12

 嫌なことがあった時、僕は大抵酒の力を借りている。よく冷えた日本酒が喉元を通り抜けると、その瞬間に得も言われぬ快感が走り、胸の内にわだかまっていた不快感を吹き飛ばしてくれるのだ。ただその代償として、翌日はひどい二日酔いに悩まされることが常であるが。

 しかし、僕は昨日その酒を飲まなかった。一滴たりとも飲まなかった。またぞろ酒の力で嫌なことを忘れ去ってしまおうと思っていたが、何となくその気が削がれてしまい、結局ボーっと所在なく佇んでいる内に眠気がやって来て、そのままころりとベッドに寝転んだ。

 そして目覚めた現在、とてつもなく頭が痛いのである。おかしい、僕は偉大なるお酒の力を一切借りていない。それにも関わらず頭痛になるなんて。こんなことなら、いっそのこと酒を飲んでしまえば良かったと、なぜだがとても損した気分になる僕は大概耳っちい男である。思えば、前にも同じようなことがあったな。

 こんな頭痛に苛まれてしまっては、大学の講義はお休みせざるを得ない。こんな状態で教授方のご高説を賜るなんて、バチ当たりも良い所である。注釈しておくが、これは決してサボリなどではない。あくまでも優れた自立心によって導き出された、至極真っ当な休息なのである。

 そうと決めたら僕は早い。再びベッドの上で毛布に包まり、人類皆が愛してやまない二度寝に没頭することになったのだった。




      ◇




 昼下がりの風は心地よく、僕の頬を撫でて行く。

 今朝は激しい頭痛に悩まされた僕だったが、愛しの二度寝に耽ったおかげで、それも大分軽減された。僕はこれからも二度寝を愛することに決めた。そんなアホな思考を回せるくらいには、僕の体調も回復していた。

 アパートを出た僕はいつものコンビニへと赴き、適当な弁当を買った。そのまま枕木公園へと足を向けるが、その入口でぴたりと足を止めてしまう。何気なく歩みを進めてしまったが、昨日この場所で惨劇が繰り広げられたことを思い返すと、再び重い気分が押し寄せて来る。このまま回れ右をして帰ってしまおうか。しかしここで逃げたら今後この公園、並びに図書館に訪れることができなくなってしまうような気がした。色々と嫌な思いもしたが、やはりこの場所は僕にとって必要なのだ。「リア充」が跋扈している大学の付属図書館は、既に僕の体が一種のアレルギー反応を起こしてしまう。

 小さく息を吐き、公園内に足を踏み入れた。桜の木々に彩られた道を歩き、ベンチへと赴く。公園のベンチにはちらほらと人影が見えた。だが、その中に彼女の姿は無かった。まあ、いつもより時間は少し早いから、いないのも無理はない。というか、いなくてもさして問題ではない。僕は適当なベンチに腰を下ろし、適当に買った弁当を頬張った。




 いつもよりも静かに昼食を終えた。というか、元来僕の昼食は静かなものである。誰とも話すこともなく、というか話す誰かもおらず、孤高の文学紳士として昼食を嗜む。注釈しておくが、決して寂しいとは思わない。思ったことはない。「うわ、あいつ『ぼっち』だ」と蔑む奴らこそ、むしろ侘しい心の持ち主だと気付いた方が賢明である。

 図書館の前に立つと、なぜか異様な緊張感が押し寄せて来た。落ち着け、僕がこんな感情を抱く必要なんてない。そもそもあの獏女だってけろっとしていたじゃないか。当人がそうなのだから、傍から見ていただけの僕が気にする必要なんてない。この扉をくぐればまた、「こんにちは、敬太郎さん」なんて見た目だけは清楚で可憐に微笑みながら言ってくるに違いない。

 気持ちを固めた僕は図書館の扉をくぐり抜けた。カウンターに目をやると、獏女の姿は無かった。だが取り立てて慌てることはしない。図書館の職員の仕事はカウンターに座っている以外にも多々ある。きっと本棚の整理をしているか、あるいは裏で何か作業をしているのだろう。

