第7話 私は違う

「嫌だ」

 彼女の言葉を聞いた瞬間私は彼女の顔をまともに見ることができなくなって思わず俯いた。心臓が嫌な音を立てて鳴っていた。コンコンと二人分の足音が鼓膜を揺らした。冷たい汗が身体に纏わりついた。

 そりゃそうだよね。だって元々彼女の方から私と距離を取ったんだから。私のことが嫌いじゃなければそんなことするはずがない。

 心の中で自分にそう言い聞かせるけれどその予防線はもはや手遅れで等身大の悲しみが心を巣食っていく。彼女の世界から私は完璧に締め出されてしまった。そう思った。

 だから彼女が続けて口を開くその微かな音が聞こえた時、私は体をすくめた。これ以上何を言われるのだろう。

「だって私はかんざしのことが好きだから」

 空気が止まった気がした。

 いつもより少し掠れた声で彼女はそう言った。だから私は今の言葉が本当に彼女の口から出た言葉なのか信じることができずに顔を上げて彼女の方を見た。

 彼女の頬は真っ赤に紅潮していた。その瞳は夕焼けに差し掛かった空の僅かな赤を反射して燃えるように輝いていた。その表情が何よりも雄弁に真実を語っていた。

 想定と正反対の言葉に混乱する私を尻目に彼女は更に言葉を続けていく。

「好きだから、かんざしの隣に居ると胸が痛かった。私でさえも知らない私が私の意思なんて置き去りにしてどんどん溢れてきて怖かった。こんなこと言ったらかんざしは引くと思うけれど、かんざしとキスをしたいと思う私とか。それにその時の私はまだかんざしのことを好きだってことにさえ気づけていなくて。だから私はかんざしと距離を取った。かんざしの近くにいると私が私の知らない何かに変わってしまいそうでそれが怖くて。けれどかんざしと距離を置いたら、今度は素直に寂しくなった。部活も新しい友達との生活も楽しかったけれど、かんざしの居ない日々は常にどこかが欠けているみたいだった。そんな時に私はある男の子のお陰で自分の気持ちに気づいた。自分がかんざしのことを好きなんだって気づけた。何回も言うけど私はかんざしのことが好きだから友達にはもう戻れない。それで」

 彼女は顔を真っ赤にして目には涙を浮かべていた。そんなにも必死に言葉を紡ぐ彼女を私は初めて見た。

「かんざしが良かったら私と付き合ってくれないかな。恋人になってくれないかな」

 そう言って彼女は立ち止まる。それから彼女は手を差し出す。

 私はその手を一瞥したあと吸い込まれるように彼女の瞳へと視線を移した。いつもよりも近い位置にある伏し目がちな彼女の瞳には涙の膜が張っていた。今にも溢れそうに揺れるその瞳に反射する私は、形を保ってはいなかった。私は彼女の紅潮した震える手へと視線を戻した。

 私の頭の中ではさっきまでの彼女の言葉が順序もバラバラに渦巻いていた。私は彼女の言葉の半分も消化できていなかった。

 確かなことは差し出されたこの手を取れば再び私の日々に彼女が帰ってくる。私は彼女の世界に所属することができる。それだけだった。

 彼女の側に居たいのならばその手を取らなければいけない。

 私は何かに突き動かされるように彼女の手を取った。彼女の暖かな感触が触れた。私は彼女を見上げる。それと同時に彼女も伏せていた顔を上げる。

 彼女は目の前の現実が信じられないといった感じで交わった手と手を見つめていた。それから私に尋ねる。

「いいの?」

 その声はか細く涙の気配を纏って揺れていた。

「いいよ」

 私は頷いた。それに連動するように、彼女の瞳を覆っていた涙が一粒こぼれた。

 気づけばあたりの風景は見慣れたものに変わっていた。坂道はさっき立ち止まった時には、もう既に終わっていた。

 

 お風呂上がりの火照った体をベッドに投げ出す。真っ白なシーツのひんやりとした感触が腕や脚に触れる。天井に取り付けられた照明が放つ真っ白な光を見ながら考える。

 彼女の恋人になったよ。

 昨日の私に伝えたらどんな反応をするだろう。恐らくまともに取り合わないだろう。だって今の私ですらその事実を消化できていないのだから。

 改めて振り返ると今日という日はあまりにも目まぐるしかった。幼虫が蛹に成りきれずに死んで、彼女とばったり出会って久しぶりに一緒に帰ってそこで彼女に告白されて、それで私たちは付き合い始めた。

 彼女が私のことを好き。

 その事実さえも未だに私は呑み込みきれずに持て余していた。そんなこと思いもよらなかった。まず私たちは女の子同士だし、だから彼女が私のことを好きだという想像も、私が彼女の恋人になるなんて想定もどちらも一切していなかった。

 それに少し前までの私はケイゴという男子が彼女の恋人になるのだとばかり思っていた。そのケイゴという男子の存在が私に愛情と比べた時の友情の脆さというのを自覚させた。だから私はこれまでの唯一で永遠の友情という理想を捨ててその他大勢でも良いから彼女ともう一度友達になろうと思ったのだ。友情では彼女の一番に成ることは叶わないのだからならばせめて彼女の世界に些細な存在としてでも良いから所属しようと思ったのだ。

