今の僕は空っぽだった。普段は優雅に味わいながら飲む地元名産の日本酒を、昨晩はガブ飲みした。体などぶっ壊れることもお構いなく。その結果、アセトアルデヒドの作用によって猛烈な吐き気に襲われ、僕は見るも無残なトイレの住人と化したのである。便器を熱く抱き締め、胃から食道に駆けて熱い物が走り、胃の内容物が全て去って行った。そういった意味での空っぽ。そして、頭の中も空っぽだ。性悪の獏女に僕が読んだ本のイメージを食われてしまったのだ。げに恐ろしきことである。胃の中が空っぽ。頭の中が空っぽ。そしてまた、心の中も空っぽであった。

 そんな空っぽの僕が今回の件で唯一得た教訓がある。

 黒髪の乙女なんてこの世には存在しない。万が一出会ったとしても、それはしょせん虚構である。迂闊に信じて深入りすれば、おぞましい目に遭ってしまうだろう。

 やはり僕の考えは正しかった。黒髪清楚系の女はどこまでも計算高く、強かで、男を利用してやろうと頭を巡らせている。そんな女の本性を見抜けずにまんまと利用される男は愚かだと思っていたが、僕もまた愚かな男だったようだ。まんまと利用されてしまった。彼女の欲望を満たすために、利用されてしまったのだ。

 空っぽになった頭の中に、彼女と過ごしたきれいな時がおぼろげに蘇る。美しい桜の木が咲き誇るあの公園のベンチで、僕らは愛を語らい合った、なんてことはしていないが。しかし、それに大分近しい関係を築いていた。これは純然たる恋なのだと、勝手に自負していた。しかしそれは彼女にとって、契約を結ぶ過程に過ぎなかったのだ。

 空っぽの僕は、アパートのベッドに横たわったまま、無為な時を過ごす。時刻は既に午後を迎えている。午前中にあった講義は当然のことながらすっぽかした。今さらどうってことはない。どうってことはないのだが、しかし清廉高潔かつ理知的な僕が、いつまでもこんな無為な時を過ごして良いものだろうか。答えは否である。軋む身体を起こし、洗面台へと向かった。




 ファンタジー小説の主人公は、凶悪な敵が跋扈する魔境に飛び込む時、どんな心境なのだろうか。勇ましい彼でも、少なからず身構え、恐怖してしまうのだろうか。

 だとすれば僕もまた、そんなファンタジー小説の主人公と同じ心境であった。ただし、僕の目の前にあるのは何の変哲もない図書館である。むしろ僕の愛すべき場所であるが、ここはすでに悪しき存在によって占拠され、蝕まれた結果、現代における魔境となってしまった。その悪しき存在の名を「リア充」と言う。

 入口の扉を開き、僕は中に足を踏み入れた。警戒心を高めつつ、食事スペースが設置されているフロアを抜け、本丸へと突入した。

 図書館とは元来、静謐な空間であり、その中で本を読むことで心地よい個の世界を形成し、溺れて行く場所である。私語は厳禁。ケータイでの通話も厳禁。その静謐を脅かすような粗相をやらかせば、即刻処罰を受け、叩き出されるべきなのである。

 しかし、その静謐であるはずの館内では、ひそひそと耳障りな囁き声があちらこちらで湧いていた。声の元を辿ってみれば、その主たる者達は一切本など開かず、同じテーブルを囲む仲間達と談笑をしている。ひそひそ、ひそひそと。それは僕に言わせれば厳罰に値する行為であるが、寛大なる僕は昨今の風潮を鑑みて仮に百歩譲ってその耳障りなひそひそは許そう。だがしかし、時折「ぎゃはっ!」とあからさまに大きな笑い声を上げるのは最早弁護の余地もない。僕がファンタジー小説の主人公でこの右手に剣を持っていたならば、その鋭い剣先で串刺しにする……なんてのは少しやり過ぎだから、平べったい部分でお尻千叩きの刑に処してやりたい気持ちだ。ちらりとカウンターに目をやれば、そこにいる職員は学生アルバイトも含めてみな大人しい顔立ちである。心か弱き彼らにあの凶悪な「リア充」をどうこうするなんてのは荷が重いだろう。こうなれば筋骨隆々の黒人SPでも配置してはどうかと思うが、そんな強面がいたらそれこそ雰囲気ぶち壊しなので却下した。

