第15話

 願いに応えて処方された薬は二種類、睡眠導入薬と頓服扱いの抗不安薬だ。前回は入試前、ベッドに入ってから不安になることを考える習慣が抜けなくなって頼った。その前は中二の秋、クラスに復帰する前だった。

 常に飲んでいるわけではないものの、なかなか薬と縁が切れない。抱えた問題を考えれば切れるわけがないのは分かるが、成長が止まったことよりも落ち込んでしまう。私が望まない限り薬が処方されないのは、トーマスがそれを分かってくれているからだろう。

 気づくと俯いている顔を上げ、ただいまあ、といつものように挨拶をして玄関を上がる。同じように心配してくれていると分かっていてもまだ、芳岡には打ち明けられない。

「先生、ただいま」

「おう、おかえり」

 芳岡はいつものように覗いた台所にいて、今日は蕎麦を打っていた。この人は本当に、なんでも自分で作ってしまう。

「すごい。今日は蕎麦?」

「鴨南蛮そばだ」

「鴨?」

 聞き返し、コンロに置かれたフライパンを見る。火は点いていないが、この甘辛い匂いはそれだろう。

「ああ、冬にもらったやつが残っててな。真鴨だから旨いぞ」

「よく出てるのは、合鴨だっけ」

「そうだ。真鴨はこの辺でもあまり市場には流れないからな。狩猟者とコネがないとありつけない」

 芳岡は作業台に打ち粉を振りながら、真鴨の貴重さを語る。少し前までは、自分も撃っていたのだろう。

「銃が撃てなくなったの、つらい?」

 小さく尋ねると、麺棒の動きが止まる。

「全くつらくないとは言わないけどな。でも代わりに、こうして作ったものを旨いと食ってくれる相手と出会っただろ。悪くないとは思ってる」

「キッチンのリフォームしといて良かったね」

 はは、と軽く笑い、芳岡は再び慣れた手つきで蕎麦を拡げていく。軽く振られる左手に、視線を落とした。芳岡は彼らを許したのだろうが、許された彼らはどう思っているのだろう。ラッキーだった、チョロい、とか。聞いたことはないが、もし思っていたら、私はきっと許せない。

「なんだ」

「いや、先生はお母さんのどこを気に入ったのかなと思って」

 すり替えた嘘に気づかず、芳岡はまた笑う。トーマスには言えることが、芳岡には言えない。いくら王子様でも、トーマスとの距離は家族とは違う。芳岡は日に日に、家族へと近づいている。近くなるほど、言えなくなってしまうこともある。

「まあ、いろいろだ」

「あ、逃げた」

 あっさりと流された話題に、思わず頬を膨らませた。

 嘘ではあるが、気にならないわけではない話題だ。恋愛とは何をどうして始めるものなのか。物心ついた時からトーマスが好きだった私には、ハードルが高い。

「恋愛ってどうやって始めるものなのかな」

 なんとなく言ってみただけだったが、芳岡はまた手を止めて私を見据えた。

「何」

「好きな奴ができたか」

「できたら始まってるでしょ。一切気配がないから言ってるの」

 好きな人ができれば、あとは多分周りの女子のように相手の言動に忙しく一喜一憂すればいいだけだろう。トーマスにしてきたことを、違う誰かにすればいいだけだ。でも、そのスタートラインに立てない。

「戸増先生と比べてるからだろ。でもあの顔と四十半ばの包容力を持った医者に、普通の男子高生が勝てるわけがない。少し離れたらいいんじゃないか」

「それは、ちょっと」

「こんなこと言うとムカつくだろうけど、俺は先生が志緒を依存させて離れられなくしてるように見えるんだけどな」

 ムカつきはしなかったが、初めての見解に動揺はする。

「過激な言動はさておき、志緒の耳障りがいい言葉しか言ってないんじゃないか」

「そんなことないよ」

 思わず言い返したあと、視線が傷つけないように下を向く。作業台の上では、蕎麦生地が放置されていた。

「トーマスは、必ず私に選ばせてくれる。私が何をしたいかを、ちゃんと確かめて」

「そのことを言ってるんだ。志緒が選びたいからと言って、傷つく結果になると分かってる選択をなんでも許すのは大人として正しいことじゃない。たとえ志緒に嫌われても、選ばせないことが必要な場面はあるんだ。あの先生はただ、志緒に嫌われたくないだけじゃないのか」

