恋は盲目なんてよく言うが、まさにその通りだと思う。素敵な乙女に心を奪われるあまり、それ以外のことは一切視界に入らない。だから、ここ最近の僕は実りある読書が出来ていない。高潔なる文化人としてそれは由々しき事態なのである。

「敬太郎さん」

 何度聞いても飽きることのない澄んだ声が、僕の鼓膜を優しく揺さぶった。

「はい、何でしょうか?」

「良ければ、この本を読んでみませんか? 恋愛小説でとても面白いらしいんです。ただ、私はまだ読んだことがないんですけど……」

 気恥ずかしそうに目を伏せる様がまたいじらしい。僕は桜さんが差し出したその本を受け取り、例のごとく爽やかな紳士スマイルを浮かべる。

「ありがとうございます。ぜひ、読ませていただきます」

「本当ですか? 嬉しい」

 桜さんはその名の通り桜の花びらのように可憐な微笑みを浮かべた。僕はそんな彼女に見惚れつつ、どうせこの本の内容もろくすっぽ頭に入って来ないだろうと思っていた。




      ◇




 日が傾くのと同時に、僕は読んでいた恋愛小説をパタンと閉じた。

 結論から言えば、その内容は全く頭に入って来なかった。だが、慌てることはない。大方予想通りの結果である。認めよう、僕はこの図書館に読書をしに来ている訳ではない。麗しい黒髪の乙女である桜さんに会うために来ているのだと。この変態色ボケ野郎と罵ってもらって結構。元来男とはすべからくスケベな生き物なのである。どんなに高潔ぶった所で、僕も所詮は人の子、男の子。どんなに素晴らしい読書体験よりも、素晴らしい乙女を優先してしまう。全く、だから男って生き物はバカだのアホだの言われてしまうのだ。

 背もたれに全体重を預け、僕は半ば虚ろな目で天井を見つめた。

 そばで静かに足音が鳴った。おもむろに視線を向ければ、僕の注目を集めて止まない、黒髪の乙女こと桜さんがいた。

「どうされたんですか? 何だか、ボーっとしていらっしゃいますね」

「あ、いや。お恥ずかしい」

 僕は締まりのない口元でそう言った。

「うふ、そんなことありませんよ。まるで、先ほど読んでいらっしゃった小説の主人公みたいで、愛らしいと思います」

 穏やかな微笑みを湛えて桜さんは言う。愛らしい、彼女の口から出たまさかの賛美に、僕の純情ハートは激しく高鳴る。その激しさのあまり、下手をすれば張り裂けてしまいそうだ。全く恐ろしい。この穏やかな笑みにそんな殺傷能力があるだなんて誰が想像しただろうか。そんな死の危険に直面しつつも、僕の口元はよりだらしなく緩んでいた。

 だがその時、僕は一つ引っ掛かりを覚えた。

「あの、桜さん」

「はい、何でしょうか?」

 桜さんは可憐に小首を傾げた。

「桜さんは、この小説を読んだことが無いんですよね?」

 瞬間、桜さんの表情がほんのわずかに強張ったように見えた。

「でも、それなのに何でこの小説の主人公が大概ボーっとしている奴だって……」

「あ、その……中身は読んでいないんですけど、裏表紙にあるあらすじだけ読んだので」

「そうなんですか……けど、あらすじにはそんなこと書いていないですけど……」

 僕は小説の裏表紙に視線を走らせた後、再び桜さんに顔を向けた。

 彼女は顔を俯けていた。美しい前髪がさらりと下りて、その表情を隠してしまっている。

「桜さん……? どうしましたか?」

 問いかけるも、彼女は顔を上げようとしない。夕日が差し込む館内に、どこか不気味な静寂が舞い降りていた。時間にしてほんの数秒、しかしまるで永遠のように感じた。

「……敬太郎さん」

 やがて、静かな声で彼女が言った。おもむろに上げられたその顔は、柔らかな微笑みを湛えていた。

「少しお話があります。閉館後、公園のベンチで待っていてもらえますか?」

 唐突な提案に、僕がすぐさま頷くことができなかった。その間も、彼女は柔らかな微笑みを浮かべている。

「わ、分かりました。公園のベンチで待っています」

「ありがとうございます。では、後ほど」

 そう言い残して、彼女はくるりと踵を返し、カウンターへと引き返して行く。

 その後ろ姿を、僕は呆けた眼差しで見つめていた。




      ◇




 太陽が先ほどよりも西に傾き、空に夜の色を引っ張って来た。

 僕は桜さんに言われた通り、公園のベンチに大人しく座っていた。彼女のような美しい黒髪の乙女にこのような誘いを受ければ心が躍り、恋の超特急エクスプレスやファンキーは傍若無人に暴れ回るだろう。しかし、彼らは一様に大人しくしている。不気味な静けさが僕の胸中を支配していた。

