第1部 2 あの日③

 あの日、シャワーを浴びた由美は、肌の手入れをした後、リビングのテーブルでパソコンの電源を入れた。

 パソコンが起動するまでの間に、由美は今週号の構成について考える。

 巻頭は、間違いなく玲の事件になる。その場合、自分の担当記事は延期になるか――いや、まだわからない以上、いつでも出せるように準備しておく必要がある。

 そう考えた由美だったが、パソコンが起動した後も、インターネットで玲の報道を追いかけていた。

 玲の死因は、腹部を貫通した外傷による出血性ショック死だった。凶器は、刃渡り30センチのサバイバルナイフで、玲の右脇腹を貫通した刃先は犯人の腹部にまで達していた。また、柄の部分は加工されており、犯人のベルトとチェーンで繋がれていた。それが玲を犯人から引き離すのに手間取った理由だった。

 犯人は腹部に負った傷のため病院で治療を受けていた。そのため、取り調べは行われておらず、動機は不明。だが、状況から判断するに、犯人は玲に対して強い殺意を抱いていたこと、計画的な犯行であることは明白だった。

 由美は、NYタイムス、ワシントンポスト、BBCなどの海外サイトを開く。各サイト、玲の死を“Knife Attack”という見出しと共に、トップで伝えている。そこには、早くも交流のあった各国の政治家、ミュージシャン、ファッションデザイナーのコメントが掲載されている。

 そういった情報に触れるほど、由美は改めて玲の世界的知名度を感じる。それから、職業柄、なぜ犯人が玲に殺意を抱いたのか、またその相手が玲であったのかを考える。

 面識は恐らくない。まずそこで仮説はつまずく。

 面識がないなら、どうして玲は彼女に手を広げ近づいていったのか。玲がそうせざるを得ないだけの魅力が犯人の女性にあったのか。

 由美はインターネットで“月野ルカ”と検索してみる。

 トップに出てきたEnypediaには、既に事件の情報が書かれていた。プロフィールを見ると、生年月日は1989年の12月12日、富山県出身、3サイズはB87(E70)—W60—H86、と書かれ、その下にずらりと作品リストが並ぶ。

 検索画面に戻る。その下には事件を伝えるニュース配信が並び、それ以外は、彼女の出演作品の配信ページがずらりと並んでいる。

 アクセスした違法配信と思われるサイトには、大量の作品がアップロードされていた。由美はその中で一番上に表示されていたページをクリックする。

 いきなり男性のペニスをしゃぶるアップのシーンから始まり、由美は慌てて一時停止する。画面には、目を瞑った幼い顔立ちの女性がアップのまま映っている。

 由美はその顔を見つめながら、自分は一体何をやっているのか、と考える。

「この映像に玲を殺した何かがあるはずないだろう」

 そう考えながら、動画の下のコメント欄を覗くと、“顔も身体も演技も、全てがいいね。最高”とか、“エロすぎでしょ。こんな子とセックスしてー”といったコメントが日本語や英語で書かれている。

「男性から見ればそんな風に見えるのだろうか」と考えながら、由美は画面をスクロールし、もう一度、一時停止した彼女の顔を眺める。

 中学生のような幼い顔立ち。それに反して豊満な乳房。

 同性の由美からすると、そのアンバランスさに違和感を覚えるが、異性にはこのバランスが魅力と映るのだろうか。

 由美は鞄からイヤホンを取り出し、パソコンのジャックに差し込む。

「彼女はどうしてAV女優になろうと思ったのか」

 男性に頭を抑えられ、喉奥にペニスを押し込まれる彼女から顔を背けると、「そもそも、セックスって男性優位の構造」と考える。

「その目的が生殖であれ、コミュニケーションであれ、セックスは男性の射精で終わる。男性の射精なくして受胎という目的が果たせない以上、男性が射精せずに終わるセックスは不完全なセックスで……」

