第3話 第三章

 秋も深まった頃、まわりの紅葉はすでに散りかけて、木枯らしを感じ始めていたそんな夕方、消え入る前の夕日は、必死にその存在を示すかのように海面を照らしていた。

 小高い丘の上にある墓地に、一人の女性が何も持たずに墓参りに来ていた。年齢的には二十歳代前半というところだろうか。まじまじと墓前を見ているが、焦点が合っていない。墓碑銘を見ているように見えるが、墓碑銘に描かれている字はすでにかすんでいる。この墓がいつ作られたのか、かなり古いものであるのは間違いないようだ。

 大理石で作られた墓ではなく、墓石としては粗末なもので、数十年でもこれくらいに朽ち果ててしまうもののようだ。

 墓碑銘に書かれている文字は、

「松倉樹里」

 行方不明になってそのまま七年が経ち、そのまま死亡してしまったことになった樹里の墓である。もちろん、中にお骨は入っていない。

 まるで無縁仏のようだ。本人は死んでいるということなので、本当に葬られた場所は違うところにある。墓参りに来た女性はそのこともよく知っている。それでもこの場所に来たということは、短い間だったとはいえ、この土地で生まれ、幼少を過ごした場所だったからなのかも知れない。

 彼女は墓に参ると、おもむろに立ち上がり、踵を返してその場を去るかと思われたが、目の前に広がる海を見ていた。眩しさに目を奪われながら、微動だにせず立ちすくんでいる。その先に見えるのは、「くじら島」であった。

 彼女は樹里が「くじら島」で過ごし、そこで葬られたことを知っている。この場所からくじら島がどのように見えるかを見てみたかったというのも本音であった。

「あんなに小さく見えるんだ」

 と、彼女は独り言ちた。

 くじら島には今でこそ、何もない小高い丘に気が生え揃ってしまっていて、人も住めないような島になってしまったが、以前は軍需工場があり、その跡地に樹里が住んでいた。

 樹里がそこに住んでいたのは果たして偶然だったのだろうか?

 樹里は、家に帰りたくないと言っていたが。その理由を誰も知らない。いや、もし知っているとすれば、他ならぬ両親と、祖父母だったのかも知れない。

 樹里の家は、田舎街でも昔からの旧家で、「血のつながり」というものを大切にする家庭だった。

 今でも樹里の両親は、

「樹里には気の毒なことをした」

 と、心の中で思っている。だが、それもすぐに打ち消した。あまりにも年月が経ちすぎていたからだ。父親はそれでいいと思っているが、母親にしてみれば、月日が経つことで事実が風化されてしまい、自分がそれで許されると思ってしまうことに対して許せない気持ちになっていた。

 彼女の脳裏には、こんな光景が浮かんできた――

「これは仕方がないことなんだ。松倉家を守るためだったんだからね」

 と父親がいうと、すすり泣いている母の後ろから祖父母が現れて、

「そうじゃ、これはわしらのずっと前のご先祖様たちから受け継がれてきたものであって、そのためには修羅にもなろうというもの」

 母は半狂乱になり、

「それじゃあ、人一人の人生なんて、どうでもいいっていうの?」

「そうじゃ、それがわしらの仕事でもあり、運命なんじゃ。これを受け入れなければ、松倉家だけではなく、このあたりの秩序のバランスが崩れて、わしらの想定外のことが起こったりする。そうなれば、どうしようもなくなるのじゃ。もう、我々だけの問題ではなくなるんだ」

「それじゃあ、あまりにも樹里が不憫で……。あの娘はある程度のことを分かっていたのかしら? それとも私たちにバチが当たったのかしら? そのために樹里一人が犠牲になったということよね? そんなの許されないわ」

「今さら言っても仕方がない」

 祖父のその言葉に母親はキレた。

「じゃあ、敦美はどうなるの? あの娘は、樹里の生まれ変わりのようなものだって思えっていうの?」

「そんなことは言っていない。ただ、敦美が生まれたことは、わしらにとってはありがたいことじゃった」

 松倉家では、敦美が生まれる前、つまり樹里が死んだことになって葬儀を上げる頃、養子として一人の女の子を貰い受けていた。その女の子は樹里の代わりとされたのだが、敦美が生まれたことで、今度は他の家にさっさと幼女に出されたのだ。

 彼女は決して表に出ることはなかった。ある意味では樹里よりも気の毒だった。樹里がもしそれを知っていたとすれば、彼女に悪いという気持ちを残したのかも知れない……。


 くじら島を見ながら、彼女は松倉家の事情を思い図っていた。

「私が彷徨っているのは、そのせいなんだわ」

 このことに気付いたのは最近のことだった。松倉家でも一部の人間しか知らないことだったのだが、なぜか知っている人がいた。その人は、何と敦美だった。

 敦美は誰かにそのことを聞いたようなのだが、誰から聞いたのか、もし知っていることが他の人に分かり、問い詰められたとしても、話すことはないだろう。それが約束であり、もし約束を破れば、敦美は袋小路から逃れられないという自覚があった。

――袋小路とは一体何なのか?

 ということまで敦美は自覚していなかった。

 ただ、それを通り越して敦美の中で、

「もし、死んだとすれば、成仏できずに、現世を彷徨うことになってしまうんだわ」

 という思いを抱いていた。

 その根拠は、敦美には感じるからである。自分のまわりに現世を彷徨っている霊がいて、自分を守ってくれている人がいるということを……。

「その人には守るべき人がいるけど、私にはいないわ。だから彷徨うとすれば、何もできずに、ただ彷徨っているだけ、そんな自分になりたくない」

 と思っている。

 くじら島を見ながら墓参りをしていたのは、樹里であった。

 樹里は自分が死んでしまってもあの世に行くことができず、現世を彷徨っていることを知っている。そして、現世という概念としては、規則正しく刻まれていく時刻というものはないのだ。

 時系列が存在しているわけではないので、自分の思いは、いかなる時代をも行き来できるという能力があった。ただし、それは自分が関わった人間に対してだけのものであり、決して自分に関わりのない人の前に出ることも、垣間見ることもできない。あくまでも一つの時間としてはごく限られた世界しか見ることはできないが、時間という概念ではそのすべてを網羅することができる。

――これって能力なの?

