第3話
言葉とは実に曖昧で、非常に危険であり、時に残酷である。使う人間の価値観によってその意味合いは常に流動し、人を惑わす。例えば「大きい」というありきたりな言葉にしても、その言葉を使う人間によってその尺度は変わる。
「俺はね、そう思うんだ。だからこそ、言葉というのは慎重に選んで使わないといけないんだよ」
諭すように青年はそう呟いた。田舎の小学校の校庭程はあろうかという広大な空き地を前にして。
「私にゃぁそんな難しいことは分からんのう……。学校は、中学校までしか通ったことないでなぁ……」
見事な直角を描く腰に手をあて、皺だらけの顔をくしゃりと崩し、快活な笑みを青年の隣で浮かべる老婆。
「いや、流石に、『ちょっと』って言葉の意味ぐらいは分かるでしょ!」
青年は悲鳴にも似た声を上げながら目の前に広がる雑草塗れの空き地を指差す。
六月も終わりを迎えようとしている時分。木々は深緑を帯び草木は存分の日光を浴び健やかな成長を遂げる季節。青年と老婆の目の前の空き地も他聞に漏れることは無かった。
老婆が事前に青年に伝えていたことは『一年間誰も整備していなかった』ということだったが、その言葉を青年は実際に現場を見ることで理解してしまった。前を見ればセイタカアワダチソウがまるで軍隊のように隊列を成し、足元に視線を落とせば枯草に混じってオオバコやドクダミが派生を競っている。足の踏み場も無い。
コンクリートとアスファルトが支配する住宅街に忽然と現れた小さなジャングル。刺すような日射の下で突入しなければならぬ青年の心境は如何ほどか。
「はて……。わたしゃ『ちょっと』なんて言ったかいなぁ?」
「言ったよね。電話で依頼くれた時に、『ちょっとだけ草むしりしてもらえないか』って言っていたよね」
「う~む……言ったような、言わなかったような……。ま、報酬は弾むでの、頼んだで、『雑務屋』さん」
「……はぁ。こりゃあ、装備を整える必要があるなぁ」
馬耳東風、暖簾に腕押し糠に釘。青年は依頼主である老婆との問答を諦め、目の前の膨大な仕事量を片付けるための算段を行っていた。
この『雑務屋』と呼ばれる青年。名を楢西睦月という。
歳は二十三、百八十センチ丁度の高身長に加え、黒地のTシャツの下からでも分かる、鍛え練られ引き締まった身体。所々無精に跳ねたストレートの黒髪。僅かに吊り上がった目の奥にある瞳は大きく、若干険しい顔つきだか、見た目とは裏腹に言動は飄々としている。
彼が行っている仕事、『雑務屋』。その名の通り雑務を請け負う仕事である。便利屋や万事屋と似た響きがあるが、彼は多才なわけではなく専門的な知識も技術も持っているわけでもない。出来ることと言えば力仕事と素人でも出来る簡単な作業だけだ。そこをはっきりと区分するために彼は自分の仕事をそう名付けている。
彼の住む町の人口は老人の比率が高く、体力が乏しくなった老人達は今回のように睦月に仕事の依頼をし、助けてもらうことが多い。
困った時には『雑務屋』。それがこの町の老人達の口癖だ。
「草むらの中に入って作業は自殺行為だ。先ずは入り口から順に攻めて行こう。ゴミ袋が圧倒的に足りないな。軍手も替えがあった方が……。三角鍬もいるなぁ……」
この時期は草むしり関連の仕事が多いので手慣れたものなのだが、流石に今回は予想外と言うより他無い。小さな庭を手入れする程度の軽装備であったため、急きょ必要な物が増えてしまった。
「おお、三角鍬ならあるで。貸してあげよう」
「ホント?それは助かるなぁ」
ポン、と手を打ち漏らした老婆の言葉に、パン、と膝を打つ睦月。
基本的に仕事に必要な道具は睦月が自腹で揃えるのが『雑務屋』のルールだ。だからこういった申し出は経費削減に繋がるため非常に助かる。
