7

 〝フェリペ〟は――カタリナは、ぼんやりと庭に佇んでいた。視線の先には百日紅がある。その花は盛りの時期を終え、早くもその身を散らし始めている。

「貴女、どうしたの?」

「え?」頭上から言葉が降ってきて、カタリナは驚きと共に背後を振り返った。二階の窓からフアナが身を乗り出している。

「あ……ああ、びっくりした。あまり体を前に出すと危ない、落ちてしまうよ」

「あら、そうなら抱きとめてくださいな」

 フアナはクスリと笑った。

 彼女のドレスは、鶏頭のように赤くて、布地もたっぷりある。落下する姿はきっと花のように美しかろう。「ねえ、二階に上がってよ。一緒にお茶でも飲みましょう」――フアナはカタリナに呼びかける。

「わかった。今行く」

 天は高くまで澄み渡り、秋の青空が広がっていた。







 読書の秋、とはよく言ったもので、確かにこの夜長は本で暇を潰すがちょうどいい。

 植物学の図鑑だった。書庫から持ってきた本を、カタリナはフアナのベッドに広げる。彼女は解説よりも挿画が見たいのだった、時が過ぎ去るのも忘れそれを読み耽る。どの挿絵も嘆息する出来栄えであった。花々が確かな存在感を持って、生成り色の紙面に咲き乱れている。デッサンは葉脈の一つ一つに至るまで、その有様を克明に描きとっていた。

 フアナはその隣でカタリナを――より正確には、彼女の手を眺めていた。ページを捲る、その左手の甲をなぞる。

「何か面白いものでも?」文字を辿る目はそのままに、カタリナはフアナへ問いかけた。

「この傷は痛くないの?」

「ああ、とっくに治ってる。見た目はグロテスクだけど」カタリナは苦笑した。「それに、そうやって触られるとくすぐったい」

「じゃあ、どう触られるのが好き?」

「どう? ……君に握ってもらえると嬉しいかな」

 フアナは微笑んで、左手を握る。

「貴女はどこを触りたい?」

「どこ、って」

「私のどこに触れたい?」

 繋がった左手が、フアナの胸元まで連れ去られる。寝着がはだけて素肌が露わになっていた。

「夜に女の寝室を訪れて、貴女、何もなさらないつもり?」

「それは……」

 カタリナは戸惑う。フアナの夜の誘い、乗らないことには決まりが悪い。しかし彼女がそれに応じられるはずが無かった。

 だって自分はフェリペではない。

「ねえ、私たち夫婦でしょう?」

 期待を込めた視線。カタリナはそれを受け取るのが怖かった。いつもはよく張る声が、少し、震えた。

「……なら、俺の左頬を、君の手で触ってくれないか」

「貴女の?」

「ああ」

 フアナは不思議そうに首を傾げた。陶器のような白の腕が、カタリナに……〝フェリペ〟に伸ばされる。冷ややかな指先が〝フェリペ〟の輪郭をなぞる、往復する。左頬の形をしっかりと確かめて、白粉の下に隠された瘢痕を撫でている。何度も何度も、滑らかな肌に残された、醜い引き攣れを確かめている。

「ふふ……これくらいで満足かしら」

「……フアナ」

「何?」

「君は、誰が好きだ?」

 フアナははたと手を止める。

 誰とも形容出来ぬ、曖昧な昼空の碧が、彼女をじいっと見つめていた。

 それは、刃を突き付けて選択を迫るような……あるいは、裁判の評決を項垂れて待つような。

 女は淡く微笑んで、それから迷わずに口を開いた――

「私は、貴女が好きよ」

 ――頬の傷に、自身の右手が触れたまま。

 〝その者〟は言葉を失った。

「そうか……そうか、君はそうなんだ」

「どうしたの?」

「いや、っふ、ふふ、あはははははは!!!」

 〝彼〟はよろめいて後退りして、フアナの手を振り払った。狂ったように、壊れたように、口から嗤笑がまろび出る、止まらない。

 馬鹿馬鹿しい、何て馬鹿馬鹿しい! ――誰が?

 この身が!

「フアナ、わたしも貴方のことがずっと好きだった!」

 耐え切れなくなって〝彼〟はフアナの寝室を飛び出した。笑いも涙も一緒くたに、一直線に廊下を駆け出していく。

「ねえ、貴女、どこに行くの!?」

 フアナは突如様子のおかしくなった恋人の後ろを追いかける。






「――――カタリナ!」






 †






 そこはかつてフェリペの書斎として誂えられた部屋だった。尤も持ち主が死んだ今、この場所はただの物置と化している。

 カタリナが大判の布を剥ぎ取ると、額装されていない肖像画が現れた。椅子に立てかけられたそれを見るたび、彼女は己がそこにいるかと錯覚する。それで左の頬を見て、彼我の差にほっと息を吐くのだ。違う、これはフェリペだ。

 ……本当にそうだろうか?

 カタリナは次第に分からなくなってくる。ひょっとしてこの人物画は、ただ未完成なのではないか? だって頬に傷がない。画家が描きこみ忘れたのかもしれない。それでまだ額に入れずに、こうやって放置してあるのかもしれない。

 カタリナはナイフを逆手に持った。

 それで、画面の顔がある部分に、思いっきり突き刺した。

 かつて自分が受けたように。

「くそ、くそくそくそ……っ!」

 カンヴァスは鈍い音で切り裂かれる。

「なんで……! なんでお前なんかに!!」

 何度も何度もナイフを振り下ろす。

「お前にはフアナがいるだろ! あんなに愛してもらってさあ! 要らないんだろわたしに寄越せよ、死んだんだからもういいだろ!!」

 麻の繊維が引きちぎれてゆく。

「『わたし』でいることすら奪いやがって!!」

 フェリペを蹴り飛ばす。床に倒れる。カタリナはそれに馬乗りになる。そうして、過日の面影を葬り去るまで、女は肖像を解体した。顔が胴が弾け飛んだ。油彩の肉片が舞った。

「ちくしょう、クソったれ、ゴミ虫が、くそ、くそ……っ」

 どんなに無数の断片になろうと、男の姿はカタリナにこびりついて消えない。刻まれきったカンヴァスの中心で、もはや絵の木枠のみを残すに至っても、彼女は自身を見つけてもらえない。







 蹲ってカタリナは、声を上げ泣いた。

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