 遮るようにして伝えられた芳岡の意見は、教師らしいものだ。なんとなく、昔を思い出す。もっとも今より幼かったあの頃は、その真意に気づけなかった。厳しい先生で、正直なところ私と希絵は少し苦手にしていた。私は圧を感じて縮こまったし、希絵は反発した。

――ほんと、いちいちうるさい。放っといて欲しいよね。

 希絵の不満そうな顔と声は、今もまだ覚えている。ほんとにね、と答えていた頃には、こんな風に話せる日が来ると思っていなかった。

「あまり好きな言葉じゃないけど、大人になれば選択は『自己責任』だ。でも子供はまだ、選択する時の材料となる経験を十分に積んでいない。十六、七じゃ全然足りないんだ。子供に大人と同じ自己責任を求めるのは、俺は間違ってると思う」

 合わないのは分かっていたが、芳岡は闇雲にトーマスを批判しているわけではない。芳岡の意見は、ちゃんと筋が通っている。言葉や態度は少しぶっきらぼうだが、考え方はそうではない。だからこそ、苦しくなる。

 もちろんいい先生だし、母と幸せになって欲しいと本当に思っている。「新しい父親」になるのも賛成だ。でもやっぱり、近づくほどに圧を感じてしまう。トーマスが育ててくれた緩い土壌にきっちりとした畝を作られるのは、少ししんどい。

「悪い、少し熱くなりすぎたな」

「大丈夫だよ。私のことを考えて言ってくれてるのは、分かってるから」

 返した声が少し掠れて、小さく咳をする。芳岡が医師なら、私が望もうが望むまいが薬を処方するのだろう。その方が良くなるのなら、良くなるに越したことはないのだから。

「ただ、ちょっとしんどいから、横になってもいい?」

 いつもならなんともないが、今日は既になんともなくない状態だ。芳岡は、ああ、と答えてすぐ手を洗い、奥へ向かう。

「手伝えなくてごめんね」

「気にするな。旨いの食べさせてやるから、それまで寝てろ」

 うん、と頷く私の頭を、芳岡の手がぽんぽんと叩く。見上げると、気遣うような笑みが応えた。トーマスの慈愛に満ちた笑みとは違う。ああ、そうか。確かに私は、比べている。

 苦笑しながらあとに続き、台所を出る。暗くなった座敷を奥へ向かう背もやはり、トーマスとは違っていた。


 母と自宅へ戻り、西杵に電話したのは九時半前だった。少し横になれば楽になると思っていた体調が、予想外に回復しなかったのが原因だ。母の帰宅を待ってようやく起き上がり、三人で鴨南蛮を食べていたら遅くなってしまった。家には親子揃って芳岡の車で送ってもらったから、自転車は月曜の朝に拾って行く予定だ。

「遅くなってすみません、お待たせしました」

「いいよー全然大丈夫ー」

 いつもの調子で明るく許す西杵の声に、ほっとする。

「いきなりなんですけど、推理が全部繋がったんです。御守の相手も、多分間違ってないと思います」

「えっ、誰?」

 増した音量に思わず引いたが、そうなるのは仕方ない。西杵にしてみれば、あとちょっとどころでもない距離からいきなりの終点だろう。

「私も穴がないか確かめたいので、順を追って説明しますね」

 断りを入れ、私が辿り着いた答えを少しずつ伝えていく。

 共田と坂尾の縁は中一から、私もそうだったが、おそらく私より遥かに相性が良かったのだろう。中二になり、共田は坂尾から教員採用試験を受けて養護教諭として働くつもりであると打ち明けられた。共田は坂尾の合格を願い、鵲寺で合格御守を購入して渡した。

