第14話

 『いいよー。道場が8時までだから、9時過ぎでよろしく』『了解です』

 約束をとりつけたのは、診察室に呼ばれる前だった。

「あれ、また落ち込んでる」

「あのあと、更に事実へ近づく情報が入って来て」

 そっか、と答えてトーマスは聴診器を手のひらで温める。大学病院の先生は冷たいままでも平気で当てるが、トーマスはいつもちゃんと温めてから当ててくれる。そういうところも、好きだった。

 いつものように、少し持ち上げたセーラー服の裾から突っ込まれた聴診器が肌に触れる。真剣な表情で音に集中するトーマスは、昔から特別好きだ。少し俯き気味に頭を傾げた顔は彫刻のようで、国宝を鑑賞している気分になる。眼福だ。

「先生は、小児科医以外の資格は取ってるんですか? 教員免許とか、カウンセラーの資格とか」

「その辺は持ってないなあ。カウンセリングは少し勉強したけどね」

 なんとなく尋ねてみた問いに、トーマスは問診を終えた聴診器を首に掛けながら答える。今日の白シャツはスタンドカラーで、いつもと少し雰囲気が違う。淡いグレーのカーディガンもよく似合っていた。

「スクールカウンセラーも、カウンセラーですよね。スクールカウンセラーの資格と教員免許って同時に取れるんですか?」

「スクールカウンセラーには教員免許みたいな必須の資格はないよ。まあ無資格で採用されるほど甘い仕事じゃないから、何かしらの民間資格は必要だろうけどね。同時に取れるかどうかは分からないけど、両方持ってるのはおかしくない。免許が主でカウンセラー資格が付属って感じかな」

 じゃあ坂尾は根っこが養護教諭で、スクールカウンセラーから戻ってきただけなのか。行き来できるなら、便利な資格だ。

「じゃあ教員免許があれば、スクールカウンセラーをしててもすぐ学校の先生になれるんですね」

「すぐかどうかは難しいけど、なれるよ。採用試験に合格すればね」

 採用試験か。ニュースで聞いたことはあるが、よく知らない用語だ。

「その試験って、教員免許を取るためのものですか?」

「いや、教員免許は必要な単位を取得して申請すれば取れるよ。でも学校に勤めようと思ったら、採用試験に合格しないといけないんだ」

「それって、大学四年生以外でも受けられるんですか?」

「四年生がメインだけど、大学院卒や社会人も受けてるよ。教員免許だけじゃ、たとえ学校に出入りしてても就職はできない」

 それなら、坂尾も受けたのだろう。昨年から北高で働いているのだから、一昨年か。……一昨年? 気づくと、丸椅子から立ち上がっていた。

 私は、大きな思い違いをしていたのかもしれない。

「先生、その採用試験っていつあるんですか?」

 煩く打ち始めた胸に、一つ大きく息を吐く。こめかみに汗が滲むのが分かった。

「調べれば分かるけど、いいの?」

 トーマスは私を物憂げに見上げ、密やかな声で尋ねる。私の身長でも、椅子に座ったトーマスよりは高い。見下ろしたトーマスの瞳は黒々として、長いまつげに縁取られていた。

「これで、私がすごく傷ついてまたしんどくなって成長が完全に止まったら、先生は『バカだな』って呆れますか?」

「呆れないよ。僕は小児科医だけど、ケガや病気をさせないように傷つかないように子供を育てろとは思わない。痛みや苦しみなしに育つ強さなんてないよ。子供のうちに、傷ついたらどうすればいいかを知っておくべきだ。自ら傷つくようなことをしても、受け入れてくれる人がいるってこともね」

 控えめに尋ねた私に、トーマスは慈しむような笑みを湛えて答えた。私がどんな傷を抱えても、母とトーマスだけは受け入れてくれる気がする。芳岡は多分、心配が勝つタイプだろう。でも、それが悪いわけではない。

「まあ志緒ちゃんを悪意で傷つけるような奴がいたら、容赦なく撲殺するけどね。私的制裁の禁止なんて、僕の前では意味を為さない」

「ですよね」

 苦笑で答え、再び椅子に座った。一つ深呼吸をして、胸を落ち着かせる。トーマスのおかげでまた、楽になっていた。

「今日は薬を出してください。で、調べてください」

 薬の予約をしたあと、頼む。トーマスは、うん、と答えたあと目の前のパソコンに向かった。

「パソコンで、調べられるんですか?」

「あれも公務員試験だから、県のホームページに載ってるんじゃないの?」

 そんな適当なことで大丈夫なのか。不安を抱きつつ、椅子を寄せて隣から画面を覗き込む。ほら、とクリックされたリンク先は、確かに県のホームページだった。

 しかも『公立学校教員採用候補者選考試験実施要項』と書かれたページからは、実施要項がダウンロードできるようになっている。

「ほんとに、こんな簡単に分かるんですね。希望者じゃなくても、すぐに調べられる」

 自分のような部外者が、まるで無関係な目的で覗いてしまうことには少し抵抗がある。しかしトーマスはためらいなく実施要項を開いた。

「出願が四月中、一次試験が六月後半、二次試験が八月下旬から九月上旬、合格発表が九月末、ってとこだね。大体、毎年こんなスケジュールなんじゃないかな」

 ほら、と指差された部分を身を乗り出して確かめる。大学入試みたいに年明けにあるような気がしていたが、全く違っていた。

 出願が四月で、一次試験が六月後半。私は知らされていなかったが、共田は知らされていたのだろう。

 あの御守は、共田が坂尾からもらったものではない。共田が坂尾に贈ったものだ。

――大丈夫、大丈夫だから。あの子はもう、どうしようもなかったの。

 坂尾は遺体を一瞥しただけで、共田だと言った。でも共田の顔は髪に覆われていたし、学年を教えるスリッパすら履いていなかった。それでなぜ、共田だと分かったのか。

 坂尾が飛び降りる原因を作った張本人で、かつ、自分が返した御守を見つけてしまったからではないだろうか。

 全てが、繋がってしまった。じわりと滲む涙を震え始めた拳で拭い、唇を噛む。

「大丈夫?」

「はい。全部、繋がりました。自分で始めたことだから、ちゃんと、自分で終わらせます。月曜日に、全部」

 震える声で決意を告げた私の頭を、トーマスの手が宥めるように撫でる。久し振りの感触だった。

「追い込まれた時に、バカなことをするのは子供より大人だ。本当は僕がついていたいとこだけど、友達に譲るよ。絶対に一人では行かないで」

 トーマスはもう、誰のことか分かっているのだろう。頬を伝う涙をまた拳で拭ったあと、幼い頃のように大きく頷く。

「先生、『大丈夫だ』って言って」

「大丈夫だよ。何かあればいつでも電話すればいいし、会いに来ればいい。僕はここにいるから」

 気弱な私の要求を受け入れ、それ以上のものを与える。トーマスはやっぱり今も、私の王子様だった。

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