 それを拒まれた瞬間は、世界の終わりのような気分になった。けれどそれはある意味で想定内でもあった。想定外だったのは、彼女が私のことを好きだというその事実。

 その事実によって私を取り巻く世界は百八十度変わった。その世界は私が変えたくないと望んだ小学校の頃の世界とも中学校になってからの世界とも違う第三の世界だった。

 その世界が私の前に開けた瞬間、何も呑み込めてはいなかったけれどそれを拒むという選択肢は私にはなかった。だって友情よりも強固な愛情というものを拠り所に彼女の隣に居ることができる。

 それだけが瞬時に明確に分かったから。

 愛情とか好きとか、まだ何も分からないけれど彼女の隣に居ることができるというただそれだけが私にとって何よりも大事なことだった。それだけで私の世界は色づき私の胸を巣食っていた閉塞感は取り払われた。明日からはもっと楽に息をすることができるだろう。

 そうだ、明日彼女にまた一緒に帰ってもいいか尋ねてみよう。それでもし彼女が良いよって言ってくれたらその時は教室で小説を読みながら彼女が部活を終えるのを待とう。

 胸に暖かいものが広がった。久しぶりに明日が楽しみだとそう思った。恐らく最後にそう思った時も隣には彼女がいたのだろう。

 私は枕元のリモコンを取って電気を消した。




          ◇





 朝、目が覚めて真っ先に昨日のことは夢だったのではないかと疑う自分がいた。寝起きのぼんやりとした頭では目の前に広がる幸福を現実のものとして受け取ることができなかった。

 私はジリジリと鳴り続ける目覚まし時計を止めて身体を起こす。それから大きく伸びをした。酸素が体内を巡る。そのままベッドから飛び降りて部屋を出て階段を降りて一階の居間へと向かう。

 活動を再開した脳が次々に昨日の記憶を呼び起こす。例えば彼女の手を取った時の暖かな感触や彼女の掠れた声の耳触り。そんな細やかな実感を伴った記憶はありありとその実在性を主張していた。

 幸福に包まれたまま、私は学校に行くまでの行程をこなし、家を出て学校へと向かった。

 坂を登って正門を通って靴箱で靴を履き替えて。昨日ここで彼女と出会ったことを思い出した。彼女の姿を視線に収めた瞬間の息の止まるような感覚が少しだけフラッシュバックした。

 廊下を歩いて踊り場から階段を登って再び廊下を歩いて、昨日彼女に出逢うまでを逆向きになぞるような動きで私は教室へと辿り着く。目の前の扉を開ける。

 いつも通りの騒がしい教室。これもまたいつも通り彼女は自分の席で部活の女子たちと固まって談笑していた。朝練の後だからか彼女の首元にはタオルが掛けられていた。そんな彼女は教室に入った私に気づいてチラリと一瞥をくれる。そしてそのまま視線を戻して談笑している女子たちの方に目を向けながら手だけを腰元でひらひらと振ってくれた。そんな動作だけがいつもとは違った。その動作が私に昨日の実在を保証してくれた。幸せから溢れ出てくる笑みを堪えながら私は席についた。

 また彼女の隣にいてもいいんだ。


 六限の終了を告げるチャイムが鳴る。紫月さんの声に合わせて礼をして、すぐに私は二つ前の彼女の席に向かった。

「とまりちゃん」

「かんざし、どうしたの?」

 彼女は何故か私に目を合わせずにそう言った。そっぽを向いた横顔の頬は仄かに赤く染まっていた。それが少なくとも一夜にして嫌われたというわけではないことを示していた。恐らくただ照れているだけなのだろう。私に関することで彼女が照れるということがなんだか新鮮で、今からする提案は彼女の頬の朱色に更に追い討ちをかけるようなものだろうかと底意地の悪いことを考えながら、私は口を開いた。

「今日さ、また一緒に帰ろうよ。私教室で待ってるから」

 私の提案に彼女は思わずといった感じでこちらを見て、それから尋ねる。

「私は嬉しいけど、かんざしはいいの?」

「うん。私、とまりちゃんとまた昔みたいに一緒に帰りたかったから」

「ありがとう。じゃあ部活終わったらこっち来るね」

 そう言って彼女は逃げるように部活の友達の所へと向かった。昔と違って今ではそれが全然嫌では無かった。だってより鮮明になった朱色を私はこの目ではっきりと捉えたから。こうやって彼女の表象から私への想いを理解することのできる今はなんて暖かで生きやすいのだろうと思った。彼女の一挙手一投足に神経を巡らして一喜一憂していた昔を思い返して尚のことその実感は強まった。

 彼女が私のことを好きなのだと知ったその瞬間から世界の見え方がまるで違っていた。その事実は直近だけではなく過去まで遡って私の不安の大体を払拭してくれた。

 私は彼女の席から自分の席へと戻った。それと同時に先生が教室に入ってきた。それから程なくしてHRが始まった。

 再び席についた彼女の背中をぼんやりと眺めていた。何の衒いもなく彼女を気に留めておける今を嬉しく思った。そうしてるうちにHRは終わった。そしてまた紫月さんの号令に合わせて礼をして放課後が訪れた。

 礼を終えた彼女は後ろを振り向いてチラリと私の方を見た。それから彼女は口をパクパクと動かした。またあとで、彼女の口の軌道からそう読み取れた。私は了解したのを彼女に示すように頷いた。彼女はそれを確認してから前へと向き直った。それからいつものように彼女のところに人が集まった。彼女もその集団の一員として溶け込んだ。

