剣豪じじい、知らずも悪意は迫りけり

 オーヴェンスタイン領、辺境都市イシュタル。

 東部辺境の広大な土地を領土とし、多くの東部貴族を統括するオーヴェンスタイン家所有の最大都市である。


 辺境と名はついているが、それは王都が存在する中央と比較してそう呼ばれているだけで、実際のところイシュタルの文化レベルはそう低くはない。


 海と山脈で囲まれた半島が領土であるステラタート王国にあって、大陸中央に抜ける街道が存在するのは北部と東部の二か所だけだ。必然的に大陸中央からやってくる商人の半数はイシュタルを経由する。


 つまるところ、王都よりも遥かに大陸に近い。

 そもそもが王都は辺境と呼ぶが、視座を大陸中央に置いてしまえば半島そのものが辺境なのだ。五十歩百歩もいいところの馬鹿らしい話で、どちらが辺境かに固執するのは王都の人間だけだった。


 王に近しい場所で暮らす、それは彼らにとっては一種のステータスであり、揺るがすことのできない誇りであるのだろう。


 とはいえ、それも口に出すことをはばかる程度には自制心もあるのが普通で、オーヴェンスタイン家の執務室で苛立たし気に酒を呷る男のように、堂々と辺境と馬鹿にする者は珍しかった。


「糞がっ! なんでこんな辺境で俺がくすぶってなきゃいけないんだ! 俺を誰だと思っていやがる!」

「第二王子殿下です、ベンハルト様」


 空になった杯に蒼い酒を注ぎながら、女が答える。

 褐色の肌の女だ。大陸南部の商業都市では珍しくないらしいが、少なくともこの辺りでは目にすることのない肌色である。しかし不思議と見慣れぬがゆえの忌避感などはなく、どちらかといえば美術品のごとく輝いて見えた。


 露出の多い服と金色の頭冠、そして目元に入った黒い炎のような入れ墨もまた、彼女の美しさを際立たせることはあれ、損なうことはない。


 異なるとはいえ、長く受け継がれた文化伝統というものは等しく美しくある。


 街で見かければ二度と忘れることのない、はっとするほどの美女であれば猶更だった。


「ベンハルト様、少し飲みすぎではありませんか。お酒は控えられたほうが――」

「黙れ! 貴様まで口答えするのか、ネーネ!」


 なんともはや、男の癇癪など醜いものよ。

 それ一つで庶民の数年分の所得が吹き飛ぶだろう硝子の杯を投げつけ、ベンハルトは怒り心頭と発する。


 されど驚くべきはネーネと呼ばれた女だ。


 近距離から男の腕力でもって投擲された杯は、酔いが回っているとはいえ鋭く速い。しかし避けることすら難しいそれを、彼女は瞬き一つせずつかみ取ってみせた。


 その手の動きはベンハルトの目で追うことはできない速度と流麗さであった。


 この場にアラタがいれば、にんまりと満面の笑みを浮かべただろう達人の手技だ。美しい可憐な花には棘があると言うが、黒い徒花にはとびきりの牙が隠されているようだった。


「馬鹿にしているのか、貴様」

「いいえ、これっぽっちも。私はあなたの忠実なるしもべです。あなたの所有物を傷つけぬよう、注意を払ったつもりですよ。お嫌でしょう、寝所で傷のある女を抱くのは……」

「ふん、事実だけに忌々しい」


 舌打ちを漏らしたベンハルトは、どかりと背もたれに体重を預けた。


 職人の手による高価な椅子が軋みを上げるが、そんなものはお構いなしだ。


 壊れようがどうしようが気にもならない。こんなものは彼にとってははした金――いや、金がかかっているという意識すらない。壊れれば次の日には新しい物が湧き出ている、そういう感覚なのである。


 とはいえそれは贅沢に慣れた王侯貴族であれば大なり小なり持つ感覚だろう。


 自分で金を稼ぐ、自分で金を払う、その行為が日常から失われてしまえば、残るのは阿呆のごとき錯覚と誤解によって生まれる消費への無理解である。


「こっちに来い」


 伸びた手がネーネの首を乱暴に掴み、息ができぬのも構わず引き寄せた。机の上に並べられた道具たちが派手に吹き飛び、ネーネの柔らかな肢体が強引にベンハルトの胸のうちに収まる。


