11

 本のページをめくりながら、僕は時計を見た。時刻は間もなく午後三時を迎えようとしている。ちらりとカウンターに目をやれば、獏女はしとやかに佇んでいる。だが、その視線はちらちらと落ち着きなく僕に向けられていた。嫌気が差した僕は睨み返し、残り少なくなったページを読んでいく。とは言え、この内容も三時になれば全て忘れてしまうのだ。そう考えると、何だかとても虚しいというか、妙な読書をしていると思う。他人のために自分が本を読んでやるなんて、おまけにその内容は僕の頭から消え去ってしまう。その本を読んだという事実は記憶にあるが、肝心の内容が頭から消え去ってしまうのだ。

 あの性悪獏女は、本が最高の原材料だと言った。彼女曰く僕は優れた読者で、それを美味しくイメージしてくれる存在。彼女好みの甘い恋愛小説を読んで、その甘ったるいイメージを提供するための存在。上手いこと利用されている。それは腹立たしいことである。だが彼女は人外として凄まじい力を持っており、おまけに腹黒で打算的である。敵に回すと今後厄介な事態になるだろうと判断して、仕方なしに仮契約を結んだ。しかし、それにしても腹立たしい。優雅にカウンターに腰を掛けて、僕が読んだ本の内容をバクバクと食べる。非常に腹立たしいことこの上ない。

 カチリ、と針が動き、時刻は午後三時を示した。すると、獏女は相変わらずしとやかに佇んだまま、しかしその瞳がきらんと輝き、小さく口を開けた。

 つい今まで僕の頭の中に浮かんでいた小説のイメージが、すっと消え去った。読んだことは自覚しているが、その内容は思い出せない。ああ、僕のイメージが食われてしまったんだ。獏女を見れば、お上品に口元を押さえながら、もぐもぐと咀嚼をしている。その優雅な食べっぷりを見ていると、こめかみのあたりがせわしなくピクピクと動いたが、僕は深呼吸をして何とか気を静めた。

 とりあえず契約上のノルマは遂行した。これからはようやく自分のための読書の時間を取ることができる。僕は一旦椅子から立ち上がってかねてから目を付けていた文学を手に取り、再び席に腰を落ち着け、読書を始めた。




 日が暮れる頃、図書館は閉館となる。僕は読み終えた本を棚に戻すと、席から立ち上がって出入口へと向かう。

「あ、敬太郎さん」

 途中でカウンターから獏女が声をかけて来た。僕は露骨に不快げな顔で振り向く。

「何だよ?」

「この後、少し時間ありますか?」

「無い。少なくとも、お前のために割いてやる時間は無い」

「もぅ、またそうやって意地悪を言うんだから。あのですね、敬太郎さんにこの本を読んでいただきたくて」

 その手には、例の如く恋愛小説があった。

「ふざけるな。お前にはもうとびっきり甘いイメージをくれてやっただろうが」

「そうなんですけど……でも、少し物足りないと言いますか……だから、お願いします」

「断る。大体、そんなに食べたら太るぞ」

「ですから、私は食べても太りにくい体質なんです」

 獏女はぷくっと頬を膨らませて言う。そのぶりっこじみた言動に僕はいささか、いや、かなり苛立ちを覚えた。

「やあ、桜ちゃん。今日もご苦労様」

 その時、白髪で老齢の男性が声をかけて来た。

「あ、館長。お疲れ様です」

 途端に、獏女は清楚な佇まいに戻る。

「後の処理は他のみんなでやっておくから、君はもう帰っても良いよ」

「え、そんな悪いですよ」

「気にしないで。この彼氏さんと一緒に帰るんだろ?」

 館長が言うと、獏女は頬を赤く染めて両手で押さえた。

「そんな、館長。お恥ずかしいです」

「はは、照れることはないさ。君達は中々お似合いだと思うよ。彼は大変読書家なようで、私もいつも感心して見ていたんだ」

「ええ、敬太郎さんは素晴らしい読書家なんです」

「そうか、そうか。さあ、ここは私に任せて、君達はもう帰りなさい」

「ありがとうございます。では、お言葉に甘えて」

 獏女は嬉々とした表情でお辞儀をして、それから僕を見た。

「では敬太郎さん。私は身支度を整えて来ますので、公園のベンチで待っていて下さい」

「おい、ちょっと待て。僕は何も了承していないぞ。ていうか、僕とお前は付き合っている訳じゃないだろ」

「はは、君。そんなに照れなくても良いんだぞ」

「そうなんです、館長。敬太郎さんはとても照れ屋さんで、可愛らしいんです」

 あはは、と笑い合う獏女と館長を見て、僕はこの貧弱ながらも固く握り締めた拳で思い切り殴ってやりたい衝動に駆られた。だが何とかその怒りを飲み下し、図書館を出て公園のベンチへと向かった。

