第8話 もっと近くに

 不恰好に差し出した手をかんざしに取ってもらった瞬間、世界の色が反転した。胸に渦巻いていた不安はそのまま喜びになり、それが今でも胸の大部分を占めている。

 頭が火照って目が冴えてうまく寝付くことができなかった。けれど眠れないことへの焦りなんて微塵もなかった。むしろ今は夜が明けるまででも、この喜びを噛み締めていたかった。

 かんざしが私の恋人になった。

 その事実が私の身体を何度も何度も巡っていく。今があまりにも幸せで空恐ろしくなって必死に不安の種を探すけれどそんなものはどこにも見当たらない。頭のてっぺんから爪先まで幸せだった。

 私は抱えきれなくなった幸せを発散するように布団の中で枕を抱えてうつ伏せのままバタバタと足を動かす。足の甲でシーツを叩く。

 私とかんざしは恋人。

 何度繰り返してもその言葉は新鮮な甘さを保っていた。それは噛んでも噛んでも味のなくならないガムのようだった。

 私は何度も口の中でその事実を弄んだ。手を取ってもらった時の柔らかな体温や

「良いよ」

とかんざしの口から言葉が発された瞬間の甘いときめきが、その事実に呼応するようにフラッシュバックした。口元が緩んで思わず笑みが溢れた。

「やばい。今の私、凄い気持ち悪い」

 そう呟いて舞い上がる自分に釘を刺す。けれどそんな自制じゃこの幸せを止めることはできなかった。

 緩み切った口角を隠すように枕に顔を埋める。ひんやりとした感触が顔を包む。顔の熱が冷やされていく。

 こんな状態で明日かんざしと普通に言葉を交わせるのだろうか。何か酷く甘い言葉を口走ってしまわないだろうか。そんな不安が頭をよぎった。しかしそんな不安も結局いつのまにか明日かんざしと恋人として言葉を交わすことができるんだという思考にすり替わって幸せの火種になるだけだった。今日は眠れなさそうだと枕に顔を埋めたままで思った。

 この夜は身体も心もふわふわと宙に浮いているみたいで現実感がなくて眠らないままで夢の中にいるようだった。この夢のような現実が今日限りではなくこれからも続いていくというのがあまりに幸せすぎてその実感を持てずにいた。


 朝の六時。結局一睡も出来なかった。けれどこれで良いのだと思う。だって眠ってしまったらこの幸せが本当に夢となって消えてしまうような気がしたから。私は重たい頭でそんなことを考えた。それから一応横たえていた身体を起こして大きな伸びをした。背骨が軋む音がした。身体も鉛を背負ったように重かった。全身の感覚が一枚の膜に包まれたように鈍くなっていた。

 これで良いのだとさっきは思ったけれど、朝練を考えたら少しは寝たほうが良かったのかもしれない。この身体でいつものメニューをこなすことを考えると億劫だった。ただ、その後に教室でかんざしと会えると思うとやはり心は大きく弾んだ。私は弾んだ心の勢いのままに部屋を飛び出し階段を降りた。

 食卓に向かうと、もう既にキッチンにはお母さんがいて、私とお母さんの分のお弁当を作っていた。

「おはよう」

「おはよう。あんたなんでにやけてるの?」

「え、にやけてた?」

「うん。ばっちりと。顔洗うついでに鏡見てきたら?」

 私は言われるがままに洗面所へと向かう。

 鏡には口元がだらしなく緩んだ私が写っていた。私はそれから目を逸らすように、緩んだ顔を引き締めるようにいつもより強く顔を洗った。

 それから朝ごはんを食べて歯を磨いて服を着替えて、そんないつものルーチンワークをいつもより緩慢にこなして家を出た。


「今日どうしたの?何か身体重そうだったけれど」

 朝練終わりの部室、隣で着替えるほのかちゃんがそう尋ねる。狩谷さんも後ろで同意するように頷く。

「あ、それうちも思ってた。なんか調子悪そうやなって」

 制服姿で制汗剤を振りかけている倉野さんも更にそれに追随する。

「ちょっと昨日眠れなくて」

 私はこれからかんざしと会える高揚感を抑えながら答える。

「ちょっとそれ大丈夫?今日のフィジカル練絶対キツいよ。あとしおりそれちょうだい」

 倉野さんはほのかちゃんの要望に答えて雑に制汗剤を放り投げる。ほのかちゃんはそれを難なくキャッチする。

「そうなんだよね。絶対死ぬ。あと倉野さん、私もそれもらっていい?」

「はいよ。てかとまり今日はその割になんか節々で楽しそうやけどな。たまに表情緩んどるし」

 倉野さんもお母さんと同じようなことを言う。さっき鏡の前で自分を戒めたばかりなのに。倉野さんが鋭いのもあると思うけれど、とにかく気をつけなきゃ。

「そんなことないよ。眠いしマジでしんどい」

 私はそうはぐらかして倉野さんから借りた制汗剤を返した。

 制汗剤の肌に突き抜けるような涼しさが心地よかった。朝練はたしかにしんどかったけれど無理にでも動かしたおかげで身体も頭もだいぶスッキリとした。鉛を背負ったように重くて鈍かった感覚はかなり元に戻った。私を包んでいた気怠さの膜は随分と薄くなって殆ど無いのに等しい状態にまで落ち着いた。

「まあ授業中にちょっと寝たら?たしか今日の三、四限家庭科でしょ」

「うん。そうしようかな」

 そう答えたけれど今日の私は多分寝ない。というか寝れない。だって一つ席を隔てた後ろにかんざしがいるから。付き合い始めて早々かんざしにみっともない姿は見せたくない。それに眠れなかったということをかんざしに悟られるのもなんだか恥ずかしい。だってそれは容易に昨日と結び付けて推測される。昨日のことが嬉しくて興奮してそれで眠れなかったのかな、なんてかんざしに思われたら、恥ずかしいとしか言いようがない。実際それで何も間違ってはいないけれど、そんな事実は私だけが知っていればいいことだ。というか百歩譲って他の誰かに知られるのは良いとしてかんざしにだけは知られたくない。