 先ほど僕を誘った時の桜さんは、いつも通りの可憐な笑みを浮かべていた。僕の渇いた心はその笑みを見れば一瞬で潤うはずなのに、その時ばかりはひやりと乾燥した冷気が走るようだった。

 そこで僕は思い至る。これからやって来るのは甘い告白ではなく、むしろ辛辣な離別を告げられてしまうのではないだろうか。「また来てくださいね」という桜さんの甘い言葉に誘われて、僕はここしばらく毎日ように図書館を訪れた。そして本を読みつつも、ちらちらと彼女の美貌を堪能していた。だが彼女がそのちら見に気が付き、嫌悪感を覚え、僕に「もう図書館に来るな」と、そう告げようとしているのではなかろうか。そうなれば、僕の繊細な純情ハートは一瞬で砕け散り、修復不可能となってしまうだろう。想像しただけで背筋がぞっとしてしまう。

 夜の冷たい空気を含んだ風が吹き、桜の花を揺らす。

「お待たせいたしました」

 ハッとして振り向けば、桜さんがそこにいた。

「ごめんなさい、お呼び立てしてしまって」

「いえいえ、とんでもございません……それであの、お話というのは?」

 僕は恐る恐る尋ねた。彼女はにこりと微笑み、ベンチに腰を下ろす。

「敬太郎さんは、私のことをどう思っていらっしゃいますか?」

「えっ?」

 突然そのようなことを問われて、僕は動揺した。桜さんはあくまでも柔らかな微笑みを湛えているが、その澄んだ黒い瞳はじっと僕のことを見つめていた。

「いや、その、何て言いますか……桜さんはとても素敵でその……」

 こんな時に限って僕の口はパサつき、滑らかに言葉を紡いでくれない。思考も上手く回ってくれない。

「いつも、私のことを見ていらっしゃいましたよね?」

 その一言に、僕の心臓はびくりと跳ね上がった。

「いやあの、ごめんなさい。僕は決して不埒な気持ちを抱いていた訳ではなく……」

「良いんです。嬉しかったので」

 慌てふためく僕に対して、桜さんはあくまでも落ち着いた声音で言う。

「私に見惚れて下さったんですよね?」

「えと、その……はい、おっしゃる通りです」

 気恥ずかしさのあまり、僕は力なく頭を垂れた。

「ごめんなさい、ちらちらと見てしまって」

「そんな謝らないで下さい。言ったでしょう、嬉しかったと」

 おもむろに顔を上げると、桜さんが穏やかな微笑みを浮かべていた。これはまさか、本当に彼女とのめくるめくラブロマンスが始まってしまうのだろうか。唐突に迎えたその時に困惑しつつも、僕は気を引き締めなければと思った。

「それに私こそ、敬太郎さんに謝らなければいけないことがあります」

「え、何ですか?」

 僕が問いかけると、桜さんは一度小さく顔を俯けた。それから、改めて僕を見つめる。

「単刀直入に申し上げます。私は人間ではありません」

 落ち着いて紡がれたその言葉を、僕はすぐに飲み込めなかった。

「……あっ、そうですよね。桜さんの美しさは、それはもう人間離れしていると言っても過言ではないですもんね」

 そう、今しがた放った一言は彼女なりのジョークだったのだ。清楚で可憐な黒髪の乙女が放った小粋なジョークを、僕は微笑ましいと思ってしまう。

「違いますよ、敬太郎さん。そのままの意味です。私は人間ではありません」

 顔を上げた桜さんはその黒い瞳で真剣に僕を見つめてきた。

「まさか……桜さんは幽霊なんですか?」

 だとしたら納得が行くかもしれない。そもそもこれだけ美しい黒髪の乙女がこの腐った現代に生存していることがおかしいと思っていたのだ。だが、彼女が古来の美しい黒髪の乙女の幽霊というのであれば納得が行く。

