第2話 第二章

 夏も終わりごろになると、夕方にはだいぶ涼しくなる。前の日に降った雨の影響はほとんどなく、吹いてくる風は、秋の気配を感じさせるものだった。

 小高い丘の上に見える墓地に、一人の男性が水を持って現れ、もう一方の手には墓前に手向ける霊前花が持たれていた。汗が吹き出しているように見えるが、両手が塞がっていることもあって、拭うこともせず、肩で呼吸を整えながら、上まで上がってきた。

「今日も来ていたんだな」

 と、独り言ちて、しおれることのない花を見ながら、男はその場に立ちすくんでいた。水の入った樽の中に持ってきた花を入れ、下に下ろし、たっぷりと柄杓に水を入れて、墓石の上から水を流した。

「少なくとも俺たち二人は、毎日のように君の墓前に顔を出している。決して忘れることのない二人がいることを忘れるんじゃないぞ」

 と言って、墓前に話しかける。

 その顔には安堵の色が見えていて、本当に墓の主と話ができているんじゃないかと思わせるほどだった。毎日の日課になっていたとしても、決して生活の一部だとは思っていない。一日の中でかけがえのない時間だとしか思えなかった。

 線香の匂いもまだ残っているかのようだった。すでに火は消え、煙は残っていない。それでも匂いだけは残っているように感じるのは、墓の主が何かを語り掛けてくれているようで、

「そうだね、君は寂しくないと思ってくれているんだね。悪かった、僕が勘違いしていたようだ」

 と言って笑いかけ、腰を下ろして合わせていた手を外し、片方の手で、もう一度柄杓に水を持ち、墓前からたっぷりの水を飲ませてあげた。

 今度はさっきまで香っていた線香の匂いが消えていくのを感じた。そして、改めて持ってきた蝋燭と線香に火を付けて、新たな供養の始まりだった。

「君は分かってくれているかも知れないが、俺だってケジメを付けたいんだ」

 もう一度手を合わせながら、

「何のためのケジメだって? そうだな、君に対してばかり思っている気持ちを少し他にも向けてみたいと思う。もう、いいよね?」

 墓が答えるわけもなく、文字通り石のごとく、どっしりと構えているだけだった。

「俺なりにケジメをつけようって、ずっと思っていたんだぜ。君がそのことは一番分かってくれているんじゃないかい? 彼女だって君がよこしてくれたんだって思うのは、俺の勝手な発想なのかな?」

 男はさらに続ける。

「まあいい。俺がこうやって毎日のように墓参りしているけど、それが君にも重荷になってくるんじゃないかって思うこともあるんだ。さっきの言葉とは矛盾しているように思うかも知れないけど、そうじゃないんだ。こうやって墓参りしているうちに、住む世界は違っても、気持ちが通じ合えていると思っている。だから、お互いに、そろそろ許し合ってもいいと思うんだ。僕は君のことを怒ってもいないさ。俺がそっちに行くまで、君に待っててくれなんて言わない。それにこの世で、もう一度会いたいなんてわがままは言わない。だから、迷わずに成仏してほしいんだ」

 男の目から涙がこぼれている。

 しかし、それは悲しくて泣いているようには思えない。何かを吹っ切ったような表情が笑顔から現れていて、涙も悲しいから流すわけではないということを、その男は今初めて知ったに違いない。

「生きている人間は幸せになる権利があると俺は思っているが、死んだ人間だって、幸せになる権利はあるのさ。ただ、この世の幸せと、幸せの度合いが違うのかも知れない。何しろ世界が違うんだからね。話ができるわけでもないし、顔が見えるわけでもない。だからまったく分からないというのが本音なんだけど、僕は君とここで話ができると思うことが真実であり、自分が生きている証のように思っている」

 ゆっくりと立ち上がって、足をさすってみた。さすがに少し足がしびれたのか、それほど長く腰を下ろしていたようには思えなかったが、違う世界の人と話をしているのだから、時間的な感覚などあってないようなものであろう。

「格好のいいことばかり口にしてしまったかも知れないが、これが俺の本心さ。今までは、毎日同じ時間にここに来ていたけど、今度からは同じ時間に来るとは限らない。日課がお互いに重荷にならないようにしようと思う俺の気持ちさ」

 男はそういうと空を見上げた。

 毎日のように墓参りをしていることで男は、いつの間にか自己満足に浸ってしまっていることに気が付いた。自己満足は悪いことばかりではないが、相手があることであれば、いいことでもないだろう。自分なりに頭を整理しながら話しかけたことは、その男の本心であるに違いない。

 夏の終わりに豪雨が降ることがある。

「ゲリラ雷雨」

 などという言葉で表現されるが、入道雲が張り出すのもこの時期だ。

 夏の熱い時期を通りすぎて、夕方にはだいぶ涼しい風が吹くこの時期を、彼は嫌いな時期ではなかった。

 この時期独特のゲリラ雷雨と、頻繁に襲ってくる台風さえなければ、秋が近づく前に少しホッとした気持ちになれるという意味で、楽しみな時期だった。

 本当のことを言えば、夏は嫌いだった。特に海は大嫌いで、子供の頃に潮風に当たると、必ず次の日には発熱してしまったという記憶だけが残ることで、湿気を感じただけで、今でも頭痛に襲われることがある。

 梅雨の時期とこの時期とでは、感じ方が違っている。ただ鬱陶しいだけの梅雨の時期は。最初から自覚していることもあって、それほど苦痛を感じずにスルーすることができる。しかし、夏の終わりに襲ってくる芸鵜と台風には、仕方がないという一言で片づけられないものを感じていた。

「誰かの意志が働いているようだ」

 一体誰の意志なのか? 夏の間という一年で一番嫌いな時期をなるべく何もなかったようにやり過ごそうという気持ちは昔からあった。学生時代の仲間は、夏を楽しみにしている連中が多かった。

「海だ。ナンパだ。バカンスだ」

 などと、キャッチフレーズを勝手にでっち上げ、それが健康な成年男子全員が抱く欲望だと思っていた。

 確かに、ナンパでときめきを感じたいという意識がないわけではない、むしろ人に悟られないように隠している分、感覚としての割合は強いものである。しかし、それが夏の時期の海という意味ではまったく意識が違っている。嫌なものに我慢しながら得なければいけないときめきなど、本当のほしいと思っている感情ではないと思う。

 しかし、出会いというのは不思議なもので、彼が一人の女性と出会ったのは、夏のしかも海だった。

 なぜ彼が夏の海にその時いたのかというのは、本人も分かっていない。考え事をしていて、気が付けば海にいたと言えばいいのだろうが、説得力があるはずもない。まだ、

「何かの知らない力に呼び寄せられた」

 と言った方が信憑性がある。

 それだけ彼は誰からも相手にされず、コンパに誘われたとしても、ただの人数合わせだった。

「俺一人がいなくなったって、誰も気づかないさ」

 と、逆に誘われたコンパで、相手も人数合わせに付き合わされているような女の子を見つけて、二人でいなくなったとしても、誰も気にはしないだろう。そんなちっぽけな妄想を抱いて、コンパにはいつも参加していた。

 だが、人数合わせはしょせん人数合わせでしかない。ただ放っておいてくれればいいものを、酒の肴として扱われることも人数合わせの大きな「仕事の一つ」だった。

 放っておいてくれればどれほど気が楽なものか。なぜなら自分の世界に入っている時は時間が早く流れるが、いつ振られるか分からないと思うと、おちおち一人で考え事ができるはずもない。いつ受けるか分からない攻撃に備えなければいけないことがどれほど情けないことか、他の連中に分かるはずもないと思っていた。

 ただ、その時に海にいたという意識は自分で思い出したものではない。自分に大きな影響を与えることになる女性と知り合うきっかけになったことを、彼女本人から知らされたことで、

「君のいうことなら、間違いないだろう」

 と言って、彼女が微笑んだのを見て、その時、何とか記憶の奥から引っ張り出すことに成功した。

 彼の名前は大久保茂。大学卒業を来年に控えて、就職も何とか内定に持ち込むことができ、学生時代のことを少しずつ思い出にしていこうと思っていた頃だった。

 大学時代はもちろん、小学校の高学年くらいから思い出そうとしていた。大学二年生の頃の記憶の方が、中学の記憶よりも前だったような意識があるほど、記憶を探るというのは、時系列がしっかりとはしていなかった。

 だからといって、大学二年生の頃が、何も考えていなかったわけではない。しいて言えば、毎日をどのように過ごそうかという意識の元、いつも悩んでいたように思えてならなかった。大学卒業の頃というと、さほど考え方が変わっているわけではない。どちらかというと就職を目の前にして精神的に不安定なのは今の方である。

