二コマ目の講義が終わると、待ちに待った昼休みの時間が訪れる。めいめいが食堂なり購買なりで昼食を取り、仲良き友との会話に華を咲かせるのだ。そんな中で高潔な孤独を貫く僕は、なるべく人が寄り付かないキャンパス内の隅っこに赴き、貧相な体で貧相な食事を済ませ、持参した文庫本をひたすらに読み耽る。大部分の学生達とは一線を画す、孤高の文学戦士なのであった。

昼休みになってわらわらと講義棟から湧き出て来る群衆を、肩を縮こまらせてかわし、キャンパスを後にした。目指すのは徒歩五分ほどでたどり着く大学前の駅である。

一、二年生の頃、何だかんだで僕は真面目に授業を受けて来た。どこぞの人が「大学は友達がいないと単位取れないよ」などとほざいていたが、僕はたった一人で迫り来る講義の課題やら何やらをパスして行った。確かに骨が折れた。だがしかし、やってできないことはない。友達に休んだ講義のノートを写させてもらったり、代返をしてもらったり、確かに孤高の紳士である僕にはできない。じゃあどうしていたのかというと、簡単である。教授に直接連絡を取り、教えを請うたのだ。そうすることで幾分か心象も良くなり、一、二年生の頃の成績は軒並み上々であり、「諸井くんは物静かな優等生だよ」なんてお褒めの言葉をいただいたりもした。だから、三年生になった当初の体たらくぶりに教授達は「おいおい、どうしたんだい諸井くん」と心配げに声をかけてくれた。面目ない。まあとにかく、これまでの頑張りによって単位はそれなりに余裕があるので、講義もそんなにがっつり入っていない。ほとんど午前中の一、二コマ目に集中している。おかげで一、二年生の時のように侘しい昼休みを……もとい、孤高の文学紳士たる責務から解放されるのだ。

 僕の他にも電車には学生の姿がちらほらあった。恐らくバイトに行くか、あるいはサボリだろう。ガタンゴトン、と揺られること十分、僕のアパートの最寄り駅に到着した。まあ最寄りと言っても、徒歩十五分はかかる。つまり、僕のアパートから大学までは片道三十分かかるということだ。前のアパートに比べて二十五分も通学時間がプラスされている。これは中々に大きな数字である。しかし、忌まわしき「リア充」との接触を断つために一日あたり二十五分を捧げるんだと考えれば、まあ無性に腹が立って仕方がない。おのれ、リア充炸裂しろ。いや、それはちょっと意味合いが違うか。まあ、もうどうでも良い。

 そうこうしている内に、僕はアパートにたどり着いた。そのまま帰宅し、ごろりと寝転がり、適当に腹が減ったらコンビニで飯を買って食い、読書に耽って、かるく居眠りをして……そんな気ままなモラトリアムに興じることを僕は切望する。

 だが、僕は脳内を駆け巡った幸せな光景に背を向けざるを得なかった。愛しの自宅アパートを通り過ぎ、そのままコンビニも通過して、閑静な住宅街を歩き、やがて見えて来るのは桜の木々に囲まれた大きな市立枕木公園。うららかな春の陽気が漂う公園内を散歩する。それだけで気分は高揚するものだ。しかし、今の僕は一歩踏み出すごとに陰鬱な気持ちへと落ちて行く。やがて目の前にベンチが見えた。そこには一人の女性が座っていた。その女性と視線が合うと、にこりと微笑みを向けられた。

「こんにちは」

 しとやかに 微笑む乙女 黒髪だ by 諸井 敬太郎。

 などと、つい心の一句を読んでしまうが、すぐに虚しい気持ちになってしまう。なぜなら、今僕の目の前いる可憐な黒髪の乙女は、偽りのそれなのだから。

「あなたが来ることを、心待ちにしておりました」

 澄んだ声で、随分とまあ魅力的なことを言ってくれる。その見た目でそのようなことを言われたら僕のような純真なる心の男は、ころりと落ちてしまう。そう、最初に気付くべきだったのだ。女は口の上手い男を信用してはいけないと言われる。そして、男もまた然りなのだと。

「そうか。僕はお前がここにいなければどれだけホッとするだろうと思っていたよ」

 僕は口の端を歪めて言った。すると、目の前にいる女はその黒く澄んだ瞳を丸くして、悲しげな顔をした。

「そんなひどいです。私はこんなにもあなたのことを想っているのに……」

 黒髪の乙女にそのようなことを言われれば、たちまち世界は桃色一色となり、恋の超特急エクスプレスは無限の彼方にレッツゴーしてしまうだろう。だがしかし、今の僕は至って冷静だった。紳士として、涙ぐむ目の前の女性に手を差し伸べることもしない。