 貪るような接吻と、豊満な乳房を揉みしだかれてもネーネは無表情になすがままだ。


「まだあいつは見つからんのか」

「残念ながら……んっ」


 小さく漏れる上気した声に、ベンハルトの顔は露骨に怒りから性へと舵を切る。


「つまらん政治の話はあとにしよう。どちらにせよ、あの女が見つからねばどうにも動きようがない」

「左様ですね。利権のほとんどを奪ったといっても、肝心要の領主権が無効では意味がありませんもの。東部乗っ取りは根底から覆ってしまうでしょう」


 ちっと痛烈な舌打ちが漏れた。

 せっかく忘れようとしたのに、現実を思い出させるように言葉を紡ぐネーネわ苛立ち混じりに睨みつける。


 否定ができないのがまた腹立たしいのだ。

 野望を叶えるためにはまだまだ状況が思わしくなかった。


 ベンハルトという男の野心は深い。

 それは子供の頃から第一王子に何かがあった際の予備に甘んじていた環境ゆえだ。鬱屈しねじ曲がった心から生まれたもの欲望は深い。


 彼が求めるものは、すでにステラタート王国という枠には収まらず、肥大した自制心は世界の覇者という子供じみた妄想にまで発展していた。


 不運であったのは、彼に軍才があったことだろう。

 剣に関しての才能は薄くとも、軍略と政略という点においては図抜けていたのである。


 とはいえ天才と呼ぶには程遠い代物ではあったが、彼が妄想に浸るには十分な代物であった。


 世界へめをむけ目を向けるなら、まず足元を固める必要があるのは自明。そのための第一の歩みとして南部貴族と手を結び、オーヴェンスタイン家の乗っ取りに手を染めたのだ。


 ここまで十年を費やした。


 良き青年、良き夫候補を演じてオーヴェンスタインの田舎騎士どもの懐に潜り込み、愚かな少女の婚約者となる。


 その後に彼女の両親を事故に見せかけて暗殺し、ほとぼりが冷めるのを待って救国の英雄などともてはやされる時代遅れの武門の雄に毒を呑ませた。


 邪魔者が全て死ねば、後に残るは右も左もわからぬ純粋無垢な少女が一人。いかようにも手なずけ、すべての権利を奪ったあとで殺すつもりだった。


 だがそれがどうだ?


 領主権に始まり、オーヴェンスタイン家が保有する全ての利権、財産の名義を書き換えてすべてを奪ったつもりが、あの愚かな少女は祖父が死んで一年が経っていたというのに領主権の相続継承の手続きを行っていなかったのだ!


 貴族の家長が死んだならば、権利の継承を行うのが当然のこと。領主ともなれば権威の空隙が生まれぬためにも数ヶ月のうちに引き継ぐのが普通だ。


 だからこそ領主権の委譲の書類に署名させたというのに、肝心の領主権はいまだ毒でころりと死んだ爺が持っているのである。


 捏造はできない。


 領主権の署名には本人の血が使われるが、血に反応し色を変える薬草があるのだ。その微妙な色合いの変化は王家で保管され、専門の審判官によって確認される。すでに火の中で灰となった男の血など手に入れる術はないのだ。


 忌々しさにまたぞろ腹立たしさが目を覚まし、ネーネの首にかけた手に力がこもる。


 彼女は苦し気に息を吐きながら、そっとベンハルトの首に手をまわした。


「心配することはありません。きっと見つかります……あなたの忠実なる兵達がすべての街を虱潰しにしているのでしょう。それに、私の民も‥‥ええ、何も問題はありません」

「わかっている。お前の民達の活躍には期待しているからな。もちろん、その次はお前の出番だぞ、ネーネ」


 ネーネはベンハルトの視線を受け止め、こくりと頷いた。


「あなたに頂いた神剣と、あなたとかわした復讐の誓約に誓って、必ずやお役に立ちましょう」

「……ふん。南部貴族からその神剣を奪うのは手間だったからな。まったくあの狸親父め身分の違いも考えず、俺が勝利した暁には宰相にしろと宣う。まったく愚かしい」


 たかだか第二王子がとんでもないことを言い出すものだが、しかしネーネは一切否定することはなく、むしろ嫣然と微笑みながら肥大した誇りに毒を注ぐ。


「ええ、貴方様が王になった暁には……そう、処刑するのもよいですね。きっと素晴らしい戴冠式の催しとなりますよ」

「ふむ? なるほど、それは面白いかもしれんな……俺に逆らうことの恐ろしさを周知することもできるか……」

「ええ、素晴らしい思いつきかと。さすがベンハルト様のお考えは凡百の徒とは違いますね」

「ふん、当たりまえだろうが」


 持ち上げられて満足したか、ベンハルトはネーネの首筋に顔を埋めた。

 水っぽい音が響き、くぐもったネーネの声が漏れる。


「期待していますわ、私の契約者。愛しい操り人形……我が一族の復讐のために楽しく踊ってくださいませ」


 口の中でのみ呟かれたその言葉は、ベンハルトの耳に届くことはなかった。


 ただ憎悪を形にすることができる者がいたとすれば、あるいはベンハルトに手打ちにされるとしても止めようとしたかもしれない。


 この女の言葉だけは聞いてはならぬと。

 しかし、この場でそんな戯言を口にする愚か者はついぞ現れることがなかった。

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