脳みそを直接かなづちで叩かれたような衝撃を受けて、僕の意識は急激に覚醒した。ズキズキと痛む頭を押さえて、布団の中で悶える。いかにも大仰な物言いであるが何てことはない、ただの二日酔いである。昨晩大量に摂取したアルコール、それが分解されて生じたアセトアルデヒドが僕の脳みそを執拗に苛めているのだ。味わった瞬間は何とも美味であるが、後々にとんでもないしっぺ返しを食らう。酒は百薬の長なんて言うが、タバコと並んで一歩間違えば悪しき薬物に過ぎない。まあ、過剰に摂取した僕が悪いのだが。ちなみにタバコは一切吸わない。

 痛む頭で性懲りもなく下らない思考を回しつつ、いつも通りに洗面所で顔を洗った。ほんの少しだけ気分が楽になる。それから日が差し込むリビングにあぐらをかき、ボーっと宙を眺めていた。おもむろに視線を巡らせれば、時計の針は間もなくお昼を示そうとしていた。昼飯を食う時間である。しかし、二日酔いのためさほど食欲はない。それならば、わざわざ食う必要もあるまい。今日は特に用事も無いし、また眠りこけてしまおうか。

 考えた所で、僕は何か大事なことを忘れているような気がした。喉元まで出かかっているが、中々出て来ない。どうしてもやらなければいけない、それでいて非常に気の進まない何かがあったはずだ。頭を抱えていた時、テーブルに置いてあった一冊の本に目が行く。それは僕の物ではなく、図書館から借りた本だった。

「……あっ」

 約二十年の人生において、一番呆けた「あっ」という言葉を発し、僕はようやく思い至る。自分が果たすべきこと。そして、既に結構な失態をやらかしてしまっていることを。

 クローゼットを開き、適当な衣服を引っ掴んで袖を通すと、僕は本を片手にアパートを飛び出した。




 その図書館は相変わらず美しい桜の木に囲まれていた。だが、それを見ている僕の気分は非常に優れない。とっさに家を飛び出して来たが、二日酔いの状態で猛ダッシュをしたせいで、とてつもない不快感が身体中に蔓延している。元来清廉であるはずの僕の体が汚されてしまったようで、非常に屈辱的である。

 だが、そんなことも言っていられない。自分はこれから敵陣へと赴くのだ。弱みを見せる訳にはいかない。一度空を仰ぐ。その青々しさを見て僕の顔もまた青々しくなった。あまり余計な動きをすると吐き気を催してしまう。本を小脇に抱えて図書館に足を踏み入れた。

「あら、こんにちは」

 しとやかに澄んだ声が僕を迎え入れた。カウンターに座っているのは、美しい黒髪の乙女の皮を被った、性悪の獏女である。そのしとやかな笑みは最早僕の不快度指数を限りなく上昇させるばかりであった。

「本を返しに来て下さったんですね」

 不快にしとやかな笑みを浮かべたまま、獏女は言う。僕は無言のままだ。

「けれども、確か昨夜には朝一番に返してやるとおっしゃっていたような気がするのですが」

「う、うるさい!」

 ふいに痛い所を突かれて、つい大声を上げてしまう。二日酔いに侵された脳みそが痛んだ。今の僕は高潔な紳士としての風体を完全に損なっている。情けない話だ。

「そんなに怒らないで下さい。というか、むしろ反省して下さい。本の返却期限を守らなかったのは敬太郎さんなんですから」

 微笑みつつ、さらりと刺すようなことを言った。この女の言うことは至極最もであり、僕は従順に頭を垂れるべきなのだが、如何せんプライドが許さないから無言のまま血走った眼で相手を睨んでいた。

「では、確かに返却を承ります。ただ期限を守らなかった理由をお聞きしなければなりません」

 そう言って、獏女はおもむろにカウンターの席から立ち上がった。そのままカウンターから出て、玄関口へと向かう。

「おい、どこに行くんだ?」眉をひそめて僕は言った。

「せっかくですから、外で昼食でも取りながらお話を伺いますよ」

「はあ? 何でそんなことをしなければならないんだ。お前みたいな性悪と昼食を取るくらいなら、原稿用紙百枚の反省文を書いた方がよっぽどマシだね」

「そうおっしゃらずに。それに今の敬太郎さんは顔色が優れないようですから。公園のベンチに座ってのんびりしながら外の空気を吸えば、少しは具合も良くなると思いますよ」

 獏女は言う。性悪のくせに目ざとい。あるいは、傍から見て分かるくらいに僕の顔色が優れないのだろうか。付け加えると、優れないのはあくまでも顔色であって、顔の造形はこの上なく整っている。