「随分昔のなんで結構錆びてるかもしんねぇけどまだ使えるじゃろうて」
「分かった!で、どこにあるの?」
「確か……あの辺じゃったかのう……」
老婆の上げた人差し指が自信無く指し示す場所は、セイタカアワダチソウの森の中。
「空き地の隅の方にある倉庫の中に仕舞っておいた……ような……」
「そっ……かぁ~……」
勿論、その倉庫は彼らから目視できない場所に埋もれている。刈る為の道具が刈らねばならぬ物に遮られているという本末転倒な話であった。
「ま、何とかするさ」
苦笑いを浮かべ、溜息を一つ。目の前の脅威に立ち向かう意志を固めた睦月は取り敢えず軍手を嵌め、手近な雑草に手を掛ける。
「えい」
気の抜けた声と共に軽く力を込めると二メートルはあろうかという青々しいセイタカアワダチソウが根っこから綺麗に抜けた。
「おお、流石は睦月ちゃん。やるねぇ」
「まぁね。じゃ、今から仕事に入るから。終わったら電話するね」
「あいよ~。頼んだで~」
満足そうに頷くと老婆はそそくさとその場から立ち去る。何でもこれから町内会での集まりがあるらしい。睦月が聞いたところによるとこの空き地を五年ぶりにゲートボールの会場にしようとの案が挙がったらしく、今回の仕事はそのためのもののようだ。
「さて……、と」
時刻は午前十時前。朝のニュースで今日は今年に入って一番の猛暑日になると報じていた。軍手やゴミ袋の他に多量の水分も購入しておく必要があるだろう。睦月は徒歩三分程度の場所にあるスーパー『日野』で物を買い揃え、再び空き地へ戻ってきた。ものの数分歩いただけでTシャツの背面部一面が汗で黒く滲んでしまっている。
「軍手良し、ゴミ袋良し、三角鍬に飲み物良し。……さぁ、やりますか」
気合十分。装備も完璧。若さと体力も申し分ない。
刺すような日射も何のその。青年に似つかわしい爽やかな汗を散らしながら睦月は草を毟っていく。
「……ふう」
腰を叩きながら背を伸ばすと、意図せずして息が漏れた。
気付けば二時間経過。目立った雑草を除去し取り敢えず空き地の全貌が確認できるまでは到達した。先程依頼主の老婆が言っていた倉庫の存在は確かに確認できたが扉が錆びついて簡単に開けることは出来ず、力任せに開いたのは良いがゴミ捨て場のようにガラクタが積み上げられておりとても物置とは呼べない代物であった。
倉庫の他に、すっかりペンキの剥げてしまったボロボロの木製ベンチや捻っても水の出ない水飲み場も姿を現した。
「や~れやれ……」
自分の身長程に積み上げられた雑草の山を眺めながら空き地の真ん中に座り込み、水気をたっぷりと含んだ軍手を乱雑に脱ぎ捨て水分補給を行う。
ポリエチレンテレフタートの軋む音が響く。買っておいた二リットルのペットボトル飲料三本が全て空になってしまった。短時間での急激な水分補給のせいか体中の水分が全て入れ替わってしまったような錯覚に陥る。
しかし本当の闘いはこれからなのだ。今までは比較的引っこ抜きやすい草を力任せに除去しただけに過ぎない。ここからはピッタリと地面に張り付き堅く根差した雑草と対峙しなくてはならないのだ。気が重くなるがこれも雑務屋としての大事な仕事。
「あ~……。んもぅ~……」
憎たらし気にお天道様を睨み付けながら息を吐く。
ゴミ袋が足りない。圧倒的に。それに水分も足りない。
「お金あったかなぁ……」
雑務屋という収入が不安定な仕事に従事しているが故に睦月の台所事情は常に厳しい。仕事の報酬金額も毎度依頼主任せなので経費で大赤字になってしまうことなど日常茶飯事なのだ。
とは言え、このまま仕事を放棄することは出来ない。結局、再度スーパー『日野』のお世話になることにした。ゴミ袋を大量に。新しく二リットルのミネラルウォーターを三本。塩キャラメルを一袋にガムを一つ購入し現場に戻ると……。