 今日の掃除当番の人たちが逆側から机を下げ始めた。邪魔になっても悪いかなと思って私は後ろのドアから教室を出た。

 少しの間図書室で時間を潰そう。部活の門限は何時だったっけ?分からないけれどとりあえず一時間くらいで戻ってこよう。人と人の間を縫うように廊下を歩きながらそんなことを考えた。その足取りは軽かった。

 扉を開くと図書室は照明が落とされていて薄暗くて人は一人もいなかった。その明度から理科準備室が思い出された。

 放課後の図書室に入ったのは初めてだった。私はひとまず照明を点けてそれから棚をふらふらと見て回った。棚に並べられた本の背表紙のタイトルを目で機械的に追いながら私は理科準備室の照明を点けることは一度もなかったなとそんなことを思い返した。そもそもあそこには照明があったのだろうか?私の記憶の中の理科準備室はいつも薄暗かった。図書室の照明が眩しく感じるほどに。

 恐らくもうあそこを訪れることはないだろう。私が脱ぎ捨てた蛹にその明度は刻まれていた。

 グラウンドの方から生徒たちのかけ声が聞こえてきた。図書室の窓の隙間から侵入したその声は優しく空間を揺らした。部活が始まったのだろう。

 私は本を適当に見繕ってから席に座った。その本の表紙には淡いピンクの桜の花びらが散りばめられていた。私はその美しい装丁を一通り眺めてから本を開いて読み始めた。

 いつものように本に没入していた。文字から想起される映像やキャラクターの言動に身を委ねていた。私は本を読む時キャラクターに感情移入はしない。それよりもキャラクターから一枚隔たった場所で俯瞰しながら文字の羅列によって浮かび上がってくるイメージを脳内で連ねる感覚が好きだった。今も私はその感覚で、ある女の子に想いを寄せる主人公とその女の子がすれ違いながら織りなしていく物語を眺めていた。

 百ページほど読み進めたところでキリ良く章が終わった。それを機に本から目を離してカウンターの近くの壁に掛けられた時計を見ると長針と短針は十七時三十分を指し示していた。カーテンの隙間から漏れ入る陽光には仄かなオレンジが混ざっていた。いつの間にかカウンターには図書委員と思われる女子生徒が座っていて無表情で私の方を見ていた。私が図書室に来てから一時間と少しが経過していた。

 そろそろ教室に戻らなくちゃ。私は本を閉じて立ち上がってそれを借りて帰るか一瞬逡巡してそれから結局本を棚に戻した。また彼女を待つ時にでも読みに来ればいい。そうして私はここに来た時と質量の同じカバンを抱えて図書室を後にした。

 先程とは打って変わって人気の少なくなった廊下ではグラウンドからの声が断続的に響いていた。その声で私はまだ部活が終わっていないことを知った。コンクリートの廊下を叩く私の足音とグラウンドからの声が混ざり合ってそれが耳に心地良かった。

 その音に心を傾けて歩くうちに教室にたどり着いた。私は教室の前のドアを開く。すると私が開いたドアのすぐ近くの席に一人の女子が座っていた。私は思わずその女子を見る。その女子もドアの開く音に顔を上げてこちらを見る。視線と視線がぶつかる。お互いの顔に了解の色が浮かんだ。その女子は紫月さんだった。

「久しぶり」

 私は思わずそう言った。

「久しぶりって言っても毎日学校で会ってるけどね」

「会ってるけどなんかこうやって喋るのは久しぶりだなって思って」

「まあそれはそうかも」

 紫月さんはそう言って薄く笑った。

「座ったら?」

「うん」

 私は言われた通りに紫月さんの隣の席に腰を下ろす。紫月さんはそんな私の動作を見送ったあと机に置かれたノートへと視線を戻した。

「また委員会?」

「うん。本当大したことしてないのにやることだけは多い」

 そう言いながら紫月さんはシャーペンを持った手を動かす。私はそのザックリと斬り捨てるような口調に思わず笑う。

「そこ笑う所じゃないんだけど。ていうか、広田さんはどうしてこんな時間まで残ってるの?また幼虫の観察?」

「いや、幼虫の観察の仕事はもう無くなったの」

 私は紫月さんに気を遣わせないように幼虫が死んだという事実は伏せる。それは私だけが覚えていれば良いことで、私だけが覚えていなければいけないことだった。

「私が学校に残ってるのはとまりちゃんの部活が終わるのを待つため」

「とまりちゃんって赤熊さん?」

「うん」

「仲直りしたんだ」

「うん」

 私は再三頷く。

「それは、良かったね」

 紫月さんは口元に笑みを浮かべて讃えるようにそう言った。その口調は小さな子供を褒める母親のようだった。その口調から紫月さんは本当に私と彼女の顛末を心配してくれていたんだということがわかった。

「うん。良かった」

 私はもう一度頷く。その拍子に照れの混ざった笑みが溢れる。

「仲直りしたのっていつ?」

「昨日かな」

「めちゃくちゃタイムリーじゃん。それにしても昨日の今日でもう部活終わりに示し合わせて一緒に帰るって、なんか凄いね。距離の縮まり方が。ていうか元々そんだけ仲が良かったってことか」