 だが、考え方としては、

「今も昔も期待と不安が渦巻いている時は、不安の方に気持ちを支配されないように意識していた」

 ということであった。

 中学時代も不安と期待が渦巻いていたが、いつも前面には不安が壁を作っていて、期待が何であるかが遮られて記憶していた。だが、今はその理由が分かる気がする。

「期待は不安と紙一重で、しかも、裏返しの位置にある。したがって。期待を見ようとすると、どうっしても近くにある不安を避けて通ることができない。不安を押しのけてでも期待を浮き彫りにすることができれば、期待を表に出すこともできていたはずなのに……」

 と、考えていた。

 そこまで分かっているというのに、どうして、不安を押しのけることができないのだろう? むしろ意識しない方が、知らぬが仏で、期待を表に出せるのかも知れない。そのことを教えてくれたのが、彼女だったような気がする。そして何よりも、意識の中に潜在している持って生まれたものを引き出してくれたのが彼女だったのだ。

 彼女……、名前を櫻井麻衣というが、麻衣と知り合ったのは、決して偶然などではなかった。コンパで知り合ったわけでも、ナンパしたわけでもない。今から思い出しても信じられないくらいのことなのだが、何と彼女の方から訪ねてきたのだった。

 どうやって家を見つけたのか分からないが、麻衣は茂のアパートの前で待っていた。茂の住まいはアパートいってもコーポに近いので、新築だった。会社に通うのは少し遠く不便なのだが、家賃の安さは中分で、慣れれば不自由もない。田舎でははあるが、電車通勤には不便さはなく、駅まで歩いてすぐだということと、静かな環境というところが気に入っていた。

 茂は会社の人を部屋に連れてきたこともない。仕事が遅くなって最終になることもあるが、終点なので、寝過ごすことはない。逆に言えば、始発駅でもあるので、朝は必ず座っていける。もちろんそれだけが部屋を決めた理由ではないが、それほど彼の頭の中では結構いろいろなことが考えられていて、現実的であることが分かる。

 本当の理由は、小高い丘の上にある墓地に、いつでもお参りができることだった。このあたりは、五年ほど前までは、見る影もないほどの田舎で、

「陸の孤島」

 という表現が当て嵌まるほどの過疎地であった。

 それがここ五年でかなり変わってきたのは墓地から見えるところにある小さな島で開発が行われるのが決定したからだ。

 島自体というよりも、海底開発が行われ、島から入って、海の中に大きな施設を作ろうという計画が持ち上がったことで、このあたりに開発者が住むためのマンションやアパートがたくさん作られた。

 目の前に見える島は、「クジラ島」と呼ばれていて、島自体はまるで背中部分を表に出したクジラのように見えることから「クジラ島」と言われている。もちろん正式には違う名前がついているのだろうが、開発計画も通称の「クジラ島」をそのままに、「クジラ島開発計画」と銘打って、都会の方では人材募集を行っていた。

 だが、こういう計画にはえてして時間が掛かるもの。完成予定としてはまだまだ掛かるということだった。最低でも十年は掛かるのではないかというのがもっぱらの噂で、元々リゾートになど興味のない茂にとっては、

「何年先でも関係ない」

 としか思っていなかった。

 その日、茂は仕事を定時に終え、まだまだ西日を感じることのできる時間に部屋まで却ってきていた。歩いていて、後ろから差してくる日差しの強さと足元から伸びる影が気になってか、その時はずっと足元を見ながら歩いていた。部屋の前に誰かがいるなどありえないことだったので、

「足元を見て歩いている方が疲れなくてよさそうだ。どうせ誰が見ているわけでもない」

 と、独り言ちながら歩いていた。

 元々、人の目を気にする方ではないと思っていた茂だったが、一人で田舎に住むようになると、

「俺って、気にしていないと思っていることを、無意識に気にしてしまっているのかも知れない」

 と思うようになっていた。

 足元の影は歪んで見えている。しかも左右に微妙にブレていた。最初感じていなかった風だが、足元の影の左右の揺れを見ているうちに気にしていなかっただけで、風は吹いていることに気が付いた。

「こんなに風が吹いているのに」

 と思ったが、逆にもう少し風が緩い方が風を感じていたかも知れないとも感じた。

 その理由は。風の生暖かさにあった。

 肌に纏わりつくような風が吹いていて、心地よさとは程遠いものだった。もう少し風が弱いと、肌の産毛を刺激されそうで、風を感じることができる。もちろん、もっと強いと、身体全体で風を感じることができるので、意識しないわけには行かない。

「ひょっとして、風が吹いていないと思っている時は、肌にビッタリくると風が吹いているのかも知れない。風が吹いていないと時間というのは、存在しないのではなく、感じていないだけではないか?」

 と、思うようになっていた。

 部屋の近くまで来ると、いくら下を向いていても、さすがに分かるもので、頭を上げて、目の前に飛び込んでくる普段と変わらない光景が目の前に広がっているのを想像していた。しかし、目の前には一人の女性がこちらを見ていて、

――彼女は、俺を待っていたんだ――

 と、確固たる確証もないのに、そう思いこんだ。

 確固たる確証もなく思いこむことは茂には考えにくいことだった。自分では素直な性格だと思っているが、実際には疑り深いところがあり、人から聞いただけの話は絶対に信じないほどの男だった。

 ただ、自分の目で見たものは、疑いようのない事実なので、疑う余地など今までにはなかったが、その時は疑ってみた。そして、疑った上で、自分を待っていたという結論に結びつけた。自分が何かを信用するのに、目に見えたり、触れてみたりなどの現実的なことだけではなく、感覚的なもので感じることもあるのだと思ったのは、その時が最初だったのかも知れない。

 彼女は、茂のことを最初から気付いていたようだ。茂の顔を知らなかったと言っていたのに、下を向きながら歩いてきた茂を見て、その人が自分の探している人だということを分かったのは、彼女なりの根拠があったのだろうが、そのことについて詳しく話をしたことはなかった。

――そんな話は無意味なことだ――

 この思いは自分の中だけに収めていようと思った。

「相手に悪いから」

 というよりも、自分の中にある麻衣への気持ちにブレが生じることを恐れていたのだ。

「あの、大久保茂さんでしょうか?」

 いくら自分を待っていてくれた女性だとは言え、いきなり聞かれては、さすがに怪訝な表情をしてしまった。すぐに後悔したが。変えてしまった表情を敢えて元に戻そうとは思わなかった。それは男としての意地がなかったのかと言われればウソになるが、それ以上に、こちらの考えを見透かされてしまうのを嫌ったからだ。他の人にならいざ知らず、彼女にだけは、絶えず優位でいたいと最初から感じていたのは、彼女と会うのが初めてではないような気がしたからだ。

 ただ、逆に彼女とこれからずっと付き合っていけるという想像はできなかった。ただ、素直に感じたこと、やってしまったことであっても、後には引けないくらいの気持ちでいようと思った。

「はい、大久保茂です」

 声のトーンは表情とは違って、低音というわけではなかった。普段と変わらない。いや、会社の上司に話す時のような「よそ行き」の声だった。他人事を思わせるような声のトーンに、怪訝な表情という両極端に感じられる茂を見て、麻衣は戸惑っているようだった。

「私、何と言ってらいいのか……」

 言葉を選んでいるのか、それとも、ここに来たのを後悔しているのか、麻衣はどうしていいのか困惑の色を隠せないようだった。

 しばらく会話が停滞したが、

「僕に会いに来てくれたのかい?」

「あ、はい」

 少し麻衣の表情に、血の気が戻ってきた。それまでの麻衣の表情には血の気がなく、かなりの決意の元に自分の目の前に現れたことを茂は感じていた。

 茂とすれば、どんな理由があるにせよ、自分を訊ねてくれた相手に、事実を伝え、我に返らせることが一番だと感じたのだ。その考えは的中していたのか、麻衣の表情は少しずつ落ち着いてきた。

「ここでは何なので、もしよろしければ、部屋に入りませんか」

 そう言って、首筋の汗を手に持っていたタオルハンカチで拭いとった。

「あ、そうですよね。気が付きませんで申し訳ありません」

 茂は、やっと笑みを浮かべて、今まで誰も入れたことのない自分の部屋に、初めての来訪者を入れることになった。

「何もお構いできないけど」

 と言って、いつも帰ってきてから最初に飲めるように、冷蔵庫に冷やしておいたアイスコーヒーをグラスに入れて、ストローとガムシロップを添えて、彼女に出してあげた。

「あまり広い部屋ではないけど、とりあえずそこのテーブルに腰かければいい」

 リビング兼ダイニングにしている部屋に招き入れたが、座布団だけはいつ来客があってもいいように二つほど余分に用意していた。それが功を奏する日が来るのは分かっていたが、予期せぬ形で訪れるとは思っていなかった。必ず何かの前兆があると思っていたのだ。

