16

 桜の花びらが風に揺られる昼下がりは、もっと心安らかに過ごしたいものである。

「それにしてもあの本の主人公とヒロインの関係性は、それはもう素敵でしたね。主人公は普段はぶっきらぼうだけど、本当は心の温かい人で。ヒロインはそのことを分かっていてどこでも彼のことを思っていて。はあ、本当に素敵でした」

ベンチに座り両手を組んだ状態で、獏女はうっとりと語る。先日、血反吐を吐く思いで、というか実際にゲロを吐き続けた末に読んだ本である。彼女にとって最初に自力で読破した本ということもあり、非常に愛着が湧いているのだろう。ここ数日その話ばかりで僕はほとほと嫌気が差していた。

「あぁ、そうかい」

 適当に相槌を打ちながら、今日も今日とて押し付けられた弁当のおかずを頬張る。

「もう、敬太郎さん。せっかく私が自力で本を読んだんですから、もっと語って下さいよ」

「うるさい。もうその本の話は耳タコだ。いい加減、別の本を読め」

「むぅ、相変わらず素っ気ないですねぇ」

 獏女は小さく口の先を尖らせて言う。

「悪かったな、素っ気なくて」

「いいえ、お気になさらず。敬太郎さんが本当は優しい人だってこと、私はよく理解していますから」

「はあ? お前何言ってやがるんだ? 僕のように深みのある人間を早々に理解できる訳が無いだろうが」

「また、そんなこと言っちゃって」

 くすくすと笑う獏女の頬を引っぱたいてやりたい。僕は湧き上がった怒りを紛らわすためにからあげを頬張った。

「……ねぇ、敬太郎さん。お話したいことがあります」

「何だよ?」

 僕は唐揚げを咀嚼しながら、不機嫌な声で聞いた。

「本日をもって、私と敬太郎さんの契約関係は解消しましょう」

 瞬間、春風が凪いだ。そよそよと揺れていた桜の花びらがぴたりと動きを止める。

「……え?」

 突然のことに、僕は目を丸くした。

「私は敬太郎さんのおかげで、自力で本を読めるようになりました。だから、もう敬太郎さんに頼る必要はありません」

「ちょっと待て、お前いきなり何を言っているんだ?」

「敬太郎さんもその方が嬉しいでしょう? 私と契約関係を結ぶこと、煩わしかったでしょう? まあ、まだ正式に契約を結んだ訳ではありませんでしたが」

 僕は言葉に詰まってしまう。心臓が落ち着きなく跳ねている理由が分からなかった。

「……ああ、そうだな。僕はお前という存在が鬱陶しくて仕方がなかった。自由に本を読む暇も削られて、お前のために甘ったるい恋愛小説ばかり読まされて」

「そうですよね。今考えれば、とても迷惑な話ですよね。本当にごめんなさい」

 獏女は深々と頭を下げた。

「でも、これからあなたは自由です。もう私のために本を読ませたり、付き纏ったりしません。あ、もちろんこの図書館は利用しても大丈夫です。友人として、あいさつくらいはさせてもらいますね」

 やんわりと微笑む獏女を見て、僕はなぜだか体の力がすっと抜け落ちるのを感じた。

「……そうだな。そうなれば、僕にとっては願ったり叶ったりだ。これで僕はお前から解放されて、また快適な生活に戻ることができる。清々したよ」

 僕は空になった弁当箱をベンチに置くと、すっくと立ち上がる。

「じゃあ、僕はアパートに帰るよ。今日は家にある本をじっくり読みたいんだ」

 背中を向けたまま僕は言った。

「そうですか、分かりました」

 その表情は伺わなかったが、きっとにこにこと微笑んでいやがったに違いない。

 僕はそのまま、無言で立ち去った。




 アパートに戻ってから、僕は本棚から適当に本を選び、ベッドに横たわってダラダラと読書をした。時折、そばに置いたテーブルに手を伸ばし、おちょこで日本酒をくいと飲む。のんべんだらりとはこのことである。僕はしばしばお酒を嗜みながら読書をするが、こんな風に寝そべって行儀の悪い格好をすることは滅多にない。即刻やめるべき行為なのだが、どういう訳か僕の意志に反して体が言うことを聞いてくれない。というよりも、その意志さえも怪しい。むしろその確固たる意志が折れ曲がってしまっているから、今この体たらくを演じているのではなかろうか。