 私は自分でそれを認めるのはなんだか謙虚さに欠ける気がして紫月さんの言葉に黙って頷く。ただ、心は雄弁に脈拍を刻んでいた。私でも彼女でもない第三者の人に私たちの仲の良さを保証してもらえることが嬉しかった。その言葉で、私が彼女の隣にいることがいけないことではないと保証してもらえるような気がした。それは私にとって何よりもうれしいことだった。

「紫月さん、ありがとう」

「急にどうしたの」

 紫月さんはノートに視線を留めたままでそう言った。その口元は穏やかに緩められていた。

「いや、なんか紫月さんは私にとって嬉しいことを一杯言ってくれるなと思って」

「何それ」

 紫月さんは笑い飛ばすようにそう言った。

「よし。これで終わり」

 そう呟いてノートを閉じた。

「お疲れ様」

「ありがとう。私はもう帰るけど広田さんは赤熊さん待つでしょ?」

「うん」

「じゃあここでお別れだね」

 紫月さんはテキパキとノートとペンケースをカバンにしまって立ち上がる。

「それじゃあ私はこれで、ばいばい」

「ばいばい」

「またね」

 そう言って紫月さんはすぐそこのドアを開け教室から出て行った。

 その後ろ姿を見送ってしばらくしてから私も紫月さんの隣の席から立ち上がり教室の反対側の自分の席へと向かった。

 私一人っきりの教室はオレンジ色に染まっていた。夕焼けが教室全体を覆い尽くしていた。私の席もまたその光に巻き込まれていた。私はその光の眩しさに目を細めながら自分の席へと座った。

 カーテンは既に窓の左右で纏められていて、それをわざわざ解くのも億劫に思えて、私は眩しさを我慢したままぼんやりと教室を眺めていた。例えば夕焼けを反射してくっきりと伸びる椅子や机の影なんかが私の目に留まった。光が強い分影もまた色濃く床の木目に焼き付いていた。スケッチの時、幼虫の腹部の下に書き入れた影と同じくらいの濃さの影が、教室の至る所で同じ方向へと伸びていた。

 私は足元へと目を向ける。私の椅子や机の影は本体の体積以上に引き伸ばされ彼女の机に至っていた。しかしそこに座る私の影は彼女の席には重ならずその横を掠めて伸びていた。

 私は彼女の席の隣に自分の影がある、ただそれだけで満足だった。

 鋭く突き刺す光の中、白昼夢に包まれているようなふわふわとした時間を、ドアの開く音がかき消した。その音は白昼夢なんかじゃなく現実の音だった。

 彼女がこちらへと向かってきていた。その制服は少し乱れていた。私のために急いで準備してきてくれたんだなと思って嬉しくなった。私も立ち上がり彼女の元へと向かう。教室の中心で二人で並ぶ。

「長い間待たせてごめん」

「ううん。元はと言えば私が言い出したんだし。それにとまりちゃんこそ部活で忙しいのにわざわざありがとう」

 私の言葉を受けた彼女は一瞬何事かを迷う素振りを見せ、それから口を開く。

「私もかんざしと一緒に帰りたかったから。ずっと。だから大丈夫だし今日かんざしに誘ってもらえて嬉しかった」

 予想外に甘い言葉に私が固まっていると

「じゃあ、行こうか」

 何かを誤魔化すようにぶっきらぼうにそう告げて彼女は教室の外へ向かって歩きだした。その頬は教室を覆う色と同じ色をしていた。

 私も慌てて彼女を追って歩き出した。

 隣同士の影が平行に伸びていた。それが嬉しかった。


 六月に差し掛かった空は梅雨の予兆なんて少しも感じられないほどカラッと晴れていた。その空と揺れる桜の葉のコントラストは写真に撮ってしまいたいくらい綺麗だった。けれどあいにく私の手元にカメラは無くて、その代わりに彼女が私の隣にいた。それだけで胸がいっぱいだった。

 私たちは特に何を喋るでもなく黙々といつもの坂道を歩いていた。私たちを包んでいたものは沈黙だった。ただその沈黙は以前の会話を重ねれば重ねるほど歯車が噛み合わなくなり、それから逃れたいがために却って生じてしまう沈黙ではなくて、もっと単純なものだった。私たちの会話は大抵彼女が私に話題を振り私がそれに答える構図になる。しかし今はその肝心の彼女が一言も言葉を発しない。沈黙の理由はそれだけだった。

