15

 包みを解き弁当箱のふたを開けると、今日もまた色とりどりのおかず達が僕を出迎えてくれる。これが愛しの恋人が作ってくれたお弁当であれば、桃色成分が大量投下され、恋の超特急エクスプレスは天を貫く勢いで昇って行くことだろう。しかし、これは生憎そんな素敵な恋人が作ってくれた素敵な弁当ではない。僕の隣で幸せそうにスイーツを頬張っている性悪獏女の母親が作った弁当である。それを僕は食べさせられているのだ。いや、まあその味は中々に美味であるため、素敵じゃないなんて物言いは失礼に当たってしまうが。

「うーん、美味しいです」

 そんな僕の葛藤をよそに、自分は甘いスイーツを食べて悦に入っている。そんな獏女の額を思い切り引っぱたいてやりたい衝動に駆られるが、食事中に行儀が悪いのでそれは後回しにしてやることにした。決してしっぺ返しが怖い訳ではない。

「そういえば敬太郎さん」

 生クリームがたっぷり乗ったプリンを口元に運びながら、獏女が声をかけて来た。

「何だよ?」

 僕は不機嫌な声音で返事をする。

「この前読んでいらした恋愛小説、あれはとても素晴らしかったですね」

 微笑みながら獏女は言う。それに対して、僕は露骨に顔をしかめた。

「何を言っているんだ。僕はお前にイメージを食われているんだから、その内容を覚えているはずないだろうが」

 棘のある口調で僕が言うと、獏女はハッとした顔付きになる。

「あ、そうでしたね……」

「そうだ。お前は今さら何を言っているんだ」

 僕は辟易とした気分になり、それから獏女の顔を見ることなく弁当をつついていた。

 だから、彼女の様子が変わったことに気が付かなかった。




      ◇




 週二回、ゼミの日は図書館に行って獏女にイメージを食わせるという責務からは免れる。だが借りていた本の返却期限がゼミのあった今日までということで、僕はしぶしぶ図書館に赴くことになったのだ。勘違いしてもらっては困るが僕は本が好きであり、当然図書館も好きである。本来なら嬉々として向かう所であるが、僕を憂鬱にさせるのはあの性悪獏女の存在である。全く、どこまでも忌々しい女だ。

 日が傾き薄暗くなった公園内を進んで行く。図書館にたどり着くと、その入口付近で一度立ち止まる。契約に基づけば今日は獏女にイメージを食わせなくても良い日である。しかし、先日ゼミの日に僕の下へ押しかけイメージを食わせろと要求した奴である。のこのこやって来た僕を見てこれはしめたと思い、「ねぇ、敬太郎さぁん」などとまた甘く粘っこい声で僕のイメージを食わせろと要求して来るに違いない。前回は仕方なしに流されてしまったが、僕は強固な意志を持つ孤高の戦士である。二度もそんな失態を演じることはしない。断固拒否してやる。図書館内であれば、奴が本来の力で僕を脅しにかかることもないだろう。僕は自らの気持ちを固めると、入口の扉を開いた。

 館内に入ってすぐ、カウンターに目をやった。そこに獏女の姿は無かった。まずホッと一息を吐く。だが油断ならない。奴は館内で本の整理をしている可能性がある。見つかる前にさっさと本を返却してしまおう。僕はカウンターに向かった。

「返却ですね、ありがとうございます」

 妙齢の女性職員が対応してくれた。彼女は僕が差し出した本を受け取り、軽くチェックを済ませる。

「はい、返却ありがとうございます」

 そう言われると、僕は会釈をしてその場から去ろうとする。

「あ、君って桜ちゃんの彼氏よね?」

 ふいにそのようなことを言われ、僕は思わずぐりんと顔を向けてしまう。

「はい?」

 僕は即座に否定しようと思ったが、前回獏女の彼氏ということで館長から家の住所を聞いた経緯もあり、それはできなかった。無言のまま立ち尽くす。

「桜ちゃんね、今日もお休みしているの。知っているとは思うけど」

「いえ、それは知りませんでした……」

「あら、そうなの? 桜ちゃん、ついこの間もお休みしていたし、最近体調があまり良くないみたいね。何か悩み事があるのかもしれないわ。あなたも彼氏として相談に乗ってあげてね」