 僕は憎き「リア充」共を横目でちらちらと睨みつつ、本棚から一冊の本を手に取って席に座った。賢い者であれば、本を借りて自宅で読めば良いじゃないかと思うだろう。無論、僕はアパートに帰ってからもよく本を読む。本はどこでも読むことができる。

 ただ、それでもやはり図書館で読む本は格別なのだ。図書館、ぎっしりと本が敷き詰められた本棚から醸し出される芳醇な香り。様々な人の手に取られ、読まれて、より熟成された本達に囲まれて読書する。これほどの贅沢はこの世にないと僕は思っている。そう、僕は図書館で本を読むことが好きなのだ。だからこそ、腐れ「リア充」共に蝕まれていても、歯を食いしばってこの場に留まり、読書をしているのだ。怒り、羞恥、劣等感。それらの感情が僕の前歯に大いなる膂力を与えて、下唇が切れて鮮血が滲む。僕は本を汚さないために、多少はしたないと思いながらも舌先で血を拭った。

 僕の読書風景は本来優雅なものである。大量の活字の上を滑らかに視線が這い、時折メガネのブリッジで位置を調整し、また没頭して行く。そんな僕が、こんな血の滲むような、というか実際に血を滲ませて読書するハメになるなんて。屈辱である。

 久方ぶりに味わう屈辱に理性を掻き乱されそうになるが、僕は内なるファンキーを何とか押さえ込み、活字の海へと沈んで行く。しかし、今日はその速度が遅い。いつまでも海面付近をふらふらとさまよっているみたいで、全然深い所まで読めない。こんなの僕の読書じゃない。この屈辱を二度と味わいたくなくて、新しいアパートに引っ越し、新しい図書館に訪れた。そこで久方ぶりに本来の読書を楽しむことが出来て幸せだった。その上……いや、もう考えるのはよそう。気が付けば、また唇に血が滲んでいた。




 空には美しい星のカーテンが引かれていた。だが、今の僕にはそれを眺めて心安らぐ気力もない。「リア充」に侵されて魔境となった図書館にて、僕は肉体・精神ともに著しく消耗し、それでもプライドにかけて手に取った一冊の本は何とか読み切り、命からがら抜け出して来た。僕はなぜ、命がけで読書をしなければならないのだろうか。本来読書とは、もっと心躍る楽しいものではなかっただろうか。嘆いた所で、あの大学の図書館は既に「リア充」によって支配されており、僕にはどうすることもできない。辛い現実を生きるためにはオアシスが必要である。僕にとっては図書館がそれだった。しかし、奪われてしまった。もう、どうしようもない。神はきっと僕に死ねとおっしゃっているのだろう。それが運命ならば、受け入れるのもやぶさかではないかもしれない。死とは恐ろしいことではあるが、同時に究極の癒しを得ることができるものだと思っていた。

 今日は僕にとって最後の夜になるかもしれない。アパートに帰ると、荷物を床に放り投げ、冷蔵庫から日本酒を取り出す。昨日しこたま飲んでえらい目にあったこの日本酒。賢い僕は同じ失敗を二度繰り返さない。しかし、今回ばかりはあえてその繰り返しを行おうとしていた。胃の中の物を全部ぶちまけるあの瞬間、激しい苦しみと共に得も言われぬ解放感を味わった。今日は僕にとって最後の夜である。最後は盛大に、自分の全てをぶちまけて死んでやろう。あの世に持って行く物なんて何もない。

 ピンポーン、とチャイムが鳴った。

 僕にとって最後の夜。そこに割り込む闖入者の無粋なこと。許すまじ。僕には自宅を訪れるような友人はいない。両親は放任主義のため来るはずもない。となれば大家さん……は確か旅行に出かけていたはずだ。そうなると、どこぞの宗教の勧誘者、あるいは国民的法人様の集金人だろう。

