第1部 2 あの日⑤

 由美は眼をしばたたき、天井を見つめた。部屋はまだ暗い。

 ベッドの傍に置かれた目覚まし時計を見る。

 午前五時――だが、これ以上眠れる気がしなかった。

 ベッドから出て、カーテンを開ける。

 くもり。窓を開けると、梅雨の時期のどんよりとした空気が肌につく。

 雨になると取材が大変だな、と思う。自分が傘を差すにしても合羽を着るにしても、メモが取りにくい。また、取材相手は傘で顔を隠すし、受けてくれたとしても、あまり長く話したがらない。

 由美はテレビをつける。朝の情報番組も、トップで玲の事件を取り上げている。

 冷蔵庫からシリアルと牛乳を取り出し、ガラスの器に移すと、インスタントコーヒーを淹れるためのお湯を沸かしながら、テレビの音声を聞く。

「今回の事件の背景を説明していただけますか?」という男性アナウンサーの質問に、政界に詳しいジャーナリストが答えている。

「佐伯議員は、世界的なモデル・舞踊家として活動した後、父である佐伯和昌議員の跡を継ぐ形で、2009年の総選挙に出馬、当選しました。以降は自身の世界的な知名度を活かし、各国の女性政治家やNGO・NPOとの交流を重ねつつ、『女性視点からの社会の再構成』という政治信条の下、活動を行ってきました」

「それらの活動と今回の事件との間に、つながりのようなものはあるのでしょうか?」

「佐伯議員の国際的な活動や交流に関して、党内ではあまり好意的に捉えられていませんでした。あまり公になっていませんが、これまで何度も党幹事長に呼び出され、『国会議員としての立場から、できるだけそういった活動は慎むように』と注意を受けていました。

 それは選挙対策にも言え、佐伯議員の支持母体は、当初、20代や30代の女性を中心とした層でしたが、当選後の三年間で、これらの層からの評価は大きく下がっていました。加えて、次回の選挙では、野党の啓民党が、中高年の主婦層に絶大な人気を誇るフリーアナウンサーの擁立を予定していたので、佐伯議員としては、必死にアピールをしなければならない状況でした。それが、平日の昼間に、郊外に住む主婦層を対象にした街頭演説を定期的に行っていた背景です」

 由美は、食事の準備を済ませると、リビングの椅子に座る。

「計画的な犯行ゆえに、反フェミニズム思想を唱える団体によるテロではないかという声もありますが、そちらに関してはどうですか?」

「これまでの取材では、容疑者がそのような団体と接触していたという情報は入ってきていません」

「なるほど。では、今回の事件が、今後、政界にどのような影響を与えるとお考えですか?」

「まず最近、閣僚の不適切会計による支持率低下に悩む民貴党としては、佐伯議員の政治信条を支持する形での活動を前面に押し出すのでは、と考えられます。一方、民貴党への攻勢を強めていた野党としては、政治実行力という点のアピールを通じて、支持を訴えていくことになるでしょう」

 CMに入ったタイミングで、チャンネルを変える。公共放送の淡々とした語り口を聞きながら、コーヒーを一口飲むと、寝室に置いたままの携帯電話を取りに行き、メールと着信履歴を確認する。

 携帯電話には、知り合いの新聞記者やテレビ局の記者から取材依頼のメールが数通届いていた。由美は断りのメールを書きながら、もし自分が取材を受けた場合、質問に対して、どのような回答をするだろうか考えた。

「今どんなお気持ちですか?」

――まだ気持ちの整理がついていない。

「犯人に対して思うことは?」

――会ったことのない相手ですから何とも。

「最後にお姉さんに会ったのはいつ?」

――父が入院した際の病院で。

「それ以降は一度も?」

――私は勘当されていますから。

「お姉さんが政治家になったことについては?」

――彼女が決めたことですし、特に何も。

「お姉さんはレズビアンなのか?」

――知らない。

「今のお姉さんに何と声を掛けますか?」

 そこまで考えた所で新しいメールが届き、由美の思考は中断される。内容は新聞記者からの取材依頼だった。由美はテーブルに戻り、シリアルを食べながらさっきまでの質問について考えた。