 そういえば、最近何もない毎日が続いていた。以前は、

「墓参りさえできればいい」

 というくらいにしか思っていなかった。それなのに、自分に何が起こったというのだろう? 今まで二十年近く生きてきて、何もなかった人生を当たり前だと思っていた。しかし考えてみれば、人生に周期というものがあるとすれば、まだその周期が来ていないだけではないか、そして周期をもたらすのは、

「何か、変化がほしい」

 と、他力本願でもいいから、そう感じることなのかも知れない。茂は他力本願ですら考えたことはない。自分の中に勝手な領域を作って、一人で封建的な社会を作っているかのようだった。

「俺を支配できるのは俺だけなんだ」

 という気持ちが強かった。

 だが、時間が経つにつれて、不思議な感覚に捉われていた。

 最初は何の前兆もなかったと思っていたが、彼女と出会えたのは、虫の知らせのようなものがあったように思えてならなかった。

「そういえば、お名前まだ聞いていなかったですね」

 というと、さらに彼女は顔を真っ赤にして、

「そうでした、ごめんなさい。私は名前を櫻井麻衣と言います。麻衣の麻は、あさという字で、麻衣の衣は、ころもという字を書きます」

「麻衣ちゃんか、言い名前だ」

 茂にとって麻衣という名前は好きな名前だった。高校の頃にクラスメイトで、最初から高嶺の花と思って諦めていた女の子の名前が確か麻衣だった。彼女とはあまり似ているとは思えないが、偶然であっても、同じ名前の女性を意識するというのは、因縁を感じずにはいられなかった。

 ただの変わり者で、あまり人と関わりたくないと思っていた茂にとって、麻衣の出現は、今まで自分になかった周期が巡ってきた瞬間のように思えた。

「俺は、ここで有頂天になってもいいのかな?」

 と思った。

 変わり者と言われようとも人と関わりたくないと思っていたのは、正直に言うと、人間嫌いなところがあるからだった。

 特に男性は嫌いだった。中学時代の体育の授業で着替えをする時など、見たくないものを見せられた気がして、さらに体臭のきつさは吐き気を催すほどだった。

――俺もこいつらと一緒なんだ――

 と思うと、まわりの皆より、一番汚いのは自分に思えてならなかった。その時に自己嫌悪に陥ったのだが、陥った理由を、

――こいつらが、俺を陥れたんだ――

 と、まわりに責任転嫁していた。

 まわりくどいやり方をしたものだ。普通にまわりの連中を汚いと思うだけではなく、自分を汚いと思わせ、さらにその責任をまわりに押し付ける。自分以外の連中だけを悪者にしたくないという考えでもあったのか、その時に考えていれば答えは見つかったかも知れないが、その時にわざわざそんなことを考えるようなことはしなかった。

 かといっても、今その時のことを思い出すなどできるはずもない。思い出したとしても、精神的にまったく違っているのだから、過去のことを思い出すことすら難しいだろう。特にその時の自分に戻ってしまわないと思いつかない発想である。それを思うと、

「もしできるとすれば、夢の中でのことだけになるだろうな」

 と思うのだった。

「大久保さんは、樹里さんをご存じなんですか?」

 いきなり樹里という名前を言われて、ギクッとしてしまった。今までの自分なら、その場から一刻も早く逃げ出したい気分になるほど、手足が震え、彼女の顔をまともに見ることができなかったかも知れない。

「じゃあ、君も樹里さんを知っているということなのかい?」

「ええ知っています。何度か一緒に過ごしたことがあります」

 何のことなのかさっぱり分からないが、麻衣から樹里の話を聞いて、

――俺は樹里とどういう関係だと言えばいいんだ?

 茂も樹里とは深い関わりがあると思っていたが、改まって聞かれたりしたら、どう答えるのか、答えが見つからないことに気が付いた。

 いや、それは他人に対してだけではない。自分に対しても同じことだ。松倉樹里と幼馴染だったという事実に間違いはないが、それだけの関係だったと自分に言い聞かせることができるだろうか。

――それだけで納得できるのか?

 樹里がいなくなってからの茂は、すっかり人嫌いになってしまった。

――人嫌いになったのはいつだったんだろう?

 と、たった今感じたことではないか。その答えは見つからないと思っていたはずなのに、それほど時間が経っていないのに、今まで分からなかったことが、どうしてこんなに簡単に見つかるのだ。

 そういう意味では、今までいいことのなかった自分の人生に、初めていいことが起きる周期が回ってきたとして、自分を納得させられるのではないだろうか。

「麻衣さんが僕のところを訪れたのは、少なからず樹里さんのことがあってのことだとは思うんだけど、樹里さんのことは今では誰も覚えていないくらい古い記憶になっているということをご存じの上で来てくれたと思っていいのかな?」

「ええ、樹里さんのことは確かに皆さんには過去の記憶になっているのは分かっているつもりです。ですが、それでも私は大久保さんに会わなければいけないと思って訪ねてきました」

「樹里さんが、子供の頃に行方不明になって、警察が捜索したにも関わらず、見つけることができなかった。そして七年が経って失踪者が法律に従って死んだことになってしまうということもご存じですよね?」

「ええ、もちろん知っています。実は私もその時、樹里さんの葬儀を影から少しの間眺めていたんですよ」

「あなたは自分の都合の悪いことは言う必要はないと思うけど、なるべく知っていることを話してくれると、僕は救われたような気がするんだ」

「そう言っていただけると嬉しいです。確かに私の口から喋れることは限られているのかも知れませんけど、私がこうやってあなたのところに来たのも、そのつもりだったからです。私の中にも終わらせてしまいたいことがあって、キチンとケジメヲつけなければいけないと思っているのも事実なんです」

「まずは、リラックスしてくださいね。僕は決してあなたを苦しめることを本意としない。そのことだけは分かってほしい」

「ええ、分かりました。私も言わなければいけないことをすべて話すことで、やっと前に進める気がするんです。今までの人生を振り返っての話になるので、少し言葉が詰まることもあるかも知れませんが、勘弁してくださいね」

「それはお互い様だと思っているよ。でも、それ以上に僕は君の勇気に敬意を表する」

「勇気なんてものではないですよ。ひょっとするとあなたに私の背負っているものを一緒に背負わせる形になるんじゃないかって思うんですよ」

「僕は、いつもまわりに引け目のようなものを感じていたけど、背負っているという考えを持ったことはないですね。背負うというのがどういうものなのか、意識したこともないです」

「でも、あなたは、なるべくまわりの人と関わりたくないと思っているでしょう? それ自体が何かを背負っているように思うんです。ひょっとして樹里さんのことなのかも知れないと私は思っていますよ」

「実は、樹里さんが行方不明になった時、最後に遭ったのが実は僕らしいんだ。警察の人からも僕に何度も聞きに来ましたよ。違う刑事さんが入れ替わり立ち代わりですね」

「まるで犯人扱いじゃないですか」

「だから、ただの最後に遭ったというだけで警察がしつこいほど来るので、悪くなくてもまわりは無責任に、何かあると勝手に思ってしまう。それは他人事だから、そう思えるんじゃないかなと思うんだけど、こっちもまわりからの目を気にしてしまうと、悪くなくても、何か悪いことを自分がしたと思ってしまうんだよ。誰が悪いわけでもないのに、それだけに僕は誰にこの思いをぶつけていいのか分からない。一人で籠っているうちに人間不信になってしまったというわけさ」

「それがあなたの背負っているものなのね? 人は大なり小なり、何かを背負って生きているものだって思っているんですけど、私はあなたを見ていると、やっぱりあなたに私の背負っているものを背負わせる気にはなれない気がしてきたわ」

 緊張しての戸惑いではない。一生懸命に考えて、考えれば考えるほど、また同じところに戻ってくるような袋小路に入り込んだのではないだろうか。だが、彼女は最初から決意をしていたはずだ。決意が少しくらい鈍ろうとも話を止めるような、彼女は損な女性ではなかった。もし、決意が鈍って話をやめてしまうような女性なら、あれからもう二度と茂の前に顔を出さないだろうし、偶然であっても、出会うことは決してなかったに違いない。ただそれが本当にいいことなのかどうか、その時の茂にも麻衣にも分かるわけはなかったのだ。

 茂は自分の中に何か違う感覚が芽生えていることを、その時まだ気付いていなかった。それが以前から感じていたものを思い出そうとする感覚なのか、それとも、これから起こる自分の心境の変化なのかが分からなかった。ただ、そのことに樹里が絡んでいること、そして運命の悪戯か、姪っ子である由梨が樹里にそっくりであることが影響してくるのだが、樹里がいなくなったことへの自責の念は、ただ、まわりからの目だけでないことに違いはないようだ。

「大久保さんは、ずっとここで生活をされているんですか?」

「ええ、でもそれまではいろいろと転々として、ここに流れ着いたという方が正解かも知れませんね」

「そうですか。私は樹里さんのことであなたに話をしにきたんですが、今のあなたにはすぐにいう必要はないような気がしました。あなたが、彼女に対して罪の意識を抱いているのは分かったのですが、今すぐ私が話したとしても、あなたの罪の意識を和らげることはできないような気がします、。ひょっとすると、あなた自身も、なにを今さらと思っているんじゃないですか?」