「下らない戯言はよせ、獏女。お前の魂胆は既に分かり切っているんだ」

 僕が言うと、すんすんと泣き声を上げていた獏女が、おもむろに顔を上げた。

「何でそんなことおっしゃるのですか? 私は敬太郎さんに喜んでもらいたくて、このような振る舞いをしているのですよ?」

「ああ、そうだな。僕は死ぬほど喜ぶよ。それが偽物じゃなければな」

「もう、本当にひどいお方ですね。つまらない考えは捨てて、純粋に私に見惚れていれば良いのに」

 きれいな桜色の唇で戯言を吐きやがる獏女の隣に僕は仕方なく、本当に仕方なく腰を下ろした。そんな僕の膝上に、すっと弁当箱が置かれた。

「では、敬太郎さん。よろしくお願いします。私の母が愛情たっぷり込めて作ってくれたので、存分に味わって食べて下さいね。お残しは許しませんよ」

「僕は今、無性にお前を殴ってやりたいんだがどうしようか?」

「うふ。そうしたら倍返しをしちゃいますけど、よろしいですか?」

 あくまでもしとやかに微笑みながら言う。僕はその言葉を聞いて軽く背筋がゾッとした。倍返しとか言っているが、実際の所それ以上の膂力でもって背骨を粉砕されそうなので悔しさを噛み締めつつ引き下がることにした。僕がため息交じりに弁当の包みを解くと、隣で獏女がガサリとビニール袋を鳴らした。その手が掴んだのは「とろけるクリームあんみつ」と書かれた物だった。それをとても嬉しそうに見つめている。獏女はそのふたを開けるとプラスチック製のスプーンを手に持ち、一口食べた。直後、その口元が綻んだ。

「あぁ、美味しいです。昼間からこんなにも甘く素晴らしいスイーツが食べられるなんて、私は幸せ者です。それもこれも、敬太郎さんのおかげです。ありがとうございます」

 お礼を言われるが、僕は苛立ちを覚えた。前にも聞いたがこの獏女は甘党、それも超が付くほどの甘党らしい。三度の飯よりも甘いスイーツが好き。だから、昼食も当然甘いスイーツが食べたかった。しかし、いつも母親が弁当を作ってくれる。それを残すと怒られてしまう。一度捨ててしまおうかと思ったこともあるが、さすがにそれは気が引けた。だから、自分の代わりに弁当を食べてくれる人が欲しかったんです、とのたまいやがった。つまりこの獏女は母親の愛情たっぷりの弁当を僕に押し付け、自分は大好物の甘いスイーツを嗜んでいやがるのだ。ひどい女である。本当の黒髪の乙女は絶対にそんなことはしない。やはりこいつは偽物なのだ。

 恨みと呆れが混在した僕の視線を受けても獏女は一切気にすることなく、大好物のスイーツに舌鼓を打っている。その幸せそうな顔を思い切り引っぱたいてやりたい。それは僕が実はS気質の持ち主だからとかそういう問題ではなく、ただ純粋にムカついているのである。

「あら、敬太郎さん。あまり箸が進んでいないようですが、どうされましたか?」

「別に、何でもない」

「本当ですか? あ、分かりました。私に食べさせて欲しいんですね? もう、それならそうと早くおっしゃっていただければ良かったのに。敬太郎さんってば照れ屋さんなんだから」

