10

 僕の受講している講義は大方午前中に固まっており、昼になると帰途につく。だが、週に二回、火曜と金曜は午後にゼミがある。だから、その日は図書館に行くことができない。だが、僕はそのことに関して少しも悲しいとは思わない。むしろ清々した気分である。ゼミは正直な所かったるいが、あの性悪の獏女と関わらないで良いと思うと、それだけで随分と僕の不快度指数が軽減される。あの獏女、昨日も遠慮なしに僕のイメージを食いやがって。律儀な僕はあくまでも契約を遂行するために、約束通りに三時には奴が求める甘ったるいイメージを用意してやった。壁に掛かった時計の針が午後三時に触れた瞬間、奴の黒い眼がきらり、いや、ぎらりと輝き、僕のイメージを食ったのだ。傍から見ればその模様は分からない。普通の物を食べる動作とはまた違う。だが奴を見ているとかすかに口を開いて、それからもぐもぐとする。その度に、僕の頭から少しずつ抱いていたイメージが消えて行った。その時、本当に自分のイメージが食われているのだと実感した。僕の頭にある甘いイメージを食べ尽すと、奴は非常に満足げな顔で天井を仰ぎ、それから取り繕う様にしとやかな笑みを浮かべて見せたのだ。それがまた非常に鬱陶しいことこの上なかったのだ。あの笑顔を見るくらいなら、教授の禿げ頭を見ている方がまだマシである。二年時からの付き合いである教授のその散らかった禿げ方に、どうせならもっときれいには禿げろと心中でブチ切れることも多々あったが、今では心穏やかな気持ちでその禿げ頭を見つめている。そうしている内に、本日のゼミは終了した。

 僕はあくびを噛み殺しつつ、演習室を後にした。廊下を歩いて講義棟から出ると、西に傾いた太陽が淡いオレンジ色の光を地上に注いでいた。久方ぶりに心穏やかな僕はこのまま真っ直ぐアパートに帰宅し、日本酒片手に本を読もうと心を弾ませ、駅の方へと足を向ける。

「――敬太郎さん」

 ふいに鼓膜を揺さぶる澄んだ声に弾かれて、僕は振り向いた。思わず顎が外れそうになった。口をあんぐりと開けた僕の目に飛び込んで来たのは、清楚な衣服に身を包んだ黒髪の乙女、いや、その内に腹黒さを秘めた獏女だった。

「お、お前……何でここにいるんだ?」

「そんなの決まっているじゃありませんか。敬太郎さんに会いに来たんです」

「は?」

「来ちゃいました」

 獏女は指先を唇に添えて、上目遣いでこちらを見つめて来る。僕の胸の内で様々な感情が入り乱れ、激しく困惑してしまう。そうやって身動きが取れずにいると、同じゼミの奴らがぞろぞろとやって来た。彼らは僕と向かい合っている獏女の姿を見て、小さくざわついた。

