花は誘(いざな)う 後
「あーこりゃ……なるほど、対処しねぇと戻れなくなるなあ」
天の言葉は、ふたりを焦らせるに十分だった。
「俺、運転します」
「おお。まだ大丈夫だぞカナト、落ち着け。ハヤテくんも乗んなあ。ミルクは元気かあ?」
「っ、はい」
便利屋ブルーヘブンのロゴ入り軽ワゴンを路肩に止め、小走りで迎えに来た天は、まず苦笑した。
大学正門まで羽奈を支えながらやってきた奏斗と颯が、とてつもなく目立っていたからだ。なんだなんだ? と振り返る学生たちの中には、咄嗟にスマホを掲げる者もいる。
「他人の不幸撮って、何になるんだかなあ」
天はあきれつつも
そうして後部座席に乗せた羽奈は、ぐったりと
「ハヤテくんの言った通りだったねえ」
「……っ、羽奈……」
辛い記憶を封じるために、自分とは異なる人格を形成することがある、ということは有名だ。
俗にいう、多重人格である。
中学三年の時、ひどいイジメに遭った羽奈にも、人格分離が起こった。ただ羽奈はどうやってか、記憶ごと分離した別人格を、生き霊のごとくそのまま肉体からも出した。それこそが、天に憑いていたモノの正体だ。
羽奈の実家の両親に話を聞いた天(
一方颯は、羽奈とゼミで再会したことで、また過去と同じことが起きるのでは、と懸念した。そこで、一部界隈で『不思議な出来事を解決してくれる』と噂の便利屋に、犬の散歩を依頼する形で接触を試みたのである。
スーパーへ買い出しに行く奏斗を見かけていた颯は、羽奈と学内のカフェで一緒にいるのを見て驚きつつも、「彼女を守って欲しい」と改めてブルーヘブンに依頼してきた。奏斗は『胡散臭い』と難色を示したが、天が受けると言い切り、今に至る。
「自分で自分を取殺したら、世話ないぜぇ。ハナ、も少しがんばれえ」
「と、とり、ころ、す……て」
愕然とする颯に、
「くっそ!」
だんっ、と思わずハンドルを叩く奏斗。
「カナト! 大丈夫だ。ちゃんと運転しろ」
「……すんません、天さん」
「いや、お前はよくやってたさ。蓮花は
苦悩の表情で、車の天井を仰ぎみる巨体が、ある名前を吐き出した。
「シオンに頼るしかねえか」
「あー……俺が働きますんで」
「だなぁ。三店舗ぐらいで済んだら良いけどな」
「え?」
大のスイーツ好きな猫又のシオンは、報酬代わりに行列スイーツを
天は、羽奈を支えているのとは反対の手で、お尻のポケットからスマホを無造作に取り出し、慣れた手つきで何度かタップした。
「あ、もしもし、シオン? 今さぁ、自分の生き霊で死にそうな子が居てさぁ」
スマホのスピーカーはオフのはずだが、ギャンギャン喚く声が運転席まで漏れてくる。天が思わず耳を押さえてスマホを離してから、険しい顔でまた耳にあてるのを、奏斗はバックミラーで見ていた。
「分かった、分かった! 奏斗が並ぶって……は!? 俺じゃないとダメって、なんでだよ!? ……あー、そうだなそうだな、その通りだな! 分かったって。じゃ、ねこしょの裏連れてくわ」
たん、とタップして通話を終わらせた天が、深く長い息を吐く。奏斗がちろちろバックミラー越しに気遣った目線を投げる。
「天さん、大丈夫すか?」
「猫又が、大天狗をこき使うってのが肝要なんだと。俺様直々に、ロールケーキとメロンパンの有名店行ってこいとのご命令だ。二店舗ならまだマシかあ」
「あー……」
「ねこ……また……だい、てんぐ?」
「気にするなハヤテくん。ただのあだ名だよ」
ねこしょカフェの店主である
◇ ◇ ◇
軽ワゴン車は、それから三十分ほどでねこしょカフェの裏口に着いた。一台だけの砂利敷駐車スペースに、いつも止まっている軽自動車がなかったので、停めさせてもらう。
と、砂利の音で気づいたのか、シオンが出てきた。
琥珀色の大きな目を釣り上げて、両腕を組んでいる。どう見ても十五歳くらいの、整った顔立ちをした銀髪の少年だ。
「ちょっと! ……結構ヤバいじゃんか!」
怒るつもりが、状況を見てやめたらしい。玄関扉を大きく開いて手招いた。
「こっち、連れてきて!」
天が後部座席から、ぐったりした羽奈をお姫様抱っこで下ろし、連れていく先は――ねこしょカフェの裏側にある居住スペースだ。
颯も羽奈と自分の荷物を持って、それに付き添う。
「……羽奈さん!」
運転席から降りてドアロックしながら、奏斗も追いかけると
「カナト、……なんともない?」
シオンが全員を迎え入れ、バタンと玄関扉を閉めながら真剣な眼差しを向けてきた。
「え?」
「良い香りがしたり、醜い感情が湧き上がったりしない?」
「いや……今のところは」
「なら大丈夫だね。ボウルに氷たくさん入れて、持ってきて。キッチンはそこ。奥の突き当たりの部屋に居るから」
「はい!」
――シオン……まさか!