 僕は静かな館内で本棚を物色する。その最中、獏女の姿を見かけなかったので、どうやら裏で作業をしているようだと結論付けた。まあ、そんなことはどうでも良い。奴がいないならむしろ好都合。僕は基本的にどんな本でも好んで読むが、最近は奴のせいで甘い恋愛小説ばかり読んでいたため、いい加減甘ったるくて仕方がなかったのである。今日は久方ぶりに夏目漱石の小説でも読み、心を落ち着けようか。出来れば太宰治にも手を伸ばしたい。僕は素敵な文学達を抱えて席に着くと、その言葉の海に飛び込んだ。




 時代が移り変わっても、文豪達の紡ぐ物語の素晴らしさは変わらない。特に夏目漱石の「坊ちゃん」はしっかりとした文学でありながら、実に痛快な話であった。主人公は多少荒っぽい口調であるが、その精神は僕と同じく高潔なものだと感じた。活字の海から上がった僕の目は数秒ぼやけていたが、やがて焦点が合う。壁に掛かった時計は午後三時を示していた。僕はカウンターに視線を下ろすが、獏女の姿は無かった。そこで少し首を捻った。

「やあ、今日も来ていたんだね」

 おもむろに顔を上げると、皺の入った顔で微笑む白髪の館長がいた。

「あ、はい。どうも」

僕は小さく頭を下げた。館長はテーブルに置いてある本をしげしげと見つめる。

「君は本当に本が好きなんだね。全く、若いのに感心なことだよ」

「ありがとうございます。あの、ところで……彼女はどこにいるんですか?」

 僕が遠慮がちに聞くと、館長は小さく目を開いた。

「彼女? ああ、桜ちゃんのことかい? 君の彼女の」

「いえ、彼女じゃありません」

「またまた、照れなくても良いんだよ」

 微妙なニヤケ面によるその物言いに、寛大な心を持つ僕も少なからず苛立ちを覚えたが、前回もこちらが言っても聞かなかったので、否定することをあきらめた。その代わり、積極的に肯定もしないが。

「ああ、そうそう。桜ちゃんは今日休みなんだよ」

「え?」

「何でも体調が優れないみたいでね。まあ、いつも真面目に働いてくれているから、今日はゆっくり休みなさいって伝えたんだけどね……というか君は知らなかったの? 彼氏なのに?」

 またしてもその物言いに苛立つが、僕は努めて平静を保つ。

「恥ずかしながら知りませんでした。僕達はその辺のおめでたいカップルのように、日頃からべたべたくっついている訳じゃありませんので。お互いのプライベートは大事にしているので」

「そうかい? この間は随分とべったりしていたじゃないか」

「ぐっ……あれは、その、たまたまです」

「はは、君は本当に照れ屋さんだな」

 館長は実に愉快げに笑った。そんな彼に苛立ちを覚えつつ、僕はしばし黙考した。

 あの獏女は休んでいる。体調を崩して。その原因は分かっている。

 だからと言って、僕にできることはない。特にやることもない。彼女がいないのであれば、僕は黙々と読書をして、彼女が復帰したらその仮契約に基づいて粛々と読書をする。ただそれだけのことである。何も気に病む必要はない。あの獏男に襲われた後も、あんなにあっさりしていたじゃないか。何も気にすることなんて無いんだ。

「おっと、大切な読書の時間を邪魔してすまない。じゃあ、私はこれで失礼するよ」

 館長はそう言って、その場から立ち去ろうとする。

「……あの」

 気が付けば僕は、その背中を呼び止めていた。

「ちょっとお聞きしたいことがあります」




      ◇




 図書館を後にした僕は、自宅のアパートとは反対方向に向かって歩いていた。やがて、住宅街に入った。僕のアパートがあるそれと大して変わらない。

「多分この辺りだと思うんだが……」

 小言を呟きながら、僕は辺りをきょろきょろと見渡す。決して挙動不審になっている訳ではない。目的の場所があり、それを探しているのだ。僕はなるべく怪しまれないように必要最低限の首の動きできょろきょろとする。その努力の甲斐あってか、通りすがる人達は僕のこと素通りしてくれた。まあ、単純に僕に対して興味が無かっただけかもしれないが。そうこうしている内に、目の前に中々立派な門構えを持つ一軒家が姿を現した。その表札を見ると「木野宮」と書かれている。どうやら目的の場所に到着したようだ。

