決意せし弟子と剣豪じじい
普段なら活気に満ち溢れている市場は、ここ数年の食糧にかけられる関税の影響でめっきりと冷え込んでいた。
それはロコンドルの街に限った話ではない。
アラタとリディアには知る由もないことではあるが、商隊を率いて街を転々とするミゲルなどは東部一帯が同じ状況であることをその目で見て、憂いていたのだ。
オーヴェンスタイン家の当主であったリディアの祖父が亡くなったのが二年前。
その直後から発令された増税令によって、生きる上で重要な食糧へ狙いすましたように税が課された。
街から出るのは良い。されほど街へ入るには関税がかかり、それが全てかつての数倍と言うのだからたまったものではない。
街の中だけで完結できるほど多様な食物を生産していたか、あるいは新たに生産を試みるだけの体力がある街などほとんどなかった。
イル芋という主食になりえる根菜を生産していたロコンドルは、むしろ恵まれたほうですらある。
だがそれでも、二年も芋だけを喰わされ続けて腹が立たぬわけもなく、ましてその芋すら街の人々が毎日喰らえば配分も減る。
飢えはせぬまでも満腹とは言えず、ロコンドルにも確実に鬱屈した空気が流れていた。
そのせいもあるだろうか。
いま、市場は大混乱に陥っていた。
二年前の活気があった時期ですら見たことがないような混雑ぶりは凄まじく、まともに歩くことすら困難だ。
何より驚くべきは、市場に馬車が詰まっていることである。一台一台に大量の木箱が積み込まれ、よくもまあそこまでぎゅうぎゅうに詰め込んだものだと感心するほだ。どの馬車もそんな有様で、車列は城門のほうまで続いていた。
どうやら馬車は宿前の広場へと向かっているようで、人の流れもそちらに向かっているようだった。
店の準備をしようと市場に顔を出したダニアンはその光景に面食らい、このままでは仕事にならんと手近な男に声をかけた。
「おい、こんな朝っぱらから何の騒ぎだよ?」
「俺もよくわからんが、リアちゃんが食糧を買い付けてきたって話だぜ。それを配ってくれるんだとよ」
「リアって、宿屋の女給の? なんでまた?」
「知らねぇって。前の奴らがそう言ってたんだよ。なんか話があるらしいから、それまで待てとさ」
そんなよくわからない話を信じて集まる人々もどうかと思うが、しかし現実問題として大量に荷物を積んだ馬車が目の前にあるるわけで、いっちょ話だけでも聞いてみようかとなったらしい。
ダニアンとて芋ばかりの生活には飽き飽きしていたのだ。
訝しみながらも人混みをかき分け、苦労して宿前まで移動した。
「お、ここなら見えるな」
宿前には演説会場よろしく、わずかばかりの空間が空けられていて、真ん中に用意された台にちょうどリディアが上ったところだった。
街の人間のほとんどはリアの顔は見知っている。
新参者ではあるが、初々しさとその整った容姿、そして街でも顔役として知られるチナの宿で働く女給として親しまれていた。
そんな彼女が何を話すのか、みな興味深々である。
リディアは台の上から聴衆を見回し、予想以上の人数だったのか一瞬怯んだ様子を見せる。それでも大きく息を吸って覚悟を決めて話し始めた。
「ロコンドルのみなさん、私が誰か、なぜお集り頂いたか、疑問に思っている方もいらっしゃるかと思います。ですが、まずは私の話を聞いてください」
おう、と好意的な声を返すのは、チナの宿屋の常連だろう。むさい男どもが拳を突き上げ、やんややんやの大歓声である。
ただし、それは男やもめのチナの宿屋で食事を済ませる独身男どもがほとんどで、そうではない人々は冷静だ。むしろ男どもの好意の感情にやっかみすら抱く者といる。
「まずはこちらを」
リディアは歓声に一度頭を下げると、宿に横づけされた馬車を示した。
幌の隙間から見えるのは木箱の山だ。待ってましたとガストルが木箱の一つを開くと、中には魚の干物がぎっちりと詰め込まれていた。
恐らくはラナーラ川を有する隣の街から仕入れてきたのだろう、遠目にも質がいいとわかる、最近ではとんとお目にかかる機会のなかった良質なストラウトの干物だった。
稚魚の頃に海へと下り、成魚となると産卵のために河を登る。魚卵は醤油漬けにし、身は天日に干して干物にするのだが、これがじっくり焼くことで生から焼くよりも旨みが凝縮され、濃厚な脂と相まって酒が進むのである。
手頃な値段で広く流通している品だけあり、集まった人々の反応も抜群だった。
「おおっ、本当に食糧だ!」
「ストラウトの干物なんて久しぶりに見たぞ!」
