ブルーヘル 2
人は、どこまでも残酷になれる。
自分のせいで誰かがいなくなっても、気づかない。
――だからわたしは。
◇ ◇ ◇
「ゆづき?」
中学二年生の
声の主が誰かは分かっているが、気づかないふりをし、早歩きで図書室へと向かう。
「ゆづきでしょ? ねえ!」
底抜けに明るい声。
学年で二十位以内の、優等生。
くっきりとした二重で、小顔。色白で、胸も大きい。
バスケ部で、スポーツも万能。
――それが、声の主である
この学校は、愛莉を中心に回っている。
そう錯覚させるほどの中心人物であり、柚月の幼稚園からの幼馴染でもある。
「いやだ。いやだ。関わりたくない」
足早に歩く柚月から思わず漏れる独り言が、届いていなければいいが。いや、届いた方がいいのか。
小学五年生くらいからだろうか。
『一軍』と呼ばれる女子たちと自分との間に、大きな隔たりができ始めた。
見た目。家庭環境。持ち物。性格。
何が基準なのか、ハッキリとは分からないが――恐らくは見た目がほとんどを占めている、目に見えないラベルをお互い勝手に貼り始めた。
それからは、そのラベル分けが学校内での
スクールカースト。大人が名付けたそんな単語は、ピンと来ない。ただただ自分が下の方にいる、ということだけ分かる。
表立って何かをされるわけではない。
ただ教室にいるとチロチロ見られては「くすくす」「だっさ」「暗~」と言われている、
廊下でわざと肩をぶつけられたり、ゴミを見るような目で見られたり、雑用を押し付けられたり。
愛莉は、そんな柚月に変わらず接する。助けるわけではなく、淡々と。ただの憐みと、『平等に接してやっている』という、自己満足。柚月は、そんな風に感じている。
――ああ。私は、底辺だ。
すとん、と胸に落ちてきたその評価が、毎日真綿のように首を絞めていく。ゆっくりと、死んでいく。じわじわと何年もかけて、死んでいっているのを実感する。
ブサイクで、勉強もスポーツもできない。家は貧乏。性格は根暗。
勉強はもちろん努力したけれど、要領が悪い。ブサイクはどうにもならない。家も性格も、どうにもならない。
親ガチャなら、はずれだ。人生も、何もかも、はずれ。
そう考えながら歩いているうちに、いつの間にか、愛莉の気配はなくなっていた。
夏休みの図書室(受験生の自習用に、自由解放されている)に逃げ込んで、読みかけの分厚いファンタジーの本を開く。
狭くて古い家にも、居場所がない。祖母が認知症を患っていて、パートの仕事と介護で疲れ果てている母がいつもイライラしている。
お金もない。街で適当なオヤジに体を差し出して稼ぐ勇気もない。そもそもブサイクは需要がないだろう、と考えることすら傷つく。学校の外でだって最底辺。どこにも居場所がない。息ができない。
――なら、これを授けるよ。一日、一ページ。中身を全部、埋めてごらん。その代わりに君は●●を失うけれど。
夏休みに入ってすぐ。田舎にある祖父の墓参りをした時の記憶は、なぜかところどころおぼろげだ。
思い出せるのは、青く長い髪をかきあげる、息を呑むような美しい男の微笑みだけだ。青い髪の異質さを吹き飛ばすほどの、圧倒。ソレに出会ったのは私だけだ、という優越感すら引き起こさせる、絶対的な存在に思えてならない。
キーンコーン、カーンコーン。
下校を促すチャイムが鳴った。
「もう? 早い……」
ここに居ると、時間の経つのがあっという間に感じる。このままここに居たい。
が、見回りの先生――三年の国語教師で酒井という、眼鏡をかけて飄々としていて、苦手な部類――に「そろそろ帰りなさい」と促されるのも嫌だ。
図書の本の下に隠すように置いてある、古い一冊のノート。
恨みや恨み、そして恨み。
書きなぐった血みどろの、柚月の心が全て、その中に在る。
◇ ◇ ◇
――ちょっと、日直当番。
やっといてくれないかな? 私今日塾あって。
――やべえ~今目ぇ合った? こっわぁ〜
てかなにあの顔、ニキビ? きたねー
――真面目そうなのに勉強できないとか、終わってるよな。
――月って名前付く子って、可愛くないとダメなんじゃないの?
――あんなんで愛莉の幼なじみとか、嘘でしょ?
――みんな、そんなこと言ったらダメだよ。
――かえりたくない
――かえりたくない
――かえりたくない
――かえりたくない
――かえりたくない
――かえりたくない
◇ ◇ ◇
「こんにちは」
臨時の事務員という女性――カスミ、という苗字らしい――が、入り口のカウンターの中から珍しく柚月に声を掛けてきた。
きっちりと身に着けている白いブラウスと黒いジャケット。ボタンがしまっているのが不思議なくらい大きなバストに、男子生徒たちが夢中になっているのを小耳に挟んだことがある。今目に入ったそれに対して、『バカみたい。あんなの邪魔だし、ただの脂肪じゃん』と柚月は心の中で悪態をつく。
「……」
結局その挨拶には答えず、無言で頭を下げ、定位置の自習席へと向かった。
一階にある図書室の、窓際。一席ごとにパーテーションが設けられている席からは、にごった池と、その横のひまわり畑が見える。皆背が高く、皆太陽の方向を向いているその様に、柚月は嫌悪感しか感じない。
その奥には古びたブロックを積み上げただけの、用具倉庫。錆びた鉄扉には南京錠が付けられていて、おそらく今は使われていない。
絵具で塗りつぶしたような青空と、綿菓子のような雲、そして風で揺れるひまわり達が、柚月の視覚にささやかな夏と孤独をもたらしている。
――ああ、帰りたくない。なにもかも、なくなってしまえばいい。
いつも通りノートにひたすら、書きなぐる。
胸が大きいだけでチヤホヤされる女なんて、死んでしまえ。
可愛い子なんて、みんな死んでしまえ。
勉強なんて、意味がない。
なんで私ばっかり辛いの。
なんで。なんで。なんで。
鬼になりたい。
みんな地獄に落としたい。悪者ばかりだ。
落ちろ! 落ちろ! 落ちろ!
シャープペンシルを握る手が、震える。
最後のページ、最後の一行を、書き終わったからだ。
「終わったよ。さあ。私を、鬼にして?」
――ウクックック。いいね、いいねえ。恨みで埋まってるなぁ。
頭の中に響く、くつくつと笑うその特徴的な声を、覚えていた。
「鬼にしてよ」
――急がないで良いさあ。仕上げしなくちゃね。
「しあげ……?」
じわ、と手の下のノートが熱くなる。
驚いて手をのけると、ぱらぱらと勝手にめくれて裏表紙が現れ、そこに『酒』の文字が浮かんだ。
「あつっ」
途端に、むせかえるような芳醇な香りが漂って――柚月は意識を失った。
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