追う者と亀裂の風
リディアの行動は、大きな波紋を起こした。
ミゲルの協力によって買い占められた食糧は周辺の五つの街に潤沢に行き届くだけの量があり、リディアが行動を起こした翌日には、彼女の意志と決意とともにかなりの範囲にまで広がっていたのである。
リディアにとって予想外だったのは、食糧が届けられていない他の街や村にまで話が広がったということだろう。
関税があるゆえに街から食糧を出すことはできない。
しかし他の街にはない食糧がある。
ならば食糧がある街に呼び寄せればよいではないか、そう思い立ち、親類縁者を救わんと街を飛び出す者が少なからずいたのだ。
もちろん、生まれ育った街をすぐに離れられる者は多くはなかった。
仕事があり、生活がある。短い期間であれ街を離れることは難しい。
それでも飢えるよりはマシと移動する者は一定数いたし、そうでなくとも街を訪れた者達は遠慮なくリディアの話を広めた。
ここ二年、人々の一大関心事は関税であり、食糧である。
リディアの話はごく僅かな語り手から始まり、爆発的に広がっていったのだ。
人から人へ、街から街へ。
リディアとベンハルトのどちらが悪人であるかで二分され、各地で激論がかわされるようになった。
そしてリディアの行動から遅れること五日、情報を得たベンハルトは半日足らずで騎馬隊を整え、馬上の人となったのである。
「進めいっ! 落伍者は捨ておけ、走れる者だけ着いて来い!」
必死の号令とともに、馬蹄の音も荒々しく駆けだすベンハルトの目は血走っていた。
それもそのはずで、たまたま協力者が鳥を使って知らせてくれたとはいえ、それでもリディアから五日半も遅れているのだ。
辺境都市イシュタルと王都のちょうど中間にロコンドルはある。
ロコンドルまでは替え馬を乗り換え急いだとて四日はかかる距離だ。仮にリディア達が馬で王都へ向かっているとすれば、到着まではどれほど遅くとも八日というところ。知らせを受けて出立までに五日と半日、ロコンドルまで四日、さらに王都まで四日、ベンハルトが王都に到着するまでは単純に考えれば十三日と半日がかかることになる。
笑えてしまうほど絶望的に間に合わない。
だが届けられた情報が事実であれば、それでも追わねばならぬのだ。
何もできない小娘と侮っていたのに、まさか王都に出向いて領主権の返還を行うとは思ってもいなかった。
そんなことをされてしまえば、ベンハルトは身の破滅である。
オーヴェンスタイン家の利権と家名を乗っ取り、十分に兵を募った上で南部貴族、西部貴族と呼応して王位を奪ってやるつもりだった。
しかし、領主権が剥奪されればその根底が崩される。
いまはまだ不味いのだ。
動くには早すぎ、準備が足りなさすぎる。
オーヴェンスタインの利権のほとんどは手に入ったが、王都に露見せぬように集めた兵は精々千がいいところ。南部と西部の貴族の半数は取り込んだが、残りは日和見を決め込み金の暴力で言う事を聞かせるにも時間がかかる。
これでは王都守護のために置かれた
あと二年、いや、一年でもいい。
時間が必要だった。
全て台無しにする小娘の姿を脳裏に思い描く度、腹立たしさと憎悪が込み上げる。
万が一にもオーヴェンスュタインの前当主の機嫌を損ねるわけにはいかぬと、蝶よ花よとベンハルトにしては実に礼儀正しく接していたのが何とも馬鹿らしい。
顔だけは美しくとも、貴族としての気品など持ち合わせぬ剣狂いの馬鹿女が。婚約者となってより十年、ベンハルトがどれほど計画のためにと獣欲に身を任せるのを堪えたか、その恩を忘れて牙を剥くのだ。
ああ、糞ったれめ。
いつもこうなのだ、自分という男は。
生まれ落ちた時よりそうだった。
第二王子という予備という存在でしかなく、王族教育を施す家庭教師も望んだ一流の教師は兄にあてがわれ、名前も知らぬ二流の教師に甘んじざるをえなかった。
社交界への初披露目の舞踏会の豪華さも、婚約者としてあてがわれる女も、全て最高は兄の手に、おこぼれがごとき残飯だけが己に配られる。
十分に豪華で遇されている、などとほざく城の爺連中の言葉など慰めにもならない。
俺を誰だと思っている、ステラタート王国の王子であるぞと騒ぐほどに虚しさが募るのだ。
だからこそ、全てを奪わんと欲した。
手に入らぬならば、あらゆる計略を駆使して正義を為すべしと望んだのだ。
だというのに、たった一人の女の行動によって全てが無に帰す。許せるはずがない、許していいはずがない。
間に合うかどうかなど最早考えるべき時ではなく、ただ馬を走らせ追いかけるしかなかった。
しかしそれでも、運任せではない何かぎ必要だった。
