に来た。そして、また前の告白の時のように一緒に帰ろうと誘ってみようとそんな決意を固めていた。

 だから流石に朝のかんざしの行動は予想外だった。まさかみんながいる前で一緒に帰ろうと誘ってくるなんて。かんざしのそういった行動はとても珍しかった。かんざしは小学校の頃から私が誰かと話している時は一言も話さないしまた話しかけても来ないような子供だった。またそれは私たちの間にあった暗黙の了解を破る行為でもあった。

 別に嫌なわけでは無かった。ほのかちゃんになんて付き合っていることまで知られているんだし、他のみんなにも仲が良いことくらい知られていても何も問題はない。小学校の頃のように、それでかんざしのことを悪く言うような子たちではないことは私が一番よく知っている。実際みんな意外そうな表情こそ浮かべたものの、特になにか困るようなことが起こったりはしなかった。

 ただ私とかんざしとの仲がほのかちゃんや狩谷さんや倉野さん筆頭にみんなにハッキリとした形で周知されるのはどこか落ち着かないような気分で、それは私がかんざしとの関係を半ば潔癖気味なくらいに大切にしているからなのだと思う。その感覚を私はかんざしと共有していたはずで、だからこそ学校で私たちの関係を隠すようにするのが暗黙の了解として成り立っていたはずで。だから今日のかんざしの行動が私には理解し難かった。

そしてその行動やその行動によって取り付けられた約束によって今日一日気が気じゃなかった。余りにもすんなりと、予想外の展開でかんざしと一緒に帰ることになった。

 私は正直一緒に帰って何を伝えるかまでは決めていなかった。ただとりあえずかんざしとの関係を死なせたくなかった。その一心だった。言葉は後から付いてくると思っていた。かんざしも私と同じだろうか?それともかんざしは私に何か伝えたいことがあるのだろうか。後者だった場合に私はとても希望的な未来を描くことができなかった。いくつものマイナスな発想が頭の中で浮かんでは消えてを繰り返した。

 かんざしに私と同じ気持ちがなかったら。私がかんざしを好きなようには、かんざしは私のことが好きじゃなかったら。いや、それはまだいい。それに恐らくそれは事実なのだろうと思う。キスをどうして拒んだのかと考えればそれが一番辻褄があった。だから最悪なのは前のキスが原因で友情すらも嫌悪感へとすり替わってしまっていた場合だった。もう関わりたくないと突きつけられることだった。

 私はそんな恐怖に囚われて今すぐ逃げ出したいくらいだった。けれど一度学校に来てみんなの前で約束まで取り付けられてしまったら逃げ出すなんてとてもできなかった。だから私は刑の執行を待つ死刑囚のような気分で一日を過ごした。

 部活を終えて教室に向かう途中、カツンカツンと階段を登る音が誰もいない廊下に響いていた。何度聴いたかわからない自分の心臓の音がやっぱりうるさく自己主張をしていた。私は自分の鼓動に急かされるように早足で教室へと向かった。これ以上余計な思考が頭の中に入り込まないように。自分の足を前に進めることだけに意識を集中する。それを繰り返す。その繰り返しの延長線上で、唐突にあっさりと教室は現れた。私はいつもと同じように何も考えず教室のドアを開けた。

 その意識的に生み出した無意識を等身大のかんざしが瞬く間に埋め尽くした。かんざしはいつも私の中にいて、けれど実際に会うたびに容易に実物は想像を超えて行く。それが久しぶりだったらなおのことだった。私は沸々と湧き上がる熱情や愛情に、その行く先が無くなるかもしれないということも忘れてかんざしの視線の中に吸い込まれた。

「久しぶり」

 胸がいっぱいになってそう口にするのがやっとだった。

「久しぶり。それじゃあ行こっか」

 かんざしは綺麗な所作で席を立って私の横に並んだ。そして私を牽引するように歩き始めた。私も彼女の隣を失わないように彼女と同じ速度で歩いた。

 教室を出て靴箱で靴を履き替えて校門を出る。その過程で私たちの間に言葉はなかった。ただ時折かんざしはこちらに視線をやった。私より少し背丈の小さいかんざしの上目遣いの視線が何度か私に注がれた。私はその美しい光線に静かに目を奪われた。いつもかんざしといる今が一番幸せだと思う。

 言葉は無く、何度か視線を交わしたままで私たちは坂道を下り始めた。

「とまりちゃんに伝えたいことがあるの」

 だから、桜公園に差し掛かった時、かんざしが口にした言葉はとても唐突な響きを帯びていた。突然喉元に刃物を突きつけられたような気分だった。その時になってようやく、今まさに感じている幸せの全てを失う可能性があることに気がついた。

 そんな重大な事実に反して心の準備をする間も無くかんざしは言葉を続ける。

「まずはこの前のこと。本当にごめん。とまりちゃんを傷つけるつもりはなかったの。それにキスが嫌だったわけでも。もちろんとまりちゃんのことも嫌いじゃないし。ただね」

 そこでかんざしは言葉に詰まった。私は彼女の言葉に安堵する一方でそんな言葉でさえもこれから彼女が私に別離を告げるための助走に思えて気が気じゃなかった。心臓が速く動いて頭が沸騰するように熱かった。グラウンドを走る時の何倍も息が苦しかった。

