6

 カタリナの左頬は、やはり痕が残ってしまった。

 果物ナイフによってざっくりと切られた肉は、数針を縫う大怪我になった。包帯は百日紅の花が散る頃まで取れなかったし、傷が塞がるにはそれ以上の時間が掛かった。とはいえ仕事にはそれほどの支障にならない。医者に診てもらって一週間療養したのち、彼女は自分の持ち場に戻る。……フェリペから受け取った手紙は、この期間に全て燃やした。

 焼け落ちたのはフアナとの縁じゃないか。カタリナは手紙の灰を掃き捨てながら考えていた。フェリペを排除してフアナと繋がろうなんて、そんな甘い目論見は、その甘さゆえに破滅した。残ったものは、燃えカスのようにどうしようもない自分のみ。フェリペは今後もフアナを蔑ろにし続けて、フアナはそれでもフェリペの愛を求め続けて、カタリナだけがただ無力に、そのオチのない猿芝居を眺めている。舞台俳優になれた可能性は己自身が断ち切ってしまった。笑ってしまうくらいに惨めだ。

 仕事に復帰したカタリナを、フアナは一瞥したのみだった。カタリナは罪滅ぼしのように、フアナを献身的に世話している。その構図は奇妙なものだった――なぜならカタリナに振るった暴力の件で、他の侍女たちは、どことなくフアナに距離を置いていたから。フアナの狂気が明らかになるにつれ、人は皆、その矛先が己に向くのを恐れたのだ。フアナは孤独に陥りつつあった。カタリナだけがいつまでも彼女の傍にいた。二人の関係は事件の前と後で明らかに破綻しているのに、その距離だけが近くなっていた。

 無情な日々を嗤うように、季節は流水のごとく変わりゆく。

 カタリナの左頬にガーゼが居なくなり、晩秋の冷気も生傷に馴染むようになって、その幾日。ミチェレーナ公爵領にも冬が来た。雪が降った。

 廊下の窓の外、その暗がりに、無数の白が踊る。初雪は粉のように舞っていた。雪は降るも積もらないのがこの地域の常である。日が落ちて気温が下がったからかな、とカタリナは思った。

「そこで何をしているの」

 予想だにしない人物に話しかけられて、侍女は振り返った。フアナがいる。

「雪が降っているな、と思いまして」

「だから寒いのね」フアナはベルベッド地の赤いドレスに、黒い上着を羽織っていた。「部屋の暖炉に火を付けといてちょうだい。私が戻ってくるまで」

「お嬢様は、これからどちらに?」カタリナは彼女を呼び止めた。時刻は七時を回っている。これから出かけるにはあまりにも遅い。

「あの人が帰ってきたの」

「旦那様が?」

 一体いつの間に、とカタリナは思った。そういえば夕方頃、俄かに慌ただしい時間があった気がする。彼女はそのタイミングで外出してしまったから、騒ぎの詳細を知らなかったが、なるほどフェリペが戻ってきたのか。

「会いに行かれるのですか」意図せずカタリナの声色は硬くなった。

「九か月と五日ぶりよ!」フアナは言った。「ようやく、ようやくあの人に会えるのよ」

「お嬢様……」

 カタリナは何となく嫌な予感を覚える。行くべきではない、行っても碌なことにならない、そんな直感が彼女の胸の中にある。だがここで引き留めたところでフアナは聞き入れる耳を持たないだろう。そうですか、と呟いて、無理矢理、自分を納得させた。

 頭を下げる。引き攣る痛みが左頬に走った。視界の端にフアナが通り過ぎていく。

 さて、フアナの寝室は、屋敷の騒々しさから切り離されて静かであった。部屋を訪れたカタリナは、主人の言いつけ通り、暖炉に火を点けその場を暖める。窓からは庭を挟んで向かいの、食堂の様子が窺えた。フアナはきっとフェリペと一緒に食事を取っていることだろう。彼女がこの部屋に帰ってきたら、今日の仕事は終わりである。夜食にありつけるのはいつ頃だろうか。時間を潰していると、その途中、先に仕事を終えた同僚が顔を出す。

「お嬢様、当分戻ってこないと思うよ」彼女はエプロンドレスを解きながらカタリナに話した。

「どうして?」

「旦那様と揉めているから。すっごいよ、無関係だけど見ていられないもん。あんなのあんまりだわ」

 そう言ってから彼女は苦笑いを浮かべる。「ああでも、あなたは無関係じゃないか」

「旦那様との関係なら、とっくに過去の話ですよ。そもそも彼なんて、わたしの目的に都合がよかったから利用しただけ。好きでも何でもない……むしろ嫌いです。この世から消し去ってやりたいほどに」