――うん、天。
――僕は、どんなことがあっても見届けます。
ねはんこう? と首を
冷蔵庫の製氷庫から、手づかみで氷をザカザカ入れる。いくつか床にコン、コン、と落ちたが、拾っている暇はない。
廊下に出ると、
「ぎぃやぁあああーーーーー!」
と、この世のものとは思えない悲鳴が聞こえた。
「ああ、ああ、熱い! 熱い!」
奏斗が部屋に飛び込むと、床に横たえられた羽奈が目を閉じたまま、汗びっしょりで暴れていた。天が膝立ちで、後ろから上半身を羽交い締めにしている。颯は片膝を突いた姿勢で、懸命に足元で羽奈の両膝を押さえながら、その顔を心配そうに覗き込んでいる。
シオンが奏斗に手招きをした。
指示通り、シオンの横にボウルを突き出すと、シオンはボウルに手を突っ込んで氷をぐるぐる掻き回し、盛大にガラガラと音を立ててから、
「
と朗々とのたまった。
それから両の手のひらに乗せた氷をゆっくりと羽奈の眼前に持っていき、
「
スラスラと言ってから「ふー」と吹く。
冷たい空気が羽奈の前髪を巻き上げる。
「ほら、もう大丈夫。煩悩の火なら、消えたよ」
不思議と、手のひらにあった氷が煙のように消え羽奈へ吸い込まれていく。
何度も繰り返す、シオンの低く穏やかな声で、羽奈は徐々に眉間をゆるめていった。
「なるほどね。この香り……鬼に魅入られたかな。ほら、天」
ふう、とシオンの吐いた息が、羽奈越しに天に届くと
「! ……微かに
珍しく天が、こめかみにぼこりと青筋を浮き立たせ、怒りを露わにした。
――すかさずシオンが身を乗り出し、天の鼻を手のひらでバチン! と叩く。
「あだっ! つめたっ」
涙目の天が、すぐに感謝と抗議でごちゃ混ぜの顔をする。うっかり鼻が伸びかけていたにしても、やりようがあるだろう、と。
「ふむ。だからカナトは平気なんだね」
だがシオンは意に介さない。
「え?」
「なるほどな」
天とシオンの話を、奏斗と颯は理解できていない。
「たまにある話なんだけどね」
それを見てとったシオンは、羽奈が苦しげに呻く度、氷を掴んで何事か唱え、ふーと息を吐くことを繰り返しながら、語った。
――人間を、この世のものでない
中には「とても良い香りがして、誘われた」と証言する者たちがいる。
苦しみから解放してくれるような、芳醇でそそられる、表現しがたい良い香り。
だがハッと我に返ると、駅のホームから線路へ飛び込む寸前だったりする。
その香りをシオンたちは「涅槃香」と名付け警戒しているのだと言う。生命の火を消す香り。そしてそれは悟りの境地などではなく――
「お釈迦様なら
シオンが語った『事実』は、颯に絶望に近いものをもたらした。
「つまり、羽奈は人を死に誘う香りを発している? そういう、ことですか!」
「僕も驚いたよ。君が近づくと、香りを放つみたいだね。彼女はそれを悪しきものとみて、香を植え付けられた魂ごと分離して、効果を弱めているんだ。だから死には到らず、煩悩を吐き出させる香り、ぐらいかな……ただもう、魂の限界が近い。だからきっと天に助けを求めたんだね」
「そうか。あの生き霊はそういうことだったか」
羽奈の恋心でもって芳醇な香りを放つ涅槃香。
颯を誘う香りは同時に、颯に好意を持つ者たちをも
そうした周囲は、颯の好意を少しでも自分に向けるため、悪し様に羽奈を
「僕が近づくと……トリガーって、そういう……」
がくりと力の抜けた颯の代わりに、奏斗が聞く。
「っ……これはもう、どうにもならないんすか?」
「いんや。俺が
天が、キッパリと断言した。
「じゃないと、ハナは死ぬ。酒呑の野郎、人間に香を植え付けるたぁえげつねぇ真似しやがって……ハナに『魂分離』能力があったから、香が弱まって誰も死ななかったし、ハナ自身も生きながらえてた。この子はすげえよ、他人のためにそこまで……なかなかできることじゃねえ。ま、あいつの仕業って分かれば、大丈夫だ。この天さんに任せとけ」
天の言葉を受けるや、シオンが立ち上がって、奏斗と颯を部屋から出るよう促す。
その有無を言わさぬ態度に負けて、素直に従う二人の焦りと戸惑いは、シオンの
「カナト。天はきっと二、三日起き上がれなくなる。お世話宜しくね」
というどこかのんびりとした言で、
――バタン。
扉を閉じて、いくらも経たないうちに。
廊下に出た三人の耳に『ゴオッ!』と大きな風が渦巻いたような音がし、静けさが戻る。
「うん。終わったみたいだね」
「まじすか」
