「枕木中央図書館」は午前九時から午後六時まで開館している。僕は毎朝六時には起床し、この理知的な美顔を洗顔フォームで洗い、それからシャワー室に小一時間ほど籠って元々清廉な身体をさらに清め、目一杯お洒落な服装に身を包んだ後、姿見鏡の前でポージングの練習をする。そして八時半頃にアパートを後にし、開館の十五分前には図書館に到着する。五分前、十分前行動などとよく言われるが、真にできる男はさらにその一歩先、十五分前行動を取るのだ。不足な事態が起きても対処できるように、常に余裕を持って行動をするのである。

 やがて午前九時。定刻を迎えると、入口のブラインドが上がり、扉が開け放たれる。

「おはようございます」

 僕の目の前に、麗しい黒髪の乙女が現れる。彼女の名前は木野宮桜さん。この世のありとあらゆる奇跡が折り重なり、僕の下に降臨した黒髪の乙女である。約二十年の人生において、僕はこれほど美しい黒髪の乙女に出会ったことはない。そんな彼女と出会うことができたのも、日頃の行いの賜物だろう。僕は神様の存在など基本的に信用していないが、今なら言える。神はいると。清く正しい僕の生き様を見て、その褒美として桜さんという至極の黒髪の乙女を与えてくれたのだろう。つまり何が言いたいかと言うと、僕はとんだ幸せ者であるということだ。

「おはようございます、桜さん。今日も爽やかな朝ですね」

 ちらりと白い歯(大量の歯磨き粉をで磨いた)をこぼし、僕はにこりと微笑んだ。これが軽薄な「リア充」野郎であれば、「今日も可愛いね」なんて軽い褒め言葉を投げるだろう。しかし、僕はそんなアホな真似はしない。心の中では桜さん死ぬほど美しい抱き締めたいと思いつつも、そんな破廉恥な感情はおくびも出さず、粛々と紳士たる姿勢を崩さない。

「はい、そうですね。さあ、どうぞお入りになって下さい」

 その結果として、桜さんはとびきりの笑顔で僕を迎え入れてくれる。この笑顔を見ることができるのは紳士たる態度を崩さない僕だけだと自負している。

 桜さんに導かれて僕は館内へと入る。本棚から適当な文学を手に取ると、カウンターがよく見える席へと腰を下ろした。それは麗しい桜さんを視姦するためではない。僕はこの図書館の利用を初めて間もない。分からないことだらけである。だからすぐに質問ができるように、この位置を陣取っているのだ。桜さんにあれやこれやと質問するためにいるのだ。ちなみに、桜さん以外の職員に質問したことはない。

 さあ、時は来た。僕は文学を左手に持ち、右手でメガネのブリッジをくいと押し上げる。清廉なる僕の読書姿を愛しの桜さんに目一杯アピールするのだ。




 文学小説をパタンと閉じ、僕は一息吐いた。

 結論から言おう、全然頭に入って来なかった。確かに僕は麗しい桜さんに会いたいがためにこの図書館に通っている。しかし、元来僕は清廉なる読書家であり、例え麗しい乙女がいなくとも図書館に通い詰め、活字の海に溺れて行きたいと思っている。そんな僕が素晴らしい文学小説を読み終えて、何も頭に入っていないなんて。我ながら情けない。しかし逆に言えば、それだけ桜さんの魅力が素晴らし過ぎるということだろうか。いや、そんなことを言ったらまるで桜さんのせいみたいになってしまう。読んだ本の内容が頭に入っていないのは、僕が未熟なせいだろう。僕がより高度に洗練された人間になれば、桜さんの美貌を楽しみつつ、本の内容もしっかりと頭に入れていることだろう。

「敬太郎さん」

 ふいにそばで、澄んだ声が響いた。

「ひゃ、ひゃい!」

 にわかに動揺した僕は、素っ頓狂な声を発してしまう。振り向けばそこには桜さんがいたので、僕は瞬時に理知的な好青年へと舞い戻る。

「どうされましたか?」

「その本、もう読み終わったんですか?」

「ええ、まあ」

 中身はまるで頭に入っていないが。まあ、それはあえて言う必要は無いだろう。

「次に何を読もうか思案していた所です」

「それでしたら、オススメの本があります」

「オススメですか?」

「こちらの小説なんですけど……」

 そう言って桜さんが差し出して来たのは、ハードカバーの本だった。その体裁は桃色を基調とした華やかなデザインである。

「えと、この本は……」

「これは恋愛小説です。とても甘くて素敵な物語なので、ぜひ読んでみて下さい」

 柔らかな微笑みを残して、桜さんは再びカウンターに舞い戻って行く。その後ろ姿を僕は呆然としながら見つめていた。そして、改めて手渡された恋愛小説に視線を落とす。

 桜さんはわざわざ僕の所までやって来て、この恋愛小説を手渡した。甘い恋愛小説を。それはつまりこの僕と甘い恋愛がしたいという、奥ゆかしいあなたからの熱いメッセージと受け取って良いのでしょうか!? 桃色成分、大量投下、恋の超特急エクスプレス猛烈加速! そして始まる、僕と桜さんのめくるめくラブロマンス。全く、今日は何て日だ!