「はあ……まあ、できることはします」

「お願いね」

 僕は前に向き直ると、図書館を後にした。薄暗くなった夕暮れの空を見上げる。

 あの獏女、また欠勤しているのか。全くいくらバイトとは言え、仕事を舐めているんじゃないだろうか。まあ、前回は止むを得ない事情だったから仕方ないが。しかし、今回はなぜ休んでいるのだ。僕としては奴がいなかったおかげで万々歳だが、同じ職場の人達は少なからず迷惑を被っているのではないだろうか。とは言え、僕は部外者である。いちいち他人様の職場事情に口を挟むつもりはない。大方、獏女は調子に乗って甘いスイーツを食べまくり、そのせいで気持ち悪くなって吐き気を催し、休んでいるのだ。そうに違いない。結論付けた僕は歩みを進めて公園を後にした。さて、これから家に帰って冷えた日本酒を片手に、お気に入りの本でも読んで至極のリラックスタイムを満喫しようじゃないか。日々孤高の戦士として日常を生き抜いている僕は当然その権利を持っている。だから獏女とは違い、そんなことをしても体調を崩したりはしない。ほんの少し、頭痛に悩まされるくらいだろう。

 そんな風に思考を回しながら歩いていると、僕はふと帰り道の光景がいつもと違うことに気が付く。なぜだろう。木々の伐採や、道路工事、新しい建築が進んでいるのだろうか。いや、そんなことはない。じゃあ、なぜだろうか。宵闇に包まれ始めた周りの光景に目を凝らし、僕はようやくその訳を悟った。これはいつもの帰り道ではない。だが、僕はこの道を知っている。それは先日、止むを得ず、不本意ながらも獏女の家を訪れた時に通った道である。つまり今の僕は、獏女の家に向かっているということになる。一旦足を止めた。

 ちょっと待て、なぜ僕は奴の家に向かっているんだ。確かに奴が休んでいると聞いて、ほんの少し、おちょこについだ日本酒の水面程度には動揺したことは認めよう。だが、それでもこんな時間に僕がわざわざ奴の家を訪れる理由はない。何より性質が悪いのは、僕が無意識の内に奴の家に足を向けていたことである。なぜだ、確かに奴の力に多少なりとも怯えている僕だが、だからと言ってビビッて服従するくらいなら死んだ方がマシだと思っている。だから、彼女のためにわざわざその家に赴くなんてことはしないはずである。

 アホらしい。僕は踵を返して元来た道を引き返そうとする。だがここまで来ると、獏女の家まであと少しなのである。せっかくここまで来たのだから、顔くらい見てやってもいいのではないだろうか。いやいや、僕は何を考えているんだ。僕と奴は決して付き合っている訳ではない。そもそも奴は人外であり、まともな人間である僕が付き合う訳がない。

 帰ろう。お家に帰ろう。何ならでんぐり返しで帰ってやっても良い。いや、成人した男がそんなことをしたら痛すぎる。アスファルトの上でやることで実際に体も痛くなってしまう。

 一旦落ち着こう、今の僕の思考はおかしい。一つ深呼吸をした。すると、ある妙案が頭に浮かぶ。原因は定かではないが奴はまたぞろ体調を崩している。前回はその理由が理由なだけに同情して、あまつさえ助けるような真似をしてしまった。だが、今回は奴の日頃の不摂生が招いた末の体調不良であろう。僕が同情してやるいわれはない。つまり奴が体調を崩しているこの時、契約の破棄を突き付ける絶好のチャンスなのだ。いつもなら執拗に拒絶をするだろうが弱っている今この時なら、奴を押し切って契約を破棄できる可能性が大いにある。そうと決まれば早速敵陣へと向かおう。そんな僕を卑怯者と思うなら大いに笑ってもらって結構である。そんなの屁でもない。あの獏女から解放されるなら、全くもって余裕綽綽である。僕は大股で獏女の家に向かった。




 獏女の家に着いた頃、辺りはすっかり暗くなり、夜になっていた。

 今さらであるがいくら憎き敵の自宅とはいえ、こんな時間に押しかけるのは失礼に当たってしまうのではないだろうか。常識をしっかりと弁えている紳士たる僕が、そんなことをして良いのだろうか。情けないことに敵陣を前にして、僕はうろうろとしてしまう。