 関わりのない人が見えないというのは、実に世界が狭く感じられる。もし、実際に生きていれば、まわりが見えていないのと同じであろう。

 樹里は生まれた時から、他の人にはない能力を持っていた。出生自体が他の人とは違うという意識があったからなのかも知れないが、最初から歯車が狂ってしまったことを意識したまま生まれてきたようなものだった。

 樹里が家にいたくないと思ったのも、すべては生まれてきた時から、いや、母親の胎内で生を受けた時から決まっていたことなのだ。

 人間は運命のままに生きていて、運命に逆らえないという思いは、樹里に関してだけのことではない。しかし、それも現実社会の中の歯車通りに動いていれば。疑いようのないその人の人生。それが最初から決まっていたなどという意識はない。なぜなら、人間は発展性のある動物なので、運命が決まっているということを、認めたくないのだ。認めてしまえば、その先がないことを誰もが自覚していながら、それを口にしようとはしない。タブーが多いのも、発展性のある動物にとっては宿命のようなものなのかも知れない。

 そのことを理解しようとしても、どうしても頭の中で整理できないのが敦美であった。彼女は発想の入り口まで来ているのに、入る勇気がない。それは姉の運命を自分が引き継いでいるという意識があるからで、

「私の勇気を誰かに取られてしまったのかも知れないわ」

 と思っていた。

 もし、勇気を取ったとすれば、それが樹里から取ったという意識はないが、誰かから勇気を取ったという意味で意識がある人物がいた。それは麻衣であった。麻衣は自分の運命に樹里が関わっていることを知っているが、樹里が何に苦しんでいるかということまで知りながら、どうしても、同じ土台になって考えることができなかった。やはり血のつながりがないからだ。

 しかし。血のつながりという意味では、敦美がいる。まるで樹里の生まれ変わりのような敦美は、発想はできるところまで来ていた。まったく面識のない敦美と麻衣、二人を結びつけるカギは樹里であり、ひいては茂だったりする。茂は自分で自覚はなかったが、彼には樹里と切っても切り離せない関係にあるのだ。そのことを樹里は知っていて、茂は事実としては知らないまでも、ウスウス何かおかしいという思いに至っていた。だから、樹里のことが頭から離れないのだが、それを恋心だと思っている限り、いつまでも交わることのない平行線を描くことになる。それを制御しているのが、麻衣だったのだ。

 そういう意味では茂の立ち位置は曖昧だ。まわりから制御されているが、樹里に関しては大きなキーを握っていることになる。


 由梨は最近、母親に反抗するようになった。

「どうして、あなたはそんなにお母さんに逆らうの?」

「だって、お母さんの言っていることって、分からないもん」

 由梨は今年八歳になる。まだ小学生の低学年だ。確か樹里がいなくなったのは、同じ年頃だという。敦美はそのことをずっと意識していた。八歳になってから意識し始めたわけえではない。ずっと前から意識をしていたのだ。

 由梨の八歳の誕生日、まわりは盛大にお祝いしてくれた。しかし、母親一人顔が引きつっていたのを、まわりが気付かないわけではない。盛大にお祝いしていたとしても、心の中では誰もが樹里のいなくなった年になったのだと、意識をしていたからだ。

 なぜそんなに意識をするのかというと、やはり由梨がおばさんである樹里に似てきたからであろう。

 そのことを一番意識していたのは、祖母だった。

 祖母は、敦美と樹里にとっては母親である。そして、一番由梨を可愛がっているのも祖母だった。

 今から思い出すことは樹里がいなくなったことよりも、敦美を産む時のことの方が数倍意識としては大きかった。

 樹里がいなくなった時は、相当のショックを受けたのには違いない。それでも七年という時間は、いなくなった人間を意識の中で封印するには、十分な時間だったようだ。樹里のことを封印した祖母は、敦美がまるで樹里の生まれ変わりではないかと思いながら、苦しみに耐えて生んだのだ。

 いくら意識に封印したとはいえ、葬儀には、どれほど昔のことを思い出させたか分からない。その時に敦美を産んだという事実が、頭の中に交錯し、意識の中でどうしても樹里を消すことができないところを作ってしまった。

「私はあの世まで樹里を持っていかなければいけないんだわ」

 と思いながら、それでもあの世で樹里に出会った時、持って行った樹里が消え去るのを想像した。そして、年月が経過し、敦美が生んだ由梨が、樹里の生まれ変わりだという意識を持ったのは、生まれてきた由梨の泣き顔を見たからだった。

 名前を由梨としたのも祖母だった。

 その時の敦美に、祖母に逆らうことはできなかった。由梨を産む時に、自分が生まれてきた時のことを意識しないではいられなかったからだ。

 祖母に対しての感謝の気持ちというよりも、姉の生まれ変わりのように感じていたにも関わらず、自分が姉とは似ても似つかない育ち方をしたことで、後ろめたさがあったのだ。そういう意味では自分の娘を、またしても姉の生まれ変わりのように見ていたことに逆らうなど、できるはずもなかった。

 しかも、実際に由梨が樹里に似てきたことも事実だった。名前が似ていることで、由梨を樹里の生まれ変わりのように意識したのが祖母であり、名づけの親も祖母であることに気付いた人も中にはいただろう。松倉家は元々が旧家であった。年長者に逆らうなど、昔からできるはずもなかったのだ。

 由梨が敦美に逆らうようになったのは、学校で友達の視線に違和感を感じ始めてからのことだった。今までは、

「おはよう」

 と挨拶をすれば、

「おはよう」

 と返ってきて、一緒に学校までの道を歩いたものだったが、今は挨拶をしても、返事が返ってくることはなく、若干見つめられたかと思うと、すぐに視線を逸らす。その時の表情があまりにも無表情なので、由梨はドキッとしたが、その理由を考える暇もなく、顔を背けられる。それからは、話しかけられる雰囲気ではなかった。

 それはクラスメイトだけに限ったことではなかった。学校の帰り道にある商店街で、気さくに声を掛けてくれた人たちが、由梨の顔を見ると、やはり同じように数秒無表情で見つめられ、視線を逸らす。一体何があったのか知る由もない由梨だったが、実際に何かがあって由梨に対しての視線が変わったわけではない。理由を探そうとするのは、最初から無理なことだったのだ。

 由梨は、自分のおばさん、つまり樹里が自分の年ごろに失踪してしまったことを最初は知らなかった。だが、そのことを教えてくれる人がいた。その人は、今までに見たことのない女性だったが、お母さんよりもまだ年上の女性で、彼女が由梨の前に現れたのは偶然ではなかった。

 それまで家族の墓参りなどしたことがなかった由梨だった。家で仏壇に手を合わせることはあっても、誰の位牌なのか、まだ小さい由梨に分かるはずもないし、話をして理解できるはずもなかった。

 そんな母が、早朝いつも墓参りをしているのを知ったのは、八歳になってからだった。八歳になるまでは、母と一緒に寝るよりも祖母の部屋で寝ていた。母も祖母と一緒に寝ることを嫌がっているわけでもなかったし、由梨も祖母のことが好きだったので、一緒に寝るのが嬉しかった。

 しかし、八歳になってから急に、

「由梨ちゃんは、これからはお母さんと一緒に寝なさい」

 と言われ、仕方なく、寝所を今までの祖母の部屋から、母の部屋に移した。

――こんなに寂しいものなのかしら?