 僕はむくりと体を起こした。

 ――本日をもって、私と敬太郎さんの契約関係は解消しましょう。

 獏女は唐突に告げた。それは僕にとって何より望んでいたことであり、厄介な奴から解放されたということ。もっと喜ぶべきなのである。日本酒をぐいと飲み、陽気な酔いに踊らされ、翌日はほどよい頭痛がやって来る。そうなるべきなのだ。よし、飲もう。酒を飲もう。楽しく飲もう。今の僕はある種束縛から解放された自由民であり、何でも好きなことができる。一人で好きな読書に没頭できる。それは僕が何よりも望んだ平穏無事な日常。ようやく舞い戻って来たのだ。

 僕はガラスのコップにたっぷりと日本酒を注いだ。ぐいと傾けて喉元に流せば、涼やかな快感が走り抜け、やがて僕を心地よい酩酊状態へと誘ってくれる。こうやって陽気に飲んだ時、僕は二日酔いにはならない。だから、明日はきっと気持ちの良い目覚めが待っているはずだ。僕はそれを信じて疑わなかった。そう思い込んでいた。




      ◇




 大脳をハンマーで直接叩かれているんじゃないか。そう思ってしまうくらい、今の僕は怒涛の頭痛に苛まれていた。おかしい、僕は昨晩、陽気にお酒を飲んだはずだ。そんな時は多少飲み過ぎても翌日にはさほど響くことはなく、ほんの少しの頭痛がむしろ心地良いくらいなのだ。そんな爽やかな朝を迎える予定だった僕が、なぜこんな泥沼地獄の如き二日酔いに苦しめられているのだろうか。甚だおかしい話である。僕は優れた頭脳の持ち主であるが、今この時ばかりは自分の脳みそに対して恨み辛みを述べたくて仕方がなかった。このポンコツ脳め。

 ただ、そんな風に文句を言っている間にも頭痛は容赦なく押し寄せて来る。睡眠によって回避することはほぼ不可能だろう。となれば、ここは起き上がるしかない。僕は震える腕を鼓舞して体を起こし、ベッドから下りてよろよろと洗面台へと向かう。冷水でぴしゃりと顔を洗うが、それも気休めに過ぎない。濡れそぼった前髪の合間から覗く僕の目は、我ながら血走って気味が悪いと思った。その上、顔は青ざめている。まるで先日、散々ゲロを吐きまくった獏女のようである。思い至り、僕は唇を噛み締めた。

 悔しいが、誠に不本意ではあるが、僕の調子が狂ったのは、昨日あの獏女に契約解消を告げられたからだ。そんなことを言うと、僕があの獏女と離れたくないと思われてしまうかもしれないが、それは断固として違う。奴は僕に対して一方的に契約を押し付け、結んだ。そして今度は、一方的に解消を告げたのだ。何と身勝手な女だろうか。こちらの都合も考えず、都合よく僕を利用した。あまりにも都合が良すぎて、ご都合主義かってくらいだ。それは少し違うか。ともかく、僕は無性に腹が立って来た。するとそれに反比例するように、頭痛が和らぐ。獏女に対する怒りが、僕の頭痛を鎮めてくれたのだ。それはある意味感謝すべきことだが、そもそも僕が頭痛を起こした原因もあの獏女にあるのだ。結局はプラマイゼロ、いや、もうそんなものは振り切って超マイナスである。このままあの獏女に好き勝手にさせて良いのだろうか。答えは当然否である。僕は手早く身支度を整えて、部屋を飛び出した。




 燃えたぎる怒りの炎によって、頭痛はすっかり消え去っていた。

 僕は大股で力強く地面を踏み締め、枕木公園にやって来た。そよそよと風に揺られる桜の花びら。いつのなら僕の心を安らかにしてくれるが、今は毛ほどの役にも立たない。僕は尚も大股で公園内を進んで行く。