食糧がもらえるという噂は聞いていても実際に目にするとやはり違うもので、どよりとざわめきが起こる。
「この通り、食糧を用意しました。こちらはミゲルさんのご厚意で、あちこちの街から集めてきてもらったものです。日持ちするものを多めにしてもらっていますから、皆さんでわけてください。御一人あたり十日分は見積もって用意してもらっています」
その言葉は人々に更なる衝撃を与え、どよめきは最高潮に達していた。
ガストルと傭兵達が口々に「静まれ、まだ話がある!」と繰り返しても、しばらくは騒ぎが治まらなかったほどだ。
まだざわめきは残っているが、それでも食糧をもらえるならば話を聞くぐらいは安いもので、ようやっと静かになった人々の視線がリディアに集中した。
ここが正念場だ。
リディアはごくり、と唾を呑み込んだ。
期待と好意に満ちた視線に覚悟が揺らぐ。
それでも彼女自身の誇りを、そして祖父の誇りを守るため、そして何より彼ら自身のためになさねばならなかった。
「私は、リアという名前ではありません」
これを言えば恐らくは罵倒されるだろう。それでもリディアは己に何一つ恥じることはなく、はっきりとその名を告げた。
「私の名は、リディア・オーヴェンスタイン。オーヴェンスタイン家の最後の一人です」
さきほどと同じざわめきが起きると思っていた。
しかし逆にしんと静まり返り、波紋一つない湖面のように、時が止まったかとすら錯覚させる。
ぽかんと口を開けた人々は、脳に言葉が浸透していないのだろう。
ダニアンとてリディアが何を口にしたのか理解することができず、混乱していた。
だがそれはほんの数秒許された静寂でしかない。
ゆっくりと言葉を噛み砕いた人々が、その言葉の意味を理解し、斟酌する。徐々に理解が広まるとざわりざわりと空気が変わり、そしてある一点を超えたところで決壊を迎えた。
「リディアだと? お前が俺達を苦しめてたあの悪女だって言うのか!!」
「この食糧はなんだ! お優しい貴族様の気まぐれか!?」
「馬鹿にするなよ、この売女が!!」
「そこの男達も体で誘ったのか、この糞女が!」
手のひら返しとはこのことだろう。
罵詈雑言の嵐が吹き荒れ――いや、暴言を吐いている者が多いのは確かだが、困惑しながら「嘘だと言ってくれ」とリディアを見つめる者達もいた。
だが声が大きいのはいつも批判する者である。
まして彼らが殺気立ち、擁護をすれば袋叩きにでも合いそうな空気となれば声を上げることすら躊躇われる。
しかしこれでは本当にリディアが襲われれかねない。
押し寄せる人々と、か弱い少女。
ダニアンは頭の中で再生される嫌な想像に顔をしかめた。
傭兵達が周囲にいるおかげで抑止力になっているが、それとて限界はある。その前に何とかしなければ――そう思っていたダニアンを小馬鹿にするように、壁に背を預けて傍観していた青年がゆらりと前に出た。
どこかで見たことがある。
そうだ、リディアと一緒に店に来た妙な口調の男だと思うのと同時、男は反りのある剣を鞘ごと引き抜き、鞘尻でとん、と地面を突いた。
「黙れや、ボケども」
その言葉とともに広がった波紋、そうとしか形容し難い何かが人々の間をするりと抜けていく。
集団の前のほうから静かになっていく光景に不気味さを覚えたダニアンも、それが己の芯を貫き背後へ抜けたと思った瞬間、なぜそうなったかを理解した。
怖いのだ。
その一瞬を境に、その男に対する圧倒的な恐怖心に支配され、脚が震えていた。何が原因なのか、何が起こったのか、まったく見当もつかない。
ただ、この男に逆らえば己の命がない、そう確信してしまったのである。
何のことはない、それは殺気である。
ほんの微か、手加減というのも馬鹿らしいほどに軽く一撫でする程度でしかないが、相手はアラタ。剣に生き、剣によって最強たらんと五十年あまりも死地に身を置いた狂人のそれに、安穏と生きてきた人間風情が逆らえる道理はない。
燃え上がっていたはずの熱量は一瞬にして冷え、それどころか凍りつきさえした。
アラタは元の場所に戻ると、視線で続けろと促す。
師の後足のなんと頼りになることか。リディアも感謝とともに頷きを返し、再び広場に向き直る。
しかしリディアが言葉を紡ぐよりも先に、集団から抜け出た女が声を上げた。
ただしそれはリディアにではなく、萎縮しきった集団へ向けて、だ。
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