 祖母は何かというと、由梨に話しかけてくれて、会話のない時間は、眠ってしまってからしかなかったのだが、母の部屋で母と一緒に寝るようになると、お互いに遠慮してなのか、どちらから話をするともなしに、時間だけが過ぎていく。しかも、会話のない時間が凍りついてしまっているので、時間は流れるというよりも、何かに押されてゆっくりと動いているという意識しかない。

――ここでは時間は自分から動くことはできないんだ――

 という思いを抱くことになった。

 由梨は祖母と一緒に寝ていて、会話が途切れることはないとはいえ、話題のすべては祖母から出てくるものだった。祖母はそれで満足していたが、由梨も昨年くらいから、自分からも話題を出したいという思いになっていた。しかし、さすがにまだ七歳の女の子が祖母に対しての話題など出てくるはずもなかった。

 そして、ある時、

「おばあちゃん、私、この間ね、商店街に行った時に、声を掛けられたの」

 由梨が声を掛けられるというのは、街の人間しかいないはずであり、街の人間は、祖母の勝手知ったる人たちばかりなので、別に心配はしていないが、その時の話で、由梨が言うには、まったく知らない人だったと答えると、少し表情が変わった。

「それはどんな人だったんだい?」

「お母さんくらいの女の人だったの。『由梨ちゃんなの?』って聞かれて、『はい、そうです』って答えたの」

「その人は、他に何か言っていなかったかい?」

「何も言わなかったけど、一言、『懐かしいわ』って言っていたわ。私はその人を知らないのに、懐かしいというのもおかしなことよね?」

 まだ幼女の由梨に祖母の違和感がどんなものなのかを想像することなどできるはずもなかった。

 その女性が麻衣であることを知っている人は誰もいなかった。麻衣がどうしていきなり由梨の前に現れたのか、それは由梨が行方不明になった八歳になったからではなかった。他に理由があったのだが、得てしてそれがちょうど由梨が八歳になってからだというのも、実に皮肉なことである。

 麻衣は由梨の前に現れて、目に涙を浮かべた。本当は由梨に会うつもりはなかった麻衣は、自分の運命を思い浮かべながら由梨を見ることで、思わず、

「ごめんなさい」

 と口走った。

 それは由梨にも聞こえないほどの声だったが、由梨には麻衣が口走った言葉が何であるか分かったようだ。

 ただ、それが由梨に対してではなかったことは、由梨には分からなかった。麻衣自身も自分が何かを口走ったという意識が最初からあったわけではない。後になって我に返った時に言葉を発していたことに気付いたくらいだ。

 言葉の相手は茂に対してだった。茂の何に対しての言葉なのか、その時の麻衣には理解できなかった。それほど、その時の麻衣は冷静ではいられなかったのだ。どうしていいか分からず、誰に頼ることもできず、気が付けば由梨の前に立っていた。

――私がこんなに取り乱すなんて――

 今日の麻衣はまるで自分を他人事のように思っていたことに初めてその時気が付いた。もちろん、取り乱す理由があってのことだが、

――本当は分かりきっていたことのはずなのに、いざとなれば、私も女、弱いということなのかしら?

 麻衣は、自分を無邪気に見上げた最初の由梨の表情が頭から離れなかった。

 麻衣は、自分が年を取ってしまったことを、後悔はなかったが、今さらのように思い知らされると、ショックだった。そして、由梨を見ていると、意識は次第に子供の頃に戻っていった。

「麻衣ちゃんは、じゃんけん好き?」

「どうして、そんなことを聞くの?」

 それは、くじら島に行く前に一緒に遊んでいた頃の樹里との会話だった。

「私はじゃんけんって嫌いなの。必ず勝ち負けを決めなければいけないでしょう? あいこはあっても、必ず雌雄を決する時はやってくるものね」

 麻衣には、樹里が何を言いたいのか分からなかった。

「グー、チョキ、パーと、三種類の組み合わせで、勝ち負けを決定するのよね。しかも、グーはチョキより強いけど、パーには弱い、チョキはパーには強いけど、グーには弱い。そして、パーはグーには強いけど、チョキには弱い。本当にうまくできているわね。これを三すくみっていうらしいのよ」

 麻衣は樹里の顔を見ていると怖くなってきた。そして、幼少の自分が話をしているのは、同い年くらいの女の子ではなく、成長した大人の女性と話をしているように思えてきた。すると、樹里が大人であれば、大人の樹里が、対等に話をしているのは大人の自分。麻衣はその時、自分が大人になり、大人の樹里と話をしているように思えていた。

 それでも麻衣には樹里が何を言いたいのか、分かるはずもない。話の内容は子供の話題であるじゃんけんという遊びである。それを理論的に話そうとしている樹里を見ていると、恐ろしく感じたのだ、

 樹里は話を続ける。

「こうやって考えれば、遊びとしてはよくできているでしょう? でも、それだけ単純でもある。人間の思考の中で十分に相手を研究すれば、勝ち続けることだってできないはずはないでしょう?」

「何が言いたいの?」

「大人の世界というのは、皆じゃんけん遊びのようなものじゃないかって思うの。確かに先祖からの人が築き上げてきた世界が秩序を持っているからなんでしょうけど、よくできた世界だからこそ、入り組んでいることでも、考え方によってはじゃんけんのように、数種類に分類できるんじゃないかって思うのね。だったら、少し頭のいい人が現れれば、その人が一人勝ちってこともできるんじゃないかって思うの。そう思うと、世の中面白いのか、つまらないのか分からなくなってくるわよね」

 麻衣は樹里の話を聞いていて、ゾッとした。それまでは、本当に純粋な子供だとばかり思っていたのに、その日だけは話が大人以外の何者でもなかった。

 その時が樹里の姿を見た最後だった。今生の別れになってしまったわけだが、麻衣にはそのことが分かっていたような気がした。

 これから樹里が大人になっていく過程を一気に飛び越えて、樹里が大人になれば、どんな思考になるのかということを、時空を超える形で垣間見たのだ。

 それにしても、じゃんけんの話になるとは、麻衣もビックリだった。

 麻衣にとって、樹里との会話はその話だけで十分すぎるくらいだった。まだまだ自分より子供だと思っていた樹里に一体何があったというのだろう? 次の日になると、麻衣の前から姿を消した樹里。親に聞いてみると、