      ◇




舞い散る桜の花びらを、半ば虚ろな目で見つめていた。

ベンチに腰を下ろしている僕は、空っぽだった。常日頃から僕ほど中身の詰まった人間はいないと自負しているが、今は空っぽだった。

 桜さんオススメの恋愛小説を手渡された瞬間、僕の中でまた激しいカオス状態が巻き起こり、そのまま陶酔の坩堝へと吸い込まれてしまった。そのおかげで、せっかく桜さんがオススメしてくれた恋愛小説の内容が全く頭に入っていない。何となく、甘く濃密な話だったような気がするも、覚えていない。それもこれも、恋の超特急エクスプレスが猛烈に加速し続け、ファンキーがその名の通りファンキーに猛り続けたせいだろう。その後遺症として、今の僕は空っぽだった。言い換えれば、真っ白に燃え尽きていた。時刻はお昼時、コンビニで弁当を買って来たは良いが、箸を付ける気にならない。半ば屍のようにベンチに沈んでいた。

「敬太郎さん」

 またしても、そばで澄んだ声が響く。その声を聞くと、僕は無条件に背筋を伸ばした。

「お隣、よろしいですか?」

 微笑みながら言うのは桜さんだ。

「もちろんです。どうぞ」

 僕が答えると、桜さんは微笑んで喜色を浮かべ、ベンチに腰掛ける。弁当の包みを解いてから、改めて僕を見た。

「敬太郎さん、お弁当を召し上がらないのですか?」

「あ、そうでしたね。はは……」

 乾いた苦笑を浮かべる。

「もしかして、あまり食欲が無いんですか? じゃあ、今日は私のお弁当食べられませんね」

 小さく眉尻を下げて桜さんが言う。直後、僕は猛烈な勢いで首を横に振った。

「いえいえ、そんなことはありません。今の僕はとてもお腹が空いています」

「けど、食べずにボーっとしていらっしゃったから……」

「それは……美しい桜に見惚れていたんです。あっはっは!」

 我ながら中々に苦しい言い訳だと思った。しかし、桜さんは口元に手を添えてくすくすと笑っている。どうやら納得してくれたようだ。

「それでは恐れ入りますが、今日もお願いしても良いですか?」

「もちろんです。この僕にお任せください」

 僕は大して厚くもない自分の胸をどんと叩いて見せた。衝撃で胸骨が折れないか不安になってしまう。しかし、何食わぬ顔でいる僕は大概見栄っ張りである。そう、見栄っ張りなのである。

 先日の「はい、あーん」の一件以来、僕は桜さんのお弁当をいただくようになった。それは彼女が小食で弁当が食べ切れないためであった。それならば母親に量を少なくしてと頼んでみてはどうだろうかという至極平凡な提案をしたのだが、どうやら彼女の母親はそれを許してくれないようだ。そのため彼女の弁当箱の中をきれいさっぱりにする手伝いを僕がすることになったのだ。しかし、かく言う僕も元来小食の身である。そのため、朝食を抜くことにした。そうして空腹になることで、少しは量を食べられるようにする。以前、彼女にも自分は小食だと言ったため、彼女は僕が協力することに遠慮していた。しかし、僕が「どんとお任せ下さい」と見栄を張ってしまい、その協力関係が成立したのである。だが、僕は決して嫌々やっている訳ではない。桜さんの力になってあげたいという気持ちがあるから。そして、もう一つは……

「敬太郎さん、はい」

 桜さんが自分の箸で弁当のおかずを掴み、僕の口元へと運ぶ。僕は「あーん」と口を開いてそれを頬張る。ゆっくりと咀嚼して、幸せを噛み締めた。

「いかがですか?」

「うん、美味しいです」

「良かったです。あの、もっと食べてもらえますか?」

「もちろんです」

 その後も、僕は桜さんの「はい、あーん」の力によって、彼女の弁当を平らげた。

「ありがとうございます、敬太郎さん」

 嬉々として言う桜さんに対して、僕は爽やかスマイルで応える。だが、その胃袋は悲鳴を上げていた。脇に視線を落とせば、コンビニで買った弁当が残っている。これからこいつを食すとなると、かなり骨が折れる。初めはもっと軽くするか、いっそのこと昼飯は買わないでおこうと思った。しかし、そうすると心優しい桜さんがあれこれと気を遣うと賢しい僕は予見し、あえていつも通りの弁当を買った。いつも通りの弁当を食べて尚余力があり、その上で弁当を食べてくれる。だからこそ桜さんは喜んでくれるのだ。もし仮に僕が彼女の弁当を食べるために昼飯を軽くしたり抜きにしたら、彼女は心中を痛めるだろう。

 あれこれ考えたが、僕の胃袋がすでにパンパンの限界に近い事実は免れない。しかし、弁当はまだピカピカの未開封。僕は今すぐにでも戦略的撤退をしたいが、桜さんの心中を傷めないためにも、自らの胃袋を傷める決意を固めた。

 その後のことは詳細には語るまい。お互いに得をしないだろう。ただ一つ言えることは、見栄を張ることはとても大変である、ということだ。僕はしばらくトイレに籠っていた。







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