 夕暮れのオレンジが桜にまた別の魅力を与え、きらきらと輝かせている。ベンチに座ると、僕は小さく吐息を漏らした。全く、あの獏女は散々僕のイメージを食っておいて、まだ足りないと言うのか。おまけに館長まで余計なフォローをして来た。非常に参ってしまう。僕は今一度、大きなため息を吐く。

「どうした、元気がねえな」

 突然声がして、僕は思わず顔を上げた。いつの間にかそばに一人の男が立っていた。髪を金髪に染めて、耳にピアスを開け、フード付きのジャンパーを身に纏い、鋭い目つきをしている。いかにも荒っぽい風貌をしていた。清廉高潔な文学青年である僕に、当然ながらこのような知り合いはいない。

「おい、どうしたんだ。そんな風に固まって」

「……いや、どちら様ですか?」

 戸惑いつつも、僕は丁寧に尋ねた。

「ああ、そう言えば自己紹介がまだだったな。俺の名前は我堂勝(がどう まさる)って言うんだ」

「我堂さん……ですか。その我堂さんが僕に何のご用で?」

「いや、何。あいつが気にかけている男がどんな奴か知りたくて、ちょっとあいさつに来たんだよ」

「あいつって誰のことで……」

 僕の言葉を遮るようにして、男は僕の腕を掴んだ。思わずぎょっと目を剥いてしまう。

「この腕をへし折ったりしたら、あいつはどうするかな?」

 突然迫る危機に、普段は冷静な僕の思考もすっかり掻き乱されてしまう。事情はよく分からないが、この男は僕に因縁を吹っかけているようだ。

「よーし。そんじゃ、試しにポキッと折ってみるか」

 男の手がより強く僕の腕を握り締め、そのままへし折られんとして――

 瞬間、突然吹いた風が僕の頬を切り裂いた。

 ハッとして視線を向ければ、黒い髪をさらりとなびかせる獏女がいた。彼女は男の腕を掴んでいる。

「嫌な気配を感じて来てみれば……やはり、あなたでしたか」

 静かな声音で獏女は言う。

「よう、桜。久し振りだな」

 口元を歪めて男が言うと、獏女はかっと目を見開き、その腕を彼に目がけて突き出す。手刀が突き刺さる寸での所で、男は軽やかにバックステップを踏み、こちらと距離を置いた。