「樹里ちゃんは、親の元に帰ったわよ」

 と、言われて、その言葉を最初はそのまま信じてしまった自分が恥かしく感じるほどだった。

 しかし実際には家に帰ったわけではない。くじら島で過ごしていたのだ。それも死ぬまでである。

 樹里が死んだのは、樹里がここに来てちょうど七年目、樹里の家庭で樹里が死んだことになり、葬儀を終えてしばらくしてからのことだった。その時、樹里の死に顔は、実にy素らかだったという。

 後になって親から聞かされた話としては、

「樹里ちゃんは、もう自分が長くは生きられないことを知っていたんだ。もしあのまま親元にいれば、三年と生きられなかっただろう。それを七年も生きたんだから、くじら島に住まわせて、本当によかったと私は思う。親に対しては、申し訳ないという思いでいっぱいなんだけどね。これも仕方がないことだよ」

 それこそ、究極の選択だったに違いない。麻衣にとって、親の取った行動を責めることはできるはずもない。ただ、樹里が死んだ時のことを、いずれば受理に関わった人に話しをしなければいけないと思っていた。

 樹里が麻衣と一緒にいる時、よく話をしていたのが、大久保茂だった。

「茂君は、本当に優しいのよ」

 子供同士の優しさは、どこまでの信憑性があるのか分からないが、樹里の口からは、茂の話しか出てこない。次第に麻衣には、茂のことが頭から離れなくなってしまっていた。

「茂さんって、どんな人なのかしら?」

 子供心に茂を思い浮かべてみた。思い浮かんだのは、同い年だと聞いていたが、高校生くらいのお兄さんのイメージだった。

 由梨を見て、樹里を思い出したのと同じで、自分も子供に頭の中を戻したまま、茂の子供の頃を思い浮かべた。もし、自分が樹里の立場だったら、茂に会いたいと思ったに違いない。

 麻衣が茂のところに来た時、育ててくれた両親は、麻衣が帰ってこないことは分かっていたのかも知れない。別に帰ってくるように説得に来ることもなかったし、姿を現すこともなかった。

 だが、麻衣には両親が納得ずくで茂の元に送り出してくれたように思えてならなかった。娘の気持ちを最善に考えたというのであれば分からなくもないが、茂という人を知りもしないのに、親としてよく承知したものだと思う。

――ひょっとして、茂さんのことを親は知っていたのかしら?

 樹里をここに居させたのだから、樹里に関係のある人のことは調べてのことであろう。それにしても、どうして樹里は家に帰りたくないと思ったのだろうか? まだ幼女だった一人の女の子が家を出ようと思い、帰ることを本当に考えなかったのだろうか?

 元々治る見込みのない病気だったということだが、どうして樹里にそのことが分かったのだろう? 自分のことに対して分かるような特殊な能力を持っているのだろうか? サナトリウムでは、樹里という女の子をいろいろ調べていたということだが、まるでモルモットになることを承知していたということなのだろうか?

 あまりにも樹里に対して不思議なことが多すぎる。その中でも印象に残った話が、じゃんけんの話だったのだが、あの話を聞いて、

「樹里という女の子は、物事に白黒つけるのを嫌っていたところがある」

 と思っていた。

 白黒つけてしまうと、それは自分の運命の限界を認めてしまうことになり、樹里の運命はどうなっていたのか分からない。医者の診立てとしては、

「彼女はいつ亡くなっても不思議ではない。今日か明日か、いや、ひょっとすると十年生きる可能性だってあるんだ」

 何とも曖昧な話だが、要するに身体の中に爆弾を抱えているということだけは事実のようだった。それが何なのかハッキリとしないが、彼女が一人受け止められるほど軽いものではないはずだ。

「動物は、好きな人に自分の死ぬところを見られたくないっていうわ。死期に気付くと、自ら身を引いて、誰も知らないところで人知れず息を引き取るっていうらしいの」

 この話を聞いたのは、確か樹里からではなかったか。その時には、樹里が自分の中に爆弾を抱えているなどまったく知らない時だったので、

「そうなんだね。動物って偉いんだ」

 と、思ったことをそのまま口にした。それを聞いて、樹里は軽く頷いたが、特別なリアクションがあったわけではない。今から思えば、樹里は自分の中で気持ちを噛み締めていたのかも知れない。

 樹里が運命という言葉に敏感だったのは、分かっていた気がする。それは自分の中に「覚悟」というものを持たなければいけないという運命を感じていたからなのかも知れない。確かに人は誰でも死を迎える。しかし、死というものが確定しているとしても、死に直面しながら生きている人は少ないだろう。戦国時代や戦時中のような時代であればいざ知らず、今の世の中では死を意識して生きることは、後退を意味しているように思うからだ。

 ただ、樹里が死ぬ間際、茂に会いたいという思いを抱いていたことを麻衣は知っている。樹里がくじら島のサナトリウムに入ってからしばらくは音信不通のようになっていたが、樹里が亡くなる少し前、樹里が死を覚悟したのではないかと思われる時期、麻衣には樹里のことが急に気になった。

「樹里ちゃんは、サナトリウムにいるの?」

 とお母さんに聞いた時、

「ええ、そうよ。元気にしているわ」

 これと言って、不自然さを感じさせない返答だった。樹里の身には実際にまだ異変は怒っていない証拠だった。

「樹里ちゃんに合いたいんだけど」

 というと、

「いいわよ、今度のお休みにでも遭っていらっしゃい」

 と言ってくれた。

 樹里も麻衣も年齢的には中学生になっている。麻衣は普通に中学に通っているが、麻衣はずっとサナトリウムの中にいる。

 休みになるまでが待ち遠しかった。今までご無沙汰していた友達に久しぶりに会える感覚は嬉しかった。本当に麻衣とすれば、純粋に嬉しかったのだ。

 前の日にはなかなか寝付けないくらいだった。遠足の前の日に、気分が高ぶってしまってなかなか眠れないことがあるが、それと似た感覚だった。

 樹里には、麻衣が訪ねてくるのは聞かされていたようで、

「来てくれたんだね? 嬉しいわ」

 数年ぶりに遭った樹里だったが、驚いたことに、身体は成長していたが。顔は幼いままだった。しかし、なぜか違和感がない。中学生になった自分と同級生と言われても疑う余地のないほど、表情はしっかりしていた。「落ち着き」を感じさせられるのだ。

 ということは、幼女だった頃の樹里の面持ちが、中学生といっても違和感のないほどだったということであろうか? 落ち着きのある顔だとは思っていたが、そこまで大人びてはいなかった。

 樹里は大人びた顔の中に、ベースとして幼さが見え隠れした表情を浮かべることのできる女の子だったに違いない。

 話も突飛なことが多かったが、今から思えば、樹里の話はいちいち納得させられる。当時の八歳という年齢では理解できないことも、今では十分に理解できる。いや、もし樹里と面と向かっての話でなければ、大人になっても理解できるものではなだろう。樹里を知らない人に話しをしても、誰も信じないことだったに違いない。

「私、麻衣ちゃんが来てくれる夢を最近見たの。この夢はちゃんと忘れることなく覚えていたわ」

「夢って、忘れてしまうものだものね」

「でも、不思議よね。同じ夢であれば覚えていることが多いのよ。それだけ意識が強かったということなんでしょうけど、どれだけなのかしらね?