 僕はテーブルの前にあぐらをかき、コップに日本酒を注いだ。完璧なる居留守の態勢を整えた。しばらく黙って酒を飲んでいれば、その内撤退してくれるだろう。

 そう思い待ち続けること数分。しかし、チャイムは一向に鳴りやまない。むしろだんだんと間隔が狭くなって来た。ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン……

「……うるせえ!」

 これにはさしもの高潔なる紳士の僕も堪忍袋の緒がぷっつんと切れ、大股で玄関へと向かう。鼻息を荒くしてドアを開け放った。

 そこに立っていたのはどこぞの宗教の勧誘者ではなく、また国民的法人様の集金人でもなかった。むしろ、それらよりもタチの悪い奴がそこに立っていた。

「こんばんは」

 夜空に浮かんだ月明かりを受けて流れるような黒髪が艶やかに輝く。そして、夜空のような瞳でこちらを真っ直ぐに見つめるのは、黒髪の乙女だった。いや、その化けの皮が剥がれたおぞましい奴だった。

「夜分遅くに申し訳ありません。少しお時間よろしいでしょうか?」

 その微笑みは相変わらず可憐で、純情な男を惑わそうとしている。

「お、お前。何で僕のアパートを知っているんだ?」

「図書館で貸し出しカードを作った方の住所を登録していますので。そこから調べました」

「それは職権の悪用だ! プライバシーの侵害で訴えるぞ!」

「そんな怒らないで下さい。私はどうしてもあなたに会いたくて来たんです。ですから、お時間よろしいでしょうか」

「生憎、僕はとても忙しいんだ」

 短くそう言って、ドアを閉めようとした。だが、その途中でぐっとドアの縁を掴まれた。

「まあ、そう言わずに。少しだけで良いから、私のお話を聞いて下さい」

「はっ、誰がお前みたいな性悪女の話なんて聞くか!」

「性悪だなんて、ひどい。自分で言うのもなんですが、私はずっと敬太郎さんのことを一途に思って来たんですよ」

「うるさい、黙れ。気安く名前で呼ぶな」

「何でそんなことをおっしゃるのですか?」

「お前のことが嫌いだからだよ」

 僕は吐き捨てるように言った。

「そんなお前だなんて……前みたいに名前で桜と呼んで下さい」

「何が桜だ。お前なんて性悪の獏女のくせに」

 険の込もった目で睨み付けてやった。すると、獏女はその瞳を大きく開き、しゅんと顔を俯けてしまう。中身は腐った性悪に過ぎないが、しかしその見た目は、見た目だけは素晴らしい乙女なのである。僕は不覚にも心を揺さぶられ、つい同情してしまう。

「わ、悪かったって。言い過ぎた」

 僕は潔く頭を垂れる。だがその間にも、獏女はくすん、くすんと泣き声を上げ始めた。いくら相手が人外とはいえ、一応は女である。高潔な紳士としてさすがに泣かせてしまうのはまずい。

「おい、何も泣くことはないだろ。ちょっときつく言っただけじゃないか」

 弱った僕は身を屈め、くすんくすんと泣いている獏女の顔を覗き込む。その時、くすんくすんという鳴き声が、ふいに、くすくすという忍び笑いに変わった。僕は眉をひそめる。

「……そんな風に慌てて、可愛らしいですね。さすが高潔な紳士さんでいらっしゃいます」

「お、お前! なぜそれを……」

「あなたの本のイメージを食う際、ちょっとばかり思考を覗かせてもらいました」

「何ぃ!? そんな真似もできるのか!?」

 ちょこざいな。いや、そんなことを言っている場合ではない。

「というかお前、人がせっかく心配してやったのに嘘泣きするとは何事か! 返せ、僕の優しさを! それから僕が読んだ本のイメージも!」

「残念ながらそれはできません。敬太郎さんの優しさも、本のイメージも、みんな美味しくいただいてしまいましたから。ただどうしてもとおっしゃるのであれば、大量の活字を直に見て、ゲロを吐くことでお返しさせていただきます」

