〈二日目〉

ほっこり温泉と道場破り

「……少し、のぼせたな」

 玉のような肌が、ほのかな暖色に帯びているのをみながら、シンはそうつぶやいた。

 窓の外では、昨晩とは一転して、空気の白んだ朝焼けが広がっている。露台バルコニーに出てみると、ぱりっとした冷気が、火照った皮膚を刺激した。

 結論からいって、ここはとてもいい宿だった。


「せっかくだもの、ちょっとくらい贅沢してもいいと思って」


 シルヴィが選んだ老舗の旅館は、どうやら風呂が売りらしい。

 壁の一面がマジックミラーになっており、やけに砂利の多い庭を眺めながら、ゆったりとした浴室を楽しめる作りだった。

 シンはそれをおおいに気に入った。この街の風習は変なものばかりだが、少なくとも風呂は最高らしい。浴衣とかいう室内着は試さなかったが(シルヴィは袖を通していた)、海鮮をふんだんに使った食事もきらいではなかった。


 魚は、偉大都市にとっても大切な食文化だ。水の生き物は砂塵を食わないし、あまり毒されることもない。もっとも、偉大都市の近海はあまりきれいな水質ではないので、夜半遊郭の漁師たちはおどろくほど遠くまで漁に出かけているらしいが、その意義はあると言えよう。

 もちろん、そうした一連の豆知識は、すべてシルヴィによるものだった。

 夜の食事はシンの部屋まで運んでもらう手はずになっていて、湯浴みを済ませてきたのか、銀髪を簡単に結って、わずかに顔を蒸気させたシルヴィが訪問してきた。

 器用なパートナーは、食事ちゅうも延々と資料をめくりながら、ぱくぱくと手早く、それでいて丁寧に皿を空けながら、さらには片手間で遊郭の文化をシンに教授した。

 食後になると、シルヴィは茶を飲みながら、どうやら自室でまとめたらしい方針を語った。


「まずは、燈火流の道場に話を聞きに行こうと思うの」

「というと、例の刀痕の件か」

「ええ。ちょっとキナ臭いものを感じるのよ。というのもね、支部の捜査担当のひとが、以前燈火流の剣士たちに意見をたずねにいったんですって。そのときは先方が烈火のごとく怒って――当然かもしれないわね、彼らからしたら自分たちの流派に嫌疑がかけられているのだから――追い返されたらしいのだけれど、その様子に、なんだか含みがあったみたい」