 坂尾は無事合格して翌春北高へ赴任し、中三になった共田は坂尾のいる北高を目指し勉強に励んだ。そして今春、夢を叶えて北高で再会を果たした。もしかしたら共田が保健室登校を選んだのは、「クラスにいられなかったから」だけではなかったのかもしれない。

 あの日何が起きたのかは分からないが、揉めたのだろう。坂尾は共田に御守を返し、共田は泣きそうになりながら保健室を出て、山下に会った。

 「気持ち悪い」と言われたのが、とどめを刺したのかもしれない。傷ついた共田は階段を駆け上がり、途中で位坂と会う。しかし気づかれないまま三階へ駆け上がり、保健室の前を狙って三年一組を選ぶ。そして衝動のまま、御守を手に飛び降りた。

「……これ、想像以上にきついね」

「ですよね。私も全部が繋がったあと、ちょっと心身にダメージがきてしまって。休んでたので、遅くなってしまいました」

 受話器の向こうで、溜め息が聞こえる。西杵も同じように、現実に引き戻されて冷水を浴びせられたのだろう。

「それで、無理なら断って欲しいんですが、月曜日の放課後に保健室まで付き合ってもらえませんか。一人では、少しつらくて。位坂くんにも声を掛けようと思ってます」

「位坂くんかー。でも女子二人じゃ、何かあった時が心配だしね。いいんじゃない、ついてくよ」

 あまり気は進まない様子だが、女子二人の心細さが勝ったのだろう。坂尾が何かをするとは思わないものの、不安は減らしておくに限る。とりあえず、この話はもうやめよう。

「別件なんですが、うっかり先輩が適応指導教室に通ってたことを位坂くんに話してしまいました。ごめんなさい」

「いいよ、別に。馬鹿するような子じゃないしね」

「そうですね。『今普通に通えているなら良かった』って言ってました」

「そっか」

 位坂も少し含んだような答えだったが、西杵も似たような感覚だ。これは。

「先輩、もしかして位坂くんを振ったんですか?」

「なぜそんな話に」

「なんかこう、二人揃って『何かあった感』を醸し出すので。先輩美人だし、そういうことなのかなって」

「やっだーもー、今度なんか奢るー」

 ちょいちょいおばちゃんのような反応をするが、お世辞ではなく本当に凛々しくて美しい。美の基準がトーマスの私が言うのだから、間違いない。道着姿は見たことないが、きっとよく似合うだろう。

「でもね、そうじゃないの。私と位坂くんの間に何かあったわけじゃなくて、うちの道場でちょっとね。私はそのまま道場に残ったけど、位坂くんは小学校を卒業するタイミングで辞めたってわけ」

「そうだったんですか」

 予想と外れてしまったが、事情があるのは理解した。今はまだ、この距離感でいい。

「じゃあ、月曜日はよろしくお願いします」

「了解。でも、やっぱり無理だと思ったらやめればいいからね。知らない方が楽なことってあると思うし、事実って結構残酷だし知っちゃったら戻れないし……って何言ってるか分からなくなってきたけど。律儀に、自分から傷つく選択をしなくてもいいんじゃないかなってこと」

 積極的な印象が強い西杵の慎重な意見に、少し驚く。でも別に、おかしいとは思わない。目に見えるものが全てなら、西杵は私のようにつまずいてはいなかったはずだ。事実は、隠されたところにある。

「そうですね。ぎりぎりまで悩みます」

「うん。人が何言っても結局、決めるのは自分だからさ。納得いくまで悩むしかないんだよね。でもしんどくても、自分で出した答えなら腹は括れると思うし」

 もしかしたら西杵も、似たような経験があったのかもしれない。すんなりと受け入れられる意見に同意を返し、通話を終えた。

 あとは位坂だが、今日はもう遅いから明日にしよう。温もった携帯を机に置き、一息つく。十年近く付き合っている学習机には、鍵を掛けたきりの引き出しがある。鍵を開けるのは、いつになるだろう。五年後か十年後。死ぬまでには、いつか。

 出されたばかりの薬袋を眺めたあと、風呂へ向かった。

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