「おお、睦月ちゃん。大分綺麗になったねぇ」
依頼主の老婆が空き地の中にあったボロボロのベンチに腰掛け、睦月に手を振っていた。傍らには唐草模様の風呂敷が置いてある。
「こんなに働いてもらってからに。お腹減っとるだろう?おにぎり作ってきたでの。食べんしゃい」
温かい笑顔を浮かべ、老婆は風呂敷を解く。そこには紙コップ、水筒。そして巨大なタッパーが隠されており蓋を開けると海苔一枚巻かれた三角おにぎりが所狭しと敷き詰められていた。
「よく冷えとるぞ。お飲み」
水筒から紙コップに注がれたのは濃い色の麦茶。受け取ると、成程、よく冷えている。
「おお~。こいつはありがたいや」
睦月は買ってきた物を足下に置くと老婆の横に座り込み、受け取った麦茶を一気に喉に流し込む。熱気を吸い過ぎてカラカラに枯れていた身体がたちどころに潤い冷気を帯びる。飲み干すと同時に睦月の背中から汗が溢れ出した。
男らしい武骨な指でおにぎりを手に取ると、一気に口に放り込む。奥歯で噛み締める度に、出鱈目な塩加減が口の中に広がる。口にまだ残ったまま睦月は次のおにぎりを手に取っていた。二つ、三つ、四つ……。老婆が持って来た二十個のおにぎりの内、十三個が既に睦月の腹に収まった。老婆はまだ、一つ目のおにぎりを半分食べた所である。
「相変わらず、気持ちいい食べっぷりだねぇ」
「これだけ美味いおにぎりだったら百個はいけるよ。それに、俺の仕事は身体が資本。食ってなんぼだからね」
十四個目にしてようやくおにぎりを二口で食べる程度にスピードダウンした睦月はゆっくりと空を仰ぐ。すると、一機の飛行機がのんびりと雲一つ無い青空を泳いでいるのが見えた。
「……そういやぁ、遥さんが日本に帰って来るのって今日だったなぁ……」
「おや、遥ちゃん、また外国に出張してたのかい?」
「らしいね。今回は、どこぞの悪の組織の壊滅が任務だとか張り切ってたよ」
麦茶のお代りを差し出され、笑顔で受け取る睦月。
「そうかい、そうかい。そりゃ、今夜のニュースが楽しみだのぉ」
「いや、多分ニュースにはならないよ。非公式の任務って言ってたからね」
「そりゃ残念だのう。……に、してもじゃ。遥ちゃん、随分と偉くなったもんじゃのう……」
「だね。今や『ルースト』の最高戦力だ。随分と遠い存在になったもんだよ」
「ホホホ。片や世界の平和を護る組織の重役。そして片や、小さな町の何でも屋さんとは……。不思議なもんじゃの」
ようやく一つ目のおにぎりを食べ終えた老婆。手に付いた米粒を食みながら、優しい笑みを浮かべた。
「お互いがお互いに臨んだ道を歩んだ結果さ。あと、俺は何でも屋じゃない。雑務屋だから。そこは間違えないでほしいね」
「ホホホ……。そうじゃったのう」
さてと。そう呟き、睦月が立ち上がる。
体力が回復し、鍛え練られた肉体の柔軟を始める睦月を眺めながら、老婆はポツリ、と呟いた。
「睦月ちゃんも、『ルースト』に入れば良いのにねぇ……」
老婆の目は、どこか寂しそうな色を浮かべていた。我が子の出世を願うのだが、それにより自分の下から遠く離れてしまう子を寂しく思う親のような、そんな気色。
そんな老婆の言葉に、屈強な青年は目を見開き、フン、と息を鼻から吐くと、
「めんどいからイヤだ」
簡潔に、きっぱりとそう言い放ち、再び草むしりの作業に没頭し始めた。
その答えに老婆は満足したのか年季の籠った笑みを浮かべ、青年の汗まみれな背中を眺めながら静かに麦茶を啜るのであった。
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