 私が内心で思考をこねくり回している間に私も含めた全員が着替えを終えた。

「お疲れ様でーす」

 私たちはまだ残っている先輩たちに挨拶をし部室を後にして教室へと移動した。

 教室に入ると自然と目はかんざしを探した。しかしかんざしはまだ来ていなかった。私は内心で落胆しながら自分の机に直接座った。私を取り囲むようにみんなが輪になった。そうしていつものように談笑していた。しかし、談笑しながらも私は教室の後ろのドアが開くたびに間接視野でそれがかんざしじゃないか確認した。

 そして期待と落胆を同時に三度ほど繰り返したあと唐突にその時は来た。ドアが優しくゆっくりと開いた。

 かんざしが教室に入ってきた瞬間、胸が自分でも驚くほど大きく高鳴った。そして送らないようにしていた視線が無意識に吸い寄せられた。私はそれに気づいて慌てて視線を談笑中の自然な位置に戻した。ただ、かんざしに対して何かアクションを起こしたいという気持ちはどうしても抑えることができなくて身体や視線はそのままに手だけをかんざしの方に向けてひらひらと振った。そしてそれを終えるとすぐに手を元の位置に戻して何食わぬ顔で談笑に戻った。

 かんざしが気づいてくれたかは分からないけれど、ただ昨日までとは違う今日なんだということを密かにではあるけれど形にできて満足だった。

 それからそんなことで満ち足りてしまう、恋の恐ろしさを感じた。胸の鼓動や無意識に吸い寄せられる視線は私が私じゃないみたいだった。けれど、そんな変化すらもかんざしに起因しているのならば愛おしいと思えた。

 今まで胸の中で燻っていた気持ちに恋という名前が付いてから全てが目まぐるしく動き始めた。私はかんざしに想いを伝えかんざしもそれを受け入れそして私たちは恋人になった。嘘のような本当の話。今はただ目の前の現実を噛み締める。かんざしの方を向かないように我慢しながら。

 やがてチャイムが鳴って先生が教室に入ってきた。いつものように、一日が始まる。昨日と今日ではこんなにも違うのに。

 

 先生の声が響く蒸し暑い教室で、授業に集中できずにいた。それは決して眠気のせいではない。むしろ眠気の入り込む余地なんてないほど私の目は冴えている。ただその代わりにかんざしについての思考が私の心に幾度も入り込んできて、そのせいで何度も授業から意識を逸らされた。

 例えば私がかんざしの恋人になったということは手を繋いだり抱き合ったりキスをしたり、もっと近くでかんざしについて触れることができるのだろうか、とか。そんな熱情混じりの考えが何度も頭の中を巡った。

「かんざしとキスをしたいと思う私とか」

 昨日私はたしかにかんざしにそう言った。そしてかんざしはそれも踏まえて私の告白を受け入れてくれた。

 そんなかんざしと今同じ空間にいる。教室で一緒に授業を受けている。今、私の後ろにはかんざしがいる。頭がクラクラとした。

 私の顔の見えない位置にかんざしがいてくれて本当に良かったと思った。


 チャイムが鳴って六時間目が終わった。私は委員長の号令に合わせて立って礼をする。流石に身体も頭も疲弊していた。

 ただ、礼が終わってすぐに私の耳へと届いた声が鈍い感覚を一気に鮮明にした。

「とまりちゃん」

 私は声のした方を振り向いた。かんざしが私の目の前に立っていた。

「かんざし、どうしたの?」

 胸がどくどくと鳴った。かんざしと恋人になってからこうやって面と向かって言葉を交わすのは初めてだった。今目の前にいるかんざしは私のかんざしに対しての気持ちを既に知っていて、更に私の恋人として言葉を交わしている。そう考えるとかんざしの顔をまともに見ることができなかった。正体不明のエネルギーが身体を物凄い速さで巡っていてそれを抑えてその場に立っているのが辛かった。足がぷるぷると震えた。

 私の気持ちなんて知らずにかんざしは言葉を続ける。

「今日さ、また一緒に帰ろうよ。私教室で待ってるから」

 私の感情を更に掻き回す言葉をかんざしは平然と告げる。私はどうにかいつも通りの声色を絞り出し尋ねる。

「私は嬉しいけど、かんざしはいいの?」

「うん。私、とまりちゃんとまた昔みたいに一緒に帰りたかったから」

 今すぐ駆け出したい。かんざしの言葉に動悸が抑えられなかった。顔が更に熱くなる。

「ありがとう。じゃあ部活終わったらこっち来るね」

 私はそれだけ何とか言い置くと急いでいつものメンバーの方へと向かった。いつもは私の席の周りで集まるけれど今日は私がかんざしと話していたこともあってかほのかちゃんの席の周りで集まっていた。

「おおとまりー、って顔真っ赤だけど大丈夫?息もなんか荒れてるし」

「今日なんか教室暑くて」

 私はそんな言い訳をする。

「朝に寝不足って言ってたしな。そんなんで部活できるん?」

 倉野さんもほのかちゃんと同じように心配そうな顔で尋ねる。

「それは大丈夫。部活は絶対やる」

「とまり、真面目」

「はは。まあね」

 私は狩谷さんの言葉に曖昧に笑って頷く。本当は部活が終わるまで待つと言ってくれたかんざしにやっぱり部活には行かないと告げるのが何となく気まずいからなんだけど。

 それにもし仮に部活に行かないと告げれば当然どうしてか理由を尋ねられるわけでそれで寝不足だとバレるのも嫌だし体調不良だという理由で誤魔化してかんざしを無駄に心配させるのも嫌だった。とにかく私は自然にかんざしと一緒に帰りたい。その一心だった。

 そんなことを考えていると不意にほのかちゃんが

「さっきとまりが話してたのって確か広田さんだよね。話すの珍しくない?」

そんなことを言った。私は自分の思考と現実の会話が急に関連を持ったことに内心でビクリとした。それから自然なトーンを心がけて答える。

「そうかな?一応同じ小学校だから仲は良いけど」

「あ、そうなんだ。なんか意外かも。何話してたの?」

「えっとなにっていうか」

 なおもほのかちゃんは尋ねる。それは多分純粋な疑問に根差した問いで悪意なんて少しも無いんだろうけど、言葉に詰まった。

 かんざしとほのかちゃんたちは私の中で別の領域に区分されていてどちらも別のベクトルで大切で、だからこそ、その二つの領域が混ざるのが嫌だった。その考えは以前から変わらない。それに今は更に私とかんざしの関係を悟られることも避けなければいけない。私の中では、もう既に私がかんざしを好きなことは自然で当たり前のことだけれど、恐らく他の人から見たらそうではないから。