「あら、敬太郎くんじゃない」

 その時、ふいに声がして僕はびくりと肩を震わせた。体が硬直し、ぎこちなく首を動かす。街灯に照らされて姿を現したのは一人の女性だった。

「あ、あなたは……」

「こんばんは。どうしたの、こんな時間に。家に何か用かしら?」

 優しく微笑みながら尋ねてきたのは、獏女の母であった。

「あ、いえ、その……獏お……桜さんが体調を崩されていると聞いたので、調子はどんなものかと見に来たのです」

 情けないことにしどろもどろになって言うと、獏母はその表情に喜色を浮かべた。

「まあ、本当に? 敬太郎くんは本当に優しいのね」

 前回会った時、獏母は僕のことを「敬太郎さん」と呼び、また敬語口調であった。それなのにいきなりフランクな話し方になっている。いや、今はそんなことを気にしている場合ではない。

「いえ、そんなことはありません。ただ、やはりこんな時間にお邪魔するのは失礼ですし、僕は帰ります」

 早口でまくし立てて、踵を返そうとした。

「そんなことないわよ。敬太郎くんが来てくれたら、桜はきっと喜ぶわ」

 しとやかな声で、獏母は僕を引き止めた。

「そ、そうですか?」

「ええ、そうよ。ご近所さんに回覧板を回して、今から夕食を作ろうと思っていた所なの。良かったら、敬太郎くんも食べて行ってちょうだい」

「いや、そんな。余計に悪いですよ」

「良いから、来てちょうだい」

 獏母に手を掴まれて、僕はぐいぐいと家の中に引っ張られて行った。この強引な所、やはり親子である。

「じゃあ、私は夕食の支度をするから。敬太郎くんは桜の所に行ってあげて」

「あ、あの」

「それじゃ、よろしくね」

 軽くウィンクをして、獏母は去って行った。階段前に置き去りにされた僕は、仕方なくその階段を上って行く。「さくら」とプレートに書かれた部屋を前にため息を漏らす。いよいよ退路を断たれてしまった僕は仕方なくノックをした。だが、返事はない。不審に思った僕は再びノックをするがやはり返事はない。数秒間固まっていたが、やがて「……はい」と掠れた声が中から聞こえて来た。僕は部屋のドアを開けた。そこには獏女がいた。だが、いつものようなしとやかで軽やかな様相は崩れ、痩せこけた印象を受けた。顔は青ざめており、ぐったりとテーブルに寄りかかっている。

「あ、敬太郎さん……」

 ひどく掠れた声で獏女は言った。その様は、以前獏男に襲われた時よりも衰弱しているように見えた。

「おい、どうしたんだよ?」

 僕は思わず問いかけてしまう。

「本を……読んでいたんです……」

「え?」

 言われてテーブルに視線を向けると、彼女の前には一冊の本が置かれていた。その表紙とタイトルから察するに、彼女好みの甘い恋愛小説である。

「お前、まさかそれを自分で読んでいたのか?」

「はい、そうです……」

 獏女は力なく頷く。

「けど、獏は文字を読むことが苦手なんだろ? だから、僕のイメージを食っていたんじゃないのか?」

「ええ、そうです。特に私達のような若い世代の獏は、大量の文字を読むと吐き気を催してしまいます。現にたった十数ページを読むために、九回は吐きました」

 僕は呆気に取られた。

「お前はバカか? なぜそんな無謀な真似をした?」

 その問いかけに対して、獏女はしばらく口を閉ざしていた。

「……私がイメージを食べたら、敬太郎さんは読んだ本の内容を忘れてしまうでしょう?」

「ああ、全くはた迷惑な話だ」

「ですよね。だから、どんなに素晴らしい本を読んでも、その内容について一緒に語り合うことが出来ません」

 ふいに寂し気な表情になって、獏女は言った。僕はかすかに目を見開く。

 獏女はベッド付近に置いてあった鞄に這い寄り、そこから一冊の本を取り出す。それはテーブルの上に置いてある物と同じであった。

「これは敬太郎さんの分です。この本を読んで、それから感想を言い合いましょう」

 獏女は僕に本を渡すと薄ら微笑み、またテーブルに向かった。小さく呼吸をして、何か大きな敵に挑むような覚悟の目つきで本を開いた。それから数秒後、その表情がみるみるうちに悪くなって行くのが分かった。

「……ダメです」

 獏女はすっくと立ち上がると、勢い良くドアを開け放って部屋から出て行った。ドタドタと階段を駆け下りて行く。階下の方でまた別のドアが勢い良くバタンと開閉される音が聞こえた。そこから先は耳を澄ますまい。お互いに得をしないだろう。