「他に何があるの?」

「その時出てきた人も自分と同じ夢を見ているんじゃないかって思うことがあるの。だから、私は麻衣ちゃんが訪ねてくるって聞いた時、麻衣ちゃんも同じ夢を見たんじゃないかって思ったのよ」

 樹里の話を聞いて、麻衣は考え込んでしまった。

 確かに樹里の言う通り、見たのかも知れないが、そのことを麻衣の中で自覚していない。樹里に会いたいと思ったのは決して夢に見たからではない。逆に会いたいと思った感情を、夢を見たからだということだけで片づけてしまいたくないという気持ちもあった。

「私はハッキリと覚えていないんだけど。樹里ちゃんと会いたいと思ったのは間違いないの。夢を見たからだったのかも知れないけど、意識としては、夢ではないような気がするわ」

「それでいいのよ」

「どういうこと?」

「それだけ麻衣ちゃんが、私に会いたいと思ってくれたことを一過性のものだとして片づけたくはないということでしょう? 私もそれを感じるから嬉しく思うのよ。でもね、夢というのが、現実の意識と切り離して考えているからなんでしょうね。特に私は身体に爆弾を抱えているから、私に会いたいと思ってくれた時、一緒に嫌な予感のようなものが走ったのかも知れないって、私は思ったわ」

 まさしくその通りだった。樹里はそこまで分かっている。ひょっとすると、樹里のいうところの、

「同じ夢を見ている」

 という発想は、間違っていないのかも知れない。それを、

「夢の共有」

 という言葉で表現すれば、麻衣も樹里の話を納得できるのではないかと思ったが、やはり、心のどこかで

「覚悟はいい?」

 と自分に言い聞かせているように思えてならなかった。

 樹里は、なかなか覚悟という言葉を発しない。とっくに麻衣が自覚していることは分かっているはずだと思っているのに、それ以上に、今の時間を大切にしているように思えた。それだけ樹里には覚悟が定まっていて、実際に現実味を帯びてきたという証拠ではないかと思った。

「じゃんけんの話をしたの覚えてる?」

「覚えているわ。理屈っぽい話なのに、なぜか自然に受け入れることができた最初の話だったので、私には印象深いお話なの」

「そうね、八歳の女の子がするお話ではなかったのかも知れないわね。でも最近、私はその考え方が少し変わってきているように感じるの」

 樹里はおもむろに話し始めた。

「どういう風になの?」

「同じ直線で、まったく同じ方向に向いているのなら、絶対に交わることがないでしょう?」

「平行線のこと?」

「そう。じゃんけんもそれに似ているんじゃないかって思うの。同じものを出せばあいこになるでしょう。それを永遠に続けられる相性というものが、本当は存在するんじゃないかって思うの。私はじゃんけんというと、必ず雌雄を決するものだって思っていたんだけど、もし、永遠に続く平行線のようなものがあったとすれば、それは永遠に朽ちることのない命にも繋がるものではないかって思うのよ」

「その発想は、私にとっては想像もつかないことだわ。壮大過ぎて」

「そうかも知れないわね。でも、今の私はそう思えることが、これからの覚悟に繋がると思っているのよ」

 初めて樹里の口から「覚悟」という言葉が聞かれた。

――来たわ――

 麻衣も分かってはいたことではあるが、改まって樹里の口から発せられた言葉を聞くと、震えが止まらなくなる自分を感じた。

「動物が死を悟る時の話もしたわよね?」

「ええ」

 どんどん、死に向かっての話になっていくことに、麻衣の感覚は半分マヒしてしまっていた。完全に主導権は樹里に握られていた。

「人間だって動物なんだから、きっと思いは同じなのかも知れないわ。麻衣ちゃんは死んだらどうなると思う?」

 いきなり難しい話だが、麻衣には麻衣の考えがあった。それを今素直に樹里に話していいものか考えたが、下手にはぐらかすことは却って樹里を冒涜する気がしたので、思ったことを話そうと思った。

 それは思ったことを話したいという気持ちがあったのも事実で、それを樹里が悟ってくれたのではないかと麻衣は感じた。それだけ、樹里の目はまっすぐに麻衣の眼を見つめていたのだ。

「私は、肉体と魂が離れて、魂はあの世というところに行くんだと思う。天国とか地獄とかいろいろ言われているけど、私にはそこから先のことは分からないし、今は考えたくないと思っているの」

「それが普通の考え方なんでしょうね。でも、私は死んだら、魂だけになって、そのまましばらくは現世を彷徨うと思うの。何かを見つけない限り、そこから先にはいけないという意識があるのね」

「何かというのは?」

「それは人それぞれでしょうね。未練がある人は、その未練を自分で納得できて初めて先に進めるんじゃないかって思うの。皆が考えている死んでからのことには、いくつかの段階があるように思うのね」

 考えたこともないことだった。少し頭を整理して考えていたが、樹里が続けた。

「さっきの麻衣ちゃんの考え方は、きっと誰もが持っているものだって思うんだけど、結局それは、この世に生きている人の側からしか見ていないものでしょう? もちろん、それで当たり前のことなんだけど、それだけでは納得できないことがあると思うの。だから私は向こう側に立ったつもりで考えてみたのよ。もちろん、それが正解だなんておこがましいことは思っていないわ。だけど、覚悟をすれば、見えてくるものがあったのよ」

 樹里は、いつになく興奮しているようだった。元々物静かな性格なので、

――こんなに熱く語るんだ――

 と思ったほどで、少しビックリさせられた。

「覚悟」という言葉は、人をここまで変えるものなのかと思ったが、自分も覚悟を決めなければいけない時、何を考えるのか、気になってきた。

 今の言葉を思い出すのはまず間違いないだろう。年齢から言っても、これから幾度となく人の死に立ち合うことになるはず。その時に何を感じるのか、いろいろ想像を巡らせてみた。

 いろいろと考えてみたが、その時は思いつかなかった、しかし、今となってみれば分かってきたことがある。

――樹里ちゃんは、自分が覚悟しているから見えてきたように言っていたけど、覚悟しても見えないことがあるから、死んでから、段階があるのではないかという気持ちになったのかも知れないわ――