「ええ、その通りですね」

 彼女は何か話をしなければいけない目的を持って、茂の前に現れたに違いないのだが、茂という人物に対しての自分のイメージとかけ離れたところがあったのか、それとも茂に対して、何かそれまでに感じていた思いと違う感覚が生まれたのか、どちらにしても、麻衣は茂に会う前と今とでは、かなり思いが変わってきたようだ。

 茂の態度には、喜怒哀楽が感じられない。そのなかでも哀の感情が一番欠如しているのではないかというのが第一印象だった。しかし、話をしているうちに哀だけではなく、他の感情も著しき欠如しているのを感じた。それは麻衣にとって懐かしく感じられるものであり、子供の頃の自分を思い起させるものだった。

――私が受けた屈辱、いや、恥辱について分かってくれる人がいるとすれば、この人しかいない――

 と、麻衣は感じていた。

 茂が何を感じているのか分からないが、麻衣にとって、茂に会いに来たことは運命であり、運命を結びつけてくれたのが樹里であることを分かっている。いずれは樹里のことを話さなければいけない、そして、本当は時間が経てば経つほど話しずらくなるのではないかという思いも強くあった。それでも、今はまだ時期尚早であると、麻衣は感じていた。

「私、実は本当の両親を知らないんです」

 麻衣は自分の話を始めた。それを聞いた茂の眉間が微妙に歪んだのを、麻衣は見逃さなかった。

――まったく感情が欠落しているわけではないんだわ――

 と感じられただけでも嬉しかった。

「私、こんなことを初対面の人に話したことはなかったんですけど、相手が茂さんなら何でも話せる気がしてきました」

 麻衣は、ここから敢えて茂のことを、「茂さん」と呼ぶようにした。それに対して意識がないのが、まったくの無反応であった茂だが、黙って麻衣の顔を見つめている。興味深げというよりも、早く話の続きを聞きたいという気持ちが、カッと見開いたその目から伺えた。

「お父さんとお母さんが、本当の親でないことを知ったのは、私が十歳の頃でした。私は何かの理由で孤児院にいたんですけど、今の両親に引き取られた時、まだ五歳だったそうです」

「それで?」

「五歳というと、ある程度物心がついていてもいい頃だったんでしょうけど、私が閉鎖的になっていたので、思考能力の成長がかなり遅れていたらしいんです。実際に言葉が喋れるようになったのも遅かったようで、喋ろうと思えば喋れたんでしょうけど、幼少の頃に何かショッキングなことがあったので、自分から喋ることができなくなったらしいんです。それでも、孤児院で暮らしているうちに少しずつ話ができるようになって、孤児院同士で友達もできました。その中にいたのが樹里さんだったんです。樹里さんは最初の私と同じでした。言葉も喋らなければ、表情がまったくない。そんな女の子で、ひょっとすると私よりも、もっと辛い目に遭ったのかも知れないと思いました。あなたに話さなければいけない樹里さんの話はそのずっと後のことなんですが、とりあえず知り合ったのは、その時だったんです」

 知り合うきっかけと、本当に茂に話さなければいけない話とは、時間的にもだいぶ後のことなのかも知れない。それは茂が感じたことで、当たらずとも遠からじではないかと思った。

「麻衣さんは、かなり苦労されたんですね?」

「子供の頃の記憶ですからね。私を引き取ってくれた人を本当の親だと思っていたんです。親が自分のことを忘れずにいて、引き取りに来てくれたってね。でも、今から思えば、引き散ってくれた親は、私に対して、悪かったという感情がまったくなかったんです。本当の親ではないんだから、当然ですよね。でも、私は理不尽に思えて、十歳になる頃までは、親に対して心を開くことができませんでした。それでも、育ててくれている親は、私に愛情を注いでくれたんですよ。そのうちに、私の方が根負けして、別に謝ってくれなくてもいいって思うようになりました。それから私も少し相手に対しての感情の一部に欠落した感情があるように思えたんですが、それがどういう感情なのか、すぐには分からなかったですね」

 一気にまくしたてるように話したつもりだったが、時間的にはさほど進んでいない。自分では感情を込めていないつもりでも、実際に感情が籠っていると、時間が思っていたよりも早く感じられるものだということを、その時、麻衣は感じていた。

 麻衣は、まだまだ成長の過程にいたのだ。人と話をするうちに次第に相手の気持ちを分かるようになってきているのも、成長の一つである、麻衣は、晩生であり、まだまだ進化する余地を残した女性であるいうことを、次第に感じてくる茂であった。

「実は私、育ててくれた親のところから出てきちゃったんです」

「家を出てきたのかい?」

「ええ、育ててくれた方は、裕福な家庭の人で、気が付いた時から私はお嬢様として育てられていたんですよ」

 話を聞いていたり、素振りを見ている限りでは、お嬢さんという雰囲気はほとんどしない。むしろ、茂は麻衣に対して自分に近い人間のように思えていた。話をしていて、肝心なことを話してくれないとしても、それは仕方がないとまで思っていたくらいだ。麻衣の話を聞いて、お嬢様として育てられたとしても、第一印象が変わることはない。ただ、それは茂だからであって、他の人なら、きっと麻衣に対しての見方を変えていたに違いない。

「いいよ、こんなところでよければ、いつまでもいてくれていいんだ」

「ありがとうございます」

 麻衣が、どういう理由で家を出ようとしたのか分からない。ただ、育ててくれた親が嫌になって出てきたわけではないことは一目瞭然だった。もし、育ててくれた親が嫌いになって出てきたのであれば、馬までのいきさつを話すわけがない。今までずっと一人だと思っていた茂にもやっと「仲間」ができた気がして嬉しかった。


 今年茂は二十五歳になっていた。

 麻衣が茂の部屋に来てから五年が経っていた。茂はその間に就職も何とか決まり、麻衣との生活に不安がないと言えばウソになるが、就職が決まるまでの不安定な精神状態の頃に比べればマシな方だった。

 麻衣とは、その頃一番言い争いをしていた。いつも原因を作るのは茂だったが、就職も決まらない状態で、最初はそれでも慰めてくれる麻衣に感謝していたが、時間が経つにつれ、慰められることが却って自分に対して追いつけているような気がして、精神的に荒れてしまった。

 情緒不安定で、

――世の中で一番不幸なのはこの俺だ――

 と思うようになってしまっていた。

 海の親は誰か分からず、孤児院に入れられ、引き取られたという過去は、大いに同情するに値する。しかし、引き取られたところで、お嬢様として育てられたということは、引き取られてからは、それまでの人生を一変できるほど幸せだったと言えなくもない。

――それに比べて俺は……

 茂はいつも何かに追われていた。夢を見ていても、怖い夢を見て飛び起きることの方が多い。それは麻衣がこの部屋に来てからも変わらなかった。

「大丈夫?」

 と言って、心配そうに覗き込んでくれるが、

「ああ、大丈夫だ」

 と、息を切らしながら、呼吸が整うのを待つしかなかった。そんなある日のこと、同じように、怖い夢を見て、飛び起きた時のことだが、

「麻衣?」

「何でしょう?」

「君は、夢の中で何かに追いかけられる夢を見たことがあるかい?」

「ありますよ」

「君はその時、追いかけてくる者を見ようとする方かい?」

「私は、確認しようと思います」

 思ったよりも悩むことなく答えた麻衣に、

――彼女は、俺と同じ考えを持っているのかも知れないな――

 と感じた。

 そして、改めて聞いてみた。

「どうしてなんだい?」

「その人が誰であっても、私がその人の顔を見た瞬間に、目が覚めるからです。人から追いかけられる夢というのは、怖い夢ですよね。どうしてその夢が怖いのかというと、追いかけられること自体が怖いというよりも、誰に追いかけられるかということが怖さの正体だって思うんですよ。それに夢というのは、怖さの極限に立った時、目が覚めるっていうでしょう? だから、敢えて私は、相手を確認しようと思います」

 茂はやっと落ち着いてきて、笑顔を見せる余裕があった。

「ということは、麻衣は途中から、見ているのが夢であるということが自分の中で確信に変わっているということだね?」

 麻衣もニッコリと笑って、

「ええ、その通りですね。だから、怖い夢を見ている時ほど、怖いけど相手を確認しようと思います」

「それで、確認はできたの?」

「私の場合は、確認できる前に目が覚めたことも、確認したことで目が覚めたこともあるんです」

「ということは相手を見た?」

「ええ、しかも、今までに二回あるんですけども、その二回とも、相手が違っていたんですよ」

 この話には少し興味があった。茂も同じように相手を確認しようと思ったことがあったが、どうしても確認する前に目が覚めてしまった。

「私が確認できた一人は、知らないおじさんでした。その人は私を追いつめると、私の手を掴もうとしたんです。その時、どうして目が覚めないのか、自分でも分かりませんでしたが、襲われると思いました。その夢を見た時、私は高校生くらいだったんですが、夢の中の自分は、まだ幼女でした。そう、今の両親に引き取られる前の自分、記憶のない時期の自分だったんです」