 おどけたように言う獏女を見て、僕のこめかみの辺りでぷつんと何かが切れた。

「よし決めた。僕は例え背骨が折られようとも、お前のその憎たらしい顔に正義の鉄槌を食らわしてやる」

僕は僕なりに力強く拳を握り締めた。

「そんなこと言わないで下さい。私、敬太郎さんに嫌われたらとてもショックを受けてしまいます」

 そう言って、獏女はクリームあんみつを頬張った。

「うーん、甘い」

 その行為がまたしても僕の怒りを煽った。しかし、こんな性悪獏女の一挙手一投足に反応していたらキリがない。僕は深呼吸をし、気を静めた。それから弁当のおかずを頬張る。

「うん、美味いな」

「そうですか。良かったです」

「ああ、お前の母親は料理上手で素晴らしいな。あとは子育て上手であったら、より素晴らしかったのにな。全く、残念でならないよ」

「あら、私の母は子育ても上手ですよ。おかげでこのように立派に育ちましたから」

「ああ、そうだな。お前は立派な性悪に育ってしまったんだな」

「うふ、敬太郎さん。あまり私に意地悪なことを言わないで下さい」

「嫌だと言ったら?」

「そうですね……その額をコツンと叩いて頭蓋骨を陥没させる、というのはどうでしょうか?」

 全く、これだから力のある奴は嫌なのだ。何かあればすぐにその力でもって相手を屈服させようとする。気の小さい者であれば怯えて簡単に言うことを聞いてしまうだろう。だが、僕は高潔な魂を持つ男である。そんな暴力による脅しに屈服するつもりは毛頭ない。元より、背骨を折られる覚悟を持っているのだ。だから、獏女の手がこちらに伸びて来てぐっと力強く肩を握られても、小刻みに身体を震わす程度に留まる。さらに両手で肩を掴まれ、より強い力で握り締められたら、何だか体の震えが止まらなくなっていた。助けて下さい。

「助けて欲しいんですか?」

 意地悪く微笑んで、獏女は言う。「良いですよ、助けてあげます。ただし、条件があります。今から私が言う台詞を復唱して下さい……僕は桜さんの美しさに骨抜きにされるのは一向にかまいませんが、骨を折られるのは嫌です。だから、どうかお許し下さい。この世で一番美しい僕の黒髪の乙女、桜さん……はい、どうぞ」あくまでもさらりと、命令して来た。一方、僕は口を半開きにしたまま、固まっていた。

「どうされましたか? 敬太郎さんは大変頭がよろしい方ですから、今しがた私が申し上げた台詞もすぐに暗記できたでしょう? さあ、早くおっしゃって下さい」

「いや、それは……」

 苦い表情で声を漏らすと、ぎゅっと肩を掴む手に力が込もった。

「敬太郎さん、私は例えあなたが寝たきりになったとしても共にいたいと思っています。けれども、出来れば健康な体のままでいてくれると嬉しいです」

 獏女は囁くように言った。

「僕は桜さんの美しさに骨抜きにされるのは一向に構いませんが、骨を折られるのは嫌です。だから、どうかお許しください。この世で一番美しい黒髪の乙女、桜さん」

 気が付けば僕の口先がそんなことを口走っていた。

「うふ、さすがですね。けど惜しいです。大事な一言が抜けていました。『僕の』という一言が抜けていらっしゃいました。という訳で、もう一度お願いします」

 笑顔で鬼のような命令を下して来た。たった一言加えて暗唱することくらい、僕の頭脳なら朝飯前である。しかし、僕の唇がそれを拒絶する。自然とこめかみに脂汗が浮かんで来た。

「どうせ骨折するなら、派手にやってみますか?」

 獏女はよりダイレクトな脅しにかかった。この窮地を脱するため、僕の脳みそはフル回転する。その結果、導き出された答えは――

「……おい、お前」

「何ですか?」

「アイス、溶けているぞ」

「え?」

 とっさに獏女は脇に置いていたクリームあんみつに視線を向けた。そこに乗っていたアイスクリームが、どろどろと溶け出していたのだ。

「まあ、何てことでしょうか! 私の大切なアイスが溶けてしまいますぅ!」

 妙に情けない声を発し獏女は俺から両手を離すと、慌ててクリームあんみつのアイスを食べた。その手から解放されて、僕はホッと一息吐く。

「ふぅ、危ない所でした。全く、敬太郎さんのせいですよ」

「ふざけんな、責任転嫁も甚だしいぞ」

「だって、敬太郎さんが素直に私の言うことを聞いてくれないから」

「調子に乗るな。僕は確かにお前と仮契約を結んだが、お前の奴隷になるつもりは毛頭ない」

 毅然とした姿勢で僕が言うと、獏女は頬を膨らませて睨んで来る。僕は無視をして弁当の残りを掻き込むと、ベンチから立ち上がった。

「さて、昼食も終わったことだし僕は読書をする。言っておくが、やたらめったらに食うんじゃないぞ」

「分かっていますよ。でも、三時になったら甘いイメージを食べられるようにしておいて下さいね。読んで欲しい本は『おすすめの本コーナー』にいくつか置いてありますから、よろしくお願いします」

 にこりと微笑んで言う獏女に対して眉をひそめ、僕は図書館へと向かった。

 入館してすぐ、カウンターの近くに『おすすめの本コーナー』は設置されていた。あの性悪獏女は自分が食べたいイメージを喚起するために、甘い恋愛小説ばかり取り揃えていた。職権乱用も良いところである。現在の時刻は午後の一時半。約束の時刻までは猶予がある。それまで芥川龍之介の至極の短編集を読み耽り、心を落ち着けることにした。









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