エピローグ

 桜前線が日本列島を過ぎ去り、間もなく初夏を迎えようとする頃合い。しかし、枕木公園ではまだ根強く桜が咲き誇っていた。うららかな午後の日差しが地上を優しく照らす。

「では敬太郎さん、仮契約から本契約に移行するということでよろしいでしょうか?」

 クリームあんみつを片手に獏女は言う。

「ああ、そうだな。誠に不本意ではあるが」

「だって、敬太郎さん。いくら何でもペット呼ばわりはひどいです。それならきちんとした契約関係を結びましょうって話になったじゃありませんか」

 獏女は頬を膨らませて言った。

「そもそも、敬太郎さんが素直に私のことを彼女にしてくれれば、わざわざ契約を結ぶ必要も無いのに」

「誰がお前なんかを彼女にするか」

「でも、私がいないと敬太郎さんは寂しいのでしょう?」

「はっ、お前は何を言っているんだ。僕はお前がいなくなった方が清々するよ」

 僕はふんと鼻を鳴らした。

「またそんなことを言って、本当に照れ屋さんですね」

 くすりと、小憎らしい笑みを浮かべて獏女は言う。僕はこめかみにぴきりと青筋を立て、その額にデコピンをかましてやった。

「痛いです! ひどい、女性に暴力を振るうなんてそれでも紳士なのですか?」

「ふん、こんなのは暴力の内に入らないぞ」

 僕は口の端を吊り上げて言った。

「むっ、そんな風に笑って。私のことをいたぶって喜んでいるんですか? 敬太郎さんはやっぱり変態紳士ですね。最低です」

「お前、次にそれ言ったら殺すぞ」

 僕がぎろりと睨むと、獏女は負けじと睨み返して来た。おのれ、生意気だ。

「とにかく、僕達は契約を結んだ。まあ、仮契約の時と内容は変わらないから、その関係性も変わることは無いけどな」

 僕は弁当のおかずを頬張りながら言う。もちろん、それは獏母の愛情たっぷり弁当だ。本当に済まないと思うが、まあ僕が弁当を食べていることは既に知られており、むしろ喜んでいたので結果オーライという所だろうか。

「あの、敬太郎さん」

「何だよ?」

「一つだけ、新しく契約に入れたい事項があります」

 獏女は言った。僕は眉をひそめる。また彼女のわがままで面倒な事項を入れられてしまうのだろうか。そうなれば断固拒否するしかない。僕は無言で警戒しながら彼女を見た。

「その……」

 獏女はなぜか恥じらって言葉を紡がないでいる。

「何だ、ハッキリ言えよ」

 僕が苛立った声で言うと、獏女はようやく口を開いた。

「……私のことを名前で呼んで下さい」

「は?」

「私のことを『桜』って、名前で呼んで下さい」

 頬を赤らめた状態で、獏女は言った。

「何で、そんなこと……」

 僕はつい呆気に取られてしまう。

「だって私の正体が分かってから、敬太郎さんは名前で呼んでくれなくなったでしょう? 私はそれがずっと気がかりで、寂しくて……だから、名前で呼んで欲しいんです」

 その瞳には、切実なる思いが込められていた。

「もし、僕が断るって言ったらどうする?」

 獏女は目を伏せた。

「そうなったらあきらめます。無理強いをしても仕方がないですから」

「というか契約に乗っ取る辺り、そもそも無理強いみたいなもんじゃないか」

「あは、それもそうですね。ごめんなさい、今言ったことは忘れて下さい」

 獏女は微笑んで言った。それはどこか儚げな笑みだった。

「……別に良いぞ」

 自らの口を突いて出た言葉に、僕自身が驚いた。

「え?」

 獏女は目を丸くしてこちらを見つめる。

「名前で呼ぶくらい、どうってことはない。ただし、以前のようにさん付けでなんて呼んでやらん。お前は黒髪乙女の皮を被った、性悪獏女なんだからな」

「はい、問題ありません。むしろ、呼び捨ての方が嬉しいです」

 その表情に喜色を浮かべて、獏女はこちらに歩み寄った。

「では、敬太郎さん。お願いします」

 獏女はまっすぐにこちらを見つめて来る。ただ名前を呼ぶだけで、大げさなやつだ。アホらしい。だが、なぜ僕の心臓はこんなにも落ち着きが無いのだろうか。この性悪獏女に請われて名前を呼ぶ。ただそれだけのことなのに。