「え、桜ちゃんの家の場所を教えてくれだって?」

 館長は少し大仰な反応を見せてそう言った。

「でも、君達は付き合っているんだろ? だったら家の場所くらい知っているんじゃないのかい?」

 相変わらず僕達が付き合っていると決めつけているアホな館長である。僕は全力で否定したい気持ちを押さえて、口を開く。

「その……僕達は非常にプラトニックな付き合いをしているので。お互いの家に行ったことも無いんです」

 僕は絶妙な塩梅の照れ臭った表情を浮かべて言った。この演技力、生来持ち合わせた顔立ちも含めて、俳優業でもやってみようかしらん。

「そうだったのか。いやはや、今どき本当に珍しいね君達は。私はもうてっきりやることは済ませているのかと思ったよ、あっはっは!」

 あっはっは、じゃねえ紳士の振りしたスケベジジイ。っと、いけない。例え心の中でもそのようにはしたない言葉を使ってはいけない。僕の紳士としての品格が疑われてしまう。

 高い自律心で思い直した僕は、腰を低くして館長から獏女の自宅の場所を聞き出した。

 そして現在、その自宅の前に立っていた。

 ここまで来てふと、僕は思い至る。そもそもなぜここに来たのか。来ようと思ったのか。思案を巡らせる。まあ、僕も一応彼女が被害に遭った現場に居合わせた訳だし、その後知らんぷりをするというのも、人としての情に欠けているように思えてしまう。僕は常日頃から冷静沈着な男であるが、人並みに情というものは持ち合わせているつもりだ。仮にも目の前で女の子が襲われて、助けてやることができなかった。そのせめても罪滅ぼしとして、少しだけ顔を出し、見舞ってやろう。そう思ったのだ。

 門の前に立ち、インターホンに指を伸ばしかけた所で、ぴたりと動きを止めた。今さらだが、まだ知り合って間もない相手の自宅を訪れるというのはそれなりに緊張するものだ。家族の誰かがいるかもしれない。出くわしたら中々に気まずい。まあ、いなかったらいなかったで、それもまた気まずいのだが。と、いかんいかん。僕は一体何を考えているんだ。何度も念押しをするが僕達は決して付き合っている訳ではない。だから、彼氏が彼女の家に初めて行く、みたいな緊張感を味わう必要はない。あくまでも知り合いの様子を心配し、ほんの少し顔を見に来た好青年。今の僕はまさにそれである。そんな僕に対して家族は特に警戒心を抱くこともなく、まあどうもわざわざありがとうございます、いえいえ、とんでもございません、などとあいさつを交わす程度で済むはずだ。

 数秒間固まっていた僕は、ようやくインターホンを押した。チャイムが鳴って待つことしばし、『はい、どちら様でしょうか?』という声がスピーカーから聞こえた。その声はあの獏女同様に澄んでいたが、やや声質が違う。母親だろうか。

「突然失礼いたします。こちらは木野宮桜さんのご自宅でしょうか?」

 やや口ごもりながら、僕は言った。

『はい、そうですが』

「申し遅れました、僕は諸井敬太郎と申します。桜さんとはその……彼女の働いている図書館をよく利用して、知り合っている仲でして……」

 緊張しながら丁寧に言葉を紡いでいると、ぷつりとスピーカーが切れる音がした。もしかして気に障るようなことをしてしまったのだろうか。一瞬不安に駆られるが、直後に玄関のドアが開き、麗しい淑女が姿を現した。髪の色は獏女のように黒ではなく自然なブラウンに染まっていた。彼女は小走りで門までやって来ると、僕の前に立ち会釈をした。