 すると、ベンチに佇む女の姿が見えた。一見可憐な黒髪の乙女だが、その中身はどこまでも黒くて性悪な奴がいた。僕はより一層力強く地面を踏み締める。

「おい」

 僕が呼びかけると、ちまちまと弁当を食べていた獏女は、おもむろに顔を上げた。

「あら、敬太郎さん。こんにちは」

 柔らかに微笑みながら獏女は言った。その笑顔が、燃えたぎっている僕の怒りに油を注いだ。

「こんにちは……じゃねえよ。お前、何のんきにあいさつなんかしているんだ」

 僕はかすかに声が震えていた。それはきっと怒りのためだと思った。

「えーと、私何かまずいことでも言いましたか?」

 そのとぼけたような態度が増々怒りの炎を煽った。

「お前、僕のことを舐めているのか?」

「へっ? いえ、そんなことはありませんけど……」

「お前は僕に対して強引に契約を押し付け、そして自分の都合で勝手に解消しやがった。そうやって僕のことを都合よく利用していることが気に食わないんだ」

 僕は鋭く獏女を睨む。彼女は戸惑いの表情を浮かべた。

「何でそんなことをおっしゃるのですか? 私が契約の解消を告げたのは、あくまでも敬太郎さんのためです。それなのに、なぜそんなに怒っていらっしゃるのですか?」

「何だその押しつけがましい物言いは。お前は僕のためとか言いながら、結局は自分の気分でそう決めたんだろ。今まで散々僕のイメージを食って、自分で本が読めるようになったらすぐにポイか? お前みたいな自分勝手な奴、最低だよ」

「……じゃあ、これからも私にイメージを食べさせてくれるとおっしゃるのですか?」

 静かな迫力の込もったその声に、僕は思わずたじろぐ。

「は、はあ? 僕はそんなこと言っていない。あくまでもお前の身勝手な言動に甚だ怒りを覚えていてだな……」

 僕が言葉を紡いでいる最中、獏女はふっと顔を伏せた。

「……ごめんなさい」

 唐突に、謝罪の言葉を述べた。僕は意味が分からず首を傾げる。

「確かに私の言動は身勝手でした。それは認めます。けれどもそれは、敬太郎さんの気持ちを確かめたかったからなんです」

「僕の気持ちだと……?」

 獏女は頷く。

「私が契約の解消を告げた時、敬太郎さんがどんな反応を示されるのか、試したんです。昨日その話をした時、敬太郎さんはあっさりと承諾をしました。だから私は、とても悲しい気持ちになりました」

「な、何でそんな気持ちになるんだよ?」

「この前、敬太郎さんは私の部屋で付きっきりになって、本を読む手助けをしてくれました」

 僕の言葉には答えず、獏女はそう言った。

「それがどうしたんだよ?」

「私はその時、とても嬉しかったんですよ」

「自力で本を読むことができたからか?」

「もちろんそれもあります。けどそれと同じくらい、いいえ、それ以上に嬉しかったのが、敬太郎さんが優しく私のそばに寄り添ってくれたからです」

 僕は例のむず痒い衝動に駆られた。

「別に僕はお前に寄り添ってなどいない。優しくした覚えもない」

「いえ、優しかったですよ。その時に限らず、敬太郎さんは何だかんだでいつも優しかったです」

「僕は優しくなんてない」

「でも、いつも私のわがままを聞いてくれたじゃありませんか」

「お前、自分がわがままだって自覚あったのか」

「はい、もちろんです」

 にこりと微笑んで獏女は言った。その頬を引っぱたいてやりたい。

「だから、私は優しい人をパートナーに選びたいと常々思っていました。わがままな私に優しくしてくれる、そんな素敵な男の人を」

「ふん、お前みたいな女に優しくしてくれる男なんていないね」

「ここにいるじゃありませんか」

 獏女は僕を指差して口元で笑う。確かに、僕は生来高潔な紳士である。しかし、この獏女に対してそんな振る舞いをした覚えはない。少なくともその正体を知ってからは。

「僕はお前に対して優しくなんかない。優しくするつもりもない」

「じゃあ、それでも構いません」

「何が構わないって言うんだ?」

「私のそばにいて下さい」

「は?」

「これからも、私のそばにいて下さい」

 獏女の言葉に面食らいながらも、僕は口を開く。

「何でそんなことを言うんだよ?」

 僕が問いかけると、獏女は唇をきゅっと噛み締めた。

「……ここまで言っても分からないなんて、本当に鈍いですね。というか、敬太郎さんはおバカさんなのですか?」

「なっ、お前! この僕を捕まえて頭が悪いだと? 冗談も大概にしろ!」

「だってそうでしょう? ここまで私の話を聞いて、何も分からないんですか?」

「だから、何がだよ?」

「――私は敬太郎さんのことが好きなんです!」

 両手をぎゅっと握り締めて、獏女は叫んだ。春風によって高らかに伸びて行くその声を、言葉を、僕はすぐに飲み込むことができなかった。彼女は僕の言葉を待つように、じっとこちらを見つめていた。