 麻衣は、自分に幼女の頃の記憶が欠如していることを、話してくれていた。

――よほど嫌な思いをしたんだろうな――

 という意識はあった。それを思うと、麻衣が怖い夢を見る時に、いつの間にか幼女の時期に戻ってしまうのも分からなくもない。自己防衛本能から、怖い夢は恐ろしいことは、記憶のなかった頃のことだとして封印しようとしているのだろうから……。

「じゃあ、もう一人は誰だったんだい?」

「それが、もう一人の自分だったんです。この時夢を見ている自分は子供に戻っていたわけではなく、大人になっていた自分でした。その自分と瓜二つの自分が迫ってくるんです。これほど怖いことはありませんでした。確かに自分なんですが、まさか自分にあんな表情ができるなんてと思うほど、狂気の形相だったんです」

 茂はその話を聞いて、

「俺も本当は見ていたのかも知れないな」

「それはどういうこと?」

「俺の場合は怖くて相手の顔を確認できないんだ。ひたすら逃げようとする。それでも後ろが見えないと怖い。時々、後ろに迫ってくる気配だけでは不気味なので、相手がいることを確認しようとする。もちろん、顔を見ないようにしながらね。俺は本当に臆病なんだと思う。何度も後ろを気にしているうちに、気が付けば目が覚めている。ひょっとすると、目が遭ってしまい、相手を確認したことで目が覚めたのかも知れない」

「あなたが、臆病だとは私には思えないけど?」

「いや、臆病だから、こんなに何度も追いつめられるような夢を見るんだと思った。夢を見ることに対して、どうしてなんだろうという思いがないと言えばウソになるが、それはあくまで、どうして俺なんだろうという気持ちの方が強くて、夢を見ながら、自分の運命のようなものを呪っていたりするんだ」

「じゃあ、何も見ていないのに、夢から覚めたというの?」

「見ているかも知れない。夢というのは、目が覚めてくるにしたがって忘れていくものだって思うんだ。俺は恐ろしい夢を見ると、忘れることはないが、肝心なことだけが欠落していると思っている。だから余計に目が覚めてから感じるのは、怖い夢だということなのかも知れない」

「夢というのは、本当はいつも見ていて、覚えているのか、忘れてはいないが、記憶の中に封印しているものなのかも知れないわね」

 と、麻衣が結論めいたことを話してくれたので、茂は同じ夢の話でも、少し違った話をしてみようと思った。

「君は、夢の続きというのを見ることができると思うかい?」

 急に話を変えても、麻衣は別に驚いたわけでも、いつもと違うリアクションを示したわけでもなかった。

「私は見ることはできないと思っています」

「どうして?」

「夢から覚めるというのは、それなりに理由がある場所で目が覚めるんだと思うんです。中途半端に終わってしまった夢でも、それ以上見てはいけないから終わったんだって思うんですが、茂さんは違う考えなんですか?」

「僕は少し違う考え方を持っているんだ。夢を中途半端に見ていると思っていても、本当は最後まで見ているんじゃないかって思うんだ」

「どういうことですか?」

「君と僕の考え方の違いは、君は夢をまったく別の世界のように思っていることで、僕の場合は、現実があって夢があると思っているところなんだ。夢というのは、本当は全部見ていて、目を覚ますまでにどれだけ覚えているかということではないかということだね。だから、自分の意識の中には夢を格納しておく記憶装置のようなものがあって、記憶とは別物として、封印されているんじゃないかな?」

 麻衣はその言葉を聞いて、じっと茂の目を見ながら、

「私も似たような考え方を以前は持ったことがありました。いつの間にか忘れてしまっていたんですけど、今の茂さんの話を聞いて思い出してきました」

「人は、どこかで一度は夢について考えるものだと僕は思うんだけど、考え方も人それぞれでいいと思うんだ。ひょっとすると、それがその人の真実であって、いくつかパターンのようなものがあるのかも知れないね」

 麻衣の話は、一見矛盾しているようにも感じたが。夢にパターンがあるのであれば、それも仕方のないことだと思う。茂も自分の理論を語っているつもりだが、人によっては無運して聞こえるかも知れない。夢についていつも一人で考えていたが、一緒に話ができる相手ができたというのも悪くないと思った。


 麻衣は最初の一年間は、ほとんど部屋から出ようとはしなかった。茂が情緒不安定になった時も部屋の中にいて、張りつめた空気の中で佇んでいたが、茂が落ち着いてきたのも、麻衣が部屋にいてくれるからだと気が付いた時、麻衣はやっと部屋から出ることができるようになっていた。

 田舎町なので、どこに行くというわけでもないが、なるべく茂は自分から麻衣を誘ってどこかに出かけようという気になっていた。

 田舎町ではあるが、電車に乗って四十分ほどで、都会に出ることはできる。一緒に出掛けたことも何度かあり、朝から出かけて、夕食は外食というのも少なくなかった。麻衣は映画が好きで、よく一緒に出掛けた。

「私、日本映画が好きなんです。恋愛モノとかいいですよね」

 街に出ると、いつもはしゃいでいた麻衣だったが、麻衣を正面から見るというよりも、その背中を見つめていることが多いのを茂は気にしていた。落ち着いた麻衣を正面から見つめるのもいいが、次第にはしゃいでいる麻衣の後ろ姿を見つめるのも悪くないと思うようになっていた。

 映画館に入ってじっとスクリーンを見ていると、急に館内が狭くなったような気がしてくる瞬間があった。そんな時、隣を見ると、麻衣がこちらを見つめている。スクリーンを見ているはずの麻衣がこちらを見ているのを感じるとドキッとして、真っ暗な部屋の中で麻衣の眼光だけが光っているのを感じると、まるで猫のような雰囲気になっていることに気付いた。

 麻衣が最初に部屋の前で待っていた時も、同じような気持ちになったのを思い出した。

――俺が保護してあげないといけない――

 それは麻衣が迷い猫であり、自分の部屋の前に狭い空間ができたと感じたのを思い出した。

 それからの茂は麻衣を自分の所有物のように思ってきた。平等の立場にならなければいけないのだろうが、茂はそこまで大人になりきれていなかった。いや、平等に感じることが大人の考えなのかどうかということ自体、おかしなことではないかと思っていた。

 麻衣が最初の一年間表に出なかったのも、表に出るのが怖かったからで、平等な気持ちでいたとすれば、その気持ちを分かってあげることができず、無理やりにでも引っ張り出そうとしたかも知れない。その頃の麻衣は、ちょっと触れただけで破裂しそうなデリケートな存在だった。

 麻衣に勇気がなかっただけではなく、茂にも麻衣を隠しておきたいような気持ちがあった。自分好みの女性にしたいという気持ちがあったのも事実だったが、麻衣が心を開くまでは、決して手を出したりしなかった。それは茂の信念であり、

「本能に勝てるものがあるとすれば、それは自分の中の本当の信念なのだろう」

 と思っていた。

 茂は麻衣がここに来てからも、墓参りだけは欠かさなかった。墓参りは早朝、麻衣が完全に寝入っているのを確認し出かけていた。朝日が昇ってくるのを背中に受けて、墓前に手を合わせる、

 その頃になると、墓参りをしているのは自分だけだと思っていたが、それが間違いだということに気が付いた。誰が参っているのか分からない。しかも痕跡を残さないようにしているのは、自分が墓参りしていることを、誰にも知られたくないからなのか、それとも茂が墓参りしているのを知っていて、茂に知られたくないという思いが強いのか、作為があることに、茂は少し違和感を持つようになっていた。

 違和感はあったが、だからといって、墓参りをしているのが誰なのか知りたいとは思わなかった。何となく想像で分かっていたのだが、どちらかというと顔を合わせたくないと思っている。

――墓参りをしている人はきっと女性だ。しかも、知っている人……

 という思いが頭を過ぎる。

 その人の顔を正面から見ることは怖いと思っていた。もし面と向かって出会えば、相手の眼光に目を逸らしてしまうのは必至であり、もし自分にできることがあるとすれば、後ろから眺めているしかないという思いだけだった。

 麻衣が表に出るようになってから、街に出かけた時、自分よりも前を行く麻衣の姿を見ている光景を思い浮かべるようになったのは、墓参りをしているもう一人の誰かを感じたからだった。

 墓参りをしているもう一人の誰かが、早朝に墓参りをしているのが茂であるということを知っているのであろうか?