 そんなことを考えている間に、画面の中の二人が交わる。同時に、イヤホンから女性の深いため息が聞こえた。

 その瞬間、自分が鳥の卵にでもなったかのような感覚を覚え、由美は咄嗟にブラウザを閉じる。

 何が起きたのかわからぬまま、呆然とデスクトップを見つめる。それから、下腹部に違和感を覚え、恐る恐る下着に手を触れる。

「まさか」とは思ったが、溢れるほどに濡れていた。

 戸惑いは、嫌悪感を経て、惨めさとなり、由美を沈める。

 下着を替えた由美がリビングに戻ると同時に、仕事用の携帯電話が震えた。由美は急いで手を洗うと、画面の表示を確かめてから通話のボタンを押す。

――はい、中川です

 沈んだ声にならないよう、意識して電話に出る。

――今、大丈夫か?

 富沢からだった。

――大丈夫です

――少しは落ち着いたようだな、というどっしりとした富沢の声に、

――はい、と由美は自然な声で答えた。

――そうか。電話をしたのは、新しいページ割ができたからこの後送るという連絡のためだ

――はい

――先に言っておくが、お前は今回の事件からは外してある

 この言葉については由美の予想通りであったが、通常ならメールで連絡すれば済むのに、わざわざ電話をかけてきたのは、入社からの由美を知る編集長としての気遣いだろう。

――不満か?

 何も答えない由美に富沢が尋ねる。

――いえ、たぶんそうだと思ってました

――そうか……

――編集長?

――なんだ?

――私は葬儀に出た方がいいんでしょうか?

 この言葉に富沢は、――知るか、と言うと、

――夕方の電話で、俺が実家に帰るよう勧めたのは、上司として当然のことをしたまでだ。そこから先はどうしようが部下のプライベート。俺の知ったこっちゃない

 たしかにそうだ。

――あのな中川。俺たちの仕事は他人行儀で成り立っている。読者は、他人事として書かれた記事を、他人事として読む。その見えない境界がない記事は記事じゃない。もし仮に、自分の妻や娘が殺されたなら、俺は記事を書けない。書いたとしても、それは遺族としての悲しみと犯人に対する恨みにしかならんからな。そして、そんな記事は俺が編集長である限りまず掲載しない。わかるだろ?

――はい

――じゃあ切るぞ。お前の担当記事はそのまま載せるつもりだからちゃんといいものを出せよ

 電話が切れ、直後に送られてきたページ割に目を通す。玲の事件は、巻頭扱いになっていた。

 由美は、富沢と話したことで、少し落ち着いた。それから、ようやく自分の原稿にとりかかった。


 目的地の雑居ビルに着いた由美は、エレベーターに乗り、「6」のボタンを押す。ゆっくりと上っていくエレベーターの中で、由美は右手で髪を軽く撫でつけてから、増えていく階数表示を眺める。

 ドアが開く。照明を極力落とした薄暗い店内からはブルースが聞こえる。先客は5人いて、そのうち3人はカウンター席に座ったサラリーマン、あとの2人は壁際のソファ席に並んで座るカップルだった。

 カウンターに目をやる。バーテンダーの男性と目が合う。

 由美はフロア中央の円テーブルの席に鞄を置いて、一人用のソファに座る。すぐにバーテンダーが席にやって来る。

「いつもの」

 由美が伝える。親しげな視線で答えたバーテンダーは、カウンターに戻ると、冷蔵庫からチョリソを取り出し、フライパンで火を通す。並行して、ロックアイスを入れたグラスに、ジンとトニックウォーターを注ぎ、ジントニックを作る。

 手際良く動く様子を眺めていると、無事に今週の仕事も終わったことを実感する。週刊誌記者として、土日祝日関係なく、世間とは全く異なるカレンダーで働く由美にとって、毎週の校了後、この店でジントニックとチョリソを味わうことは、仕事の区切りを実感する大切な時間だった。

 目の前にチョリソとジントニックが置かれる。

 まずはジントニックから。爽やかなアルコールが喉を流れた後、チョリソをかじる。肉汁と共にスパイスの香りが口いっぱいに拡がる。

 ようやく人心地ついた所で、由美はグラスの水滴に映りこんだ照明を覗き込む。

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