 それから数分後、開け放たれたドアの壁際から、獏女がその青ざめた顔を覗かせた。そのあまりの真っ青っぷりに、彼女を毛嫌いする僕も「おい、大丈夫か?」と声をかけてしまう。

「は、はい……本日記念すべき十回目の嘔吐をして参りました」

「そんな報告はいらん」

「ですよね、ごめんなさい……あ、敬太郎さんも本を読んで下さいね」

 獏女は言う。その本は三百ページぐらいあり、平均的な文庫本の厚さである。僕ならば二時間、いや一時間くらいで読み終わってしまうだろう。一方、獏女は今日一日、ずっとこの本を読んでいた。それにも関わらず、まだ十数ページしか読み終えていない。これは先が思いやられてしまう。僕は色々な意味で今すぐ帰りたくなったが、青ざめた顔で本を読んでいる獏女の姿を見て、仕方なしに本のページを繰り始めた。




 大方の予想通り、僕は一時間ほどで本を読み終えた。ただ、それは僕の本を読むスキルが高いということもあるが、本の内容がとにかく素晴らしかった。ここ最近、獏女に言われるがままに甘い恋愛小説を読んでいたためにそのジャンルに関しては食傷気味であったが、それでもこの恋物語は素晴らしいと思った。おのれ獏女のくせに良い本を見つけやがって。内心で毒づきつつ、僕はちらりと獏女を見た。

「……はぁ、はぁ」

 彼女は既に息も絶え絶えだった。ちなみにこの一時間の間に五、六回はトイレに猛烈ダッシュをしていた。その割にページ数はさほど重ねていない。これはいよいよ絶望的な状況になってきた。

「なあ、ちょっと良いか」

 僕が声をかけると、獏女は青ざめた顔で振り向く。

「はい、何でしょうか……?」

「僕は今この本を読み終えた。だから、お前はそのイメージを食えよ」

「え?」

「その後に、また僕はこの本を読み直す。そうした方が、ずっと効率的だろ?」

 我ながらよくできた提案だと思った。まあ、普通に考えればすぐに気が付くことなのであるが。とにかく、これで問題は解決するだろう。

「……それはいけません」

 だが、予想に反して獏女は拒絶の反応を示す。

「は? 何でだよ?」

 僕は怒り顔で問い質す。

「私は今回、あくまでも自力で本を読むと決めているんです」

「けど、今のお前のペースじゃいつ読み終わるか分からん。そもそも、こんなに吐き続けていたら衰弱して死んでしまうぞ」

「そうですね。では、夕ご飯を食べましょう。そろそろ支度が出来ているはずです」

 獏女はよろけながら立ち上がろうとする。

「ダメよ、桜」

 ふいに声がした。振り向けば、開け放たれたドアの前に獏母が立っていた。

「お母さん……」

「夕ご飯を食べても、どうせまた吐くんでしょ? そんなの勿体ないわ。私が腕によりをかけた夕ご飯は敬太郎くんに食べてもらうから、あなたは少し横になっていなさい」

 獏母はたしなめるように言った。獏女は体調が優れないということもあるだろうが、母親には逆らえないようで、大人しくベッドに横になった。

「敬太郎くんは夕飯を食べてちょうだい」

「いや、やっぱり悪いですよ」

「そんなことないわよ。さあ、来てちょうだい」

 しとやかに微笑む獏母を見て、僕はしばし思い悩んでから頷き、一階のダイニングへと赴いた。そこのテーブルには、色とりどりの料理が並んでいた。僕は獏母に勧められて、椅子に腰を下ろした。

「さあ、どうぞ召し上がって」

「あ、はい」

 箸を手に取った僕は、恐る恐る料理の皿にそれを伸ばす。敷き詰められた瑞々しいレタスの上に乗っているからあげを一つ掴み、頬張った。ゆっくりと咀嚼する。

「お味はいかが?」

「あ、とても美味しいです」

「うふ、それは良かった。今、主人は出張中で不在なの。桜もあんな具合だから、遠慮せずにたくさん食べてね」

「ありがとうございます。でも、僕は小食なので……」

 僕は申し訳なく思い首を縮めた。

「あら、でもいつもお弁当はきちんと完食してくれるじゃない」

「いや、それは……」

 瞬間、僕は表情を止めた。

「え?」

「ここ最近、桜の代わりに私が作ったお弁当を食べてくれていたでしょ?」

 くすり、と獏母は笑みをこぼす。

「な、何でそれをご存じなんですか?」

 上ずった声で、僕は問いかける。

「桜はいつも私が作ったお弁当を残していたの。あの子はご飯よりも甘いスイーツが好きだから。でも、ここ最近はきれいに完食するようになっていた。あの子は自分が食べたなんて言っていたけど、敬太郎くんが食べてくれたんでしょ?」