 とにかく私は私とかんざしの関係を他の人には隠しておきたかった。

 思考の渦に呑まれて黙り込む私をみんなが訝しげな心配そうな目で見ていた。そんな時間が数秒、もしくは数十秒続いた。そうしてるうちにほのかちゃんがハッと何かに気づいたような表情を浮かべた。

「あ、ごめん。別に困らせたかったわけじゃないから。ただ純粋に気になって」

 それから言葉を発することができない私に助け舟を出すようにそう言った。

「いや、私こそごめん。何かなんて言ったらいいか分からなくて」

「ほのかってたまにデリカシーないよなー」

「ほのか最低」

場の空気を和らげるように茶化した声が倉野さんと狩谷さんから上がる。

「そこまで言う!?」

 大袈裟にほのかちゃんはリアクションする。私もその場の空気に乗っかる。

「ほんとほのかちゃん最低ー」

「いやとまりに言われたら何も言い返せないし!」

 ほのかちゃんの反応にみんなで笑う。

 いつもの空気に戻ったことに私は内心で胸を撫で下ろした。かんざしに向けるものとはまた違ったベクトルで、私はこの空気感が好きだ。

 そんなこんなで話を続けるうちに先生が教室に入ってきて席を立っている人に座るように促した。私は自分の席に帰って腰を下ろした。そうすると今更のように眠気が襲ってきた。私はどうにかそれをやり過ごしながら放課後が訪れるのを待っていた。


 

「それでは今日の練習はこれで終わります」

 部長の号令の後、二回手を叩いて円が解かれる。私はほっと息を吐く。

 瞼の裏が熱い。内臓が重い。疲れがのしかかって身体が一つの岩の塊になったみたいだ。汗が乾いたシャツの感触も気持ち悪い。

「とまり大丈夫?」

「うん、なんとか」

「ほんま今日とまりやばかったな。走ってる時もふらふらやったし」

「寝不足、ダメ」

「本当今日はやばかった。そうだね、気をつけるよ」

 いつものように自然と集まったみんなが口々に私を案じてくれる。私もそれにふわふわとした頭で答える。

 そのまま私たちは適当な話を交わしながら部室へと向かった。ドアを開けると砂埃の乾いた感触と制汗剤の匂いが私たちを出迎えた。

 私は部室に入るとすぐに、自分の荷物が入ったロッカーを開け制服を取り出し、汗を吸ったシャツやランニングパンツをテキパキと脱いでいった。それからタオルで汗を拭いて下着と制服をテキパキと着ていった。そんな慌ただしい私の様子に気づいたほのかちゃんが

「とまりどうした?今日はやけに準備が早いけど」

 そんな風に尋ねる。

「ああ、ごめん。私ちょっとこれから教室に忘れ物取りに行かなきゃいけなくて。だから、みんなは先に帰ってて」

 うまく言葉が纏まらず言い澱みながら私はそう言った。

 言ってから、教室に忘れ物したじゃ焦っていることの理由にはならないか、とか、みんなと靴箱まで行ってから階段を登れば良いだけの話でやっぱり一人で部室を出ることの理由にはならないか、とかそんなことを思った。

「ああそうなんだ。りょーかい!とまりと一緒に帰れないのは寂しいけど」

 ほのかちゃんはそう言って軽くウィンクをした。私の危惧とは裏腹にほのかちゃんは私の穴だらけの言い訳に何か突っ込みを入れるようなことはなかった。

もしかしたらさっきのかんざしについてのやりとりで私が同じように言い澱んだのを気にかけてそんな対応をしてくれたのかもしれない。私は心の中で感謝しながら帰りの支度を終えた。それから鞄を背負いみんなに別れを告げた。

「じゃあ、私はこれで」

「うん。ばいばい」

「今日は早く寝るんやで」

「また明日」

 みんなからはそんな言葉が返ってきた。私はみんなの言葉を背に受けながら部室のドアに手をかけた。それから部室を出る際に振り向いて立ち止まり奥で着替えている先輩たちに向けて

「お疲れ様でーす」

 そう挨拶をして部室を出た。

「お疲れー」

 閉まる直前のドアの隙間から先輩たちのそんな声がまばらに聞こえた。

 部室を出るとグラウンドを吹き抜ける風が頬に触れた。汗の跡が爽やかさを享受していた。

 私はトンボで整備されたグラウンドを荒らさないように端を通って校舎を目指した。その足取りは軽やかだった。今からかんざしに会えるのだと思うと居ても立っても居られなくなってその焦燥が私の足を前に進めた。先ほどまで私を包んでいた眠気や疲れはとうに取り払われて胸の中心を占める静かな興奮だけが身体を突き動かしていた。かんざしが私を待ってくれている。そしてかんざしと私は恋人同士なんだ。

 グラウンドは夕焼けに包まれていた。そこを歩いている私も例外ではなく、頬に当たる夕焼けは熱かった。その熱でさえも今は嫌ではなかった。だってその熱でさえもかんざしは受け入れてくれたから。

 そんなことを考えているうちに足の裏がコンクリートを叩いた。いつのまにかグラウンドを歩き終えていた。校舎にたどりついた私は、靴箱で靴を履き替えて教室へと向かった。

 踊り場から螺旋階段を上る。いつもはなんなく上っている螺旋階段が今日は長く感じた。心は大丈夫でも身体がしっかりと疲れを覚えていた。いつのまにか呼吸がかなり乱れていた。狭まった視界が揺れていた。

 そんな視界にふと、私を嘲笑うように足取り軽く階段を下りてくる女子生徒が飛び込んできた。その生徒にはどこか見覚えがあった。すれ違い際にその生徒は私の顔をチラリと見た。視線が合った。それからすぐにその視線は逸らされた。その視線の主は委員長だった。

 委員会でもあったのだろうか。随分と帰るのが遅いのだな。荒い呼吸の中でそんなことを思った。

 階段を登り切ると、速くなった鼓動が一気に襲いかかってきた。その鼓動は息切れからもたらされたものだけど、それはすんなりとかんざしとの逢瀬を目前にしての期待と結びついた。私は喉から心臓が飛び出そうになるのを必死に抑えて廊下を歩いた。あまりにも大きな喜びは肉体も精神も疲弊させるものなのだと身をもって知った。

