第4話
遡ること二十年、人という存在がある限り後世に語り継がれるであろう大事件が起きた。
『紅い雨』。そう呼ばれるようになってから久しいその事件。未知のエネルギーを含んだ紅い水晶のような物質。大小まばらな大きさのその物質はある日突然、何の前触れも無く世界に降り注いだ。
今では『魔神石』と称されるその物質。それは触れた生物の体内に侵入、同化し、人間離れした身体能力を与えるだけでなく、その宿主に眠る超常的な力を呼び覚ます。だが、身の丈を遥かに超えた力を得るにはリスクが伴う。その強大なエネルギーに耐え切ることができず呑み込まれてしまった生物は皆、見るに堪えない無残な最期を遂げることとなる。『紅い雨』の犠牲者は確認されただけでも十数万人は下らない。
しかし見事その『試練』に見事耐え抜いた者は『魔人』と称され、人智を超えた能力を支配下に置くと同時に世界中の研究機関の対象になった。
机上の数式や物理法則を無視した力を持つ者達。勿論、それを悪用する者も当然のように現れた。その結果『魔人』による事件は後を絶たず『紅い雨』が発生した年の犯罪件数、負傷者、死亡者は過去類を見ない最悪の数値となった。
しかし、ある日一人の『魔人』を筆頭に『ルースト』と名乗る組織が旗揚げされる。
『ルースト』とは『魔人』に対する警察のような組織であり日夜世界のあらゆる場所で生じる『魔人』若しくは『魔神石』絡みの事件を処理、または未然に防ぐ活動を目的としている。
この『ルースト』の台頭により世界の秩序は大きく改善された。彼らの進言により一般人は元より『魔人』も保護すべく新たな法律も施行され、『魔人』という新たな人類が世間に認められる流れとなった。
世界は徐々に『魔人』の存在を認知していく。それに伴いその力を悪用する組織も多様化し、『ルースト』はそのような敵対勢力と日々熾烈な争いを繰り広げているのだ。
世界は大きく傷付き、変わってしまった。
『魔人』を中心に世界は回っていると言っても過言ではない。
世界の混乱は、『紅い雨』以来、未だに続いている。
……しかし、そんな平和には程遠い世界に絶望する事無く『雑務屋』は本日も活動を始める。
「ふんぐぐぐ……」
朝。まだ日も浅い。時刻は五時丁度。
大きく背伸びを一つ。いつも通りの時間に目を覚まし布団から抜け出した睦月は元気よく部屋の障子戸を左右同時に開いた。乾いた木の擦れ合う音が響き、寝室に柔らかな朝日が差し込む。
障子戸を開いた先に広がっていた光景。少し苔生してはいるが立派な紅い鳥居。こじんまりとしているが年季の入った御堂。正面に回り込めば本坪鈴に少し大きめな賽銭箱もある。そして、御堂から鳥居まで直線に敷き詰められた石畳は所々変色し、欠け、星霜の重みを漂わせている。
とどのつまり、神社だ。
「うん、今日もいい天気だ!」
白黒縦縞の甚平姿の睦月は大きく背伸びをし、朝の涼しい空気を肺一杯に取り込む。彼が暮らしているのは御堂を正面から見て左にある家屋。『和』を基調とした住空間が睦月の普段過ごす家だ。縁側の下に備えてある底がすり減ったサンダルを履き、大きな欠伸をしながら朝の見回りを行う。するとすぐに境内をジャージ姿で歩いている老夫婦と出くわした。
「おや、雑務屋さん。おはよう」
「おっす。おはよう」
定年退職して間もない白髪の老人が歩みを止め爽やかな笑顔で睦月と挨拶を交わした。老父の横で若干腰の曲がった老婆も軽く会釈をする。
「相変わらず元気そうだね」
「キミに勧められたコースを毎朝歩くようにしてから身体の調子が良くてね。おかげで、趣味の畑仕事も捗っているよ」
「それは良かった。また何か困ったことがあったら『賽銭箱』でも電話でも良いから依頼してね」
「ああ、そうするよ」
短い会話を終えると老夫婦はそのまま境内を一週し石段を下って行った。見れば、先ほどの老夫婦以外にも同じようにジャージ若しくはスポーツウェア姿で歩いている人の姿が窺える。この神社はちょっとした山の上にあり、道中の百を超える長い石段は御近所の人達にとって手ごろなウォーキングスポットとして有名なのだ。
砂利を踏みしめ御堂を回り正面へと向かう。程よく冷えた風が頬を撫で、甚平の開いた胸元にするりと入り込んでくる。眠気を覚ますには十分過ぎる清々しさだ。『雑務屋』の朝は早い。起きて第一に行うことは依頼の有無の確認だ。賽銭箱に取り付けられた南京錠を外し、下皿を抱えて縁側へと移動する。
彼は、仕事の依頼を受ける時に三つの方法を取っている。
一つ目は、直接会って。二つ目は、電話で。そして三つめは、依頼の内容を書いた紙を賽銭箱に入れてもらうようにしている。会って話すのも、電話で伝えることも出来ないような、とても人には言えない恥ずかしい内容の依頼が時たまあるのでこのような形式にしている。と言っても、ただ単に参拝のついでに賽銭箱に依頼の内容を書いた紙を入れる人間が殆どなのだが。