「いや、まあ、その……はい、すみませんでした」

 僕は俯いて俊と肩を落とした。

「何で謝るの?」

「いえ、お母さんを騙すような真似をしてしまって……」

「良いのよ、そんなこと。それに私はむしろ嬉しかったわよ。若い男の子が、私の作ったお弁当をモリモリ食べてくれて」

「男の子って……僕はもう二十歳を超えた男ですよ」

 少しふて腐れた風に言うと、獏母はまたくすりと笑った。

「そうね、ごめんなさい。桜とお付き合いをしている男ですもんね」

「いえ、僕は彼女と付き合ってなどいません」

「あら、そうなの?」

「そうです。彼女とはあくまでも契約関係にあるだけです。それも仮の契約なので、直に解消されることでしょう。というより、すぐにでも解消したいです」

 そこまで言った所でハッとした。親の前で堂々と獏女の悪口を言ってしまった。非常にばつの悪い感情に襲われ、顔を俯けてしまう。ちらりと獏母を見ると、しかし彼女は意外にも微笑みを浮かべたままだった。

「まあ、あの子はわがままだから。敬太郎くんも色々と付き合わされて大変かもしれないわね」

「いえ、まあ……はい」

「ふふ、素直でよろしい。けど、あなたは何だかんだであの子のわがままに付き合ってくれているんだものね」

「まあ、仕方なしにですけど」

「勝くんとの一件も、あなたが解決してくれたのよね」

「あいつそんなことまで話したんですか……」

 僕は苦虫を噛み潰したような顔になる。

「ええ。敬太郎さんは私のヒーローだって、喜んで話してくれたわ」

 ヒーロー。そんな僕には到底似つかわしくない形容をされて、非常にむず痒い。

「だからね、敬太郎くん。あなたにお願いがあるの」

「はい、何でしょうか?」

「これからも、桜をそばで支えてあげて欲しいの」

 やんわりと微笑んだまま、獏母は言った。僕はすぐに返事をすることが出来ず、固まってしまう。

「お断りします……って言ったらどうしますか?」

「それはそれで構わないわ。けど、あなたはきっと助けてくれる」

「随分と買い被られているんですね」

「ええ、私は大いにあなたを買っているわよ。いくら出したら、家の婿養子になってくれるかしら?」

「それお金で解決して良い問題じゃないでしょう? しかも婿養子かよ」

「うふ、敬太郎くんってばおもしろーい」

 軽く手を叩いて喜ぶ獏母を見て、僕はわずかながらにイラっとした。やはり親子だな。

「さあ、敬太郎くん。冷めない内にたくさん食べてね」

「たくさんは食べられません。ほどほどにしておきます」

「くす、可愛い」

 獏母は口元に手を添えて上品に笑う。僕のような気高き紳士を捕まえて可愛いなど、的外れなことを言ってくれる。褒めているつもりかもしれないが、それは侮辱に他ならない。僕は良い年をした男なのだ。可愛い男の子など当に卒業したのだ。

「あ、敬太郎くん。もっとからあげ食べてちょうだい」

「いや、あまり脂っこい物ばかり食べたら……」

「はい、あーん」

 図らずしも、僕は久方ぶりに「はい、あーん」の脅威にさらされることになった。

 やはり親子である。




      ◇




 夕食を終えた僕は、ぐったりと背もたれに寄りかかっていた。食事とは本来栄養を補給する行為であるはずなのに、なぜ僕はこんなにも疲弊しているのだろうか。原因は分かっている。あの性悪女の母もやはり同様の気質を兼ね備えており、僕は良い様に翻弄して楽しんだ。その結果がこれである。全く、僕のような高潔な紳士をたぶらかすなど、とんだ悪女である。あのしとやかな笑みを剥いだらどんな顔を見せるのか。想像しただけでもゾッとしてしまう。これ以上この家にいたら、僕はどんな辱めを受けるか分かったものじゃない。早々に退散しよう。