 坂の半分を過ぎたあたりで私はチラリと横を確認して彼女の様子を伺う。するとちょうど彼女と目が合った。しかし彼女は悪戯がバレたかのように即座にその視線を逸らした。

「どうしたの?」

 私は尋ねる。

「別にどうもしないよ。なんで?」

 彼女は桜の方へと目を向けながら答える。

「いやなんかとまりちゃんがこれだけ静かなのって珍しいなと思って」

 ああ。彼女の口からそんなつぶやきが漏れた。それからしばらく間が空いて

「何で静かなのか言うけど絶対に引かないでね」

 そう私に念押しする。

「わかった」

 私は頷く。彼女はチラリと私に目を向けてまた桜の方へと逸らしてそれから

「かんざしが私の恋人なんだって思うと頭がわーってなってそれだけでいっぱいいっぱいで言葉が何も出てこなくなった」

 少しぶっきらぼうな口調でそんなことを言う。

「えっと」

 私が急に触れた彼女の感情に困惑していると

「ごめんやっぱ気持ち悪いよね忘れて今言ったこと」

 慌てたように早口で彼女はそう言い切った。

「いや全然気持ち悪くないよ。私もとまりちゃんが隣にいるのが嬉しくて未だに信じられないくらいだし」

 私は一人で沈む彼女を引っ張り上げようと、慌ててそんな言葉をかける。

「本当に引いてない?」

「引いてないよ。大丈夫」

「良かったー」

 そう言って彼女は心底ホッとした顔を見せる。

 それから彼女はさっきの言葉を水に流すように昔と同じ構図でいくつかの会話を振ってくれた。最近好きな小説は何か。ドラマは何を観ているか。

 それは懐かしい時間だった。私が長い間求めていた時間だった。しかしその時間は一瞬だった。離れていた隙間を埋め合わすようなそんな質問たちに答えているうちに坂は終わって私たちはそれぞれの家へとたどり着いた。

「じゃあ、またね」

「明日もまたとまりちゃんを待っててもいい?」

 私はドアの向こうへと消えていくとまりちゃんに向けてそんな言葉を投げかける。

「うん。かんざしが良いなら」

 一瞬こちらを振り向いた彼女の口元には笑みが溢れていた。私はそのまま彼女の背中とゆっくりと閉まるドアを見つめていた。

 彼女は随分と感情の起伏が激しくなった。前までは明るくて活発という印象が強くて基本的には今もそれは変わらないけれど、ただ今の彼女は時折酷く不安そうな顔を見せる。かと思えばとても嬉しそうな顔も見せる。そしてそんな起伏は大抵私に根ざしている。その事実が私を不思議な気分にさせていた。彼女の乱高下する脈の中に私が存在している。それを私と彼女の感情が釣り合ってないのではないかと悩んでいた過去の私に伝えたらどうなるだろうか。きっとまともに信じてもらえないに違いない。

 昨日の私も過去の私もとても信じそうにない現在に、今の私はいるのだ。そして今の私ですらそれを消化しきれてはいない。

 彼女ももしかしたらそうなのかもしれない。それが今の彼女の起伏の激しさを生み出しているのかもしれない。だって昨日の今日なのだ。時間が経てばその内彼女も昔の彼女に近づいていくに違いない。

 言動や行動で私に対しての好意を明白に示し続ける今の彼女はあまりに私に都合が良すぎて少し怖い。現実のはずなのにいつかは醒める夢の中にいるような、足元がふわふわとして落ち着かない気分だった。それが少し息苦しい。

 明日彼女とまた会って話をできることを嬉しく思う反面そんなことを考えてしまった。いや、嬉しく思うからこそそんなことを考えたのかもしれない。目の前の現実が幸せすぎるが故に。

 私はゆっくりと自分の家のドアを開けた。

 



         ◇





 昨日読んでいた本は結局今日も読み終わることはできなくて、けれどどうしても続きが気になって、私は図書室のカウンターで本を借りた。

「返却日は六月九日です」

 昨日とは違う生徒が抑揚のない声でそう告げる。期限は一週間だった。

 図書室を後にした私は昨日と同じように教室へと向かった。廊下を歩いて踊り場から階段を登ってたどり着いた教室のドアを開けるとこれもまた昨日と同じように紫月さんが開けたドアのすぐ近くの席に座っていた。

「最近よく会うね。また赤熊さん待ち?」

「うん」

「相変わらず仲が良いねぇ。私は今度は『委員会だより』の仕事押し付けられてさ。あんなの誰も見ないのにね。まあ、私のことはどうでもいいか。とりあえず座りなよ」

 私は紫月さんに言われるがままに隣の席へと腰を下ろす。紫月さんはそれを見届けてからまたノートの方へと視線を落とした。

 教室には紫月さんのペンがノートに擦れる音だけが響いていた。その音は私がスケッチをしていた時の音とよく似ていてつい最近の筈なのに随分と懐かしい気持ちになった。

 私はその音に耳を傾けながら、けれど些か手持ち無沙汰だったので先ほど借りた本を鞄から取り出しページを開いた。

「本よく読んでるよね。好きなの?」

「うん。好き」

「まあ好きじゃなきゃそんなに読まないよね」

 そう言って紫月さんはまた自分の作業に戻った。私も本の内容に没頭した。

 静かな時間だった。それは昔よくしたような、彼女の部屋で過ごす時間と似ていた。紫月さんの立てる作業の音がゲームの効果音の代わりだった。その音によって返って本への集中が深くなっていく感じが特に似通っていた。

 今日に限らず、紫月さんと居ると不思議な心地よさを感じることが多かった。それは紫月さんが私と彼女の仲の良さを了解してくれているという事もあるけれどそれ以上に紫月さんのさっぱりとした性格に起因しているような気がした。紫月さんと居ると気が楽だった。会う時間が毎回放課後というのもその一助を担っているのかもしれない。人やそれに付随する思惑が極限まで削ぎ落とされた放課後の教室は普段重苦しく感じるクラスというニュアンスから私を解放してくれた。

 本を読む傍ら、脳の半ば無意識な部分でそんなことを考えた。

 心地のいい時間はすぐに過ぎ去った。

「よし、終わった」

 紫月さんがそんな声を上げた時随分と早いなと思ったけれど、ふと今読んでいるページを見てみるとここで読み始めた時から五十ページも進んでいた。顔を上げて時計を確認すると時刻は六時を少し回っていた。ここに来てから三十分ほど経過していた。