 麻衣は自分に死期が近いのかどうか分からないが、樹里のいなくなってからであれば、子供の頃であっても、もし樹里が言った内容を思い出そうとすると、今と同じ発想ができたのではないかと思うようになった。

 麻衣は樹里と話をしたのは、その時が最後となった。樹里の中の爆弾が爆発したのだが白髪を見た人は誰もいなかった。

「動物は、好きな人に自分の死ぬところを見られたくないっていうわ。死期に気付くと、自ら身を引いて、誰も知らないところで人知れず息を引き取るっていうらしいの」

 まさしくこの言葉通り、樹里は人知れず息を引き取った。麻衣の中に一生消えないだけの印象を残しながら、その死は謎に包まれていた。それだけに、余計に麻衣には樹里の一言一言が重くのしかかってくることもあった。

 家を出て、茂のところに来るという、一見暴挙に似た行動を取ったのも、麻衣にとっては、暴挙でもなかった。

――私にとては、死に至るまでのステップの一つなんだわ――

 死に至るまでにステップが存在するという意識は、実は麻衣の両親にもあった。麻衣が知らないだけで、両親は麻衣がいなくなったことを最初不安で仕方がなかったが、向かった先が、樹里の気に掛けていた男性である茂のところだということを知ると、無下に帰ってくることを勧告することはしなかった。麻衣も両親がどこまで理解してくれているのかハッキリと分からなかったが、

――私にとっていいことだと思ってくれていることには反対しない両親だったから――

 という理屈を自分の中で理解していた麻衣は、両親に対して前に樹里から聞いたということで、

「死んだらどうなるか」

 という命題に対しての話を聞かせたことがあった。

 普通であれば、

「死後の世界のことなんか今考えなくてもいいの」

 と一蹴されても仕方がないことだったが、樹里から聞いた話だということからなのか、それとも娘の真剣な面持ちに圧倒されたのか、話の腰を折るようなことはしなかった。

「樹里ちゃんが、そんなことを言っていたのね」

 と母親はそれを聞くと、少し考え込んでしまった。

「でも、死というものを正面から考えることのできる人間には、誰から教えられたわけでもない自分なりの考えが芽生えることがあっても不思議はないんだよ」

 と、父親は麻衣に話した。

 麻衣は少し考えていたが、父親は続ける。

「樹里ちゃんの話は、確かに考え方としては存在するものなんだけど、幼少の頃よりクジラ島のサナトリウムで暮らすようになってから、限られた情報の中で、そんなことを知ることは不可能なんだ。だから、樹里ちゃんが自分の中で考えて、しっかりと整理した上でお前に話したんだと思う。あの娘は、根拠や信憑性のない話を迂闊に口にする性格ではないからね」

「お父さんは、樹里ちゃんのことがよく分かるんだね?」

「それはそうさ、私は樹里ちゃんとも少しの間ではあったけど、子供のように思って見つめていたんだ。特に短い間だという意識が強かったから、樹里ちゃんに対しては特別な気持ちを持っているんだよ。だからといって、麻衣に対して、気持ちや考え方をおろそかにしているわけではないからね」

 この言葉は、麻衣が家を出てから最初に思い出した言葉だった。

「私を育ててくれた両親は、実の両親とは比べ物にならないくらい私のことを分かってくれているのよ。血のつながりなんて何さって、私は今ではそう思っているわ」

 と、両親の話をした時、茂にそう告げていた。

 それに対して、大きく頷いたが、肯定も否定もしなかったが、麻衣はその態度を見て、茂が肯定したものだと思い込んでいた。しかし、彼は麻衣に対して中途半端なリアクションをしたことはない。この時も中途半端に見えたが、賛成も反対もない、麻衣の意見を尊重するという気持ちを表すために、大きく頷いたのだ。賛成も反対もないというのは、決して中途半端で曖昧な回答ではないことを、その時の茂は示してくれて、麻衣もその仕草に感じるものがあったのだ。

 そういえば、茂は樹里のことを本気で心配していたようだが、それは恋愛感情からではない。幼い頃の記憶だと言っても、そこから恋愛感情に結びつくことはないと麻衣は感じている。茂のことを愛してしまい、茂も麻衣を愛してくれている今となって、初めて茂の気持ちが分かるようになってきた。

――樹里ちゃんは、ひょっとすると、茂さんの妹なのかも知れないわ――

 唐突で、他の人に話しをすれば、それこそ鼻で笑われて、話を一蹴されるに違いない。――この人の、隠し事をしないところ、開放的な性格に、果てしない大きさと度量を感じさせられる――

 と思うことで、それまで分からなかったことが、分かってくる気がした。それは、樹里とは正反対であり、樹里の場合は、分かるように話をしてくれても、その時には分からない。ただ、時期がくれば分かるようになっていて、その時期も樹里は自分で分かっていたのではないかと思うのは買い被りだろうか? しかし、それを証明する術はもうない。樹里はすでにこの世にいないのだから……。

 一体、どこを彷徨っているというのだろう? 樹里の話では、あの世に行くまでには何段階も越えなければいけないという。それは未練をこの世に残した人が彷徨うという発想とは違っていた。未練を残している人がこの世を彷徨うという発想を聞いたのは、樹里から話を聞いてからかなり経ってからのことだった。

 麻衣は、もう一つ樹里の話していたことを思い出した。

「私、本当は海が怖いの」

「どうしてなの?」

「水が怖いの」

「何か、怖い目に遭ったとか?」

「そうじゃないの。私はどうやらお母さんの身体の中にいた時の記憶が残っているらしいの。水の中に浸かっているんだけど、その時、私は目を開けていたみたいなの。水の中なのにおかしいでしょう? 真っ赤な色なんだけど、何かが流れているのが分かるの。そして自分の目も、その流れている方向を見つめているのよね。最初は、そんな記憶はなかったんだけど、私がこのことを話すと、まわりの人が急に慌ただしくなって、急に病院に連れて行かれて、嫌なこと、いっぱいされたの」

 ひょっとすると、樹里がまわりの人を嫌になった時があったとすれば、この時だったのかも知れない。それを麻衣の育ての親が見るに見かねて、少しの間預かる気になったのかも知れない。

 ただ、あの優しい育ての親が、樹里の本当の親が心配していることに対して、罪悪感を感じなかったのが不思議でならない。そこにも何か理由があるのかも知れない。

「私ね。家ではいつも贔屓の外だったのよ。私がこんな夢を見るというと、家族はきっと私がおかしくなったと思ったのよね。ひょっとすると、このまま施設にでも放り込んでしまえばいいと思ったのかも知れない」

「そんな親っているのかしら?」

「だって、そうじゃなかったら、私がいくら嫌だと言っても、相手の親に話すことくらいはするでしょう? それをしないということは、私の気持ちを分かってくれた証拠なのよ」