「いいえ、幽霊なんかじゃありませんよ」

「じゃあ、一体何だって言うんですか?」

 じれったく思い、僕は初めて彼女に対して棘のある物言いをしてしまう。

「獏です」

 さらりと、彼女は言った。

「はい?」

「私の正体は獏です。教養のある敬太郎さんなら、ご存じですよね?」

 くすり、と彼女は微笑む。それは今までの穏やかさとは違い、どこか不気味さを醸し出していた。

「獏って……人の夢を食べるって言う、あの獏ですか?」

「その通りです」

 微笑む彼女を見て、僕は思わず盛大に噴き出してしまう。

「あなたは一体何をおっしゃっているんですか? いきなりそんなことを言われて、この僕が信じるとでも思っているんですか? 冗談も大概にして下さいよ」

「冗談なんかではありませんよ」

 彼女は静かな声音で言う。

「そ、そこまで言うなら証拠を見せてもらおうじゃありませんか! 言っておきますけど、つまらない小細工程度じゃ、この僕の目は誤魔化せませんよ!」

「ご安心ください。小細工などするつもりはありませんから」

 そう言って、彼女はベンチから立ち上がる。僕の方に振り向くと、右手でブラウスの左袖をめくった。その白く美しい肌が露わとなり、今の状況を忘れて僕の胸はどきりと高鳴ってしまう。

「よく見ていて下さいね、敬太郎さん」

 彼女が薄らと微笑んだ直後、その白く美しい肌がぴくりと跳ねた。その動きは次第に連続し、より大きく跳ねて、やがて強く隆起する。その様を見て、僕は絶句した。

 彼女の可憐な細腕は強靭な筋肉を帯び、さらにそこから体毛が生えてきた。それは獣を思わせる。丸太のようい太い腕はびっしりと獣の毛に覆われた。仕上げに、その指先から鋭利な爪が飛び出した時、僕は思わず卒倒しそうになり、よろけてしまう。

「危ない」

 彼女の声が響く。後方へと倒れかけた僕の体は何かに受け止められた。ちらりと視線を向けた僕の視界に、強靭な獣の腕が映った。それが僕の体を支えていた。

「うわぁ!」

 思わず悲鳴を上げてその場から飛び退いた。

「ひどいですよ、敬太郎さん。そんな風に怯えることはないでしょう?」

 わざとらしく悲しげに顔を歪めて、彼女は言った。

 怯えるな、なんて無理な話である。その強靭な腕は僕の繊細な体などいとも簡単に粉砕してしまいそうである。そして何より驚くべきが、その腕が清楚で可憐であったはずの、彼女から生えているのだ。

「その様子じゃ、とても本来の姿は見られそうにないですね。とりあえず一部だけにしておいて正解でした」

 彼女はくすりと微笑み、改めて僕を見つめた。

「これで分かっていただけましたか? 私が人間ではなく、獏であると」

 その問いかけに答えることが出来ず、僕はまるで石像のように固まっていた。彼女は小さく吐息を漏らした。すると、その獣腕が元の人間の姿に戻る。いや、彼女の正体が判明した今となっては、その言い回しは妥当ではないかもしれない。

「敬太郎さん。私の正体を分かっていただいた所で、改めてお話があります」

 僕は尚も固まり続けている。だがそんな僕に構うことなく、彼女は語り出した。

「この枕木市はその名の通り上質な枕の名産地であり、全国でも高いシェアを誇っています。そして、市民の平均睡眠時間は全国的に見ても高い傾向にあります。つまり、それだけ夢を見る機会が増えます。故に人の夢を食う獏がしばしばこの土地を訪れる……そんな言い伝えがこの枕木市には根付いています。敬太郎さんもご存じですよね?」