――本当は知られたくないな――

 と茂は思っている。

 知られたくないという思いは、茂が自分の部屋に麻衣を「隠している」感覚に似ていた・麻衣が部屋から出たくないと思っているのは、表が怖いからというだけではなく、茂が考えている、「隠している」という感覚を麻衣が知っているからなのかも知れない。

 家を出てきたのはいいが、行くところもなくて、迷い猫のように茂の部屋に転がり込んだ。ここで茂を怒らせて部屋から放り出されたら、本当のノラネコになってしまう。ただ、麻衣は自分が猫のようだということに気が付いていた。決して犬ではないのだ。

「犬は人につくが、猫は家につく」

 と言われる、表に出ようとしないのは、家に自分が馴染むまで表に出るのが怖いという感覚を持っているのが麻衣だった。

――でも、いつになったら馴染むのかしら?

 それは茂に馴染めないというわけではない。

――ではなぜ?

 麻衣は気付いていなかったが、麻衣の中で、どうしても茂に対して許せないところがあるところがあった。それは麻衣を隠そうとしているところであった。その思いは麻衣を独占しようとしているわけではなく、自分が「飼っている4という感覚を持っていることだった。その思いが次第に強くなると、

――どうして、家を出てきたのかしら?

 というところに考えが立ち戻ってしまうからだ。

 もう親のところには戻れないと麻衣は思っている。茂についていきたいという思いは重々あるのだが、どうしても許せないところがあった。

 麻衣が部屋に馴染んできて、茂とも対等に話ができるようになると言い争いができるようになったのもそのおかげであった。

 しかし言い争いができるようになると、茂に対して何を許せないと思っていたのかということを忘れてしまった。

――あの人を許せないと思ったのは、そのことだけじゃなかったんだ――

 と思うと、麻衣は今でも続けている茂の墓参りが気になってきた。

 茂は麻衣が気付いていないと楽観していたが、実際には麻衣は知っていた。そして誰の墓に参っているのかも分かっていて、敢えて知っていることを口にはしなかった。

――きっとこのまま口にすることはないでしょうね――

 と麻衣は思っていたが、もし口にする気になってくることがあるとすれば、それはこの部屋から自分が出て行く時ではないかと麻衣は感じていた。


 茂は子供の頃を思い出していた。

 茂は好きな女の子がいた。その女の子が急に行方不明になった。その女の子の名前は松倉樹里。大人たちは事件としていろいろな憶測を話し合っていた。警察も動いているようで、子供の茂には、何がどうなっているのか、情報を整理することはできない。

 樹里が行方不明になったのは、誘拐されたからだと茂は信じて疑わなかった。遊んでいてもいつも最後に一人になるのは樹里だったからだ。

 そのことは茂にも気になっていた。本当は一緒に遊んでいてあげたかったが、茂の家は貧しく、茂は決まった時間に家に帰らなければいけなかった。家の手伝いをしなければいけなかったからだ。

 父親は仕事で遅くなる。母親は夕方くらいから仕事に出かける。茂は母親が出かけるまでには家に帰って、母親が出かけるまでの手伝いをしなければいけなかった。好きな女の子ができたなどと、そんな甘っちょろいことでは到底生活していけないという思いを子供心に持っていた。

 しかも、彼女に自分の気持ちを知られたくないという思いもあった。複雑な心境であったことは間違いない。

 しかし、生活していく上での考えは、実に簡単なものだった。理屈を組み立てて、一つの線にすることができさえすればそれだけでよかった。それだけ生活に選択の余地がなかったとも言えるのだろうが、貧しいということが頭の中でトラウマになっていたことにその頃は気付いていなかった。

 だから、考え方は単純なものだった。応用が利くわけでもないし、貧しさから抜け出そうという思いもなく、それ以上にその日一日が無事に終わればいいという考えだった。それは両親ともに同じで、最初は何とか抜け出したいという思いもあったのだろうが、生きていくことに必死になっているがゆえに、余計なことを考える余裕すらなくなってきたのかも知れない。

 樹里が誘拐されたと思ったのも、その単純な考え方の中から生まれたもので、一人の女の子が忽然と姿を消した。そして消息がまったく掴めない。つまりは、自分だけで動いたわけではないということだ。

 目撃者がいないのは、最初から誘拐とするのに、目撃者のいるところなど選ぶはずもない。ただ、誘拐者がそこまで計画していたかどうか定かではない。田舎町のこと、偶然目撃者がいなかっただけかも知れない。時間が経つにつれて、そっちの方が信憑性があるように感じたのは。

――俺が誘拐者だったら?

 と、自分に置き換えてみたからだ。

 それは誘拐者が貧困者で、自分も同じような立場になれば、誘拐も考えると感じたからだ。

 だが、信じられないのは、誘拐だとすれば、脅迫が一度もなかったということだ。

――営利誘拐――

 誘拐というのは、身代金を取ってこそ成り立つものだ。ただ連れ去っただけでは、誘拐した意味がない。理論を一直線にしか考えられない茂には想定外のことである。

 誘拐以外に感がられなかった自分の考えを曲げなければいけないと考えた時、それ以外には何があるのかを考えてみた。

 自分からいなくなることを選んだ? いわゆる家出ということになるのだろうが、まだ小さな女の子が家出をして一人で行き残っていけるわけもない。

 すると、その時にすでに誰かに殺されていたという考えが今度は頭に浮かんできた。それ以外に考えられないと思って、今までずっと時を重ねてきたのだが、麻衣の証言により、樹里はその後も生きていたということだ。

 最初は、麻衣が言いたくないのであれば、別に聞く必要もないと思っていたが、最近になって樹里のその後が気になってきた。

 麻衣は、自分のところに来て、だいぶ落ち着いてきた。育ての親のことを本当に忘れてしまったかのように振る舞っているが、実際はどうなのだろう? いくら血が繋がっていないとはいえ、いや、繋がっていないからこそ、育ててくれた相手に対して裏切るようなことができる女性には見えない。

「麻衣は何か隠している」

 と思うようになってきた。

 それは自分の育ての親や、育ってきた環境、あるいは、樹里のことにしても、それぞれに繋がるような何かを隠しているように思えてならない。それは、茂に対してのことであって、他の人に関係のあることではない。そもそもなぜ茂のところに来る決心をしたのかということも曖昧になっている。

「いずれ、麻衣に問いたださないといけない」

 と、思っていた。その時期が近づいてきたことを、茂は自覚し始めていたのだ。

「麻衣、君がうちに来てから、そろそろ五年が経つんだが、そろそろ今までのことを話してくれてもいいんじゃないか?」

 最初の一年間は、怯えて過ごしていた麻衣だったが。その後の三年間ほどは、楽しさの絶頂だった。有頂天になっていたと言ってもいいだろう。今までの人生を凝縮し、反動で破裂させたような三年間だったのではないだろうか。茂も、

「このまま時間が止まってくれればいいのに」

 と、真剣に考えたほどだ。

 しかし、時間が止まるはずはない。時間が止まるということは、茂にとっては、心臓が止まるのと同じで、自然に動いているものを止めるというのは、死を意味するのではないかと思うのだった。

 茂は楽しい時にでも、必ず頭の中で、反対のことを考えている。

「好事魔多しという言葉もある」

 という思いが強く、それが最後の決定を鈍らせることに繋がることもあった。

 麻衣とここで暮らすようになって、麻衣を自分のモノのように思っているのは仕方のないことだと思っていたが、その反面、何か嫌なことが起こる前兆ではないかと思うような予感を感じることもあった。予感も何度も感じていれば感覚がマヒしてきて、

「悪いことなど起こったりしないんだ」

 と思うようになると、確認しなければいけないことがあったとしても、どうでもいいと思うようになってくる自分が怖いと感じるようになってくるのだった。

 時間に流されてしまうのは、自分の本意ではない。逃げに繋がると思うからだ。

 麻衣に対して、ここでの五年という歳月がどれほどのものだったのか、茂にははかり知ることはできないが。茂にとってのこの五年間は、あっという間だったように思えていた。茂の気持ちを察してか、麻衣は少しずつ話をしてくれた。

「実は私、樹里さんと一緒に育ったんです」

 意外と言えば意外な言葉だったが、一瞬、麻衣が話をしているのに、自分の知らない麻衣が目の前に鎮座しているような気がした。自分よりも先に進んでしまっている麻衣がいて、その背中が遠のいていかないように、必死に追いかけている感覚だ。

「今の茂さんの目を私は想像していたので、本当は話したくなかったんです」

 と麻衣は言ったが、茂が自分でどんな目をしているのか、実際には分からないので、さらに麻衣の言葉が他人事のように感じられた。

 しかし、麻衣は茂に追いつめられているような気がしているのかも知れないと思うと、後ろ髪を引かれるおもいになるが、それでもいつかは知らなければいけない真実、今を逃せば、本当に遅くなればなるほど、話すことができなくなってしまうだろう。そうなると、自分の中にどれほど抱え込んでおけるかが問題になる。放っておくのは、お互いのためにならないことは明らかだ、