「え、この子誰?」「ヤバイ、可愛くね?」「てか、超美人」

 ひそひそと囁き合う声はしっかりと獏女の耳に届いていたようで、彼女は口元で薄らと微笑んだ。

「初めまして、私は木野宮桜と申します。敬太郎さんとはお付き合いをさせていただいております」

 両手を腰の前で重ねて、折り目正しくお辞儀をして言った。案の定、ゼミの奴らはにわかに色めき立ち、好奇の視線を僕達に向けて来た。

「おい、お前! 何勝手なことを口走っているんだ!?」

「あら、私は本当のことを言ったまでですよ。私と敬太郎さんは清いお付き合いをしているじゃありませんか?」

 含みのある視線を向けて獏女は言う。確かに、奴の言っていることはあながち間違いではないが。

「はっ、何が清いお付き合いだ。調子の良いことを言うんじゃない」

 僕は半ば強引に結ぶことになった仮契約に対する不満をぶつけるように、そう言った。

「そうでしたね。失礼しました、訂正致します。私と敬太郎さんは、ただれたお付き合いをしていますものね」

 野次馬が悲鳴に近い声を上げた。僕は全身からどっと冷や汗が噴き出す。

「だから、お前は何を言っているんだ!?」

「だって、本当のことじゃありませんか。私と敬太郎さんはただならぬ、ただれたお付き合いをしているじゃありませんか」

「言葉を慎め! 彼らが変な誤解をするじゃないか!」

「うふ、結構なことじゃありませんか」

「何が結構なことだ!」

 僕はひたすらに叫んだせいで、喉がひりついて痛かった。ぜえぜえ、と肩で大きく息をして、目の前の獏女を睨む。

「とにかく、今の発言を訂正して……」

「そんなことよりも、敬太郎さん。早く行きましょう」

 僕の言葉を遮るようにして、獏女は言った。

「行くって、どこにだよ?」

「決まっているじゃありませんか。二人きりになれる所ですよ」

 しとやかな笑みを浮かべて、また誤解を招く発言をする獏女。また叫ぼうとした時、彼女の腕が僕の腕に絡まり、そのまま組んだ状態になり、強引に引っ張られた。

「お、おい! 待てって」

 僕の制止も聞かず、獏女は腕を組んだままズンズンと進んで行く。見た目は華奢で可憐な黒髪の乙女だと言うのに、凄まじい膂力である。やはりこいつは人間ではない。化け物なのであると感じさせられた。

 しばらくして、僕達は連なった講義棟を脇目に、キャンパスの隅っこへとやって来た。そこには人気があまりない。そして、幅の狭い階段があった。獏女は僕をそこまで引きずって行くと、そのまま階段に腰を下ろした。ちょうど二人が収まることで、スペースはいっぱいになった。腰を落ち着けた所で、僕は改めて獏女を睨む。