「……ちっ、分かったよ」

 これ以上抵抗を続けても時間と体力の無駄である。これもほんの返却を守らなかった報いと思って耐え忍ぶしかない。僕は大人しく獏女の後に付いて外に出た。




 桜の木の影に覆われたベンチに腰を下ろしてから、しばらく時間が経過していた。その間、獏女はさほど喋りはしなかった。時折、春風が気持ち良いですね、などと僕に声をかけるくらいであった。僕は適当に相槌を打ちながら、頭痛、並びに吐き気と格闘していた。いつもなら日が暮れるまでその苦しみを味わうことになるのだが、まだ昼時であるにも関わらず、その苦しみは消え去ろうとしていた。なるほど、悔しいが確かに春風が気持ち良い。気持ち良い春風である。

「随分、顔色が良くなりましたね」

 僕の心中を読み取ったかのように、獏女は言った。

「それから、顔も整って来ましたね」

「おい、お前。何失礼なことを抜かすんだ。僕の顔はずっと整っているぞ」

「それは大変失礼を致しました。けどそれくらい元気になれば、もうお昼ご飯を食べられますね」

 獏女は脇に置いていた弁当箱を膝の上に乗せ、その包みを解いた。ふたを開けると、今日もまたしっかりと栄養バランスを考えたおかず達が敷き詰められている。彼女は手を合わせていただきますと言うと箸でおかずを掴み、自分の口ではなく、なぜか僕の口元に運んだ。

「どうぞ、お食べになって下さい」

 しとやかな笑みを浮かべて言う。以前、僕はこの「はい、あーん」の破壊力を味わった。凄まじいものだった。しかし、この女の正体を知った今となってはその威力は大きく減少し、僕の心を揺さぶることはない。

「いらん」僕は迷わずにそう答えた。

「そんなことおっしゃらずに」

 しかし、獏女は尚も執拗に「はい、あーん」と迫って来る。

「ああ、もう。鬱陶しいな!」

 僕が声を荒げて言うと、獏女は小さく肩をすくめた。

「そんなに照れなくても良いんですよ?」

「僕は照れてなどいない。お前に対して、微塵も照れてなどいない」

「うふ、そうですか」

「何だその含み笑いは。ムカツクな」

「そんな怒らないで下さい。私は紳士で優しい敬太郎さんに魅力を感じているのですから」

 一瞬、面食らってしまうが、「ふん、歯の浮くようなお世辞をどうもありがとう。お願いだからそれ以上もう喋るな」

「それは無理な相談です。私はこれから、敬太郎さんにとても大事なお話をしなければなりません」

「本の返却期限を守らなかったことだろ? はいはい、それについては大いに反省しておりますよ。ただな、あまり言い訳はしたくないけど、お前という存在も原因の一つであってな……」

「敬太郎さん、改めて提案させていただきます」

 僕の言葉を無視して、獏女は切り出す。「私と契約を結びませんか?」

 そのしとやかな笑みを見て、僕は大仰にため息を漏らす。

「断る。前にも言ったが、僕はお前と下らない契約なんぞ結ぶつもりはない。この図書館にも、金輪際来るつもりはないんだ」

 力強く、拒絶の思いを込めて僕は言った。だが獏女は一切動揺せず、その黒い瞳で真っ直ぐに僕を見つめていた。

「本当にそれでよろしいのですか?」

 その一言が、妙に癇に障った。「何が言いたいんだ?」

「あなたは、いわゆる『リア充』によって魔境と化した大学の付属図書館にこれから通い続ける羽目になっても良いのかと、そう聞いているのです」

 僕はにわかに動揺した。「な、なぜそのことを……」と言いかけて、はたと思い至る。そうだ、こいつは獏であり、僕の頭のイメージを食う際、その思考も覗き見ることが可能だと言っていた。何たる屈辱だ。

「ちなみにそのイメージは食べていません。敬太郎さんの頭の中を覗いてそれを見た時、一目で苦々しい物だと分かったので、見るだけに留めておきました」

「うるせえ! ていうか、見るだけでも情報を獲得できるのか?」

「ええ、まあ。けれども、より正確に深く情報を得るためには、やはりイメージを食べる必要があります。本などは特に。それに、私は甘い恋愛物語のイメージを食べることが大好きですから」

 うっとりした顔で獏女は言う。

「何が、甘い恋愛物語が大好きです、だよ。人のことを散々利用しやがって」

「まあ、無断であなたのイメージを食べていたことは謝ります。ですから、これからは正式に契約を結び、堂々とあなたのイメージを食べさせていただきたいと思っております」

「だから、お断りだと言っている」

「どうしてもですか?」

「ああ、どうしてもだ」

 僕は腕組みをした状態で、力強く鼻を鳴らした。

「そうですか……」呟いて、獏女は顔を俯けた。「ならば仕方がありません、強硬手段に出るしかありませんね」

 その不穏な声を聞いて、僕の心臓が跳ね上がった。「な、何をするつもりだ?」

「当然ご存じのことですが、私は人間ではなく獏です。そして、人間を遥かに上回る力を兼ね備えております。ですから……」

 ふいに獏女は右腕の袖をめくった。白く細い腕が露わになる。だが、その筋肉がにわかに隆起し、獣の毛が生え始めた。

「力づくであなたに言うことを聞かせられるんですよ?」

 穏やかな微笑みを浮かべながらも、その目は全く笑っていなかった。僕はそれまでの怒りを忘れ、すっかり恐怖に捕らわれてしまう。こんな強靭な人外の腕に掴まれたら、僕の華奢な身体など小枝のごとくへし折られてしまうだろう。ガクブル状態であった。