「疲れたー」

 そう言いながら紫月さんはテキパキと帰る準備を始める。

「お疲れ様」

 そう言って私も本を鞄へとしまう。昨日はこれくらいの時間に彼女が来た。何かがあって遅れなければきっともうすぐ来るだろう。

 そんなことを思っていると想定していた通りにガラッとドアが開いた。そしてこれもまた想定していた通りに彼女が教室から顔を覗く。

「かんざしお待たせ......」

 彼女の言葉尻が少し掠れた。それから彼女はチラリと紫月さんの方に視線を移す。

「広田さんばいばい」

 空気を敏感に察知した紫月さんは足早に彼女の横を通って教室を出て行った。教室には私と彼女が残された。

「あの子、うちのクラスの委員長だったよね?仲良かったんだ」

 そう尋ねる彼女の声はいつもより少し硬い。

「うん。委員長の紫月さん。仲が良いっていうか、最近たまに喋ってるの」

「そっか」

 彼女は頷いた。

「じゃあ行こっか」

 それから何かを取り繕うような笑みを浮かべてそう言って彼女は教室の外へと歩き始める。

 その一連の仕草とシチュエーションから私は彼女の嫉妬の感情を読み取った。それはかつて私が抱いていたような懐かしい手触りだった。けれど外面は同じでもその内面の性質は私が過去に抱いていたものとは違うように感じられた。私の冷たい沼に沈み込むような嫉妬とは違って彼女の嫉妬は弾ける火花のように熱かった。

 もちろん、全部私の勘違いかもしれない。むしろ彼女の性格を考えるとその可能性の方が高いだろう。例えば部活で疲れていて声に元気がなかったのを私がそう誤解したとか。きっとそうに違いない。

 第一彼女が私のことで嫉妬するなんて自意識過剰も甚だしい。たとえ彼女が私のことを好きなのだとしても。

 私は妄想に走りがちな自分を戒めながら彼女の背を追いかけ隣に並んだ。廊下に二つの影が伸びていた。


 曇り空の隙間から射す夕焼けが桜の葉を掻き分けて坂道にまばらに広がっていた。私たちはそんな坂道を下っていた。

 彼女の口数は昨日と違って多かった。昔のようによく喋ってよく笑う明るく活発な彼女だった。私はそんな彼女と言葉を交わしながらさっきのはやっぱり私の勘違いだったのかもしれないと思った。私は自意識過剰な自分を内心で恥じながら彼女とお喋りに興じた。それは完璧に私が望んだ通りの時間だった。

 例に漏れずそんな時間はあっという間に過ぎて気づけば家までもう少しのところまで来ていた。彼女もそれを認めたのか会話に別れ際特有の空白が生じた。

 その空白を埋めるようにおもむろに彼女が口を開いた。

「かんざしって日曜日空いてる?」

「空いてるけどどうしたの?」

「その日部活が午前で終わるから午後から家に来ないかなと思って」

「行く!」

 私は思わず食い気味で答える。そんな私に彼女が苦笑いする。

「どんだけ来たいのさ」

「だってとまりちゃんの家しばらく行けてなかったんだもん」

「最後に来たのは......そっかあの日が最後か...」

 とまりちゃんの口調が一瞬重いものになる。ただそれはすぐにどこかへ消えて

「じゃあ準備できたらそっちに呼びに行くから」

「分かった」

 そんな風にして日曜日の段取りを決めたところでそれぞれの家へとたどり着いた。

「じゃあまた明日」

「ばいばい。明日も教室で待ってるから」

 一瞬彼女の表情に翳りが差した気がした。感じてしまったそんな印象を私は慌ててかき消した。ただの気のせいだ。

「わかった。ばいばい」

 私の杞憂を吹き飛ばすように彼女は笑顔で手を振って家の中へと姿を消した。私はそれを名残惜しさを噛み締めながら見送った。

 気づけば辺りは随分と薄暗くなっていた。私がドアノブに手をかけるのと同時に電信柱に沿うように立てられた蛍光灯の灯が着いた。空を見上げると雲が完全に夕焼けを覆っていた。急に濃くなった梅雨の気配を感じながら私も家のドアを開けた。




          ◇





 昨日は中々寝付けなかったのに平日と変わらない時間に目が覚めた。頭の芯が重い。確実にもう少し寝た方がいい。けれど脳の眠りを貪る部分には薄い靄がかかっていてそれが二度寝を妨げていた。

 私は仕方なくベッドから身体を起こしていつも通りに朝の行程をこなした。

 歯を磨いて顔を洗って、朝ごはんはお母さんがまだ起きていなかったので買い置きのパンと牛乳で済ませた。それからまた歯を磨いて服を着替えて、手持ち無沙汰になったので昨日図書室で借りた本を開いた。けれどなんだかそわそわしてしまって内容が頭に入らない。一度読んだ部分を読み返すこともしばしばだった。

 階下から聞こえる起き出した母親や父親の立てる音も浅い集中を更に浅くした。早く一番落ち着ける場所で、彼女の膝の間で本を読みたい。昔は当たり前だった時間にもう一度触れたい。