 この廊下の突き当たりの教室に入ればかんざしと会える。廊下をどれだけ歩いてもそのことに実感は持てなくて、実感を持てないままで教室にたどり着いて目の前のドアを開けた。

 かんざしが視界に収まった瞬間、私は息を呑んだ。気管に絡まった砂埃がヒリヒリと痛んだ。その痛みは心臓にまで伝播した。夕焼けをバックにしたかんざしの横顔はあまりにも美しかった。

 それからドアの開く音に反応したかんざしがゆっくりとこちらを向いた。大きな瞳が私を捉えて揺れた。

 私はふらふらと吸い寄せられるようにかんざしの元へと歩みを進める。かんざしも立ち上がりこちらへと向かってくる。二人の距離が加速度的に縮まっていく。足元に長く伸びた互いの影はもう既に重なり交わっていた。それから程なくして二人は同時に歩みを止めた。

 目の前にかんざしがいた。

 心臓がギュッと締め付けられるようだった。それに付随して言葉も、狭くなった気管の砂埃に邪魔をされて喉の奥で滞留していた。かんざしの大きな瞳は絶えず私を見つめていた。その瞳に疑問の色が浮かばないように、なんとか言葉を絞り出した。

「長い間待たせてごめん」

「ううん。元はと言えば私が言い出したんだし。それにとまりちゃんも部活で忙しいのにわざわざありがとう」

 笑みを浮かべて明るい口調でかんざしは言う。その表情や仕草からかんざしがこの状況を喜んでくれていることがわかった。その事実が私をさらに喜ばせた。私は自分も同じだと伝えたくなった。自分の気持ちをかんざしと通わせたかった

一度そう思ったらもう止まらなかった。自制を促す理性の制止も振り解いて、さっきまでが嘘のように滑らかに言葉が口をついて出た。

「私もかんざしと一緒に帰りたかったから。ずっと。だから大丈夫だし今日かんざしに誘ってもらえて嬉しかった」

 私の口から出た言葉は私の発した言葉じゃないみたいだった。それは私の言葉にしては余りにも性質が甘かった。まるで心の奥深くをそのまま引っ張り出したような声色をしていた。

 私は自分の言葉ながら、こんなにストレートにかんざしへの好意を伝えてしまったことに驚いた。目の前のかんざしも虚を突かれたように固まっていた。

 私は慌てて言葉を付け足した。

「じゃあ行こうか」

 そう言って踵を返して教室のドアの方へと歩き出した。心臓が私の歩調より遥かに速いペースで鳴っていた。それを追いかけるようにかんざしが駆け足で追ってきて私の隣に並んだ。それだけで喜びが滲み出した。私は慌ててそれを抑え込んだ。

 今の私はとても危険だ。何を口走るか分かったものじゃない。本当に気をつけないと。

 眠気と疲労が全て高揚に置き換わった頭で自分を戒めた。なのに弾む心は絶えずかんざしに受け入れられることを望んでいた。私のベクトルは全てかんざしへと向いていた。かんざしから視線を逸らすくらいじゃそれを抑えることはできなかった。間接視野で見つめる横顔でさえも美しかった。


 坂道を歩いている最中、私は一言も言葉を発することができなかった。気を抜いたらすぐに想いが言葉になって溢れ出しそうで、それと格闘することに夢中だった。舌先で触れる想いは甘い味がした。それを抱いている張本人である私でさえそう感じるのだから、いきなりかんざしにそれを差し出してしまったら引かれてしまうに違いない。だから必死にそれを喉の奥に留めていた。

 いくらかんざしと恋人になったからといって浮かれすぎてはいけない。さっきから私は少し浮かれすぎだ。必死に自分に釘を刺す。けれど刺さった釘は感情に押し出されすぐに抜けて、その隙間から再び想いが溢れ出す。

 ああ、そうか。私はかんざしの恋人になったんだ。横目でチラリとその美しい横顔を盗み見る。それだけで身体が熱くなる。この横顔が私のものなんだ。横顔だけじゃない。かんざしを作る全ての要素が私のものなんだ。その権利を昨日得たのだ。

 そんな風に内心でその事実の甘さを享受していると、不意にかんざしがこちらへと視線を向けた。

 私はなぜか咄嗟に視線を逸らした。しかしその動作には多分に不自然さが混じっていて、かんざしは訝しげに私に尋ねた。

「どうしたの?」

私はかんざしに内心を全て見透かされているような気がした。そしてそれが恥ずかしくてかんざしと目を合わせることができず桜を見上げる素振りを見せながら

「別にどうもしないよ?なんで?」

 そう答えた。逃げ込んだ先の視界では青々とした桜が風に揺られて激しく靡いていた。

「いやなんかとまりちゃんがこれだけ静かなのって珍しいなと思って」

 私は胸を撫で下ろした。当たり前だけど私の心は彼女に見透かされてなどいなかった。私の心配は杞憂に終わった。安堵のため息が口をついて出た。

 しかし心の隅ではなぜかそれに落胆している私もいた。その落胆が喉の奥に閉じ込めた言葉と絡み付いて私を圧迫した。

 私がかんざしに対して抱いている想いを知って欲しい。好きをもっと伝えたい。

 寝不足と疲れで弱りきった脳はさっきまでの危惧とは裏腹な、私の中で急激に発達したそんな欲望を押し戻すことが出来なかった。

「何で静かなのか言うけど絶対に引かないでね」

 言葉にそんな予防線を混ぜるのが精一杯だった。

 視線を下ろすとかんざしは私のそんな言葉に不思議そうな表情を浮かべていた。

 私はまた恥ずかしくなって、けれど今更喉の奥から放たれた言葉は止まらなくて、桜に視線を戻した時には、言葉は形になって放たれていた。

「かんざしが私の恋人なんだって思うと頭がわーってなってそれだけでいっぱいいっぱいで言葉が何も出てこなくなった」

 その言葉を発する口は酷くぎこちなく動いた。それが素っ気ない声色へと繋がった。しかしその程度じゃ言葉そのものの甘さを打ち消すことはできなかった。その言葉を口走った瞬間に、やってしまったと思った。