 この期に及んで、麻衣は話をはぐらかそうとしている様子はない。目を見ていると覚悟を決めた目に見えていた。しかし、何から話していいのかを考えているのだろう。五年前に来た時ですら、かなり昔の過去のこと、そう簡単に時系列に纏めることなどできるはずもない。

「何から話していいのか……」

 と、話あぐねている麻衣を見て、茂は焦ることをせずに、

「何でもいいんだ。一言話せば、俺が聞くこともできる」

 というと、少し安心したのか、小さな声で、

「分かりました」

 と、答えた。

「私は、以前にもお話したように、実の親ではなく、養父母に育てられました。しかも、自分には何か病的なところがあって、友達もできない子供だったので、親も随分心配していたようです。自分たちが本当の親でないことが気になっていたのか、それとも親という立場にはおのずと限界があると思ったのか、ある日、親が一人の女の子を連れてきました。そして言うんです。『この娘がお友達になってくれるって』と……。それが、樹里ちゃんだったんです」

「人さらいということ?」

「そうじゃないんです。夕方まで遊んだら、親が来て、この娘を送っていくって言うんです。最初は親に連れられておうちに帰っていたようなんですが、次第に彼女が帰るのを嫌がるようになりました。その理由は私には分からなかったんですが、親は納得したみたいなんです。その時の親の気持ちがどんなものだったのか、想像を絶しますが、さぞや家に帰ると、嫌なことが待っているのかも知れないということは、子供の私でも分かりました」

「樹里ちゃんとは仲良くなれたのかい?」

「ええ、一緒に遊んでいるうちに、遊び以外の好みも意外と似ていることに疑い気付いたので、結構息が合っていたように思います。で、そのうちに彼女も私に気を許すようになって、話を聞いてみると、どうやら、家で父親に虐待のようなことを受けているって話してくれたんです。傷跡らしいものも見せてくれたので、あながちウソでもなさそうでした」

 そう言って、麻衣は少し寂しそうな表情になった。

「麻衣はその時、樹里ちゃんを気の毒に思ったんだね?」

「ハッキリと気の毒だとは思いませんでした。ただ、彼女の傷が何かを訴えているように思えてならなかったんです。その時に見た傷と、彼女の気持ちは一致しているのかな? って感じたんですよ」

「確かに人は誰でも人には言えないような過去を持っているというけど、幼少の時に受けた心の傷がどのようなものかというのは、これも人それぞれだからね」

「そうですね。幼少の頃に受けた心の傷は、成長するにしたがっていろいろ形を変えることもあるでしょうし……」

「どういうことなんだい?」

「その人の性格にもよるんでしょうけど、忘れることができず、そのままトラウマとなってしまう人、忘れようとして、忘れたつもりでもトラウマが残ってしまい、気が付けば苦しんでいる人、そして中には記憶が欠落してしまう人もいるでしょうね」

「記憶が欠落している人は、本当は忘れてしまったわけではなく、自分の記憶の中に封印していると思うんだけど、そのせいで、言語障害などの障害を残してしまう人も多いでしょうね。自分だったら、どうなるだろうって考えてしまう」

 と、言いながら寂しそうな表情をする麻衣、それを見て、茂は考えていた。

――麻衣は、まるで他人事のように話しているけど、本当は麻衣も同じように何か傷を持っていて、それを悟られないようにしようと自分で記憶を封印しているのかも知れないな――

 その結論は性急かも知れないが、少なくとも実の親と育ての親が違うという時点で育つ環境は他の人とは違う。裕福な家庭で育ったということだが、愛情に変わりないとしても、まわりの環境が自分を納得させようとしている気持ちを許すかどうか、茂には分からなかった。

 麻衣は続ける。

「樹里ちゃんは、それからしばらくして、家からいなくなったんです。親は、家に帰ったと言っていましたが、どうもそうではなかったようで、この街からも見えるでしょう? ほら丘の上に昇ると見えてくるくじら島」

 茂は、くじら島という言葉を聞いて、ビクッとした。

「くじら島って、あの人も住んでいないような狭いところ?」

「ええ、でもこちらから見ているから狭く感じるんだけど、実際には結構広いらしいの。昔、戦時中は。あそこに秘密の工場があって、いろいろな研究が行なわれていたらしいの。しかもあそこは戦後、国の所有になったらしいんだけど、国が持てあまして、結局県に委ねるようになって、さらに、それが私たちが住んでいる街に払い下げのような形になったらしいの。本当に稀な例らしいんですが、そのせいもあってか、まるで二束三文の状態だったらしいわ」

「そんなことがあるんだ」

「ええ、軍需工場は、国の土地になった時点で取り壊されて、それ以降、まったく手入れらしい手入れは行われていないので、あのような人が住めるはずもないところになってしまったようなのね」

「たしかに、あそこには入り江もないように見えるから、船をつけることができないように思うけど?」

「でも、それは大丈夫。工場が取り壊されても、船着き場は残っているのよ、手入れしていないから、遠くから見ていたのでは分からないんですけどね」

「そうだったんだ。でも、人が住める環境ではないよね?」

「それも、カモフラージュさえすれば、誰にも気付かれずに済むことはできるんです。森のようになっているところの反対側に、屋敷のようなところが残っているんですよ。戦後すぐは、サナトリウムとして機能していたらしいんですが、そこに樹里ちゃんは住んでいたようなんです。サナトリウムは、実は最近まで存在していて、そこに最初は入院する形だったんだけど、精神的な病いが治っても、彼女は帰ろうとしなかったんです。まだ小学生くらいだったんだけど、彼女には自分が帰る場所はすでにないことを知っていたんですよ」

「まるで浦島太郎のお話のようだな」

「ええ、そうなの、彼女がくじら島から出るということは、玉手箱を持たずに、元の場所に放り出されるのと同じことなの。サナトリウムの人もそれを分かっていたので、彼女をそのままくじら島に「保護」する形が一番いいと思ったんでしょうね」

「それは彼女が望んだことなのだろうか?」

「私は、きっと彼女も望んでいたと思うわ。ただ、最初に家出をしてきた時には、ここまでなるとは思っていなかったかも知れないけど、それでも、そのままいるよりはよかったのかも知れない。私が樹里ちゃんのことはウスウス気付いていたんだけど、本当のことを知ったのは、最近になってのことなんですよ」

 茂は先ほどから気になっていたのだが、麻衣の手にはスケッチブックが握られていた。それは結構古いもので、年季が入っていると言っても過言ではなかった。

 それを茂がチラチラ見ていることは、麻衣には分かっていたはずだ。ただ、話に夢中で忘れているのではないかと思ったが、そうではなかった。麻衣はおもむろにスケッチブックを開くと、二人の会話の間にあるテーブルに置いた。

「これは?」

「麻衣ちゃんが、サナトリウムで治療を受けている時に描いたもの」

 そこにはパッと見、何を描いたのか、ハッキリとはしないものが描かれていた。

「まるでピカソの絵のようだね」

 最初は、やたらと色を使っていて、いたずらに出たらめに描かれているように思えたが、よく見ると、色が重なっているところはない。綺麗に色が区画されている。区画されているものだとして見ていると、形になってくるものが自分の知っている世界にはない想定外のものに見えて仕方がなかった。

「まったく分からないでしょう?」

「ええ」

「でも、これは樹里ちゃんが自分の意志を持って掻いたもの。何かを訴えようとしていることは、先生が見ればよく分かると言っていたらしいの」

「何を訴えようとしていたんだろう?」

「樹里ちゃんは原色が大好きだったようで、色が混ざっていないのは、彼女が意識しているというより、本能からのものかも知れないわね。そして青い部分は私たちが感じるグレイで曖昧な精神状態、真っ赤に見えるのは、事実として見えてきたものを描いたもの。そして黄色は、自分の中の整理できない部分を、気が違っているという意識を持って、わざと黄色で示しているというのよ。ここから何を感じる?」

 すべての色が分散して描かれているわけではなく、陸続きの地図を見ているようだ。すべてが曲線で描かれているので最初は分からなかったが、

「これは、色がバラバラに配置されているのでよく分からなかったけど、それぞれの色の配分がすべて同じ大きさになっているんだ」

 茂は、自分で言って、

「信じられない」

 と付け加えた。

「でも、さすがにあなたはすごいわね。私が聞いたからマジマジと見たから分かることもできたんでしょうけど、普通はすぐに分かるものではないわ。やっぱりあなたは、樹里ちゃんの「唯一の味方」だったのね」

 味方であったことは否定しないが、まさか唯一とは思わなかった。もちろん、それ一緒の街で済んでいる時のことであって、いなくなってからの自分の知らない樹里が、一体どんな気持ちだったのか思い図ることは、今となっては不可能に近い。