「おいおい、久しぶりに会った幼なじみに対していきなり攻撃するなんて、ひどい女だな」

「黙りなさい」

 獏女は剣呑な目付きで男を睨む。初めて見るその顔に、僕は少しばかり震えてしまう。

「……なあ、あいつはお前の知り合いなのか?」

 僕が問いかけると、獏女は苦い表情で頷く。

「ええ、まあ。彼も私と同じ獏なんです」

 何となく予想はしていたがそれでも僕は驚き、目を見開いてしまう。

「ああ、そうなんだよ。俺と桜は小さい頃から幼なじみで、よく一緒に遊んだんだよな?」

「どの口がおっしゃいますか。あなたは散々私のことをいじめたじゃありませんか」

 きゅっと拳を握り締めて獏女は言う。その瞳はかすかに潤んでいた。

「そうだったか? まあ、それもスキンシップの内だろ。マジに怒るなって」

 あくまでも軽い調子で言う獏男に対して、獏女は睨みを利かせている。

「昨晩、私達の後を付けていたのはあなたですね?」

 獏女が言うと、僕はハッとした。昨日、彼女の様子が少し変わったのはそのためだったのか。

「ああ、そうだよ。お前はそいつの家に泊まりに行く所だったんだろ? 俺に構わずそのまま行っちまえば良かったのに」

「そうすればあなたは私だけでなく、敬太郎さんにも危害を加えたでしょう?」

「さあ、どうだかな?」

 獏男はわざとらしく肩をすくめて言った。獏女は彼を睨み続けていたが、ふっと視線を逸らした。

「もう良いです。敬太郎さん、不快な思いをさせてごめんなさい。行きましょう」

「おい、ちょっと待てよ。久し振りに会ったんだから、もう少し話をしようぜ?」

「お生憎様。あなたと話すことは何もありません」

「そんなツレないこと言うなよ。俺はお前と話したいことがたっぷりあるんだ」

 そう言って、獏男は歩み寄って来る。

「お前そいつのおかげで、最近大分良い思いをしているみたいだな?」

 すると、獏女がぴくりと反応した。

「想像力、あるいは妄想力が逞しいそいつに本を読ませて、それを食らう。全く、お前も中々の性悪になったもんだな。昔はもっと純粋な良い子だったのによ」

「だ、黙りなさい。私と敬太郎さんはそういう契約を結んでいるのです。あなたには関係ありません」

「けどさ、獏の界隈でお前ばかり良い思いしていると、俺を含めた他の奴らの不満も募るんじゃねえのか? そうなれば、長老会も黙っちゃいねえぞ?」

「それは……」

 痛い所を突かれたのか、獏女は俯いて口ごもってしまう。

「だからさ、今日は最近良い思いをしているお前に対して、少しばかり罰を与えるために来たんだ」

 獏男が言うと、獏女は小さく肩を震わせた。

「な、何の権限があって、あなたがそんなことをするんですか?」

「別に、俺は何も権限なんて持っちゃいねえよ。ただ、同じ世代の仲間があまり道を踏み外してしまわねえように粛清してやろうってんだよ。感謝しな」

「わ、私はきちんと自制しています」

「とか言って、また今からこいつのイメージを食おうとしていただろ?」

「それは……」

 再び痛い所を突かれて、獏女は唇を噛み締めたまま俯いてしまう。

「さて、まあ日が暮れちまう前に済ましちまおうか」

 獏男はさらに歩み寄って来た。

「何をするつもりですか?」

「んーそうだな……とりあえず、まだお前の腹の中に漂っているイメージを俺が食ってやるよ」

 獏男が下卑た笑みを浮かべて言うと、獏女は一気に警戒心を高めた。

「つー訳だから、ほら、さっさと食わせてくれよ」

「そんなことを言われて、易々食べさせると思っているのですか?」

「いや、思っていねえよ。だから……」

 獏男はぐっと身を屈めた。「力づくで食ってやる!」

 次の瞬間、獏男は常人を遥かに超えた脚力を発揮し、一気に獏女との距離を縮めた。それと同時に右の拳を振り抜く。寸での所で獏女はかわした。そのまま飛び退る。

「逃げんなよ」

 獏男は不敵な笑みを浮かべて追随する。一方、獏女はどこか強張った表情で回避をしていた。時折応戦して拳を突き出すが、パワーは獏男の方が上のようで、圧し負けて吹き飛ばされてしまう。だが、そんな彼女の力もやはり常人のそれを超えていた。

 目の前で繰り広げられる化け物同士の戦いを目の当たりにし、僕は一歩も動けないでいる。そもそも、なぜ僕がこんな戦いに巻き込まれなければいけないのか。清廉高潔な僕であるが、詰まる所は平凡な男である。そんな僕が、何が悲しくて人外バトルの渦中に放り込まれてしまったのだろうか。そんな僕の心中をよそに、両者は激しい争いを繰り広げている。いっそのことこの隙に逃げてしまおうか。この二人の間にどんな因縁があるのかは知らないが、どのみち僕には関係のないことである。

「隙ありだ!」

 ふいに獏男の叫び声が鼓膜を揺さぶった。直後、彼の拳が獏女の腹部を捉える。彼女はそのまま後方へと大きく吹き飛んだ。

「……かはっ」

 獏女は地面に背中を強かに打ち付け、すぐに起き上がれないようだった。そんな彼女の下に、獏男がゆっくりと歩み寄って行く。

「ひゃは! 所詮いきがった所でお前は俺に勝てやしないんだよ!」

 獏女の前に立った獏男は傲然と彼女を見下ろす。

「黙りなさい……」

 身体を小刻みに震わせながら起きようとした獏女の腹部に、獏男は再び拳を打ち込んだ。

「くふっ……」

 衝撃に肺から空気が漏れたような声を発し、獏女は仰向けに沈んだ。

「安心しろ。お前が美味しく食ったイメージは、俺がさらに美味しく食ってやるからよ」

 そう言って獏男は地面に膝を付き、獏女に覆いかぶさる形になった。彼が口を開くと淡い粒子のようなものが獏女の腹部から漂い出した。瞬間、彼女の体がぴくんと跳ねる。

「……あぁ」

 獏女の喉から掠れるような声が漏れた。

「おらぁ!」

 獏男がより気合を込めるようにして声を発した直後、獏女はかっと目を見開いた。

「あっ……あああああああぁ!」

 獏女は悲痛な叫び声を発した。獏男が彼女の腹から漂う粒子を食う度に、彼女は身を捩じらせ、苦悶の表情を浮かべている。

「おい、暴れるな。やりづらいだろうが」

 獏男はその腕で獏女は強引に押さえつけると、さらに彼女のイメージを食い漁る。獏女は尚も抵抗するように身じろぎをしていた。

 突然目の前で繰り広げられる惨劇を前に、僕は唖然としていた。奴らは人間ではない。人外である。獏である。けれども、奴らは男と女で、男が女に乱暴をしている。それは人間、人外問わず、決してやってはいけないことではないだろうか。僕はあの獏女が嫌いだ。たっぷりの嫌悪感を抱いている。けれども、目の前であんな風に犯されている彼女を見て、さすがに放って置くことなんてできない。