 するとふいに、獏女がくすりと笑みをこぼした。

「でもまあ、私はそんな力づくで相手に言うことを聞かせるなんて真似はしたくありません。あまりやり過ぎると長老会もうるさいでしょうし。ですから、話し合いできちんと合意を得た上で、あなたと契約を結びたいと思っているのです」

 獏女の右腕が元通りになった。僕は未だに冷や汗をかいていた。

「何で、そこまで僕にこだわるんだ? 僕以外にも図書館の利用者はたくさんいる。他の人に頼んで契約を結べば良いだろうが」

「前にも言ったでしょう、敬太郎さん。あなたは素晴らしい読者なのです。本という素晴らしい原材料を美味なるイメージへと昇華させる読者なのです。その類まれなる想像力……いえ、妄想力とでも言いましょうか。取り分け甘い恋愛小説を読んだ時のあなたの甘ったるいイメージと来たら、他の追随を許しません。全く、普段の生活でどれだけ女性に縁が無いんだこの人はと思わせるくらいです」

「余計なお世話だ!」

「まあまあ、そうカッカなさらずに」

「お前がそうさせているんだろうが!」

「それは失礼しました。話が少し逸れてしまいましたが敬太郎さん、改めて申し上げます。私と契約を結びましょう。そして、今後とも私がいる図書館を利用して下さい」

 僕は唇を噛み締めた。僕は今、熱烈なラブコールを受けている。それは大変光栄なことなのだろうが、如何せん内容がぶっ飛び過ぎている。いくら見た目が純情可憐な黒髪の乙女であろうとも、こいつは性悪の獏女である。そんな奴と迂闊に契約なぞ結んでも良いのだろうか。

「敬太郎さん、『リア充』はあなたの生活を脅かす害敵です。存在するだけであなたに迷惑をかけます。一方、私は確かに人外の獏ですが、普段は人間の姿をしております。美しい黒髪の乙女であります。取り立ててあなたに危害は加えません。ただ、少しばかり私好みの本を読んでもらい、そのイメージを食べさせていただくだけです。その見返りとして、あなたは自分好みの私の姿に見惚れていて下さい。ねえ、素敵な契約でしょう?」

「確かに、僕にとって『リア充』は害敵だが……正直な話、お前もよっぽど怖いよ。さっきだって、力づくで僕に言うことを聞かせようとしたじゃないか」

「ですから、あれは冗談ですって」

「けど、あのまま僕が拒絶していたらどうしていた?」

「うふふ」

 獏女はただ微笑みを浮かべた。何だか無性に怖かった。すっかり萎縮した僕は、顔を俯けてしまう。

「……分かりました、敬太郎さん。いきなり契約を結べと言われて困惑するのは当然です。だから正式な契約を結ぶのではなく、とりあえず仮契約を結びましょう」

「仮契約……だと?」

「はい、つまりはお試し期間です。その間に互いに有益な関係を築くことが出来れば、そのまま正式契約へと移行する、という訳です」

 この獏女は、小癪な提案をして来る。

「敬太郎さん、私なんかよりも『リア充』の方があなたにとってよほど害悪ですよ。この図書館にはそういった人種はほとんど訪れません。みなさん読書好きの良い方ばかりです。だから、私に少し本のイメージを食われるくらい、良いじゃありませんか。ねぇ、ここは一つ、私と仮契約を結びましょうよ。何なら、すぐ本契約を結んでも良いんですよ?」

 何だ、この妙にねちっこい営業トークは。さすが性悪獏女、そのような術まで心得ているとは、大いに油断ならん相手だ。僕は「リア充」とはまた違うベクトルでこの女に敵意を抱いている。下手をすれば、「リア充」以上に。だから、決して敵に回してはいけないと思った。

「……仮契約だ。仮の契約だ。それ以上はないぞ」

 ぼそり、と僕が言うと、獏女はにこりと微笑んだ。

「はい、これからよろしくお願いします、敬太郎さん」

 その微笑みは確かに可憐だった。あくまでも見た目だけは。その腹の内でこれから僕をどういたぶってやろうかと画策しているのではないか。そう思うと、僕はまた頭痛に苛まれた。









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