「あの! 早くないですか?」
部屋に入ろうとするシオンを、颯は慌てて止める。
「大丈夫だよ。大天狗の
ポカンの二人を置き去りにシオンが無遠慮に扉を開けると、スヤスヤと穏やかな顔で眠る羽奈の横に、汗みどろで大の字になっている天の姿。完全ノックアウトそのものだな、と奏斗は駆け寄って心配そうに覗き込む。
一方シオンは、面白そうな顔でその背を扉近くの壁に預け、両腕を身体の前に組んで天を見下ろしている。その背後に、揺れる二本の尾が見える気がするのは、気のせいだろうか。
「んふふ。久しぶりだもんね。見たかったなあ~! 大丈夫? 天」
「うがー、しんど!」
「その様子なら大丈夫そうだね。おつかれ」
◇ ◇ ◇
「これみよがしに気配漂わせてんじゃねえよ、
床の上で苦し気に呻く羽奈を見下ろし、天は
長く伸びた鼻、赤い肌、怒りをにじませたその面は、大天狗そのものだ。
「なあに考えてやがる」
人間を
封印されて大人しくしていたはずが、
「
ふるった羽団扇は、たちまち常人には見えない風を巻き起こした。
――いよぉ、大天狗。ひさーしぶりだな~! こんなのは、ほ~んの挨拶さ~。ウクックック。
人間をその顔と甘言で骨抜きにして、魂を
「……失せろ」
それはやがて、ごう! と舞い上がる羽団扇の風に巻き込まれて、みるみるかき消えていく。
聞きなれた笑い声が、いつまでも天の耳の奥に響いていた。
◇ ◇ ◇
「色々、ありがとうございました」
輝く笑顔で手をつないだ羽奈と颯が、便利屋ブルーヘブンを訪れた。
颯の傍らには、尻尾を振るゴールデンレトリバーのミルク。黒く濡れた優しい瞳で、奏斗を見上げている。
「表立ってあんな風に悪口言われること、もうなくなりました。奏斗くんのお陰です」
颯と奏斗で話し合い、あの大学のカフェでの説教が効いた、ということにしたのだ。『羽奈に付きまとっていた颯のストーカー』も、天と奏斗とで追い返した、という筋書きである。
「それはよかったっす。すんません、天さん風邪で寝こんでて」
「そう、ですか……あのこれ、お約束の報酬です!」
「あ、僕も!」
二人から差し出された茶封筒を、奏斗は両手で受け取った。
「ご利用、あざっす」
「こちらこそ、ありがとうございました。またお見舞いに来ます」
「本当に感謝してます」
「うっす」
レトロなアーケード商店街を、仲睦まじく歩いていく二人の背中を、奏斗は見送る。
――蜜のような涅槃香。別名、酒呑童子の気まぐれ。
気まぐれとはいえその力は絶大で、人間に悪しき影響を及ぼしてしまう。
颯への想いで発動してしまうそれに他者を巻き込むまいと、生き霊を作ってまで必死で抑え続けていた羽奈。天もシオンも「相当苦しかったろうに……鬼すら凌駕する恋心とは、すごいなあ」としきりに感心し、颯が号泣していた。
そんな颯は、落ち着いてから改めて羽奈に交際を申し込み、OKしてもらった! と、事前に奏斗に連絡をくれた。奏斗の返事は『うっざ。おめ』だ。颯のことがいけ好かないのは変わらないらしく、あまりのつれないトーク画面に、天が「おまえぇ、そんなんじゃ友達できねえぞお」と割と真剣に心配していたのは余談である。
「恋、かあ」
「お? 奏斗もついに興味出てきたか」
店内に戻った奏斗を、いつの間にかいつものパイプ椅子に座って新聞をめくる天が、からかった。
「天さん。挨拶すればよかったのに」
「照れるからいーの。それより、恋はいいぞぉ。奏斗もいつか、めぐり合えたらいいな」
「怪異も鬼の血も吹っ飛ばせるような人なんて、現れる気がしねーっす」
「まだわからんぞぅ」
――ちりりん。
と、ドアベルが鳴る。
「あのぉ……」
「いらっしゃい~」
「何かお困りですか?」
便利屋ブルーヘブン、本日も営業中です。
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お読み頂きありがとうございました。
香りに誘われて線路や踏切に飛び込む――というのは割と有名なお話だったりします。
人間追いつめられると、死の
(涅槃香は、フィクションですが)
三法印など、作者は素人です。
フィクションということで、解釈の違いや誤った知識など万が一ございましても、許容頂ければと思います。
ご容赦のほど宜しくお願い致します。
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