「ひょっとして、樹里ちゃんの限られた命のことも知っていたのかしら?」

「それは知らなかったと思うわ。知っているなら、私を連れ戻さないまでも、私を誘拐したと思っている人をもっと真剣に探して、何か因縁をつけるでしょうからね」

 これが八歳の女の子の発想であろうか? よほど今までロクな目に遭っていない証拠である。

――だからこそ、母親の胎内にいた頃の記憶だけが残っているんだわ。樹里ちゃんにとっての唯一の救いなのね――

 と感じた。

 麻衣は今の松倉家の様子は、時々見に行っているので分かっているつもりだ。樹里が話したこととはかなり隔たりがある。今から思えば、樹里の思い過ごしであったり、被害妄想が激しかったのではないかと思うほどだった。

――いや、あの時、樹里ちゃんが行方不明になったことで、狂ってしまっていた歯車が元に戻ったという考え方もできるかも知れない――

 と感じた。

 松倉家を意識しているのは、麻衣ではなかった。麻衣には隠していたのだが、茂が一番気にしていた。

――茂さんが意識していたのは、樹里ちゃんではなく、松倉家という大きな普通ではない家庭だったのかも知れない――

 と思うようになってきたが、なぜそこまで茂が松倉家に入れ込むのか、分からなかった。

 一度、聞いてみたことがある。

「あなたは、樹里ちゃんの思い出というより、松倉家に何か特別な意識でもあるの?」

 すると、それまで見せたこともないような表情で、茂は麻衣を見つめた。何とも言えない表情を見て、麻衣はハッとしたが。

――この人、自分でも気付いていなかったんだわ――

 と思った。そして、その時の茂の表情は、初めてみるものではないという感覚にも襲われた。

――いや、確かに茂さんに対しては初めてみる感覚に違いないわ――

 と思うと、いつ見たのかと言われると、相当記憶が遡っていくのが分かる。

――そうだ、あれば、樹里だった――

 茂が知っている限られた時間一緒にいた樹里が見せた表情だった。忘れられない顔だと思っていたはずなのに、忘れてしまっていたようだ。それだけ、覚えておきたくないという本能が働いたに違いない。

 茂は、一度父親に逆らったことがあった。それまで親に逆らうことんどなかった茂だったが、その時は納得行かない感覚があったのだ。

――今までパーばかり出していた樹里が、初めてグーを出した――

 樹里は茂には逆らえないと思っていたふしがあった。それはじゃんけんをしても、いつもパーばかり出していたからだ。いつもチョキばかり出す茂に勝てるわけはなかったわけだが、茂がチョキを出すのは樹里に勝ちたいと思っているからではなく、本能からだった。それはきっと樹里も同じで、負けても悔しそうな表情を浮かべることもなく、却って安堵の表情を浮かべる樹里を見て、微笑ましく思えた茂だった。

 その日、初めてグーを出した樹里は、茂に勝ったわけだが、その表情は不安に包まれていた。自分がグーを出してしまったことが無意識の行動で、普段とは違った行動に出てしまったことへの不安が募ったのか、それとも、茂に勝ってしまったことで、大きなバランスが崩れてしまったことへの不安があったのか、どちらにしても、根底に潜むものは同じなのかも知れない。

 何か納得がいかず、その日家に帰ると、父親が珍しくお酒を呑んで帰ってきていた。父親は、ほとんどお酒が呑めない。少し呑んだだけでも気持ち悪くなると言って、口にしなかった。だから、家にはお酒は一切置いていない。どこで呑んできたのか、母親もそんな父親にしたがっていた。いや、二人は似た者夫婦に思えた。それは自分と樹里との関係に似ているとその頃は思っていたが、今から思えば茂の頭の中の考えは、

――似た者同士というのは、別にすべて同じ考えでなければいけないわけではない。特に立場関係も対等である必要はない。むしろどちらかに従うような関係の方がうまくいっているように見える。両親がそんな関係なのかも知れないな――

 と思っていた。

 そういう意味ではじゃんけんで、決してあいこを出すことがなく、いつもグーとチョキで茂が勝つという構図は、お互いが似た者同士であることの証明だと思っていた。じゃんけんでの勝ち負けがそのままお互いの上下関係や主従関係に当たるわけではないからだ――

 だが、本当だろうか?

 茂の中では無意識に樹里に対して主従関係を見ていたのではないかと思えていた。それはじゃんけんに限ったことではない。意識の中に男女関係で男が上だという意識が働いていたからなのかも知れない。

 茂が父親に逆らったのは、父親が母親に手を挙げるのを見てしまったからだ。今までどんなことがあっても、母親に手を挙げることがなかった父が母を殴ったのだ。一瞬身体が固まってしまい、その場から逃げ出したい気分になった茂だったが、気が付けば、自分から父親に掴みかかっていた。両手を広げて、母親に殴りかかる父親を制するようにして、一瞬の隙をついて、掴みかかった。

 いくつもの段階があって掴みかかったはずなのに、記憶が断片的にしか残っていないので、すべてが繋がらない。繋がらない記憶は意識を形成することができず。気が付けば掴みかかっていた。

 そのことを大人になった茂は意識できるようになっていた。麻衣が茂に、

「死んだらどうなると思う?」

 という話をした時、麻衣の考えとして、

「あの世に行くまでに、いくつかの段階があるのよ」

 と言っていた。

 麻衣の口からその言葉を聞いた時、茂は何かを思い出したような気がしていたが、それが、父親に掴みかかった時のことであったのだ。その時、漠然としていたのは、麻衣の話があまりにも突飛過ぎて、発想がついていかなかったことが一番の原因であるが、子供の頃の記憶の中でも忘れてしまいたいと感じている、自分の中での「汚点」だったからだ。

「いい子ちゃん」としての意識があったわけではないが、父親に逆らわないというのは、茂の中では子供の頃の自分の誠実性の証だとして意識しておきたいことだった。たった一度逆らったことで、そのすべてを打ち消すだけの勇気が茂にはなかったのだ。

 その日は茂も父親も、そして、茂が知らないところで、何かのリズムが崩れ始めた時だったのかも知れない。リズムというよりはバランスである。バランスということを意識すると、どうしても、じゃんけんを思い出す。

 樹里が麻衣に話したというじゃんけんの話、茂の中でも樹里とのじゃんけんは忘れられない記憶として残っている。じゃんけんのバランスが崩れたその日、逆らったことのない父親に逆らい、自分の意識の中で、