 つまり、なにかを隠しているみたいだったそうなのよ、とシルヴィは言った。

 もしも幽霊左近が燈火流の関係者なら、話はずいぶんとラクになる。当たってみる価値は、じゅうぶんにあると言えるだろう。

 そういうわけで、二日目の最初の行動は決まったのだった。

 ひと晩あけて、もういちど風呂で大切なからだを清めたシンは、ロビーで待ち合わせしていたシルヴィと合流すると、遊郭の北地区へと向かった。




 夜半遊郭は、面積にして三百平方キロメートルに及ぶ島だ。

 いわゆる色町としての遊郭は、中央に位置する〈四門内〉と呼ばれる繁華街を指しており、その外は、少しうらぶれた印象を与える居住区となっていた。

 燈火流の看板を掲げる道場は、その居住区とそう離れていない、北の大門の傍にあった。

 そこそこ名の知れた流派らしく、小さな道場ではなかった。入り口の両脇にある銅像は、王我オーガという名の、武の象徴の神であるらしい。

 砂塵宗教と無関係かと思えばそういうわけではなく、シルヴィ曰く、砂塵に立ち向かう戦士という意味で関わり合いがあるそうだった。


「うーん」


 道場の入り口で、シルヴィは足を止めた。内側からは、稽古の声が漏れていた。


「どうしたんだ」

「彼らが友好的でないのは間違いないわ。いちおう作戦を立てたほうがいいかしら」


 シンは数秒だけ考えたが、すぐに首を振った。自分が思考を凝らしてもあまり意味がないし、なにより時間も惜しかった。


「しばらくお前に任せきりだったからな。ここは俺がどうにかしてみよう」


 がらがらと引き戸を開けて、シンは入室した。

 二重扉はなかった。だから、すぐに門下生たちの視線がこちらに集められた。総勢でおこなっていた素振りをぴたりとやめて、突然の来訪者を眺める。

 総計三十名ほどだろうか。全員が同じマスクをしていた。燈火流の所属をあらわしているのだろう、盛った火の模様が彫られた、遊郭然としたデザインの仮面だった。


「貴様、ことわりもなく、何用か!」


 唯一、マスクをつけていない男が一喝するように言った。


「中央連盟だ。いくつか質問があって来た」


 坊主頭が、シンの姿を上から下までねめつけた。こちらの機械音声よりも、発言内容のほうがずっと気になったようだった。


「連盟だと? 恰好をみるに、支部の者ではないな」

「そうだ。とある事件の調査のために、俺たちは本部からきた。少し時間をもらえるか」


 事件という言葉を耳にして、彼らのあいだに緊張が走ったのを、シンは感じ取った。


「よもや、例の辻斬りについてではあるまいな」

「話が早くて助かる。そのとおりだ」

「以前にも、支部の者がその件でたずねてきたが……貴様ら、この看板を愚弄するか。あのような不埒な殺人鬼、この門下とは一切の関係はない! お引き取り願おうか」


 小さな背丈のシンを、長身の相手が近づき、思い切り上から見下してくる。

 それに対して、シンが反射的、というよりは生理的に一歩引いてしまったのを、相手は恐れおののいたためだと勘違いしたか、鼻で笑った。


「ふん、それでよい。そのまま出て行け」

「そういうわけにはいかない。どうすれば協力してもらえる」

「寝言を。協力できることなどなにもないから、こう言っているのだろう」


 あらためて、シンはふしぎな感覚を覚えた。連盟員の身分を明かしても引き下がらないどころか、こうして高圧的な態度を取ってくるような人間が、犯罪人のほかにいるとは。

 やはり夜半遊郭は、なにかと事情が異なるようだ。

 シンは相手をよけると、勝手に道場にあがった。今いちど周囲を確認し、この場でもっとも位の高そうな相手を探してみる。

 が、どうやらこの口うるさい男が、もっとも偉いようだった。


「貴様、神聖な道場に勝手に、それも土足で! 稽古の最中だ、帰れ、今すぐに!」

「……お前、虚勢もいいところだな。声ばかり大きいが、中身が伴っていない」

「なにぃ?」

「うしろめたいことがあるのがみえみえだ。だが、いくらごまかそうとしても、俺は納得するまで帰らない。であれば、どうする?」

「なめているのか。力ずくでも――」

「ああ、それがいい。わかりやすくて」


 シンは、壁に立てかけてあった一本の木刀を手に取った。思ったよりは重量があったが、普段使っている得物に比べたら、まるで羽のように感じた。


「聞いたところによると、道場破りとやらをやれば、看板だか戦利品だか、なにかしらをもらえるらしいな。ならば情報を賭けて、この場でもっとも腕の立つやつが、俺とやりあうというのはどうだ」


 道場破り。

 その言葉を聞いて、こんどこそほんとうに、場が殺気立った。

 坊主頭の男の目に、カッと圧が宿った。


「いくら連盟の者といえど、いたずらに禁句を吐いた以上、わかっているのだろうな」

「ああ、わかっている。よかった、話がまとまった。俺が勝ったら、隠していることを明かしてもらおうか」


 シンが安心すると、あきれた表情のパートナーが、自分の胸元を指して言った。


「……チューミー。ここ」


 そう指摘されて、シンはエムブレムを装着し忘れていることに気がついた。つけているとめんどうごとのほうが多いと知っているため、普段ははずしているのだった。


「名乗ってもらおうか。連盟のなにがしだ、貴様は」


 シンはレッグポーチから徽章を取り出すと、ボディスーツに着けてから、振り向いた。


「言い忘れていたな。俺たちは粛清官だ。名は、べつにいいだろう」

「なにッ」

「騙したようになってしまったが、まさか今さらやめましたとは言わないだろうな」


 ギリッと歯を噛み締めると、坊主の男は苦々しげににらみつけて、


「無論だ。天下の燈火流を舐めたツケ、この師範代が直々に払わせてやろう」

「師範代? なんだ、師範ではないのか。あとからそいつに文句を言われるというのは嫌だから、できれば先に話をつけてきてほしいのだが」

「チューミー……お願いだから、それ以上火に油を注がないで……」


 シルヴィの嘆願するような声は、剣士たちの耳にはほとんど入らなかった。

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