第1部 2 あの日④

 あの日は、ある程度仕事に目途をつけてからベッドに入った。が、全く眠ることができなかった。ここ数日の外回りで疲れているはずなのに、目は冴えきっていて、何度も寝返りを繰り返す。

 天井を見上げた由美は、今この瞬間、どこかで横になる玲の顔について考える。

 真っ先に思い浮かんだ表情――しかし、今の玲がその顔ではないことは明らかだった。なぜなら、その表情は、玲がこちらを見るものだったから。けれども、その視界は由美を見ていない。いや、誰も見ていない。

 この他人など眼中にないという表情。由美が玲について考える時、最初に思い浮かぶのはこの顔だ。

 そして、この表情が玲を世界的に有名にした。

 5年前。そう、もう5年前になる2007年。玲はあるCMに出演した。

 そのCMで、玲は、黒い布を胴体に巻いた姿で立っていた。セリフは勿論、音楽やナレーション、具体的な商品名・企業名、カットチェンジすらなく、ただ玲が立っているだけの30秒。

 この映像が、GMT《グリニッジ標準時》の2007年1月3日午前0時に突如“Standing Human”というタイトルでYou Tube上に公開され、同日の午後7時に世界中の放送局で一度だけ放送。翌日には、玲の立ち姿のカラー写真が世界各国の主要紙に全面広告で掲載された。

 全ての媒体で、商品名・企業名が不明、ロゴやホームページの情報もなく、どんなメッセージなのかもわからないこの広告は、発表された当初から「美容整形」「化粧品」「飲料メーカー」「自動車メーカー」など、広告主を巡って様々な憶測を呼んだ。

 後日、その広告は、“Computer,Life,Design”という経営理念を掲げるアメリカの世界的IT企業Room社のキャンペーンであったと判明するのだが、製品名・企業名すら明らかにしない手法は、「人々に対してある価値を周知する」という宣伝の原則を無視したものであった。そして、そのメッセージの全てを担う象徴に選ばれた一人の日本人女性についても、大きな関心を集めることになった。

 新聞でこの写真を見た由美は、その肉体美に驚嘆した。黒バックに立つ玲の肌と漆黒とのコントラスト。曲線と直線のたえとも言うべき完璧な身体のライン。上膊じょうはく、下膊、指先だけでなく、鎖骨、腋窩えきかといった窪みにまで張りつめた精。

 加えて、玲の眼差し。その視線は、どこまでも遠くを見据えていて、こちらを見ているのに誰も見ていない。

 現代最高の思想家とされ、詩人でもあったBourdais《ボーデ》氏は、この広告に関するエッセイを寄稿した。氏の文章としては、12年ぶりに発表されたこのエッセイの中で、Bourdais氏は、玲の肉体を“ポストモダン的美の終点”と評した。


 紙面の関係上、いきなりで申し訳ないが、多少乱暴に言ってしまえば、現代にはかつての信仰というものは存在しない。ツァラトゥストラが「神は死んだ」と叫んでから120年が経った現代。WWW《ワールド・ワイド・ウェブ》が高度消費社会を包含した結果、それぞれの情報価値を繋ぐ無数の「リンク」が現代を動かしている。

 その結果、「共感」という新しい信仰が生まれた。人々は、常に更新アップデートされ続けるネットワークへ自由にアクセスし、その無数のリンクから自らの嗜好に近いものを随時参照しつつ、同時に自身の神経ネットワーク(一般に言うところの個人の知識)と並列に稼働させることで、自らの知識を更新したり、外部ネットワークを更新する価値をそこにポストする。

 常に更新され続けるという点で絶対的価値が液状化したとも言える現代だが、その一方で、未だ個人の生活を覆っているのは、肉体を通じた日々の営みである。労働、食事、睡眠、排泄、性交などが、大切であると同時に退屈な日常として多くの人々の日常を占めている。

 そんな世界に突如現れた“Standing Human”というタイトルのついたReiの肉体。それが(後にIT企業の広告だと判明するまでの間)象徴していたのは、肉体への絶対的信仰というべき価値だった。

 彼女の肉体は、絶対に傷つかない、傷ついてはならないという現代の価値を象徴している。そこには傷というロマン的性質がない。傷を負いながらも立ち上がるという行為が帯びる「誇り」を彼女は一切否定している。

 その結果、“強い女性”に代表される“○○な女性”という、ここ数十年ほど、新しい女性像を示すものとして、言葉を換えつつも繰り返し使われてきたコピーは死に瀕する。なぜなら、それらがメッセージとして成立するには、女性というものが可憐さ・愛らしさのようなものを意味し、女性は傷つきやすい存在=男性の保護を必要とする存在、という前提があったからだ。それを圧倒する形で彼女が提示したもの、それははただの“女性”という性質だ。“新しい男性”“強い男性”といった形容詞を必要としない男性と同等のものとして、女性もまた一人で、自らの肉体だけで生きていくことができる“Human”であるという価値の提示である。

 そして、その肉体と同じく、その意味を明確に提示しているのが、Reiの眼差しだ。人は眼から様々なメッセージを発し、また他人はそこから様々な感情を読み取るものだが、彼女の眼差しからは、怒りや、悲しみ、愛情、媚びといったものが排除されている。

「彼女はこちらを見ているが、決して我々を捉えていない」

 人々にそう感じさせるReiの眼差しは、超越的な無関心を伴う。それは、視線というものに、メッセージを期待する人々を残酷に無視するものだ。

 そんな彼女も、ネットワークに取り込まれた瞬間、消費の世界に投げ込まれる。

 絶対的な者に敵わないことを悟った人間は、粗を探す、パロディにして笑い飛ばすことにより、はっきりとわかる傷を彼女に刻もうとする。

 しかし、Reiの提示する価値はそれを許さない。なぜなら、人々が彼女を消費へと取り込んだ瞬間、彼女の提示する肉体的価値が、その存在を彼岸から内臓へと転移させるからだ。

 一瞬の内に、Reiは人々の日々の営みの守護神として君臨する。それがReiという存在を、消費の先にある、消耗、廃棄、という流れから逃れることを可能にする。

 このことに気づいた時、私はReiの肉体に“ポストモダン的美の終点”を見た気がした。

 そして、それがIT企業の広告だとわかった今でも、彼女の存在は、かげるどころか、輝きを増している。

 IT製品という未来への象徴が“Human”の立ち姿であったということ。そして、そこに立つReiが、人々の守護神として内側にいながら、どこまでも自由であるということ。

 それは、肉体という世界に身を置きながら、更新アップデートされ続ける世界へと自由にアクセスし、自身と世界とを更新しながら生きていく全ての“Human”の理想そのものだからだ。


 この仕事を最後に、玲は舞踊家としても、モデルとしても一切の活動を止め、人々の前から姿を消した。メディアでは、玲が民貴党の大物政治家、佐伯和昌の娘であることが明らかになると共に、彼女に関する記事が墓荒らしのように書かれ、佐伯家への取材も殺到した。

 一方、玲のシルエットは、『英雄的ゲバラ』と同様に、『現代の女神』として、ポスターにTシャツ、グラフィティで世の中に溢れた。

 この次に、玲が人々の前に姿を見せたのは、自宅階段から転落し、大怪我を負った和昌の後継としてであった。

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