 麻衣がどうして今になってこのことを話してくれたのか分からないが、

「どうして、今になって?」

 と訊ねると、

「どうしてなのかしら? しいて言えば、このスケッチブックの意味が分かったからなのかも知れないわ。でも、あなたにこうも簡単に看破されるとは思わなかったわ。私がずっと考えていても分からなかったのに」

「僕にも分からないけど、少なくとも、麻衣よりも昔の樹里ちゃんを僕が知っているということかな? 根拠としては薄いものなんだけどね」

「確かに根拠としては薄そうだけど、でも、確かにその通りなのかも知れないわね。私にとっても樹里ちゃんとは少しの間だけど、一緒に遊んだ記憶が残っているわ。でも、スケッチブックの意味を分かってきたのは、敢えてその記憶を封印してしまおうと思ったからなの。皮肉なものだって私は思うわ」

「でも、自分の中の感情が、喜怒哀楽、すべて同じ大きさになっているというのは、バランスが取れていると言えるんだろうか?」

「私はそうとも言えないと思うの。それこそ人それぞれなのよ、すべてが均衡が取れていれば、感情が表に出ることはないでしょう? まるで抜け殻になってしまったような気がすると思うの」

「しかも、その時々で、感情には起伏があるから、青鹿大きい時もあれば、赤が大きい時もある。でも、麻衣の場合は、悲しかったり辛い記憶しかないと思うと、均衡を取ることで何とか精神状態を持たせているだけにしか感じない」

 そう言って、茂は下を向いた。

「可哀そうに……」

 麻衣もそう言って下を向いた。

「麻衣が僕のところに来てくれたのは、樹里ちゃんの記憶の中に僕がいたということだよね?」

「ええ、サナトリウムでの治療の際に催眠療法の中で分かったらしいの。そのことを私が知らせに来たんだけど、遅くなったのは、彼女が意志を封印している間は、あなたに話すことは無理があるという結論だったの。あなたには悪いという思いもあったんだけど、遅くなってしまってごめんなさい」

「それはいいんだ。僕の方こそ知らせてくれて礼を言いたいくらいだよ」

 麻衣と話をしていると、いろいろ分かってきた。しかし、それでもまだ麻衣が何かを隠しているように思えてならない。

――木を隠すなら森の中――

 というではないか、ひょっとすると、隠したい本質は他にあって、それをカモフラージュするために、わざとこの話をしたのかも知れない。疑えばいくらでも疑えるが、麻衣の話を真剣に聞いてあげることが、今の茂には一番肝心なことに思えていた。

 茂にとって麻衣は今の自分に空いた風穴を埋めてくれる大切な人だった。本当は樹里のことより、今の麻衣との生活の方が大事である。それを麻衣は分かってくれているのだろうか?

「麻衣に謝られると、くすぐったい気がするな」

 苦笑いを浮かべた茂、それを見て、麻衣も苦笑いを浮かべた。会話が噛み合っていないわけではないのにお互いに苦笑いが出るものなのだという思いが茂の脳裏をよぎる。

 麻衣の話を聞いていて、もし今自分の目の前にスケッチブックがあったとすれば、どうんな絵を描くだろう?

 まさか樹里が描いたような絵にならないことは確かだ。赤い色を血の色だという意識もないし、むしろ明るい色として好きな色のはずだった。

 茂はスケッチブックに描かれた「陸続きの地図」を眺めていた。樹里が何を思って描いたのか、そして、この絵を最初に見た麻衣が何を感じたのか、そのことが気になって仕方がなかった。

 しばらく絵を眺めていたが、結論が生まれるわけもない。ただ、この絵の中に見えてきたものは、同じ感性で同じ人が描いたとして、次に同じ絵を描けるかと言えば、きっと違う絵になるのではないかと思えた。この世に一つしかないこの絵が何を言いたいのか、その時に遡らなければ分かるはずはないのだ。

「麻衣は、最初に僕のところに来てくれた時、樹里ちゃんを知っているとは言っていたけど、ここまで深い関わりがあることは言わなかったよね。頭の中で整理がつかなかったから?」

「それもあります。でも、あの時、今の話をして、あなたが納得できないと思ったのも事実です。何も知らない相手から間接的に聞かされても信憑性はないでしょう?」

「抽象的なところ、そして、自分にとって想定外なものというのは、話をしてくれる相手を信じないことには、信憑性は疑わしいとしか言いようがないからね」

 それにしても、五年も掛かったというのは、少し解せない。それよりも、五年も経っているのだから、このまま黙っておいても、麻衣にとっては何ら問題はなかったはずだ。実際に茂としても、

――麻衣がいてくれればそれだけでいい――

 という思いに至っていたのも事実だ。何を今さら昔のことを蒸し返す必要があるのかということを言いたいくらいだった。

 そもそも麻衣がここにいることも、まるで夢のようだ。お互いに普通に知り合って、普通に付き合い始めたわけではない。

――付き合っていると言えるのか?

 交際の後に同棲というのが普通の流れなのだろうが、自分を訪ねてきた相手が行くところがないという理由だけで、家に泊め、さらに、五年も一緒にいるというのは、普通なら夢のような出来事のはずなのに、茂には最初から決まっていたことのように思えてならなかった。

――運命として受け入れていたつもりだったが、果たしてそれでいいのだろうか?

 という思いは常々あった。しかし、二十歳過ぎくらいの年齢であれば、こういうこともあっていいのではないかと思うのは、自分に都合よく考えすぎなのであろうか。

 今の麻衣を見ていると、その向こう側に誰かがいるような気がして仕方がなかった。知り合った頃であれば、それが樹里であるということは察しがついたが、一緒に暮らして五年も経っている中で、一緒にいるのが当たり前のようになっている相手に想定外なことを考えるなどありえないと思っている。それだけに、後ろに誰かの気配を感じても、それを敢えて考えないようにしようというのは、自分の本能から来るものであった。

 ただ、今回、麻衣の口から樹里の話が聞けたことで、樹里に対して、いろいろ思い出したことがあった。

 樹里の家庭は決して裕福と言える家庭ではなかった。どちらかというと貧しい家庭であり、茂の家とさほど変わらないところが親近感を感じさせるのだと思っていた。

 しかし、今から思えば、親近感だけではなかった。樹里に対して淡い恋心のようなものがあったと思っていたが、それは、どこか憧れに似たものがあったのだ。そこには、今の麻衣の雰囲気から匂わせるものがあり、どこか似た境遇を思わせた。

――そういえば――

 樹里には、貧しい家庭で育ったわりには、捻くれたところがまるでなかった。素直な女の子でも貧しい家庭に育てば、それなりに反骨精神のようなものが感じられるが、樹里に対しては、骨を感じさせるところがなかった。まるで骨のない軟体動物のように、しなやかな身体が、悩ましささえ感じさせた。

 自然な身体のうねりは、打ち寄せる波に紛れて、逆らうこともなく、波に揺られている姿は、高貴な佇まいを感じさせた。

「竜宮城にいる乙姫様のようだ」

 と、勝手に想像を巡らせていたが、樹里が乙姫様なら、麻衣は、織姫か、かぐや姫と言ったところであろうか。

――夜空に光る星や月の似合う女性――

 それが麻衣なのだ。

――いずれは、かぐや姫のように月に帰ってしまうのではないか?

 そんな現実離れした考え方をしたこともあった。五年も一緒にいること自体、考えてみれば、現実離れしている。一緒にいて違和感のまったくない相手だということに間違いはないが、恋愛感情があるのかと聞かれれば、ハッキリと答えることができない。もちろん肉体関係はある。それも自然の成り行きからの出来事だったので、その時は恋愛感情があってのことだと信じて疑わなかった。お互いに相性も悪くなく、自然の成り行きに運命を感じ、至高の刻を共有できたことを、素直に喜んだ。

 ただ、油断していると、幸せはスルリと逃げてしまう。そのころも重々分かっているつもりだった。だが、余計なことは考えないようにするのも人間の心理。五年という歳月の間に、何度同じことを繰り返し考えたのか、数知れずであっただろう。

 麻衣の境遇は可哀そうなものであったが、引き取られた先は裕福な家庭で、幸せに育ったことを、麻衣の口からも聞くことができた。しかし、どこかにトラウマが潜んでいることは確かで、そのトラウマが、麻衣との生活に感覚をマヒさせる効果があるのだとすれば、茂は自分の運命に翻弄されてしまうことを覚悟しなければならない。

 子供の頃に波乱万丈だったことは間違いない。しかも、地獄から天国に変わるというのはどういうものなのだろう。天国から地獄に叩き落とされるのは想像したくもないが、地獄から天国へ救いの手が伸びた場合、素直に幸せとして、受け止めることができるものなのだろうか。茂は麻衣がいることで、自分の人生も天国に変わったと思っているが、元々が地獄だとは思っていない。一緒にいても、麻衣のすべてを理解できないと感じるのは、やはり境遇の違いが一番大きいのかも知れない。

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