「……じゃあ、僕はそろそろ帰ります」

 椅子から立ち上がり、僕は言った。

「え、もう帰っちゃうの? どうせなら泊まって行けば良いじゃない」

 キッチンで洗い物をしていた獏母が言う。

「いえ、それはさすがに……」

 その時、突然ドタドタと勢い良く階段を駆け下りる音が鳴った。直後に、ドタンバタンとドアが開閉するやかましい音が鳴る。目を丸くしていた僕は、ダイニングから廊下へと通じるドアを開き、辺りの様子を伺った。直後、奥にあるトイレの方から「ううぅ……」という呻き声が聞こえて来た。これはもしかしなくてもアレをしていらっしゃる音だとすぐに理解した。しばらくしてトイレのドアが開き、青ざめた顔で獏女が姿を現す。

「……あ、敬太郎さん」

「お前、ベッドで横になっていたんじゃなかったのか?」

「ええ、まあ……けど、早く本を読まなくちゃと思って……読んでいたら、また気持ちが悪くなってしまって……」

 青ざめた顔で訥々と語る獏女を、僕は呆けた顔で見つめるしかなかった。

「あら、桜。随分と顔色が悪いわね」

 僕の背後から廊下に顔を覗かせた獏母が、やや大仰な様子で言った。

「そんなに具合が悪いと、誰か付きっ切りで看病をしてあげなくちゃいけないわね……あ、そうだ。敬太郎くん、桜の看病をお願いしても良いかしら?」

「は? いや、看病ならお母さんがすれば良いのでは?」

「もちろんそうしたい所だけど、私は明日、朝早くに用事があるの。だから、一晩付きっ切りで看病なんてできなくて。敬太郎くんは明日何か予定はあるの?」

「いえ、明日は土曜で大学も休みなので特に予定は……」

「まあ、それは好都合……じゃなくて助かるわ! どうか、可愛そうな娘の面倒を見てやってくれないかしら?」

 潤んだ瞳で獏母は訴えて来る。この露骨に悲壮感を漂わせる感じが何とも苛立たしい。僕は断固断りたい気持ちで一杯だった。しかし、ちらりと獏女を見れば、彼女は相変わらず青ざめた顔でボーっとこちらの様子を伺っている。ちょっと指先で小突いたらすぐに倒れてしまうそうなその様に僕の良心がほんのわずかばかり痛んだ。断固たる僕の決意が揺らいでしまう。

「……敬太郎さん」

 ふいに、獏女がか細い声を発した。

「ご迷惑を承知でお願いします……どうか、今晩だけ私のおそばにいて下さい……」

 潤んだ瞳で、獏女は訴えて来た。それは獏母とは違う切実さが感じられて、僕の心は不覚にも大いに揺れてしまった。その時だけ、この女が性悪であることを忘れた。そこにいるのは、病で弱り切っている、黒髪の乙女であった。