「えっと」

 彼女は困惑したようにそんな言葉を発した。

 私は慌てて彼女の言葉に重ねるように言葉を付け足した。

「ごめんやっぱ気持ち悪いよね、忘れて今言ったこと」

 汗がじわっと背中に滲んだ。後悔が胸を占拠していた。かんざしの顔を見ることができなかった。しかしそんな私の耳を彼女の優しい声が撫でた。

「いや全然気持ち悪くないよ。私もとまりちゃんが隣にいるのが嬉しくて未だに信じられないくらいだし」

 その声に私は思わずかんざしの方を見て尋ねた。

「本当に?引いてない?」

 彼女は私を安心させるように頷いて答えた。その仕草からは気遣いが透けて見えた。

「引いてないよ。大丈夫」

「良かった」

 その慰めの言葉に先ほどとは比べ物にならない安堵が胸に去来してそれが声となって漏れた。

 それから私はさっきのやりとりを誤魔化すように、想いや熱情の漏れる余地も無いようなたわいもない話を続けた。それはいつも通りの私を、以前の私を演出する作業だった。表向きは元気を取り戻した私にかんざしも心底嬉しそうな笑顔で答えてくれた。

 その笑顔でまたジクジクと心臓が刺激された。必死にそれを堪えた。

 そうしている間に私たちは坂を下り終わりそれぞれの家にたどり着いた。名残惜しさを振り払うように私は彼女に告げた。

「じゃあ、またね」

「明日もまたとまりちゃんを待っててもいい?」

 しかしかんざしは平然と私の胸の奥を刺激する。抗いようのない喜びが身体全体を包んだ。

「うん。かんざしが良いなら」

 私は何とか普通のトーンでそう言い置いて家へと入った。しかし手を洗いに洗面所へ行くと鏡には頬の緩みきった私が映っていた。

 朝と同じだ。私は再び強く顔に水を叩きつけた。火照った頬に水の冷たさは心地良かった。けれど身体全体を包む熱がどこかに行く気配は微塵もなかった。

 今日の私は何かおかしい。かんざしを前にすると心と身体が点でバラバラに動いて制御することができなくなる。まるで私が私じゃなくなったみたいだ。これも寝不足のせいだろうか。きっとそうに違いない。だって通常時からずっとこの状態が続くのならそれはもう、本当におかしくなってしまっている。

 水の滴る視界をタオルで拭って、そんなことを考えながら階段を登り自分の部屋へと移動した。そしてそのまま鞄を床に放り投げ自分もベッドに収まった。

 シャワー浴びなきゃ。制服のままで寝たらシワになっちゃう。

 身体を包んでいた熱は眠気へと変貌して、そんな意識も巻き込んで泥に沈むような眠りへと誘われた。シーツのひんやりとした感触が私の中心で燻り続ける熱の存在を、消えていく意識に絶えず訴えかけていた。

 明日もかんざしと会える。そんな考えが何もないところから現れた。まただ。また心が私の思考を置き去りにかんざしを求めている。その突如沸いた思念が中心の熱と結びつき徐々に心を巣食っていくのを感じながら私は意識を手放した。




          ◇





寝起きのぼんやりとした頭はかんざしの輪郭をなぞっていた。昨日の私がおかしかったのは寝不足のせいではなかった。それだけがはっきりとわかった。その自覚から遅れて意識が鮮明になってきた。枕元の時計を確認すると針は午前の四時を指し示していた。結局シャワーも浴びず制服のままで寝てしまっていた。私は慌てて制服を脱いでクローゼットの中のハンガーにかけそのまま風呂場へと向かった。

 身体には汗の名残が絡みつくように残っていて髪もいつもより油分が増していた。

 私はシャワーの水でそれらを丁寧に洗い流していく。私の身体に付着していた不純物が排水溝へと吸い込まれていく。身も心も軽くなっていくようだった。

 睡眠をとり不純物を洗い流したことによって昨日の私を取り巻いていた薄い一枚の膜に隔てられたようなふわふわとした感触は消えた。今の私は鮮明な感覚で世界と触れ合っていた。

 髪や身体を伝って流れ落ちる水の感覚。汗によって冷えた身体が温められていく。

 そして心の中では何度も、あらゆる場面のかんざしの輪郭をなぞっていた。睡眠をとってもシャワーを浴びても私の心の中の熱が消えることはなかった。やはり寝不足なんて関係なく今の私はこうなのだ。

 今の私にはかんざししか見えていない。かんざしともっと言葉を交わしたい。かんざしともっと深い部分で触れ合いたい。不純物が取り除かれたことでそんな気持ちがよりはっきりと浮き彫りになった。

 シャワーを止めるとポストがカランと鳴る音がした。その直後にバイクのエンジン音が遠ざかっていった。何匹かの鳥の囀りが音の隙間を埋めるように鳴き始めた。新しい朝の気配がすぐそこまで迫っていた。身体はそれを鮮明に感じ取っていた。とても爽やかな気分だった。


 教科書を読み上げる先生の少し甲高い声が耳を撫でる。朝練と午前と午後の授業を経て溜まったはずの疲れでさえも心地よく感じる。いつもと同じ授業の風景でさえどことなく爽やかに感じられる。

 私は昨日の夕焼けの教室で観たかんざしの横顔を思い返す。その横顔も艶やかな髪も全部が私の物なのだ。そう考えると信じられないくらいの幸福が心を伝って体を包んだ。

 私はかんざしと恋人になった。その事実はいつまでも甘い感触を与えてくれた。

 私の胸は目の前の幸せを消化するので精一杯なのに、次から次へと新しい幸せが目の前に現れる。今日も部活が終わればかんざしと一緒に帰ることができる。そう考えるだけで心が弾んだ。

 そんな風にかんざしについて考えているだけで時間はものすごい速さで流れていて、授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。

 部活が終わればかんざしと会える。もう一度そのことを確かめた。

 

 部活を終えテキパキと着替えを終えた私は、まだ着替えている途中のみんなに向けて言った。

「今日もちょっと教室に用事があるから先に帰っててくれないかな?」 

 私の言葉に倉野さんと狩谷さんは不思議そうな表情を浮かべていた。昨日の今日だ。当たり前だろう。

「また忘れ物でしょー。本当にとまりはおっちょこちょいなんだから」

唯一ほのかちゃんだけは私の言葉に対して瞬時に冗談めいた口調で答えてくれた。

「ごめん。それじゃあまた明日」

「ばいばーい」

 みんなの声を背に受けながら私は部室を出た。本当の理由を告げずにいることに少し後ろめたさが募った。けれど結局その後ろめたさもこれからかんざしに会えることへの高揚感に塗りつぶされた。