「よく来てくれましたね。さあ、こちらにどうぞ」

「あ、はい」

 僕は言われるがまま彼女の後に付いて歩き、玄関から家の中に通された。

思いの他あっさり、というか歓迎されている様子に困惑しつつ、「お邪魔します」と言った。

「あの、すみません。突然来てしまって」

「いえ、お気になさらず。むしろ、会えて嬉しいです」

「え、僕にですか?」

「はい。諸井さん……いえ、敬太郎さんとお呼びしてもよろしいですか?」

「あ、はい。どうぞ」

「敬太郎さん、あなたのことは桜からよく聞かされています。とても本を読むことが好きで、素晴らしい想像力をお持ちだと」

「いえ、そんなことは……」

「桜は随分と、あなたのことを気に入っているみたいですよ」

「はは、都合よく利用されているだけですよ」

 つい皮肉めいた物言いになり、思わず口を手で押さえた。しかし獏女の母、獏母はやんわりと微笑んでいた。

「申し遅れました。私は桜の母の木野宮万里(きのみや まり)と申します。以後、娘共々よろしくお願いしますね」

「あ、はい。どうも」

 返事に困った僕は、曖昧な笑みを浮かべて頷いた。

「今日は桜に会いに来てくれたんですよね?」

 獏母は微笑みを湛えたまま尋ねてくる。

「ええ、まあ。体調を崩していると聞いたので、知り合いとして見舞いくらいしようと思った次第でございます」

「うふ、敬太郎さんはお優しい方ですね。桜に聞いていた通りです」

「はは、ありがとうございます」

「ごめんなさい、こんな所で立ち話をしても仕方がないですよね。桜の部屋は二階にありますので、会ってあげて下さい」

 柔らかに微笑んで獏母は言った。先ほどから話していて、この獏母が物腰穏やかであることは分かった。だが、この獏母がいつも獏女にしっかり弁当を食べなさいと言い付けているのだ。身内には厳しいタイプなのかもしれない。お母さん、あなたが丹精込めて作った弁当は、いつもこの僕が食していますよ、と台詞が口を突いて出そうになったが、控えておいた。

僕は小さく頷いて階段を上った。二階にはいくつか部屋があったが、その内の一つに「さくら」とプレートに書かれた部屋があったのですぐに当たりは付いた。ここまで来てうだうだしても仕方がない。さっさと見舞いを済ませて帰ろう。僕は門前とは打って変わって、躊躇なくその部屋のドアをノックした。

「はい、どうぞ……」

 やや掠れた声が部屋の中から聞こえて来た。僕はドアを開けて中に入った。

 あの獏女のことだからきっと桃色尽くしの部屋に違いない。そう思っていたが、案外普通の女の子の部屋だった。不覚にも、その清潔さに好感を抱いてしまう。

「……敬太郎さん?」

 声がして振り向けば、獏女は寝間着の状態でベッドに横たわっていた。その黒い瞳が大きく開いている。

「なぜ、ここに?」

「館長にお前が体調を崩して休んでいると聞いたからな。様子を見に来たんだ」

「もしかして、私のことを心配して下さったのですか?」

 ベッドから上半身を起こして、獏女は尋ねてきた。

「冗談はよせ。僕はあくまでも人としての義理を果たすために来たまでだ。本当の所、お前みたいな性悪獏女が倒れても何の関心も興味もない」

 両手の平を上に向けて、僕は言った。

「そうですよね……敬太郎さんは、私のことを嫌っていますもんね」

 獏女は小さく目を伏せた。そのしおらしい態度を見て、僕はわずかばかり困惑してしまう。いつもの彼女なら、「もう、敬太郎さんってばひどいですぅ」と軽口を叩くはずなのに。今の彼女は水分を失った草木のように、しゅんとうなだれていた。

「……やっぱり、襲われたことがショックなのか?」

 無粋だと思いながらも、僕はあえて直接的な物言いで聞いた。獏女はベッドの上から、窓の景色に視線を向けた。

「そうですね。ショックでした」

 獏女もまた、正直に答えた。

「私は小さい頃、勝さんに毎日のようにいじめられていました」

 おもむろに、語り出した。

「昔、私と彼は家が隣同士だったんです。親同士が仲良かったこともあり、私達は家族ぐるみの付き合いをしていました。両親同士が仲良しなのだから、私達もきっと仲良くなれると思っていました」

 遠い記憶の輪郭をなぞるように、彼女は言葉を紡いでいく。

「けれども、彼は私と顔を合わす度に、私のことをいじめてきました。からかって、詰られて、時には暴力も振るわれて……その度に勝さんのご両親は頭を下げて下さいました。私の両親も子供同士のことだからと言い、憤りはしませんでした。その後、小学六年生の時に父の仕事の都合でこの町に引っ越して、それからずっと彼には会っていませんでした。彼にいじめられたことも、時間の経過と共に忘れて行きました。けど……」