 ようやく少しばかり体の自由が利くようになった。僕は小さく頷いて見せる。

「そして、実際に獏はこの枕木市に多く生息しています。人間の姿に化け、紛れ込み、生活を営んでいるのです」

 しとやかな声で、彼女は語り続ける。

「獏と言えば人の夢を食べる、それが一般的に根付いている生態です。しかし、私達は夢に限らず、人の頭の中にあるイメージを食べることができるのです」

「人の頭にあるイメージを食べる……?」

 僕はぽつりと呟いた。

「ええ。その行為によって、さまざまな情報を得ることが出来ます。例えば……まだ読んだことのない本の内容とか」

 瞬間、彼女は口元に怪しい笑みを浮かべた。ぞくりと背筋が凍り付く。

「まさか……」

「ええ、お察しの通り。今まで私は、あなたが読んだ本のイメージを食べていました。だから、あなたの頭にはその内容が残っていません」

 僕は拳を強く握り締めた。

「……何でそんなことをするんだ?」

そして、震える声で問いかける。

「獏は文字を読むのが苦手なんです。そのため人間界における情報は主にテレビや映画、マンガなどから得ていました。それらで娯楽も十分に賄っていました。けれどもある時、私はどうしても読んでみたい恋愛小説を見つけたんです。それまで少女漫画を愛読していた私ですが、年齢が上がるにつれて少し大人の恋物語を求めていました。そして、その多くは小説媒体で出版されています。どうしても読んでみたい、けれども文字を読むことができない。大量の活字を読むとどうしようもなく気持ち悪くなってしまう。途方に暮れました。

 そんな時、私は思い付いたのです。自分で読めないなら人間に読んでもらえば良い。そして、そのイメージを食ってしまえば良いと。私はそんな簡単なことも思い付かなかった自分の愚かさを嘆きました。まあ、獏とは基本的に人の夢を食う存在。取り分け悪夢を食うことで人々に安らかな眠りを与える。獏の長老会の方針に、自然と言いなりになっていたのでしょう。しかし、それは時代遅れ。今の若い獏である私達は、そんな苦い悪夢なんて食べていられない。もっと甘い、とろけるような恋愛物語を食べていたいんです。私は甘党なんです」

「甘党……?」

「ええ、超甘党なんです」

 彼女はくだけた調子でそう言った。

「私にとって、本は素晴らしい原材料です。そのままでは食べることができない。だから、それを美味しくイメージしてくれる読者を求めていました。敬太郎さん、あなたの想像力は素晴らしい。あなたは素晴らしい読者です。今まで出会った人達の中で一番です。だから、そんなあなたにお願いがあります」

「お願い……だって?」

「ええ。提案と言った方が適切かもしれません。自分で言うのもなんですが、私はとても美しく可憐な容姿をしています。あなた好みの。ですから、あなたはこれからもそんな私に見惚れていて構いません。その目に穴が開いてしまうくらいに見て下さい。ただその代わりに、あなたは私に極上のイメージを提供して下さい。取り分け、甘い恋愛小説を中心に読んでイメージ化して下さると嬉しいです」

「そんなバカげた関係なんて受け入れる訳ないだろ!」

 僕は拳を握り締めて叫んだ。

「ええ、そうですね。敬太郎さんのおっしゃることは最もです。だから、契約しましょう」

「契約だと?」

「はい。そのような関係も契約だと考えれば、割り切れるでしょう? お互いにとって有益な関係を築く契約です」

「お互いにとって有益……」

「そうです。あなたは私の美貌を、私はあなたのイメージを、それぞれ味わうのです。ねぇ、お互いにとって有益でしょう?」

 気が付けば夜の帳が降りて、辺りには月明かりが差していた。それが彼女の微笑みを怪しく輝かせる。僕は唇を噛み締めた。

「……僕はそんなもの求めていない。確かに僕はあなたの容姿に惹かれていたが、それだけじゃなく美しい心に魅力を感じていたんだ。けれども、それは大いなる勘違い。とんでもない腹黒女だったんだな」

「そんな……私を拒絶なさるのですか、敬太郎さん?」

 彼女は潤んだ瞳で僕を見つめて来た。不覚にも、どきりとしてしまう。だがしかし、僕は頭を振って湧き上がった情念を振り落とした。

「ああ、そうだよ。お前みたいな性悪女に僕は見惚れたりしない。だから、お前が提案した契約関係は成立しない」

 早口でまくし立て、僕は踵を返した。胸の内からとめどなく湧き上がる思い。それらが交錯し、ひどく興奮してしまう。だが、僕は最後の意地として平然を装い、無言のままその場から立ち去った。











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