「……僕のことが好きだと?」

 ようやく発した声は我ながらに頼りないものだと思った。

「はい、そうです」

「都合の良い手駒として、好きだということか?」

「もう、何でそんなひねくれた物の捉え方をするんですか? 私は一人の男性として、敬太郎さんのことが好きなんです」

「じょ、冗談も大概にしておけ」

「冗談なんかじゃありません」

「だって、お前は僕のことを都合の良い存在としか思っていないんだろ? だから、勝手に契約の解消を告げたんだろ?」

「ですから、それは敬太郎さんの気持ちを確かめるためだってさっき言ったでしょう? 本当におバカさんですか?」

「な、何だとぉ?」

 体内で湧き立った血が頭に上るのを感じた。非常に落ち着かない気持ちになってしまう。

「この、獏女の分際で僕のことをバカ呼ばわりしやがって」

「いけませんか?」

「ああ、いけないね。その上、獏女のくせに僕のことが好きだと?」

「いけませんか?」

 僕は返答に詰まってしまう。

「い、良い訳ないだろうが。そもそも、お前は獏なんだ。人外なんだ。人間の僕と結ばれるとか、ありえないだろう」

「それはあくまでも一般論ですよね?」

「は?」

「敬太郎さんはどう思っているんですか?」

「どう思っているって……」

「私のことをどう思っているんですか? 答えて下さい」

 獏女は澄んだ黒い瞳で力強く僕を見つめて来る。

「お、お前は……性悪で、腹黒くて、わがままで、甘い物ばかり食って……」

 僕は思いつく限りの欠点を列挙して行く。

「自分勝手で僕を翻弄してばかりいて……」

 ふいに、彼女の部屋で彼女が本を読む手助けをした時の光景が思い浮かぶ。仮にも女の癖に、散々ゲロを吐きまくって、僕の前で醜態を晒して。けど、それでも最後まで懸命に本を読む姿を見た時、少なからず心が揺れた。弱々しくも、着実に目標に向かって頑張るその姿を見て、僕は……僕は……

 少し強い春風が吹き抜けて行く。彼女の黒髪がなびいた。

「……寂しいと思った」

 やがて、僕は言葉を紡ぐ。

「え?」

獏女は目を丸くした。

「それって……」

「いや、お前に契約の解消を告げられた時、ほんの少し、本当にほんの少しだけ、寂しいという気持ちが湧いた……それは事実として認めよう。ただ、それは女に対する恋慕の感情などではない。そうだな例えるなら……散々可愛がってやった犬ころが、突然自分の下を離れて行ってしまうような、そんな寂しさだ」

「は、はあ……?」

 獏女は眉をひそめ、小首を傾げる。

「そう、つまりペット。ペットを失う様な寂しさを感じたんだ」

 また風が吹き抜けた。それは少しばかり、この場の温度を下げるようだった。

「……つまり敬太郎さんは、私のことをペットだとおっしゃるのですか?」

「うーん、どうだろうな。まあでもお前は人外な訳だし、そういった扱いの方が適当かもしれないな。うん、そういうことにしようか」

 僕は一人結論付けてぽんと手を叩く。一方、獏女は頬を思い切り膨らませてこちらを睨んでいた。

「ちょっと、ペットってどういうことですか? 私が精一杯思いを伝えたのに、その返答が『お前はペットだ』ってどういうことですか? 脳みそ腐っていらっしゃるのですか?」

「おい、お前ペットのくせに主人に楯突くなんて生意気だぞ」

「何ですって? 敬太郎さんのくせに生意気ですね」

「あ、お前。やっぱり僕のことをずっとバカにしていやがったんだな?」

「そんなことはありません。ただ、嫌々ながらもホイホイ私のお願いを聞いてくれる、良い人だと思っていましたよ」

「ほら、やっぱり! 僕のことを都合の良い男だと思っていたんじゃないか、この性悪獏女が!」

「ええ、そうですね。私は性悪です。けど、敬太郎さんだって紳士気取りの変態野郎じゃありませんか」

 冷めた目つきで獏女は言う。

「なっ、僕が変態だと? この高潔な紳士を捕まえて何をほざいていやがるんだ!」

「だって、私のようなか弱い女をペット呼ばわりするなんてとんだ変態趣味です!」

「じゃあ、お前はどうして欲しいんだよ?」

「彼女にして下さい!」

「断る!」

「何でですか!?」

「何でもだ。お前みたいな性悪獏女を彼女になんてしたら末代までの恥だ。だから、ペットなら認めてやる」

「もう、何なんですかこの変態!」

「だから、変態って言うな!」

「じゃあ、変態紳士!」

「余計にいかがわしい言葉だそれは!」

「わがままですね!」

「お前に言われたくない!」

 穏やかな昼下がり、僕達は途方もない、くだらない言い争いを続けた。それはとても無駄な時間だったと今でも反省している。本当に無駄な時間だった。本当に、本当に。










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