 それが睡眠や集中を奪った興奮の正体で私はその興奮を抑えることができずにいた。早く早くと急かす心のせいで却って時間はゆっくりと流れた。

 そんなこんなで本を読みながらじわじわとしか減らない時間をどうにかやり過ごしていた。のろのろと読み進めた本はやっとクライマックスまで辿り着いたのか左手で抑えたページの束がだいぶ薄くなった。内容はというと主人公とヒロインが巻き込まれた事件の一端が明らかになり始め、また主人公がヒロインを恋愛対象として意識し始めたところだった。そんなところに差し掛かったところで時刻が正午を回った。

「お昼ごはんできたよー」

 母親が階下から私を呼ぶ。

「はーい」

 私は少しの名残惜しさを感じながら本を閉じ階下へと降りた。

 食卓にはもう既にパスタとパンが取り分けられて置かれていた。ただお父さんの席の前には何も置かれていなかった。

「今日お父さんは?」

「会社の人とゴルフだって。洗い物済ませちゃいたいからかんざし先に食べてて」

 食卓のすぐ横の台所からお母さんがそう言った。

「いただきます」

 私は促されるがままにパスタを食べ始めた。すると母親が

「今日は何か予定あるの?」

 そう尋ねた。それは気になったから聞いたというよりはどこか機械的な口調だった。事実、毎週末、私はこの質問をされている。小学校から続くお約束のようなものだった。

 ここ最近の私は

「何もないよ」

と答えるのが常だった。けれど今日は違う。

「お昼からとまりちゃんの家に行く」

 私の言葉にお母さんは少し声のトーンを高くして

「そう。随分と久しぶりね」

 そう返した。それからはいつもと同じく特に話しかけてくるようなことはなくそれは洗い物を終えて私の前の席の食卓に着いても変わらなかった。

 私はゆっくりとしたペースでパスタとパンを平らげ、ごちそうさまを告げて食卓を後にした。

 自分の部屋に戻ると昼食後特有の眠気が私を襲った。しかも早起きした弊害かそれはいつもより強く脳の芯にまとわりつくようだった。私は少しだけ目を瞑ろうとベッドに横になった。いつ彼女が呼びに来るかわからないから眠ってはいけない。しかしそんなことを考えることができたのも初めだけだった。意識は次第に私の手中から離れていった。ピンと張った糸がほぐされるような眠りが身体全体を包んだ。


 ポツポツポツと雨が地面を叩く音が断続的に耳を撫でている。それだけを私の意識は捉えている。

 しかし突然、その音に割り込むように甲高い音が鳴った。

 ピンポーン。

 私はその音にばっと飛び起きる。反射で時計を観ると時刻は二時を少し回ったところだった。少しのはずが一時間半ほど寝てしまっていた。

「かんざしー。とまりちゃん来てくれたよー」

階下で母親が呼ぶ。

「すぐ行くー」

 私はそう返事をして部屋を見渡す。目的のものは机に伏せて置かれていた。私は滅多に使わない手鏡を取って乱れた髪を整える。それが終わったら今度はポシェットにハンカチとティッシュとさっき読んでいた本を入れて猛スピードで部屋を出た。

 玄関のドアを開けると傘を差した彼女が目の前で待っていた。

「待たせてごめん」

私はそう言いながら自分が傘を忘れたことに気がついた。

「ううん。大丈夫」

 そう言って首を横に振った。それから少し間が空いて

「すぐ目の前だけど雨強いし、傘入ったら?」

 彼女は私にそう尋ねた。

「ありがとう」

 彼女の気遣いが嬉しくて思わず笑みが浮かんだ。

 私はお礼を言いながら一歩二歩と踏み出して彼女の傘の懐に入った。雨とビニール傘とシャンプーの匂いが鼻腔を撫でた。彼女の髪は少し湿っていた。半透明な膜の向こうに広がる空は濁った灰色をしていた。

 道を横切るだけで彼女の家にたどり着いた。彼女はドアを開け私に先に入るように促してから傘を閉じた。そして傘をラックに立てかけ自分も玄関へと入った。それからドアをゆっくりと閉めた。その一部始終を私は玄関から見ていた。彼女の肩は少し濡れていた。

「ここ濡れてるよ」

 私はポシェットからさっき入れたばかりのハンカチを取り出して彼女の肩を拭いた。彼女は一瞬びっくりしたように身体を震えさせてそれから

「ありがとう」

と呟いた。

「ありがとうは私の方だよ。私が濡れないようにしてくれたんでしょ?」

「まあね。それより早く上がって上がって」

 そう言って彼女は靴を脱いで廊下へと上がった。私も彼女に倣って靴を脱いで廊下へと上がる。

「お邪魔しまーす」

「あ、今日はお母さん買い物で出かけてるから。だから、別に気兼ねとかしなくていいから。あと、飲み物入れてくるから先に私の部屋行っといて」

「はーい」

 私は彼女に言われた通りに階段を上がって彼女の部屋へと向かう。私と彼女の家は間取りが同じで、私の部屋と彼女の部屋も道を隔てて対称に位置している。だから階段を登り切った後は私の部屋とは逆向きに曲がる。鏡の中の世界のようだといつも思う。

 彼女の部屋にたどり着いた私はドアを開け中へと入る。

 彼女の部屋は昔とほとんど何も変わっていなかった。変化といえば見覚えのない大きな黒い猫のぬいぐるみが本棚の上に置かれているくらいのもので彼女の部屋から受ける簡素な印象は少しも損なわれていなかった。私は胸に暖かなものを感じながらいつもの場所、テレビの前に腰を下ろして彼女を待った。