「ベンハルト様、一つご提案が」
「なんだ!」
ちらりと目線だけを動かしたベンハルトは、視界の端にかろうじてネーネの姿を捕えた。
馬術に秀でていないベンハルトにとって、これほどの速度で走りながら横を向くなどできない。わずかに目線を動かすだけが精いっぱいで、それを分かっているのかネーネも馬をやや前に進めた。
見透かされているようで、これもまた腹が立つ。
時間があれば嬲って誰が主人か教えてやりたいところだが、いまはそれどころではない。時が足りぬことに感謝しろと目に力を籠めれば、ネーネはわずかに頭を下げた。
「このままでは間に合いません。それはお分かりでしょう」
「それくらい分かっている、だから急いでいるんだろうが!」
当たり前のことを言うなと叱りつけるが、ネーネは気にした様子もなく子供をあやすように優しく言葉を紡ぐ。
「さすがベンハルト様です。では間に合う可能性を少しでも高めるために、我が一族の者を動かしてもよろしいでしょうか?」
「一族だと? 何をする?」
「ちょうど王都攻略のために捕まえておいた駒がいます。それを当て、足を止めさせましょう」
「足を……?」
ネーネは頷き、頬に落ちた髪を耳にかけ、くすりと笑った。
「そのご様子ですと、ご存じでないようですね。第二王子殿下の精兵よりも、私の一族の情報のほうが精度が高いというのは誇らしいものです」
「うるさい! 精度よりも速度が必要な場合もあろうが!」
「ええ、確かに」
否定をしても怒りもしない、余裕のあるネーネに舌打ちが漏れる。
迫害を受けて生まれた地を追われた蛮族の女ごときが、王子である自分に対して余裕を持つなどあり得ぬ話である。
これが使える女だから手元に置いているが、そうでなければ即刻手討ちにしているはずだ。
ただただ苛立ちに鬱屈するしかできぬ現状に怒りを覚え、ベンハルトはつるりと口を滑らせた。
「それで? 穢れ者達が寄越した情報とはなんだ」
「失礼、いま何と仰いました?」
冷やり、と何かが首筋に触れた気がした。
慌てて首元に手を当てて確かめたが、そこには何もない。
ただ手の平から伝わる熱があるはずなのに、しかしひんやりと怖気がする寒さが伝わるのである。
ネーネを見れば意味も分かる。
彼女の視線が首筋に向けられているのだ。
剣を手にしているわけでも、殺気を放っているわけでもない、ただ、見つめているだけ。そこを斬る、そう考えるだけの意志の発露、それが生物としてのベンハルトを威圧せしめる。
それに気づくや、湧き上がった恐怖は一瞬にして怒りに塗りつぶされた。
肥大した自己顕示欲と選民意識のバケモノは、武力のバケモノを相手に一歩も引くことはない。武によれば一瞬で蹂躙されるにしろ、政治と権力という武器を手に首輪を嵌めている以上は主人が誰かという話なのだ。
「何だその目は!」
ベンハルトは痛烈な舌打ちとともに、思い切り拳を振った。
慣れぬ馬上で力は減じてはいるが、それでも多少は剣の心得がある男の拳である。ごづん、と嫌な音を立ててネーネの頬が弾け、切れた口元から赤い血が滴った。
「ご無礼を、ベンハルト様」
「次は許さん。それで、穢れ者達が寄越した情報とはなんだ」
あえて繰り返した彼女の逆鱗に、しかし再び同じ行動を起こすだけの無能ではなかったようだ。
ネーネはことさら丁寧に一礼し、情報を開示した。
「ふん。つまり、護衛気取りの民どもを引き連れ、わざわざ足を遅くしているということか。馬で駆ければこちらが追いつく可能性はほとんどないというのに、馬鹿の考えることはわからんな」
「左様で……しかし足を速めたいのも事実でしょうから、彼らを引き取ってくれる者が現れればきっとそこにすがるでしょう。それが罠とも知らずに……」
「面白い……やって無駄なこともあるまい。物は試しだ、やってしまえ」
「お心のままに」
ネーネはそのまま軍勢の列からはずれ、森の中へ続く小道へ走って行った。
きっとそこで彼女の一族とやらと落ち合うのだろう。
ベンハルトはそんな彼女の後姿を不満げに見つめ、嫌味たらしく口角を上げた。
「あれもそろそろ潮時か。何が一族の復讐か。俺が目指す世界にお前達のような穢れた血が生きる場所などあるはずがなかろうに……精々夢を見て、我の手足となって働くがよいわ」
くつくつと嗤うベンハルトに応える者はなく、ひゅるりと温い風が吹き抜けるだけだった。
果たしてそれが暗示するものは何か。
いまはまだ誰も知る由もない。
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