 かんざしは意を決したように続きの言葉を話し始めた。

「ただ私には好きとか恋がわからないの。何が好きで何が恋なのかも。だから私はとまりちゃんが私に持っているような気持ちを持ってはいないの。キスでびっくりしちゃったのもそれをしたいって思う気持ちがわからないからなの」

 胸の動悸や頭の熱さや息切れが急速に止んだ。突き飛ばされたあの時と同じように、私は空っぽになってその中にかんざしの言葉が静かに強く響いていた。

 もう私はかんざしとの別離を覚悟し始めていた。これからかんざしは関係の解消を告げるのだと思っていた。けれどかんざしは想定外の方向に話を進め始めた。

「だから私は私がわかる気持ちをとまりちゃんに聞いて欲しいの。今までずっととまりちゃんに伝えて来なかった気持ちを聞いてほしいの。私はね、ずっととまりちゃんの隣にいたい。ずっと、とまりちゃんと同じ時間を過ごしたい。その願いのためだけに生きてきたから、だから好きとか恋とかそういう気持ちがわからないの。それなのに、その気持ちがわからないのにとまりちゃんに告白された時、恋人になればとまりちゃんと一緒にいられると思ってそれで告白を受けた。けれどそのせいでとまりちゃんを傷つけた。このまま付き合っていたらこれからもとまりちゃんを傷つけるかもしれない。だからこれは私のただのわがままで自分勝手な気持ちなんだけど」

 一瞬、時間が止まった。宝物を差し出すように、そっと、彼女は口を開いた。

「私はこれからもとまりちゃんの隣にいたい。たとえ、その願いのせいでとまりちゃんを傷つけたとしても、私は私のためにとまりちゃんの隣にいたい。とまりちゃんを離したくない。」

 その言葉を最後にかんざしは口をつぐんだ。静寂が私たちを包んだ。坂の中腹で私たちはどちらからともなく歩みを止めた。

 私は横目でかんざしの顔を見た。かんざしの頬は上気したように真っ赤だった。その顔を見て、好きだと思った。そう思うと同時に言葉が自然と口を突いて出た。

「いいよ。私もかんざしと一緒にいたい」

 たとえ、どれだけ傷つけられても、その傷ごとあなたを愛せてしまう気がする。





          ◇





 目の前に控えた告白の恐怖の、そのあまりの大きさに私は愕然としていた。今から私が発する言葉の一つ一つが私と彼女の関係を決定的に破壊してしまうような気がして言葉が喉に張り付くようだった。けれど沈黙をいつまでも保つことは不可能で、意を決して言葉を吐き出した。その瞬間にダムが決壊したように積年の想いが形となって溢れ出した。

「私はこれからもとまりちゃんの隣にいたい。たとえ、その願いのせいでとまりちゃんを傷つけたとしても、私は私のためにあなたのそばにいたい」

 そんな言葉を最後に、私は長い独白を終えた。想いの全てを彼女に伝えきった。それは間違いなく、私の人生の全てと言っても差し支えのないものだった。

「いいよ。私もかんざしと一緒にいたい」

 だから彼女の口からその言葉を聞いた時、私に訪れたのは至上の喜びだった。私の人生の全てを私の人生の全てである彼女に肯定されたという事実で胸がいっぱいになった。

 私たちの間に沈黙が訪れた。けれどそれは嫌な沈黙ではなくお互いに想うところがあり過ぎて何から言葉にすればいいのかわからない、そんな沈黙だった。私たちは言葉もなしにどちらからともなく再び坂を下り始めた。

 梅雨の桜は疑いようのない緑色で、けれど今はその色をこそ美しいと思えた。それはやがて冬が訪れて葉が散って黒色の枝木だけが残っても、再び春が訪れて桃色の花びらが咲き乱れても、どんな時も彼女とこの坂を共に歩くという美しい予感が坂道を彩っているからだと思った。

「ありがとう」

 やっと私はそんな言葉を絞り出した。

「ううん。私こそ今すごいうれしい。だってかんざしの伝えてくれたことは私の想いの何倍も大きいものだったから。私は今の自分の気持ちに向き合うのに精一杯で、未来でかんざしとどうなりたいかとかそんなこと少しも考えたことなかった。だから大丈夫だってそう思えた。かんざしが私のことを大事に想ってくれていて、ずっと一緒にいてくれるなら、それでいい。それがいい」

 彼女は前を見据えたままでそんな言葉を返した。

 気づけば、道の傾斜はほとんど平坦になっていて坂道はもうすぐ終わりに差し掛かっていた。

 私たちはどうやらお互いがお互いに、種類の違う別々の蝶だったらしい。だから、たとえお互いの羽ばたきの軌跡が重なっても重ならなくても。二人でどこまででも飛んでいけるような気がした。桜の坂道の頂上の、更にその向こうまで。





          ◇





 玄関で靴を履いた私は、靴箱の上に置かれたガラス張りの飼育箱の中を覗き込んだ。そこでは蛹が微動だにせず葉にぶら下がっていた。その蛹の色は黒ずんでいてそこからアゲハチョウへと羽化する兆しを感じ取ることができた。

「かんざし行くよー」

 先に準備を終えた彼女がドアの向こうから呼びかける。

「すぐ行く!」

 私は羽化直前の蛹に頑張れと心の中でエールを送り、それからドアを開けて外の世界へと飛び出した。彼女のいる世界へと。彼女と共に生きる世界へと。

 月日が経って、色々なものが変わっても、それだけは変わらない。

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変身 無銘 @caferatetoicigo

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