「ごめん。お待たせ」

 それから程なくしてドアが開かれお盆にお茶を載せた彼女が帰ってきた。

「それじゃあ、いつもの感じで」

 お盆を床に置いたあとテレビの横からゲームのコントローラーを取り出した彼女はそう言って私の後ろに座った。私もポシェットから本を取り出し彼女にもたれかかって膝の間に収まった。彼女の格好はTシャツにショートパンツで私は半袖のワンピース。肌と肌が直接触れ合った。

「こうするの久しぶり」

 私は振り向いて彼女に笑いかける。

「そうだね」

 彼女は私の言葉に一瞬硬直したあと同じように笑顔を浮かべた。私はその反応に満足して体の向きを直して本へと視線を落とした。その直後にゲームの電子音が部屋に響いた。

 久しぶりに触れた彼女の体温は昔と違って暖かなものだった。部活の後で、お風呂上がりなのが関係しているのかもしれない。

 けれど彼女に触れながら物語を読み進める感覚は昔と少しも違わなかった。それが嬉しくて心地良くて私はいつもよりも深く物語にのめり込んでいった。

 薄くなったページ数の通りに物語は終盤に差し掛かっていた。怒涛の勢いで事件の全貌に迫って行き、またその過程で主人公とヒロインの関係も深まっていった。

 そして遂に事件の全貌が明かされ事件は無事に解決となった。あと物語に残されたのは主人公とヒロインの恋の行く末だけ。

 主人公の部屋で主人公とヒロインは祝杯をあげていた。事件が解決するまでしょっちゅう二人はこの部屋で事件についての議論を交わしてきた。だからこんなにも砕けた雰囲気は初めてだった。主人公はいつもと違う雰囲気に急に彼女と部屋で二人きりなのだと意識した。今まではそんなこと微塵も思わなかったのに、糸でキュッと締め上げられるように心臓に緊張が走った。酔いで赤らんだ彼女の頬が更にそれを後押しした。

 主人公は緊張に押し出されるように彼女への想いを思わず口走る。

「あなたのことが好きです」

 目を見開く彼女。一瞬の静寂。それから

「私も」

 頷く彼女。そんな彼女を主人公は思わず抱きしめる。彼女もそんな主人公に身体を預ける。初めて触れた彼女の体温。そして彼女は主人公の懐で主人公を上目遣いにじっと見つめる。主人公は吸い込まれるように顔を彼女に近づける。

「ごめん、ちょっといい?」

 彼女の言葉が私を物語から現実へと引き戻した。

「どうしたの?」

 私は首だけを曲げて彼女の方を見る。

「いやどうしたのっていうか」

 彼女は逡巡するような素振りで言い澱む。ゲームはコースとコースの間で止められている。キャラが同じ場所で微動している。陽気なBGMが少し場違いに感じられた。

 やがて彼女は重い口を開いた。

「ハグしてもいい?」

 彼女の瞳も頬も真っ赤に燃えていた。急に彼女の体温が生々しく感じられた。彼女の熱量に絡め取られるようだった。私は思わず首を縦に振った。それから間髪置かずに彼女の手が私を彼女の方へと引き寄せた。身体が反転して向かい合う形で私は彼女の身体に呑み込まれた。

 ドクドクと心臓が鳴っている。その音のあまりの大きさに私はびっくりする。だってその音は私のではなくて彼女の音だったから。私のよりも遥かに大きな心音を彼女の心臓は奏でていた。

 私はドキドキするというよりもどこか落ち着かない気分だった。だって彼女のこんなに大きな心音も熱い体温も今まで感じたことがない。こんなに近い場所で彼女に触れたことはない。私はずっと彼女の隣にいてずっと彼女の隣にいたいと思っていてだからこんなに近い位置にいる彼女は知らない。耳にかかる息までもが熱い。

 そうだ彼女は私のことが好きなのだ。それも恋愛的な意味で。私は今更そんなことを思い出した。彼女の隣に居られることが嬉しすぎていつの間にか忘れていた。自分は彼女の恋人なんだってことを。

 未だにその実感は湧かない。なのに彼女の体温が、熱がそれが現実のものなのだと訴えてくる。現実の感触が私の心を置き去りにどんどんと先へと進んでいく。彼女の鼓動は大きくて速い。私はどうすればいいのか分からなくなって思わず助けを求めるように上目遣いで彼女を見つめる。彼女はそんな私を見て頬を更に赤らめる。それはいつか見た時よりも更に深い朱色だった。

 それから彼女は抱擁を解いて私から少し離れた。私は内心で胸を撫で下ろしながら彼女がさっきの姿勢に戻るのを待っていた。しかし私の予想と裏腹に彼女は顔を私に近づけてきた。彼女の瞳は頬と同じ色に血走っていた。その瞳には私しか映っていなかった。しかしその瞳に映る私は私とは別人に思えた。

 脳裏にさっきまで読んでいた小説の映像が浮かんだ。イメージの中でヒロインにキスをしようと顔を近づける主人公と彼女が重なった。しかしヒロインと私は重ならなかった。

 私は違う。

「いやだ」

 気づいた時には、彼女を突き飛ばしていた。

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