 ここまで直接的に訊ねてくることはないと思うが、これらの質問に対して由美の抱いた感情は自然なものだった。それから、再度、「今のお姉さんに何と声を掛けますか?」という問いについて考える。

 頭の中では、様々な玲の姿が思い浮かんだが、言葉は出てこなかった。

 由美は、解を出すことを諦めると、今日一日の過ごし方に意識を切り替える。世田谷児童虐待事件の記事は、明日までに仕上げればよかった。企画として温めている熟年離婚の記事は、既に弁護士への取材や統計を集めることは終わっていて、後日、実際に離婚を経験した女性に話を聞いてまとめるだけだ。

 由美は洗濯物を回してから、面会を重ねている被告に手紙を書くことにする。

 書き始めてすぐ、母からプライベートの携帯電話に電話があった。由美は電話には出ず、留守番電話に残された「通夜と葬儀は近親者のみで行うことになった」というメッセージを聞くと、そのまま便箋に目を落とす。

 送り先の中山優子は、昨年の七月、約40年連れ添った夫を包丁で刺殺した。既に夫は定年を迎えており、年金と預貯金であとは悠々自適の日々を過ごすはずだった夫婦の間に起こった事件。ほとんどのメディアが、熟年夫婦のトラブルという視点でしか取り上げなかったこの事件を、由美は被告の供述に注目し、4週に渡って取り上げた。

 記事では、事件に至るまでの夫婦の暮らしぶりを丁寧に伝えつつ、二人の置かれた環境が、どれだけDV《ドメスティックバイオレンス》を発生させる構造であったかを示した。

 記事は話題となり、中山への支援が拡がると同時に、夫婦間の権力関係や構造的問題に関する議論を呼ぶことになった。

 その後も、由美は、女性が起こした様々な事件を『オンナの末路』というシリーズで不定期連載してきたが、判決を前に中山の今の思いを、きちんと聞いておきたかった。

 手紙を書いた由美は、部屋を出る。マンションのエントランスで、周囲にマスコミがいないことを確認する。

 ポストに手紙を投函し、コンビニで新聞数紙を購入してから、マンションに戻る。

 新聞に目を通す。どの記事も、玲の経歴と事件の状況を説明した内容ばかりで、真新しいものはなかったが、あるスポーツ紙が載せていたアダルトビデオ業界の実情に関する記事が目を引いた。

 日給3万円しかもらえない女性がほとんどでも、長引く不況と非正規雇用が進んだ結果、AV女優を志願する女性の数は増える一方である。また、かつてのように家が貧しいとか、親の借金の肩代わりで出演するという女性は減り、高学歴・容姿端麗な女性が副業として出ることも珍しくない。

 新聞を読んだ由美はパソコンを起動して、You Tubeにアップされている玲のCM映像を見る。

 玲は変わらぬ姿で立ち続け、強烈な眼差しをこちらに向けている。

 由美は画面をスクロールして、動画のコメント欄を見る。

 そこには、世界中の言語で玲を追悼する言葉が書かれていた。

 由美は延々と続く言葉を眺めながら、改めて、玲に掛ける言葉を考える。

「お疲れ様」という言葉。これは家族の掛ける言葉ではない。

「私たちの元に生まれてきてくれてありがとう」これは両親の言葉だ。

「玲が私の姉でよかった」

 嘘だ。私は玲が姉でよかったと思うことなど一度もない。彼女はいつも私の遥か先を走っていて、残された私は「佐伯玲の妹」として品定めする人々の眼差しに囲まれてきた。

 もちろん、嘘でもその言葉を口にすることはできる。だが、口にしようとした瞬間、玲のあの眼差しが私を貫く。そうなると私は、口を噤み立ちつくすことしかできない。

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