「……お、おい。やめろ」

 僕は半ば震える声でそう言った。すると、獏男がぴくりと反応し、ちらりとこちらを見た。

「さ、さすがにそれはやり過ぎだろ」

「ハハ、そんな顔するなって。お前はそこで高みの見物でもしてろよ」

 獏男は茶化すように言って、再び獏女のイメージを食い始める。もがき苦しむ彼女を見て、僕はいつの間にか拳を握り締めていた。

「……うああぁ!」

 自分でも情けないと思う雄叫びを上げて、獏男へと突進した。奴は獏女のイメージを食うことに夢中になっている。その隙に拳の一発ぐらいお見舞いしてやる。

 しかし僕が肉薄した時、獏男はこちらに一切振り向くことなく、その左腕で僕の体を吹き飛ばした。繊細な僕の体はその一撃で破壊されてしまったかと思ったが、かろうじて無事だった。けれども体が思う様に動いてくれない。衝撃でメガネがずれて視界がぼやける。

「さて、じゃあフィニッシュと行こうか」

 獏男は口の端を吊り上げてにやりと笑う。次の瞬間、獏女の腹から大量の粒子が奔流し、彼の口に吸い込まれて行った。

「あああああああああああああああぁ!」

 それまで以上に悲痛な叫び声が天を突く。獏女の体は上下に激しく揺れ、のたうち回る。しかしやがてその奔流が弱まって行くと、彼女はすっかり抵抗する力を失ったようにぐったりとなっていた。獏男が最後の一滴まで彼女のイメージを食らうと、彼女は糸が切れた人形のように力を失い、ばたんと地面に倒れた。

「……ふぅ、食った食った。まあ、辛い物好きの俺にとって、お前の食った甘ったるいイメージはちと難儀だったけどな。まあ、調子こいているお前を懲らしめてやったからメシウマだったぜ」

 獏男は下卑た笑いを浮かべて言った。彼は足下に転がっている獏女を悠然と見下ろした後、くるりと踵を返し、そのまま去って行った。

 先ほどの獏男の一撃によって地面に伏していた僕は、軋む身体を鼓舞して起き上がる。よろよろとおぼつかない足取りで、仰向けに転がっている獏女の下へと向かった。

「……おい、大丈夫か?」

 我ながらその一言は癇に障ると思った。今の彼女は完全に憔悴し切っており、今まで見せていたしとやかさは失われている。その肌はどこかパリパリと乾いており、目は虚ろな状態だった。僕は腰を落とし、彼女に触れようと手を伸ばす。

 すると突然、獏女はむくりと起き上がった。僕は驚いて小さく飛び退き、軽く尻もちを突いてしまう。そんな僕に構うことなく、彼女は静かに立ち上がった。僕に背を向けた状態で、夜空に浮かぶ月の方を見ていた。

「おい、お前……」

再び僕が声をかけた直後、

「ごめんなさい、敬太郎さん。お見苦しい所を見せてしまって」

 獏女はあくまでも落ち着き払った声で言った。

「いや、見苦しいとかそういう問題じゃ……お前はあの男に襲われて……」

「ご安心下さい。私はそんなこと露ほどにも気にしていませんから。多少苦しい思いはしましたが、小さい頃のおふざけの延長だと思えば溜飲も下がると言うものです」

「何言ってんだ。あんなの、どう考えてもガキのお遊びなんかじゃない。お前たち獏の事情はよく知らないけど、男が女を襲うなんてあってはならないことだろう?」

 自分でも随分と格好付けた台詞を言っていると思った。非力な僕は襲われている彼女を助けてやることができなかったくせに。

「ふふ、相変わらずお優しいのですね、敬太郎さん。そのお気持ちだけで十分です」

 そう言って、獏女はおもむろに歩き出した。

「今日は少し疲れたので、もう帰ります。敬太郎さんもお気を付けて」

 去り行く彼女の背中を見て僕は手を伸ばそうとするが、無言の拒絶を感じ、指先で力なく宙を掻くだけに留まった。











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