 私は昨日と同じようにグラウンドを横切り靴箱で靴を履き替え階段を登り廊下を歩いて私たちの教室の前までたどり着いた。そして熱くなった頭や緊張と喜びの入り混じった心臓を抱えながら指先を動かして教室のドアを開けた。

「かんざしお待たせ......」

 弾んだ声色で発した声は思いがけない場面に出くわしたことで尻すぼみになった。

 頭の熱がスッと冷えた。そのくせ心臓は焦げるように熱くて嫌な音を立てて鳴っていた。

「広田さんばいばい」

 まるで疚しいことをしていたかのように彼女と向かい合っていた委員長が素早く教室を出ていった。二人っきりの教室はしばらく沈黙に包まれた。私もかんざしもその場で静止していた。

「あの子うちのクラスの委員長だよね?仲良かったんだ」

 静寂を破ろうと口を開いたら自然とそんな言葉が飛び出していた。さっきまでの浮ついた心と対照的に声の調子が酷く単調だった。

「うん。委員長の紫月さん。仲が良いっていうか、最近たまに喋ってるの」

「そっか。うん」

 私は頷く。けれどそれは口先だけで頭の中は依然として熱と混乱が渦巻いていた。

 昨日同じ時間に廊下で委員長とすれ違ったけれど、その直前にもかんざしと言葉を交わしていたのだろうか。

 もしそうであるなら嫌だ。かんざしには私以外の誰かと言葉を交わさないでほしい。関係を紡がないでほしい。かんざしは私だけのかんざしでいてほしい。

 様々な思考が頭の中で巡っている。そのどれもがひどく醜いものだと気づいて、それらを振り払うように慌ててかんざしに告げた。

「じゃあ行こっか」

 私は今、いつも通りの笑顔を浮かべることができているだろうか。


 昨日と同じようにかんざしと二人で坂道を歩いている。けれど昨日のような沈黙はなかった。私はさっきの醜態を誤魔化すために、ことさら明るい口調で次から次へと言葉をかんざしに投げかけていた。それは恋人になる前の、一度疎遠になる前の親友だった頃の私たちの会話と類似していた。その類似にかんざしは満足げな笑みを浮かべていた。

 私はそれに少し寂しい思いを抱いた。その寂しさが先ほどの感情と結びついて私の胸をざわつかせた。こうじゃダメなのだと思った。楽しげに話をするだけじゃ委員長と何も変わらない。今のかんざしの笑顔は私を安心させてはくれない。私は他の誰もが知らないようなかんざしに触れたいのだ。

 沸々と熱情が湧いて出てきて身体中を駆け巡った。私は必死にそれを理性的な形に纏め上げかんざしの前に差し出した。同じように明るい口調で。

「かんざしって日曜日空いてる?」

「空いてるけどどうしたの?」

「その日部活が午前で終わるから午後から家に来ないかなと思って」

「行く!」

 かんざしは間髪入れずにそう答えた。私は提案を無事に受け入れてもらえた安堵を感じる一方でそのかんざしの一切の躊躇のなさに苦いものを感じてもいた。多分、私とかんざしが日曜日の午後に求めているものは違うのだとその一瞬で理解できてしまったから。その理解のせいで明るい口調に合わせて浮かべたはずの笑みは少し歪んだものになった。

「どんだけ来たいのさ」

 私は穏やかな口調を心がけてツッコみを入れる

「だってとまりちゃんの家しばらく行けてなかったんだもん」

「最後に来たのは......そっかあの日が最後か...」

 その日は私が自分の中の熱情に気づいた日であり、かんざしと距離を置くきっかけになった日でもある。

 そして今度は反対に、自分の中の熱情を原動力にかんざしにもっと近づこうとしている。

「じゃあ準備できたらそっちに呼びに行くから」

「分かった」

「じゃあまた明日」

「ばいばい。明日も教室で待ってるから」

「わかった。ばいばい」

 もっとかんざしに近づきたい。それは焦りにも似た何かだった。

 私の気持ちと正反対に身体はかんざしに手を振っていた。かんざしは順当に私から離れていって、やがて家の中へと吸い込まれていった。




         ◇




 部活の準備を終えた私は居間に顔を出した。そこでは母親が朝食代わりのコーヒーを啜りながらぼんやりと朝のワイドショーを眺めていた。平日は朝から息を吐く間も無いほど動き回っている母親も休日である日曜日は比較的ゆっくりと過ごしている。私はそんな背中に向けて呼びかけた。

「部活行ってくるね」

「行ってらっしゃい。頑張ってね」

「ありがとう。あとお昼からかんざしを家に呼びたいんだけど良いかな?」

「あら随分と久しぶり。呼んでくれて良いけどお母さんお昼から美容院とお買い物で留守にするから鍵はしっかり閉めておくこと。あとインターフォン鳴っても出なくていいから」

「わかった。じゃあ行ってきます」

「行ってらっしゃい。かんざしちゃんとかんざしちゃんのお母さんによろしく言っておいてね」

 私は頷いて居間を後にした。そのまま玄関で靴を履き家も後にする。

 外に出ると高鳴っていた鼓動が解放されたように感じた。私の家でかんざしと二人きり。お母さんが家を留守にすると分かった瞬間から私の頭の中にはそれしかなかった。

 興奮と緊張の入り混じった歩調で私は坂を上った。


 呼吸の音と身体が風を切る音だけが頭の中で響いている。心地の良い空白。ただめいいっぱい足を速く動かすだけ。それだけで身体はどんどん前へと進んで行く。何も考えなくていい。物凄い速さで動く視界はどこまでも黄土色のグラウンドで、そこに白線が割り込んでくる。私は倒れ込むように上体を前に傾ける。そのままの姿勢で白線を通過する。そして再び上体を元に戻す。ゴールラインを通過してからも足を止めず、勢いに任せて流すように走っていた。目的を達成した身体が弛緩していく。何度もダッシュを繰り返した筋肉は疲れを訴えている。しかしその疲労感さえもどこか心地良い。

