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彼はメスを置くと、報告書にさらさらと私見を書いた。
この数日、立て続けに検死の依頼が来ていた。
毎日毎日、よくもまぁこれだけ事件が起きるものだと感心するほどだ。
縄張り争いに負けたやくざ、痴話げんかの末に刺されたジゴロ、児童買春所を経営していた裏妓楼の楼主。
どれも悪人ばかりだが、死体になれば、この世のあまねくしがらみである概念、善悪などは消え去る。
死とは究極的な無為自然であり、ゆえに、究極的な完成物であるといえた。
ひと仕事が終わったタイミングで、彼はふと、写真立てに目をやった。
義理の両親とともに写る自分の顔。その表情が堅い理由が、緊張しているからではないと気づいたのは、しばらく経ってからのことだった。
これは、不足に満ちているのだ。
ふしぎなものだ。当時は自覚さえしていなかったことが、あとになって判明するとは。
彼は受話器を取ると、赤町奉行に連絡を入れた。
本日検分した遺体には、他殺をうかがう余地はなかった。本当だ。転んで頭を打ったのだろう。そういう死に方もある。
電話を切る直前、相手はとある情報を教えてくれた。
聞いたかい、先生。あの幽霊左近が粛清されたそうですよ。それも本部の粛清官がやったそうだ。はは、支部の連中、ざまあねえ。いつも威張り散らしているくせに、本部の足元にも及ばねえみたいじゃないか。これで連中も、ちったぁ肩身を狭くしてくれりゃあいいんだがなぁ。
……そうですか。ああ、それはよかった。
もっとも、だからといって霧の夜が安全なわけじゃあねえけどなあ。それでも、前よりはみんな安心して過ごせるってもんだろう。じゃあ先生、また頼んだぜ。
電話が切れる。
彼は口元に笑みを浮かべている。
ようやく、努力が実をむすんでくれた。
今しがた、奉行の男が言ったことは、まったくそのとおりだ。支部の連中は、本当に仕事が遅かった。どうしてあれだけヒントがあって、名も素顔も割れた剣士ひとり調べるのに時間がかかるというのだ? 理解できない。
せっかくひとが苦労して、あいつが犯人だという証拠品まで忍びこませたというのに。
肩の荷が降りて、彼は死体安置所を出た。
ふと目をやった窓の外に、夜霧が出ているのをみて、足を止めた。
……。
…………。
………………事件は、終わった。
あとはもう、平和な日々を享受するだけだ。だいたい、前のアレで、もう最後にすると決めただろう。
そう理性ではわかっていたが、逆にいえば、理性以外のなにもかもが、今の彼を否定していた。
すべては霧のせいだ。霧が、自分を狂わせるのだ。
あの日の夜が、今宵のような霧だったから。
そうだ……勝手に出てくる霧が悪いんじゃないか。
ああ、こうなるともう、止められない。事件が発覚しなければ……死体さえ出なければ、問題ないはずだ。場所とタイミングさえ気をつければ、処理はそうむずかしいことじゃない。
刀掛けから一本を手に取ったときに、外から下駄の音がした。
彼はよく耳をかたむけた。下駄の側面がざらりと擦れて、コンと足裏が地を叩く。そのリズミカルで安定した独特の、管楽器のような打ち鳴らしが続いていく。
まちがいない――遊女だ。それも、ひとりで歩いている。なんという幸運だろう。幽霊左近が粛清されたと聞いて、悠々自適に散策しているとでもいうのだろうか。
だめじゃないか、母さん!
そう彼は心中で叫んだ。こんな夜道にひとりで、危険なんだから。
彼は医療用の白衣を脱ぐと、それを裏返し、左前に羽織り、帯を結んだ。
最後に、マスクの裏側にある秘密のスイッチを押すと、着用する仮面が変形した。
それは白い霊の顔をしていた。そのなかで、彼は笑って、わ、笑い、わ、わわわ、わ、嗤い、哂い、わ、わ、わわわ、笑い、w、わ、わ、哂い哂い、わわ、
嗤っていた。
夜の向こう。
一本道の先に、艶やかな衣装に身を包む遊女が、ひとり歩いている。
影のように、霊のように、殺人鬼がその背に忍び寄る。
冷たい風が届ける女のかおりを楽しむと、静かに柄を握った。
母さん。
もういちどでいい。
これで最後にするから。こんどこそ、本当だから。
だからその目をもういちど、ぼくに、みせてくれ。
音もなく近づくと、とうとう抜刀する。
だが、
「――――!」
刃は、女の柔肌を抜けてはいなかった。
寸前であいだに割りこんだ黒い影が、剣を止めていたからだ。
すぐさま鍔迫り合いを放棄して、彼はしりぞいた。
「やっぱり、あなただったのね」
その遊女の声もまた、聞き覚えがあった。
彼女はばさりと振袖を脱ぎ捨てると、パートナーとともに並び、こう口にした。
「とうとう捕まえたわ、幽霊左近。いえ――検死医の古戸先生」
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