「……分かった」

 ぼそりと、僕は呟く。

「そこまで言うなら、今晩だけお前の面倒を見てやる」

 僕が言うと、獏女は潤んだ瞳を大きく開いた。

「本当ですか?」

「ああ」

「ありがとうございます、敬太郎さん」

 獏女がしとやかに微笑むと、なぜだか胸が高鳴った。僕は彼女から視線を逸らす。

「じゃあ、お前の部屋に行くぞ。一人で歩けるか?」

「はい……でも、出来れば敬太郎さんに支えてもらいたいです」

「ちっ、わがまま言いやがって」

 毒づきつつも、僕はふらふらの獏女に肩を貸してやる。その様を見ていた獏母がくすくすと笑っていたが、あえて無視をした。

 僕は獏女を支えながら二階にある彼女の部屋に向かった。部屋に入ると、彼女をベッドに連れて行く。

「ほら、さっさと横になれ」

 僕は彼女をベッドに横たえようとした。しかし、彼女は小さく抵抗をした。

「何だ?」

「敬太郎さん。私、本が読みたいです」

「え? けど、お前そうしたらまた吐いちまうじゃないか」

「はい。けど、やっぱりどうしてもこの本を自力で読みたくて。敬太郎さんがそばにいてくれれば、そんな無理も叶うんじゃないかと思って……」

 獏女はテーブルに置いてある本を見て、切なげに瞳を歪めた。

「お前はそうまでして、自力で本を読みたいのか?」

「はい。そして、敬太郎さんと物語の内容を語り合いたいんです」

 真っ直ぐな瞳に心臓を射抜かれて、またどきりと高鳴ってしまう。

「そうかよ。まあ、精々がんばれ」

 僕は視線を逸らして言った。

「はい」

 獏女は深く頷き、その本に手を伸ばす。おもむろに開いてページをめくった。それは真剣な、というよりは必死の目つきで文字を追っている。その鬼気迫る表情に僕は少し圧倒されたが、やがて彼女の顔からみるみる血の気が抜けて行き、真っ青になったと思ったら、口元を押さえて勢い良く立ち上がった。脱兎のごとく部屋から飛び出し、ドタドタと勢い良く階段を下りて行った。それから待つこと数分、再び部屋に姿を見せた獏女の顔は頬がこけていた。ふらふらと覚束ない足取りでまた本の前に向かう。その様を目の当たりにして、さしもの僕も彼女の体調が心配になって来た。

「おい、大丈夫か?」

 僕が声をかけると、獏女はこけて青ざめた顔で、精一杯の微笑みを浮かべて見せた。

「はい、大丈夫です……」

 そんな彼女はどう考えても大丈夫な状況ではない。僕はおもむろに立ち上がると、部屋から出て一階に下りた。

「すみません、何か余っているビニール袋はありませんか?」

 僕が言うと、家事を済ませてリビングでくつろいでいた獏母は、「あるけど何に使うの?」と尋ねてきた。僕は適当な理由を付けて大きめのビニール袋を五つほど調達し、再び獏女の部屋に舞い戻った。

「あの、敬太郎さん。そのビニール袋は何に使うんですか?」

「お前さ、吐く度にトイレに駆け込むのは効率が悪いだろ」

「え?」

「だから、次からこのビニール袋に吐けよ」

 僕はビニール袋の口をガサッと広げ、そう言った。すると案の定、獏女は抵抗する素振りを見せた。

「そんないくら何でもそれは出来ません……女として、そんな恥ずかしい真似……」

「言っておくが、俺は今お前のことを女だと思っていない」

 僕が言うと、獏女はきょとんとした。

「今のお前は、本を一生懸命に読もうとしている文学戦士だ。つまり、僕の仲間だ。僕は仲間としてお前を助けてやりたい。だから遠慮なくゲロを吐け。その度に、僕がこのビニール袋で受け止めてやる」

 取り立てて格好付ける訳でもなく、僕はあくまでも淡々と言ったつもりだった。だが、獏女は何か大きな衝撃に打たれたように、目を見開いた。

「……そうですね、今さら取り繕っても仕方がありません。私はこの本を読まなければ前に進めないんです。そのためならビニール袋に吐くくらい、訳ありません」

「良い心がけだ。まあ、できることなら吐く回数は最小限に留めてくれるとありがたい」

「努力します」

 獏女は静かな声で、しかし確かな決意を燃やしていた。そんな彼女を見て僕はふいに口元が緩み欠けるがきゅっと引き締め、ビニール袋を開いた状態で彼女の隣に控えた。

「さあ、始めるぞ」




 獏女は青ざめた顔をビニール袋に寄せた。

「……うぅ」

 口元を拭いながら、呻き声を上げる。

「あまり間隔を開けるな。まだページは半分以上も残っているぞ」

「はい、すみません……」

 弱弱しい声を発し、獏女は再び本に視線を這わせる。だがそれから間もない内に、また青ざめた顔でビニール袋に嘔吐した。今まで散々吐いたせいで、それは最早内容物を持たない胃液となっていた。

「はあ、はあ……ごめんなさい、敬太郎さん。先ほどからお見苦しい所を……」

「いちいち謝らなくても良い。そんな暇があったら、さっさと本を読め」

 僕は冷然と言い放つ。獏女は力弱く頷き、また本に視線を這わす。それから間もなくまた嘔吐する。その繰り返しだった。ビニール袋から顔を上げた獏女は、涙目の状態で荒い吐息を漏らす。

「やはり、私には無理なんでしょうか? こんなに何度も吐いて、まだこんなにページも残っていて……」

 弱音を吐く獏女を見て、僕は小さくため息を漏らす。

「自分でやると決めたことだろ。だったら、最後までやり通せ」

「でも、どうしても吐き気がして、中々読み進まなくて……」

 獏女は今にも泣き出しそうな顔になって言った。分かっている、彼女が苦しんでいることは。しかし、僕は彼女を応援すると決めた。だから、例え困難な道だろうとあきらめて欲しくないのだ。