 初めはかんざしから距離を置くために始めた陸上だったけれど、自分のかんざしへの気持ちに気づいてかんざしと恋人になってからもなんだかんだで続けていた。

 むしろ部活の時間を私は好きになっていた。なぜなら無心で身体を動かせるから。その時間は感情が忙しなく動くかんざしとの時間とは正反対の時間だった。

 恋とは幸せなだけではないのだ。最近、そんなことを思うようになった。上り坂の後には必ず下り坂が待ち受けているように、喜びの後には必ず悲しみや後悔が待ち受けている。平坦な道が続く場所はどこにもない。

 ただ、それが分かっていてもかんざしを求めてしまう気持ちはどうしようもなくて、そういった打算よりも更に深い場所にその気持ちはあった。現に今も、午後からかんざしが私の家に来ると考えただけで自然と心が弾んだ。振り払ったはずの煩悩に再び囚われながらスタートラインに戻った。もっと何も考えられないくらいに疲れたい。

 私の要望に応えるようにダッシュは終わらなかった。等間隔で部員にスタートを促す笛が鳴り続けた。

 酸素の枯渇した脳は何かを考える余裕を私から奪い去った。私は目の前の一本をこなすことだけに意識を集中した。

 やがて小粒の雨が降り始めた。それでもなお笛が止まることはなかった。剥き出しの手足や顔面を雨が撫でた。土の感触が柔らかなものへと変わった。それは疲れて回転の悪くなった脚に纏わりつくようだった。

 この分かりやすい苦痛が今の私にはありがたかった。


 降り注ぐシャワーの水音が雨音をかき消していた。身体に付着した汗や泥が洗い流されていく。

 私は自分が清潔になっていく快感に身を委ねながら同時に自分がむき出しになっていくようにも感じた。あと少しでかんざしに会える。徐々に取り除かれていく疲れや汚れの隙間からそんな熱情が姿を表し始めていた。温かなシャワーの水温がその熱を更に煽った。早まる鼓動が身体の中から私を突き上げるように暴れ回った。髪に触れる指先が糸で吊られたように緊張してうまく動かなかった。

 指先を流れ落ちていくかんざしの艶やかな髪を想像した。何の邪心もなくかんざしに触れることができていたあの頃の自分と地続きに今の自分があることが嘘のようだった。

 シャワーの水はそんな一瞬の思念すらも洗い落とす。だから最後に残るのはいつも私の中心を占めるかんざしへの熱情だけだった。

 そんな風に取り止めもない思考と逃れようのない熱情を交互に意識に留めながら、私は自分の汚れを全て洗い落とした。

 シャワーを止めると、激しい雨音が浴場に響いた。


 私はかんざしの家の前で立ち止まっていた。雨が傘を叩くその音を聞いていた。それは私の心臓の鼓動によく似ていた。

 私は自分を落ち着かせるように深く息を吐いた。それから意を決してインターフォンへと手を伸ばした。

 ピンポーン。

 甲高い音が鳴った後

「はい広田です」

 かんざしのお母さんの声が聞こえた。

「あの、赤熊なんですけど、かんざし居ますか?」

「あーとまりちゃん。かんざし呼んでくるからちょっと待っててね」

 その言葉を最後にプツリと通話が切れた。再び雨の音が私を包んだ。

 しばらくそのままで待っていると扉越しに人の気配が濃くなった。そして心の準備をする間もなくドアが開いた。

「待たせてごめん」

 目の前にかんざしが現れて慌てたような口調でそう言った。

 急いで準備をしてきたのか、髪は少し乱れていて白いワンピースの首元も非対称になっていた。その完璧な美しさから覗く綻びが、却って私の熱情を煽った。

「ううん。全然大丈夫」

私はそう返事をした。それからかんざしが傘を持っていないことに気づいた。 

「すぐ目の前だけど雨強いし、傘入ったら?」

 言い訳のように最もらしい理由をつけて私はかんざしに尋ねた。けれどその実、かんざしと同じ傘に入りたいだけだった。

「ありがとう」

 純粋な笑みを浮かべてそう告げるかんざしの様子に後ろめたさが募った。けれどその後ろめたさはかんざしが傘の中に入るとすぐにかき消された。

 かんざしの甘い匂いが鼻腔を撫でた。それは容易に熱情と結びついた。恋人になってからも何度かかんざしと隣同士で歩いたけれど、傘の中という空間が隣を歩くかんざしをより近くに感じさせた。私は自分がそれを望んだ癖に想定してたよりも近くにかんざしを感じて、それにたじろいで思わずかんざしから少し離れた。そうすると狭い傘からはみ出してしまって左肩が雨に触れた。

 そうしてる間に私の家へとたどり着いた。家が隣同士なんだから当たり前だけれど一瞬でそこへたどり着いた。

 私は名残惜しさを堪えながらドアを開け、かんざしが濡れないように先に家の中へと入ってもらった。それから傘を閉じ自分も家の中へと入った。

 家の中へ入るとかんざしがハンカチを構えていた。

「ここ濡れてるよ」

 そう言って手を伸ばして先ほど濡れた左肩を拭いてくれる。その拍子にかんざしがまた私に近づく。乱れてもなお艶やかな髪が目の前で揺れた。甘い匂いが鼻腔を撫でた。緩んだ首元から真っ白な鎖骨が覗いた。

「ありがとう」

 私は呟いた。

「ありがとうは私の方だよ。私が濡れないようにしてくれたんでしょ?」

「まあね。それより早く上がって上がって」

 かんざしがあまりに近くてたじろいだ。なんて本当のことを言えるわけもなく少しの後ろめたさを誤魔化すように、私は靴を脱いで廊下へと上がりかんざしにもそうするように促した。

 促されるままかんざしも靴を脱いで廊下へと上がった。

「お邪魔しまーす」

 家の奥へと挨拶をするかんざしに私は言う。

「あ、今日はお母さん買い物で出かけてるから。だから、別に気兼ねとかしなくていいから。あと、飲み物入れてくるから先に私の部屋行っといて」

「はーい」

 私の言葉に頷いたかんざしは言われた通りに階段を登って私の部屋へと向かった。

 私は台所に行ってコップを二つ取ってそこに氷とお茶を入れて、それらをお盆に乗せて私の部屋へと向かった。緊張と興奮の入り混じった指先は微かに震えていて、お茶をこぼさないようにいつもよりゆっくりと階段を上った。