 獏女は小さく拳を握り締めた。

「久しぶりに彼に会って、あの時のいじめられた記憶が蘇って、情けないことに私は恐怖してしまいました。その上、あんな風に犯されてしまって……」

 獏女は言葉が尻すぼみした。そのまま、口を閉ざしてしまう。室内に気まずい沈黙が舞い降りた。僕はどうすることも出来ず、アホのように固まっていた。

 その時、沈黙を破るようにドアがノックされた。獏女が「どうぞ」とか細い声で答えると、ドアがゆっくりと開き、先ほど会った獏母が顔を覗かせた。

「お取込み中にごめんなさいね」

「あ、いえ。大丈夫です」

 僕は少し慌てて答えた。

「お菓子を持って来たので、良ければ召し上がって下さい」

 部屋に入って来た獏母は、テーブルにクッキーの入った皿と二人分の紅茶を置いた。

「そういえば桜、敬太郎さんにきちんとお礼は言ったの?」

「え?」

「勉強で忙しい中わざわざお見舞いに来て下さったんだから、きちんとお礼を言わないとダメでしょ」

 母に言われたことでハッとしたのか、獏女は慌ててこちらに振り向いた。

「あの、今日はわざわざ来て下さって、本当にありがとうございます。ごめんなさい、ロクにお礼も言わずに……」

「別に、礼を言われることなんてしていない。だからそんな風にかしこまる必要もない」

 妙に照れ臭くなった僕は、ぷいとそっぽを向いて言った。すると、くすりと笑い声が漏れた。

「やはり、敬太郎さんはお優しい方ですね」

 そう言って微笑んだ獏母は、トレーを抱えた状態で立ち上がった。

「では、敬太郎さん。ゆっくりして行って下さいね」

 微笑みを残して、獏母は部屋から出て行った。残された僕達の間には、また沈黙が訪れた。正直に言って、僕は沈黙が苦手だ。一人でいる時の静けさは好むが、誰か一緒にいる時の沈黙は中々に神経を摩耗してしまう。その相手が例え、この性悪獏女だったとしても。

「……なあ。紅茶、冷めちまうぞ」

 僕が声をかけると、ベッドの上で俯いていた獏女は小さく顔を上げてこちらを見た。

「そうですね……」

 獏女はベッドから下りると、テーブルの前に座った。紅茶の入ったティーカップから立ち上る湯気をぼんやりとした目で見つめた後、両手でそれを持ち上げた。

「いただきます」

 小声で呟き一口飲んだ。いつもよりわずかに色素の薄かった唇が湿り気を帯びたことによって、血色が良くなったように見えた。僕も紅茶を一口含んだ。直後、僕はほっと息を吐いた。

「良かった。お前の家だからてっきり激甘かと思ったけど、そんなことはなかったな」

「失礼ですね、敬太郎さん。私の母はそんな見境のない人じゃありません。お客様にそんな甘口の飲み物はお出ししませんよ。まあ、私のは甘口ですけど」

「へえ、そうなのか」

「よろしければ、一口飲んでみますか? あ、でもそうしたら間接キスになっちゃいますね。けど、私は全然構いませんので、遠慮なく私のティーカップに唇を付けて下さい」

「僕は構うよ。誰が好き好んで、お前みたいな奴と間接キスなんてするもんか」

「まあ、本当にひどい敬太郎さん。私は体調を崩している身なのですよ?」

「その割によく喋るじゃないか」

 僕が言うと、獏女ははたと気付いたように口元に手を添えた。自分で言っておいて、僕も同様の心境だった。先ほどまで沈んでいたこの女がいつもの調子を取り戻していた。

「ありがとうございます。敬太郎さんとお話できたおかげで、元気が出ました」

「ああ、そうか。そりゃ良かったな」

 僕は残りの紅茶を一気に飲み干すと、立ち上がった。

「じゃあ、僕はお暇させてもらう」

 くるりと踵を返し、部屋から出ようとした。

「あの、敬太郎さん」

 背後で獏女が呼んだ。僕は足を止め、ちらりと振り向く。

「今日は来て下さって、本当にありがとうございました」

「別に、改まって礼を言われるほどのことはしていない」

 僕は再び歩き出し、部屋のドアを開けた。去り際、「相変わらず、照れ屋さんなんですから」と聞こえた気がしたが、構うことなく部屋を後にした。







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