「その美しい見た目でゲロとか言うな!」

「まあ、美しいだなんて。照れますわ」

 おのれ、この獏女。いきり立つ僕の舌鋒を、まるで柳のようにかわしやがる。いや、こいつの場合は桜の花びらのようにか。だから、そんなことはどうでも良いんだ。

「とにかく帰れ。もうお前の顔なんて見たくないんだ」

「はあ、分かりました。そこまでおっしゃるのであれば、私は帰ります。ただ、最後に一つお願いを聞いて下さい」

「は、お願いだと? この期に及んで図々しいにも程がある」

「本を返していただけませんか?」

「え?」

「ですから、あなたがうちの図書館から借りた本を返していただけませんか? 返却期限が過ぎておりますので」

 落ち着き払った獏女の言葉を聞いて、僕は数秒呆気に取られた。

「いや、確か本の貸出期間は二週間のはずだろ? まだ期限は過ぎていないはずだが」

「はい、基本的にはおっしゃる通りです。しかし、敬太郎さんがお借りになった本は書庫に保管されている少しばかり貴重なものなので、貸出期間は一週間になりますとお伝えしたはずです」

 僕はおぼろげにその時のことを思い出す。貴重な文学の資料を借りたいと頼んだ際、確かにそのようなことを言われた気がした。すると、何だか冷や汗が噴き出す。

「ちょ、ちょっと待ってくれ」

 そう言って、僕は一旦部屋の中に引っ込んだ。テーブルの上に置いてあった文学を手に取り、再び玄関先へと赴く。

「ほら、返すよ。これで良いんだろ?」

 僕がその本を目の前に差し出すと、獏女はわずかにじっと見つめた。それから白魚のような指先で押し返す。

「受け取れません」

「は、何でだよ? お前が返せって言ったんじゃないか」

 僕はまたしても怒りの情念が湧いて来て、鋭く彼女を睨んだ。

「当館の規則と致しまして、返却期限が過ぎた場合、借りた本人様に直接お越しいただき、事情を伺うことになっています。その如何によって、今後の利用を差し控えていただく場合もございます」

 僕は一瞬面食らったが、「ああ、そうかい。僕はもうお前なんかがいる図書館には二度と行くつもりはないから、どうぞ出禁でも何でも、好きにしてくれよ」と露骨に口の端を歪めて言った。これで性悪獏女も黙るかと思ったが、奴は口元にどこか不敵な笑みを浮かべた。

「何がおかしいんだよ?」

「いえ。ただ、本当にそれで良いのですか?」

「どういう意味だよ?」

「それはご自分の胸に手を当ててよくお考えになって下さい。そうすれば、おのずと答えは出るはずです」

 その勿体付けた言い方に俺は腹を立てて叫ぼうとしたが、

「それからあなたは高潔な紳士でいらっしゃるのでしょう? それならば、自らが犯した過ちについてしっかりと謝罪をし、けじめをつけるべきです。それ以降に当館を利用しようがしまいが、あなたの自由です」

 静かな声でつらつらと獏女は言った。

 悔しい、誠に悔しいが……奴が言っていることは最もだ。高潔な紳士たる僕が、他人様から借りたものをろくすっぽ返さず、あまつさえその尻拭いを他人に押し付けようなんぞ、紳士以前に人の風上にも置けない愚行である。高潔なる魂を持つ僕にとってそれは後々禍根を残し、耐えがたい屈辱となってしまうだろう。

「……分かった。明日、朝一番で返しに行ってやる。それきり、もうお前がいる図書館には二度と近付かん」

「ありがとうございます。では、明日の来館を心よりお待ち申し上げております」

 にこりと見た目だけは可憐な笑みを残して、獏女は去って行った。

 全く反吐が出る。奴は虚偽にまみれた存在。黒髪の乙女の姿を装い、この僕を騙して貶めた性悪である。そのくせ偉そうに講釈を垂れやがって。僕の怒りは既に臨界点を大いに飛び越し、そのまま大気圏さえも突き抜けてしまいそうだった。この大いなる怒りを鎮める方法は一つだけある。僕は部屋の中に引っ込むと、愛する文学を片手にコップいっぱいの日本酒をぐいと飲んだ。






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