「さ……さく、ら……」

 言った直後、我ながら何て不明瞭で不確かな声だろうと思ってしまう。くそ、たかが獏女の名前を呼ぶくらいで、なぜ僕はこんなにも動揺しているのだ。

「敬太郎さん」

 獏女が呼んだ。

「な、何だよ?」

 僕は上ずった声で答える。

「ありがとうございます」

 直後、ふいに獏女が僕に顔を寄せて来た。彼女の吐息が近くなったと思った時、僕の唇に柔らかい物が触れた。一瞬、何が起きたのか理解することができなかった。僕の優秀な頭脳でさえ、今の状況を理解することができなかった。

「……ふぅ」

 獏女は僕から身を引き剥がすと小さく吐息を漏らし、それからにっこりと微笑んだ。

「お、お前……今僕に何をした?」

 僕は震える声で尋ねた。

「それをわざわざ言う必要がありますか?」

 獏女はいたずなら笑みを浮かべた。やはりこいつはとんだ性悪である。

「おい、というか今のは契約に含まれていない行為だぞ!」

「今の行為とは?」

「だから、その……キ、キキ……」

 滑舌の良さに定評がある僕の舌先が、今は非常に覚束ない。立った二文字のその単語を紡ぐことができない。己、出来損ないめ。案の定、そんな僕の様子を見て獏女はくすくすと笑っている。許すまじ、この性悪獏女め。

「あー、もうやめだ! やっぱりお前と契約を結ぶのはやめだ!」

「ダメですよ、敬太郎さん。そんなことは認めません」

「ふん、正式に文書を交わした訳でもない。あくまでも口約束だ。そんな物、よくよく考えれば守る必要も無いんだ」

「もう、敬太郎さんってば。そんなこと言うと、腕の骨をへし折りますよ?」

「はっ、上等だよ。やれるものならやってみろ!」

「では、早速」

 獏女は怪しい微笑みを浮かべて、ブラウスの袖をまくった。

「え、おいちょっと待て。まさか本気で僕の腕を折るつもりなのか?」

「はい。そうすれば、私の言うことを聞いてくれるでしょう? よく考えれば、初めからこうすれば良かったのです」

「ちょ、ちょっと待て! 暴力で物事を解決するなんて最低だ!」

「勝手に契約を破棄しようとする方も最低です。安心して下さい。腕が折れたら、私が敬太郎さんのお世話をしてあげますから」

「嫌だ、そんなのごめんだ! あー、もう分かったよ! きちんと契約は守る。だから僕の腕を折るな!」

 僕は必死に叫んだ。

「そうですか。残念です、敬太郎さんのお世話ができなくて」

「お前、性悪というか頭がおかしいな」

「はい、私は敬太郎さんのことになると頭がおかしくなってしまいます。好きだから、好きだからこそ色々とわがままを言ってしまうのです」

「わがままで腕をへし折るとか、お前の思考回路はヤバ過ぎる」

「うふ、ごめんなさい。じゃあもう腕はへし折りませんから、また名前で呼んで下さい」

「はあ?」

「ねぇ、ほら、早くぅ」

 甘えるような口調で言う獏女が腹立たしい。引っぱたいてやりたい。

「……くら」

「え、何ですか? よく聞こえません」

 微笑んだまま、耳を寄せて来る。

「あー、もう鬱陶しい! 近寄るんじゃねえ、桜!」

 気が付けば、僕は大声で叫んでいた。なるほど、罵詈雑言を吐きながらだと、こんなにも円滑に名前を呼ぶことができるのか。我ながら大発見である。非常にどうでも良いが。

「ありがとうございます、敬太郎さん」

「何だ、お前。暴言を吐かれたのにお礼を言うとか、実はMなのか?」

「うふ、どうでしょう? Mな女がお好みでしたら、そのように振る舞いますけど?」

「冗談。僕にそんな変態趣味は無い」

 食べ終わって空になった弁当箱を獏女に渡すと、僕はベンチから立ち上がった。

「おい、そろそろ図書館に戻るぞ……桜」

 僕は背中を向けたままで言った。だから、彼女がどんな表情をしたかは分からない。

「はい、敬太郎さん」

 弾むような声で言った彼女は、僕の隣に並んだ。

 初夏の香りが漂ってくる中、まだ桜は美しく咲き誇っている。

 舞い散った桜の花びらが彼女に触れた時、不覚にもきれいだと思ってしまった。




(了)










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