「おい、何で僕をこんな所に連れて来たんだ?」

「だから言ったでしょう? 二人きりになりたかったって」

「何で二人きりになる必要があるんだ?」

 僕が詰問すると、獏女はふっと顔を俯けた。

「そんなの決まっているじゃありませんか」

 ふいに静かな重みを帯びたその声に弾かれて、僕はたじろいだ。

 直後、獏女はふっと顔を上げた。その瞳は、怪しげに輝いている。

「……私、もう我慢が出来ません」

 艶めかしい吐息を漏らしながら、獏女は言う。

「な、何が我慢できないんだよ」

「女の私にそんなこと言わせるんですか? 敬太郎さんも、ひどいお方ですね」

「いや、お前本当に何を言って……」

 獏女の吐息が、僕の鼻先をくすぐった。ハッと目を見開く。

「欲しいんです。欲しくて、欲しくてたまらないんです……」

「ほ、欲しいって……何が」

「敬太郎さん……」

 なぜだか震える僕の耳元で、獏女はそっと囁いた。心臓が限りなく早鐘を打つ。

「……あなたのイメージが、欲しいんです」

 直後、僕はしばらく身を固めていた。

「は……?」

 ぽかんとする僕の前に、一冊の本が差し出された。それは獏女好みの甘い恋愛小説だった。

「早くこれを読んで下さい。そして、そのイメージを私に食べさせて下さい。お願いします、敬太郎さん」

 そう言われて、僕は何だか無性に腹が立った。

「ふ、ふざけるな! そんなことのためにわざわざ大学まで来たのか? 大体、僕以外の人のイメージを食べれば良いだろうが!」

「ダメなんです、他の人じゃ。敬太郎さんじゃないと、ダメなんです……」

 悩まし気な吐息を漏らしながら獏女は言う。

「ねぇ、敬太郎さぁん……早くぅ」

 その甘い吐息が耳にかかった瞬間、僕は思わず「ひゃん!」と情けない声を発した。

「き、気色悪いことを言うな!」

「そんなこと言って、本当は嬉しいんでしょ? 私からこんな風に求められて」

「はあ? 前々から思っていたが、お前は少しばかり自信過剰なんじゃないか?」

「そんなことありませんよ。私はいつだって、敬太郎さんと一緒にいるとドキドキしてしまいます」

「そんな軽口は聞きたくない」

「もう、照れ屋さんなんだから」

「誰が照れ屋さんか! ええぃ、分かった読んでやるよ! その代わり僕のイメージを食ったらとっとと帰れよな!」

「うふ、敬太郎さんってば何だかんだでお優しいんだから。そういう所も好きですよ」

「うるさい! 良いからさっさと寄越せ!」

 僕は獏女の手から本をひったくり、その活字に視線を走らせた。




 僕はアパートの最寄り駅に降り立った後、大きくため息を吐いた。

「どうしたんですか、そんな風にため息を吐いて。幸せが逃げてしまいますよ?」

 うなだれる僕の顔を覗き込むようにして、獏女が言った。

「安心しろ、今の僕は絶賛不幸の真っただ中だ。お前と言う疫病神のせいでな」

「もぅ、ひどいですよ敬太郎さん。私は疫病神じゃなくて、獏ですよ」

「そんなのどっちでも良い! ていうか、何でまだ僕に付いて来るんだ?」

「いけませんか?」

「当たり前だ。僕はお前の顔なんて見たくないんだからな」

「そんな……ひどいです。私はこんなにも敬太郎さんをお慕い申し上げているのに……」

 よよ、と泣き崩れる獏女。その見た目は可憐な黒髪の乙女であり、道端でひざから崩れ落ちていたら全身全霊をかけてそばに寄り添うだろう。しかし、それはあくまでも見た目だけの話である。この女が打算的で腹の中が真っ黒だということは既に理解している。よって、僕は取り合うことなく、すたすたと歩き出した。

「あ、ちょっと待って下さいよぉ」

 案の定、獏女はすぐに立ち上がり、早足で僕の隣に並んだ。

「ねえ、敬太郎さぁん。もっとゆっくり歩きましょうよ。ほら、お空にきれいなお月さまが浮かんでいます。二人で眺めながら帰りましょ?」

「何がきれいなお月さまだ。そんなものにさして興味もないくせに」

「そんなことありませんよ。素敵な殿方と並んで夜空を見上げる、ロマンチックじゃありませんか」

「さっき僕がお前に読まされた恋愛小説に、そんな場面があったっけ?」

「ええ、そうです」

 月明かりに照らされてにこりと微笑む彼女の顔は正直美しいと思ったが、同時に引っぱたいてやりたいという感情が湧き上がった。ただ、僕の感性は至ってまともだということを主張しておきたい。

「とにかくもう僕に付いて来るな。契約があるから図書館には行ってやるが、それ以外でお前と関わるなんてまっぴらごめんなんだよ」

「そんな冷たいことをおっしゃらないで下さい。あ、そうだ。これから敬太郎さんのアパートにお邪魔してもよろしいですか?」

「はあ?」

「敬太郎さん、アパートに帰ってからも読書なさるんでしょ? 私はそのおそばに寄り添っていたいです」

「お前、この期に及んでまだ僕のイメージを食うつもりか!? 太るぞ!」

「ご安心下さい。私はたくさん食べても太りにくい体質ですから」

「そんなこと知るか! というか、断固拒否する!」

「良いじゃありませんか。ほんの少し、ほんの少し食べさせていただければ結構ですから」

「ああ、もうしつこい! 僕のプライベート空間にお前のような性悪獏女が入り込む余地は無いんだよ!」

 語気を荒げて追い払うも、獏女は執拗に絡んで来る。

「うふふ、良いじゃありませんか。ねぇ、敬太郎さ……」

 ふいにそれまで饒舌だった獏女が、ぴたりと言葉を止めた。ようやく静かになったと胸を撫で下ろすも、少しばかり異様な空気を感じ、ちらりと彼女を見た。

「おい、どうした?」

 問いかけるが返事はない。

「おい」

 今度は少しばかり語気を強めて言った。すると、獏女ははたと気が付いたように振り向く。

「ごめんなさい、何でもありません」

 平素通りにしとやかな笑みを浮かべて獏女は言うが、その視線がわずかに後方へと向いていることに気が付いた。僕は顔だけ振り返る。

 すっかり暗くなった夜道を、立ち並ぶ電信柱に取り付けられた街灯が照らす。一瞬、その陰で何か蠢いたような気がして目を凝らすが、そこには何もいなかった。人の気配も感じない。

「敬太郎さん」

獏女が声をかけて来た。

「何だよ?」

「やはり、今日はこのまま家に帰ります」

「当たり前だろうが」

「敬太郎さんのアパートには、また今度お邪魔させていただきますね」

「絶対にお断りだ」

「もう、照れ屋さんなんですから」

「良いからさっさと帰れ!」

 僕が鬱陶しげな顔でしっしと手を払うと獏女は小さく唇の先を尖らせ、それから前方に向き直って歩き去って行く。その背中を見送った後、僕はようやく胸を撫で下ろして帰路についた。







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