――段階を飛び越す――

 という意識が流れていた。

 感覚がマヒしたという表現がピッタリなのかも知れない。

 樹里がいなくなったのは、それからすぐだった。最後に樹里の姿を見たのは自分だという意識があり、まわりから特に警察からいろいろ聞かれたことで、少年の中の誠実な気持ちが歪んでしまい、バランスが崩れた時の意識が、まるで別の世界のことであったかのように意識の中に残ってしまった。

 樹里がいなくなって、残ってしまった茂の中の狂ったバランスによる不安定な自意識と、まわりとの関係に崩れてしまったと感じるバランス、そのどちらも本当は同じ土俵で見つめなければいけないのに、違う次元でしか見れなくなっていたのだ。

 違う次元でしか見ることのできなくなってしまった茂にとって、麻衣が現れるまでは、抜け殻のような毎日だった。何を目標に生きているわけでもない。ただ、薄らと誰か救ってくれる人が現れるのではないかという他力本願があっただけだ。しかも他力本願など自分の望むところではないという下手なプライドが邪魔したことで、時々襲ってくる鬱状態がトラウマとして残ったことを、頭の中で表現させる時間を作り上げることに、一役買ってしまったのだ。

 茂は、麻衣に聞かれた松倉家の関係を今まで意識したことがなかった。しかし、樹里とのバランスが崩れた時、思わず一歩後ずさりした気分になった。そして、樹里を再度見つめようとすると、その後ろに松倉家という大きな半円が樹里を包んでいるのを感じた。

 それまでは樹里のことしか見えていなかったはずなのに、松倉家を意識してしまったことで、今度は、樹里という存在が松倉家から浮き上がってくるのを感じていた。

――それがまさか、樹里がいなくなる前兆として感じていたことだなんて……

 と、樹里がいなくなっても、茂にとって松倉家は忘れることのできない存在であることを思い知らされた。

 茂は、松倉家に敦美が生まれてことを知って、最初は、

――樹里の生まれ変わりなんだ――

 と、松倉家の人が感じたことと同じことを感じていた。

 だが、敦美がどうしても樹里の生まれ変わりには感じなかった。なぜなら茂の考え方として、

「人が生まれ変わるには、それなりに時間と段階が必要なんだ」

 という思いがあったからだ。

 この思いは、ある意味現実的であった。

 小説やドラマなどでは、一人の人が息を引き取った瞬間、どこかで生まれた人が、その人の生まれ変わりだということでドラマチックさを演出している場面があるが、茂としては、あまりにも都合がいいと思っている。

 ただ、人が生まれ変わるということに関しては、真剣に信じているのも事実である。ただ、誰かが死んだ瞬間にその人に生まれ変わるというのは、信憑性に欠けると思っていたが、その理由を自分でも分からないでいた。どこかに何か一つ歯車が欠けているような気がしたからだ。それを埋めてくれたのが、麻衣の話だった。

「いくつかの段階」

 違う次元に時系列はあまり関係ないと思っているが、「段階」という形で違う世界が広がっているのであれば、そこには時系列が存在する。ただし、この世界で感じている時系列ではなく、

――この世と、あの世を繋ぐトンネルのようなものがあるとすれば、トンネル内にある時系列は特殊な形で繋がっているんだ――

 と思っている。

 茂が松倉家の意識を深めるようになってから、麻衣は茂を避けるようになっていた。

「私、ここにいていいのかしら?」

 と、今までにはありえなかった言葉を麻衣が発した。

「何言ってるんだよ。麻衣は僕のものじゃないか」

 茂は、思わず麻衣のことを、

「自分のものだ」

 という表現をした。人を独占することなど今までしたことがない。

 茂は一人っ子だった。兄弟で何かを争うこともなく、争奪戦など、考えたこともなかった。そのため、何でもすべて与えられるものは、

「自分のもの」

 だったのだ。

「ありがとう、茂さん。私を自分のものだって言ってくれた人、あなただけなの。私は茂さんは最初からそう言ってくれることを望んでここに来たのよ。確かに樹里のことを伝えなければいけないという使命もあったんだけど、家を出てまでここに来たのは、あなたに、私を『自分のものだ』って言ってほしかったからなの。これで私は長年の想いを達成できたのね」

「そんな大げさな」

 と、茂は口では言いながら、じっと麻衣の顔を見つめている。麻衣のことを自分のものだと言い、独占したいという気持ちを持っていながらも、決して主従関係や、上下関係はないということを、自分の中に言い聞かせていた。

 その思いが茂になければ、麻衣のような女性が自分などに、

「自分のもの」

 と言われて、

「ありがとう」

 と、心からお礼が言えるはずもないだろう。

 茂は麻衣を愛おしいと思っている。それは女性としての愛おしさはもちろんのこと、それ以外に何かを感じた。

――そうだ、母親に感じたことだ――

 父親に決して逆らうことのなかった母親に、いつも何か物足りなさを感じていた。父親に逆らうことがないだけではなく、茂に対しても、怒ったことはほとんどない。父親から怒られた経験もあまりない茂は、ある意味過保護に育っていた。それは茂自身も意識していたことで、

「もし、俺が何か悪いことをしたら、それは親による過保護のせいだからな」

 と、口に出したことはないが、自分に言い聞かせていた。それは悪いことをしての言い訳ではなく、自分に対する戒めのつもりで頭に描いていた。

――これが俺の中での精神のバランスの一つなのかも知れないな――

 と思っていた。

 ただ、歪なことは分かっている。戒めと言い訳という正対しているものを同じ言葉で意識しようというのだ。だが、

――長所と短所は紙一重――

 というではないか。戒めと言い訳が紙一重であっても、そこに何の不都合があるというのか。茂は、そこまで考えてくると、自分の思考が、ある程度「バランス」というもので形成されていることに気が付いた。そしてこのバランスを重視する考え方は、幼少の頃から、いや、もっと前かも知れないが、運命づけられていたものなのかも知れないと思うようになっていた。

 両親への想いに物足りなさを感じていた茂は、その感情を幼少の頃は樹里に感じ、そして、大人になってからは麻衣に感じていた。

 だが、愛情と親への感情とが、同一の人物に対して感じることができるのだろうか?

 本来であれば、

――感じてはいけない感情――

 として、意識しなければいけない。そのことを茂は重々に分かっているつもりだった。だが、分かっていても、その通りに意識できるかと言えば、別問題。

「できなければ、苦しむだけ」

 として、茂は考えていたが、もちろんできることなら苦しみたくないのは当たり前のことである。

「少なくとも今の自分と、麻衣とはお互いに相思相愛。それだけでいいじゃないか」

 何があろうともこの事実に変わりはないと思っていた。今後色褪せることがあっても、この時に輝いたことだけは、決して消えることはない。茂にとってその時の気持ちを支える一番の「柱」だったのだ……。

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