「ひどい言い草で笑っちゃうわね。じゃあなんでわざわざ彼と関係を持ったのよ」

「それ以外に、フアナ様に近づく方法が無かったので」

 同僚は意外だと言わんばかりに目を見張った。「ははあ、てことはあなた、最初からお嬢様目当てだったってわけ?」

「そうですよ」

「悪いけどそれ、とんだ悪手じゃないかしら? だってお嬢様は、昔も今も、あのクソ旦那に一途なんだから――あんまり雇い主のこと悪く言うのも良くないけれど。お嬢様、たぶんあなたの好意なんて微塵も気づかないし、気にかけるつもりもないと思うわ」

「……そう、ですよね。知っています。だから最近は、フアナ様の傍に居られるだけで幸せ、と思うようにしているんです。考えれば、ここでこうやって働けることが奇跡のようなもので……端から成就するなんてありえない想いですから。この気持ちが抑えられる限りは、黙ってお嬢様に仕えようと思っています」

「健気ねえ。あなたがお嬢様の夫ならよかったのに」

「……はは」

 本当に、本当にそれならどれほどよかったか! 自分ならフアナを絶対に悲しませないし、絶対に幸せにする。けれどカタリナは女で、農民の娘で、フアナが泣くのを黙って眺めることしかできない。フアナが求める愛は、カタリナでは代替し得ないのだ。無力な己に唇を噛む。

「長丁場になると思うけど、頑張ってね。あなたの分の夕飯も確保しといてあげる」

「ありがとうございます」

 優しい同僚はそう言い残して去っていった。

 再び静寂が訪れた寝室で、カタリナは一人肩を落とす。どうせ後で直せばいいと、ベッドメイクの終わった主人の寝台に腰掛ける。寝転がる。すると不思議なもので、カタリナは隣にフアナがいるような気になった。腕を広げる。夢から覚める。冷たいシーツの手触りだけがそこにあった。

 それから、三時間ほどが経過した。

 カタリナが暖炉の上で湯を温めていたのは、自らが茶を飲むためでもあったし、いい加減戻ってくるだろうフアナのためでもあった。食堂は今しがた灯りを落とされた。ようやく片付けが終わったらしい。相変わらず外は雪が舞っている。

 乱暴に扉が開かれたのはその時だ。

 カタリナはぎょっとしてその方を見る――ドアを開けたのは当然フアナだったが、それは普段の彼女にあるまじき行動だ。感情的になることこそあれ、淑女としての行儀や礼節を決して忘れないのがフアナであり、そして彼女の矜持である。このように分別もなく物に八つ当たりするなんて、また配下の使用人に鬱憤をぶつけるなんて、普段は絶対にありえない。……カタリナの目に、フアナが暖炉の上のやかんを掴むのが映った。

 両の手で顔を覆ったのは咄嗟の判断だ。暗くなった視界の中でびちゃびちゃと湯の散る音がした。一拍二拍、カタリナはそのままでいて、それから恐る恐る光を受け入れる。数度瞬きすれば今しがた起きた出来事にも理解が追いつく。その頃にはカタリナの両手が滲むような痛みを訴えていた。

「なんで、なんでなの……!!」フアナは空になったやかんを投げ出す。

「お嬢、様」

「どうして私じゃ駄目なのよ……!」

 恥も外聞もなく、フアナはその場に崩れ落ちて泣き出した。カタリナは十数秒前にあったこと、つまり己の顔面めがけ熱湯をぶち撒かれたことも忘れ、フアナの傍に駆け寄る。

「私、私、ねえ、あなたの言うことなら何だって聞くわ。派手な女、お喋りな女、甘えたがりの女、なんでも、そう、望むならなんだって……!! だから言ってよ、私に話してよ、どうして、どうして他の女ばかり……!」

 カタリナは腕の中で涙を流す女を、無言で見下ろすしかない。

「私の全部をあなたに捧げても、それ以上を差し出したって構わない、あなたが振り向いてくれるなら……あなたの気持ちをくれるなら……」

 嗚咽混じりに訴えるその声は悲惨だった。まるで自分自身のようだと侍女は思った。

「黒髪の女は面倒だから大嫌いですって。だから金髪の女ばかり囲うのね? 貴女だって……貴女が羨ましい、あの人と同じ色の髪なんだから……。私が貴女だったら、もっとあの人に愛してもらえた?」

「フアナ様」震える華奢な体をカタリナはそっと抱き寄せる。「わたしは貴方の黒い髪がとても好きですよ。上等な絹のように艶やかで、美しくて」

「あの人に届かなかったら意味ないじゃない……!」

 その通りだ。どんなに言葉を重ねても、一番聞いてほしい人に伝わらなければ意味がない。

 全く、虚しいくらいに、無意味なのだ。

 フアナはカタリナの胸の中でわあわあと泣いた。

 カタリナは泣かなかった。代わりに、己を慰めるようにフアナを撫でていた。

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