 そして私の部屋の前までたどり着いた。お盆を片手で持ってドアを開けた。

「ごめん。お待たせ」

 テレビの前に座っていたかんざしがこちらを振り向いた。視線が合うだけで胸がギュッと締め付けられた。

「それじゃあ、いつもの感じで」

 胸中とは裏腹に落ち着いたトーンで私は言った。

 かんざしは私の言葉に柔らかな笑みを浮かべた。その笑顔を見て、好きだなとそう思った。この子と一緒にいられるだけで良いとそう思った。

 私はいつものようにゲームのコントローラーを持ってかんざしの後ろに座った。かんざしもポシェットから本を取り出して身を寄せるようにして私の膝の間に収まった。

 かんざしの匂いと感触が同時に私を襲った。その瞬間に身体を電流が走った。かんざしの甘い匂いに今日は仄かに雨の気配が混ざっていた。その匂いが鼻腔を通って身体全体へと行き届いた頃には、かんざしに触れている全ての部分が強い熱を持っていた。特にワンピースからはみ出した腕や足、肌と肌が微かに触れ合うだけで皮膚の下がざわめいた。先ほどよりも遥かにかんざしを近くに感じた。

 私がそんな風に必死で溢れんばかりのかんざしの感触を咀嚼しているとかんざしが急にこちらへと振り向いた。

「こうするの久しぶり」

 その花が綻ぶような笑顔に見惚れた。

「そうだね」

 私は必死に喉からそんな言葉を絞り出した。それからかんざしの笑顔に答えるように笑顔を浮かべた。私の言葉にかんざしは満足げに頷いて再び本へと視線を戻した。私も手に持ったコントローラーを操ってゲームを始めた。

 ゲームをしている時も私の意識からかんざしが外れることは少しもなかった。私の中心には常にかんざしがあって皮膚はその感触を貪り続けていた。そうやって機械的にコントローラーを操りながらかんざしの感触と戯れていた。

 そうしてしばらくした時、ふと、先ほどのかんざしの言葉が脳裏をよぎった。こうするの久しぶり。その時に浮かべた華やかな笑顔まで詳細に思い起こすことができた。

 それから急にかんざしともっと深くで交わりたい。そんな想いが湧き起こった。今よりも、今までよりも、もっと近くでかんざしと触れ合いたい。さっきまではかんざしと触れ合えるだけで思考回路がショートしそうになるほどの喜びを感じていたのに、欲張りな心はもっと先を望んでいた。

 この触れ合いは謂わば過去の私とかんざしが築いた関係の名残だけれど、私は今の私とかんざしの関係から築かれるものが欲しかった。私とかんざしが恋人同士なのだとより強く実感できるものが欲しかった。私がかんざしを想うようにかんざしも私のことを想ってくれているかを確かめたかった。そうした欲求が理性の自制を容易に振り切らせた。私はゲームを中断してかんざしに声をかけた。

「ごめん。ちょっといい?」

 声は思いの外真っ直ぐ伸びた。

「どうしたの?」

 彼女は顔を上げこちらを振り向き怪訝な表情を浮かべた。

「いやどうしたのっていうか」

 彼女の問いかけに言葉に詰まる。ゲームのBGMよりも遥かに早いテンポで心臓が鳴っている。抱えた想いが喉に滞留して息苦しかった。これを今から伝えるのだと思うと緊張で唇が震えた。ジメジメとした熱が身体の底から全身へと巡って居心地が悪かった。

 早く解放されたい。その一心で私は沈黙を破った。

「ハグしてもいい?」

 かんざしが反射のように首を縦に振った瞬間、何かが切り替わった。色々なものに抑え込まれていた熱がタガが外れたように暴れ出し身体を突き動かした。

 私は両腕をかんざしの小さな背中に回しそのままかんざしの身体をこちらへと引き寄せた。かんざしの身体がこちらを向いた。そのまま私は自分の身体をかんざしの身体に絡めた。

 甘い体温が私を包んだ。柔らかな肌が私に触れた。かんざしが今までにないくらい近くにあった。私の中で渦巻いていた熱が満たされそれらが全て喜びへと変わった。脳が急に現れた快楽を処理できず頭が真っ白になった。そのそばからさらに新たな熱が発生してそれが貪欲にかんざしを求めた。

 私は更に強くかんざしを抱き締めた。もっと近く、もっと深く。私とかんざしの境界線がなくなるくらいに。タガの外れた身体はどこまでも欲張りだった。

 やがて熱は抱擁のその先を求め始めた。けれど真っ白な頭はその熱を満たす方法を何一つ提示してはくれなかった。

 そんな時に私は私の懐にいるかんざしと目があった。かんざしは上目遣いで私を見つめていた。その表情はあまりに美しくて熱が更に加速した。それを発端に一つの絵が真っ白な頭に流れ込んだ。

 唇と唇が重なる映像。気づけば私はかんざしの唇を凝視していた。かんざしの唇に私の唇が重なる想像が脳裏をよぎった。押し入れがこちらを覗き込んでいた。

「かんざしとキスをしたいと思う私とか」

 過去の自分の言葉が頭の中になだれ込む。そうだ。私はこんな醜い欲望まで全てかんざしに告白したじゃないか。それでかんざしはそれを受け入れてくれたじゃないか。

「良いよ」

 あの時のかんざしの言葉を今も鮮明に覚えている。

 私は助走を取るように、かんざしの身体から自分の身体を離す。それだけで寂しさが胸を襲った。宙ぶらりんになった熱がかんざしと再び重なることを求めていた。

 私はかんざしの唇に吸い込まれるように顔をかんざしに近づけた。真っ白な肌に少し朱が差した頬、二重の少し垂れ目な瞳や小さな鼻。そして淡いピンク色をした唇。それらが私の視界を埋め尽くしていた。甘い期待に心臓が高鳴っていた。そしてその淡いピンク色と私の唇が重なりかけたその瞬間

「嫌だ」

 耳元で声が鳴った。それと同時に私は何かに突き飛ばされた。

 それがかんざしの手によるものだと分かった瞬間、再び頭が真っ白になった。身体を操っていた熱はどこかに消えた。鼓膜がジンジンと疼いていた。かんざしの手によって突き飛ばされた胸は空洞になったようだった。

 怯えたような目でこちらを見るかんざしが、はるか遠くに感じた。

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