「おい、お前」

「はい?」

「文字を文字として読むな。そこからイメージを膨らませろ。物語の光景を」

「イメージ……」

「ああ、そうだ。お前自身の頭で、お前のイメージを膨らませてみろ。そうすれば、今よりもずっと本を読めるはずだ」

 そう言った僕の顔を、獏女は涙目でまじまじと見つめてくる。

「アドバイス……して下さったんですか?」

 僕は頬の辺りを指先で掻いた。

「お前があまりにも不出来な奴だからな。仕方なくこの僕がアドバイスをしてやったんだ。精々感謝することだな」

 腕を組んでふんと鼻息を鳴らす。それは偉そうなことこの上ない言動であったが、獏女は不快に顔を歪めることはなく、むしろ久方ぶりに微笑んだ。

「ありがとうございます、敬太郎さん。とても嬉しいです」

「礼なんぞいらん。僕をさっさとゲロ処理の任務から解放させてくれ」

「もう、そうやってすぐ意地悪を言うんですから」

 微笑んだままそう言って、獏女は本に目を向けた。ページを開いて文字に目を這わす前に、僕に言われたことを反芻するように呟き、大きく目を開いて文章を読み始めた。それまではすぐに顔が青くなっていたが、今回はそのようにならない。獏女にしてはスラスラとページを繰って行く。

「その調子だ」

「はい」

 僕の天才的アドバイスが功を奏したのだろう。不出来な読者である獏女は、それから時折嘔吐することはあっても、それまでのように頻繁にページを繰る手を止めなくなった。ゆっくりと、しかし確実に読み進めて行く。

 すると物語が終盤に差し掛かったところで、獏女の瞳がまた潤んだ。それから口元に手を添える。僕は吐き気を催したのかとビニール袋を構えるが、獏女は嘔吐することなく物語を読んで行く。気が付けばページを繰る速度が増していた。終盤にかけての物語の展開がそうさせているのだろうか。僕はいつの間にか拳を握り締めていた。

 行け、そのまま行け。吐き続けて、吐き続けて、ようやくここまでたどり着いた。胃の中が空になり、逆流の衝撃で食道がただれているだろう。それだけの苦しみを重ねて、お前はここまでたどり着いたんだ。めくれ、ページを、めくれ。自分のイメージを最大限に膨らませて、読むんだ。

 パタン、と静かに本の閉じる音が鳴った。獏女はその本の余韻を噛み締めるようにして、テーブルに置く。しばらく静止していた体が、やがて小刻みに震え始めた。

「……やりました」

 彼女は、おもむろにこちらへ振り向いた。

「自力で、最後まで、本を読みましたよ。自分でも信じられません……」

「何を言っている。現にお前は、自分の力で本を読んだじゃないか。まあ、この僕の手助けがあったおかげだけどな」

「はい、そうですね。敬太郎さんがいなかったら私、自力で本を読むことなんて出来ませんでした」

 嬉々とした様子で獏女は言う。

「けど、これで敬太郎さんと物語の内容について語ることができますね……」

 ふいに獏女の体がふらつき、そのまま横に倒れそうになった。僕はとっさにその体を抱き留める。

「……ごめんなさい、敬太郎さん。やっぱり少し無理をし過ぎたみたいです」

 か細い声で獏女は言った。

「そうか」

「せっかく敬太郎さんと物語の内容を語れると思ったのに……」

「そう焦ることもないだろう。今は精々休んでいろ」

「はい、そうですね」

 柔らかく微笑んだ後、獏女はすっと目を閉じた。あろうことか僕の膝の上で。僕はこの不躾な態度に眉をひそめ、今すぐにでも罵詈雑言の限りを尽くして咎めてやりたい衝動に駆られたが、その安らかな寝顔を見て、不覚にも溜飲を下げてしまった。

 ――私には、好きな人がいます。

 ふいに、その言葉が脳裏に蘇った。まあ僕には関係のないことであるが、なぜか心臓が落ち着きなく跳ねてしまう。

「……獏女のくせに、生意気だ」

 毒づいた僕はそれからしばらくの間、膝枕を続けざるを得なかった。










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