今日は小銭に混じり封筒が三つ。メモ用紙のような二つ折りの紙切れが四枚入っていた。盛況な方だ。一旦下皿を部屋の中に入れると、睦月は廊下を抜け台所へと向かう。湯を沸かし、渋めの茶を入れてから縁側に腰を下ろした。
茶を啜り、ほう、と熱の籠った息を吐く。しばらく、といっても十秒にも満たない間だがどこに焦点を合わせるでもなく庭を眺めた後、徐に封筒に手を伸ばした。一つ一つ丁寧に封を切っていく。その中には金額こそそれぞれ違うものの全てに手紙が封入されていた。
一枚一枚、一字一句丁寧に目で追いながら差出人を確認していく。それらは皆雑務屋の仕事への感謝を綴った手紙であった。睦月はそれらを封筒に大事に仕舞い、綺麗に並べて脇に置く。
『雑務屋』への依頼料、及び報酬の金額は定まっていない。どんな仕事だろうがどれだけ時間を費やす仕事だろうが、その仕事に対する報酬の裁量は全て客に任せているのだ。例えば先日行った空き地の草むしり。この仕事に対する報酬は町内会の寄付を纏めた三万円であったのに対し、逃げ出した飼い犬探しの時は依頼主である子供のなけなしのお小遣いであったりすることも。時には仕事の報酬が金ではなく、食事や物品などであることも少なくない。
割に合わないことだらけの仕事だが睦月は現状に大いに満足していた。やりたいことをやれている充実感は金銭に勝る価値がある。
「……さて」
残りの紙に手を伸ばし内容を確認する。それは両方とも仕事の依頼であり、どちらも今日中に来てほしいとのこと。
依頼の確認を終えた睦月は残った賽銭を全て小さめの金庫に流し入れ錠を掛けると、下皿を賽銭箱に戻した。これにて朝の仕事は取り敢えず終了。まだのんびりする時間は十分にある。
天気もご機嫌なので、のんびり茶を啜りながら三文しかないと言われる早起きの恵みを存分に味わおうと決めた矢先……。
枕元に置いていたスマホが小刻みに震え出した。
見計らったようなタイミングの悪さ。そしてこんな朝っぱらから電話を掛けてくる人間の心当たりに、睦月は嫌悪感丸出しの表情を浮かべつつ匍匐前進で甚平を引き摺りながらスマホの下まで辿り着く。
『遥』。そう表示された液晶画面を見るなり彼の表情は更に曇った。画面を見つめたまましばし固まっていたが、何時まで経っても止まない震動に観念し通話ボタンを押す。
「今何時だと思ってんのさ」
『午前六時だ』
受けた耳の反対の鼓膜まで透き通るように響く、凛とした声。女性にしては若干野太いがそれ以上に妖艶な気色が滲み出ているのが電話越しにでも分かる。
「そうだよ。六時だよ。まだ寝ててもおかしくない時間だよ」
『私は毎日四時に起きている。問題は無い』
「アンタはな……って。ん?」
ここで睦月はとあることに気付く。よっこらせ、と呟きながらのそりと起き上り胡坐をかいた。
「帰ってきてんの?」
『うむ。そうだ。帰ってきたのは昨日だったがな。いやはや、随分と疲れたぞ。なんせ移動だけで八時間だ。しばらく海外任務はご遠慮願いたいものだな』
「そりゃご苦労さん。で、用件は?」
『もう少し、労いの言葉があっても……。ん、まぁ良かろう。睦月、お前、明日の予定は?』
若干、通話相手の声が低くなり負の感情が見え隠れする。が、睦月はそんなことお構い無しに茶を啜りながらスマホのスケジュールアプリを起動させ、明日の予定を確認する。
「あ~……。特にこれといって予定は無いよ。何かあんの?」
『なに。久々にお前の顔を見たくなっただけだ。少し話に付き合ってくれ』
「それは、雑務屋の仕事ってこと?」
『……』
「冗談だよ。分かった、空けとくよ」
『うむ、では、明日を楽しみにしているぞ』
『遥』と呼ばれていた女性が通話を切ったのを確認し、睦月も通話を終了させた。
少し暖かくなったスマホを放り投げ溜息混じりに茶を啜る。面倒なのか、それとも嬉しいのか良く分からない気分のまま飲み干し、空になった湯呑と布団を片付けた。その後、灰色のジーンズと薄手の紺藍色の半袖シャツに着替えると、和室の片隅にある小さな仏壇の前に腰を下ろし、柔らかな笑みを浮かべ、呟く。
「おはよう。爺ちゃん」
壇上には強気な目つきが睦月によく似た白髪の老人が優しく微笑んでいる写真が飾られている。線香を立て、手を合わせるほんの数秒の間写真の老人と目を合わせると満足げに頷いた。
こうして、雑務屋の一日は始まりを告げるのであった。
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