13

 今朝は昨日のように頭痛に悩まされることは無かった。きちんと早起きをして身支度を整え、大学の講義を受けた。平常通り午前中で講義が終了すると、すぐに電車に乗ってアパートがある住宅街へと舞い戻った。僕は一旦アパートに帰って荷物を置くと、再び外に出た。

 コンビニに寄ってから公園へと向かう。相変わらず美しい桜の木に彩られた道を歩く。やがて前方にベンチを見つけた。そこには一人の女が佇んでいる。

「こんにちは、敬太郎さん」

 僕は特に返事もせず、無言で獏女の隣に腰を下ろした。

「敬太郎さん、昨日はありがとうございました」

 獏女が言うと、僕は眉をひそめた。

「しつこいな、お前も。何度も礼を言うな、気色悪い」

「うふ、そうですね。けど、私は本当に感謝しているのです。だから、そのお礼として……」

 獏女は脇に置いていた物を僕に差し出した。

「このお弁当を差し上げます」

 にこりと微笑んで言う獏女を見て、僕はわずかにこめかみの辺りがぴくりと動いた。ほんの少しだけでも心配して損をした。この女は、やはりどこまでも強かな性悪だ。

 僕は紳士たる所作を忘れ、思わず舌打ちをしてしまい、獏女から弁当箱をひったくった。包みを解いてふたを開けると、今日もきれいに作られたおかず達が並んでいた。昨日、この弁当を作った獏母に会ったこともあり、何だか複雑な気持ちになってしまう。

「親不孝者め」

「え、何かおっしゃいましたか?」

「いや、何も」

 僕はすげなく答える。

「ところで敬太郎さん、そのビニール袋に入っている物は私のために買って下さったのですか?」

 獏女に尋ねられると、僕は思わず顔をしかめた。

「もう、敬太郎さんってば。やっぱりお優しいのですね。そういう所、本当に好きですよ」

「うるさい、黙れ、性悪。僕は確かに寛大なる精神の持ち主だが、決してお前にだけ優しい訳ではないぞ。今日はお前の復帰祝いとして、仕方なくコンビニで安いスイーツの一つでも買ってやろうと思っただけだ」

「うふ、照れちゃって。可愛いです」

「それ以上余計なことを口走ると、こいつはやらんぞ」

 僕がビニール袋を持って遠ざけると、獏女は「ごめんなさい、ごめんなさい」と満面の笑みを浮かべながら言った。全く、どこまでも腹の立つ獏女である。僕達は互いの物を交換し合い、昼食を取った。




 適度に腹の膨れた昼下がりは大いなる眠気がやって来る。そんな時に読書をすれば、大抵の奴らは眠りこけてしまうだろう。だが、高潔な精神を持つ僕はそんなだらしない行為はしない。活字の海に潜ってしまえば、うつらうつらとしていた目も冴え渡るというものだ。

 ちらりとカウンターに目をやれば、獏女はこちらをじっと見つめていた。だが、その視線はどこか不機嫌そうである。というか、確実に不機嫌であった。

「お前、今日は僕のイメージを食うなよ」

 昼食後、図書館に入った時に僕が言うと、獏女は案の定「何でですか?」と至極不満そうな顔をして尋ねてきた。僕は今日くらい、存分に読書をさせてくれと言った。いつもなら執拗に迫って却下する獏女だが昨日の件もあり、渋々了承した。だがやはり不満なようで、先ほどからじっと僕を睨んでいるのだ。そんなことをしている暇があったら働け。

 僕は獏女の執拗な睨みなど全く気にすることなく、ひたすらに活字の海に潜り、溺れて行った。




      ◇




 窓から夕日が差し込む頃、僕はパタンと本を閉じた。間もなく閉館を迎える館内では、人々がぞろぞろと帰途につく。そんな中でカウンターから立ち上がった獏女が、すたすたとこちらに歩み寄って来た。

「敬太郎さん」

 あからさまに不満げな声で獏女は呼んだ。

「何だ?」

「今日は昨日のこともあり仕方なく、本当に仕方なく了承しましたが……明日からはまたきっちりとイメージを食べさせてもらいますからね」

 その頬を小さく膨らませて、獏女は言った。

「分かったよ……ところでお前、この後少し時間はあるか?」

「え? はい、ありますけど……」

「じゃあ、公園のベンチで少し話そうか」

 僕が言うと、獏女は目を丸くした。

「何だよ、そんな風に驚きやがって」

「いえ、まさか敬太郎さんから誘ってもらえるなんて思わなかったので……」

「じゃあ、身支度が済んだら来てくれ。僕は先に行って待っているから」

「分かりました。支度をしたらすぐに行きます」

 獏女はどこか楽しそうな足取りでカウンターの奥に消えて行った。それを見送った後、僕は図書館から出て公園内にあるベンチへと赴く。夕日に照らされているベンチを見つけると、おもむろに腰を下ろした。背もたれには寄りかからず、前に身体を倒して俯き加減になり、しばし佇んでいた。

近くで足音が鳴った。

「よう、また会ったな」

 その呼びかけに対し、僕は振り向くことをしなかった。

「そうだな」

「何だよ、つれないな。こっちはせっかくフレンドリーに声をかけてやったのに」

「生憎、僕はお前みたいな荒っぽい奴は嫌いなんだ」

「そんなに俺は荒っぽいか?」

「力づくで女を犯すような奴は、荒っぽいだろ」

 冷たく刺すような声で僕が言うと、一瞬間を置いてからヒャハハと奇声じみた叫びが発せられる。

「何、もしかしてお前怒ってんの?」

 ちらりと視線を向ければ、獏男は下卑た笑い顔を浮かべていた。

「別に、怒ってなどいない。ただ、不愉快だとは思った」

「怒ってんじゃねえか。お前、桜のことが好きなのか?」

「そんな訳ないだろ。僕はあの獏女のことを毛嫌いしているよ」

「けど、よく一緒にいるじゃねえか」

「それはあくまでも契約を結んでいるからだ。まだ仮だけどな」

「でもよ、契約を結んでいるからって、わざわざ見舞いに行くかよ?」

 僕は眉を跳ね上げた。

「あれ驚いた? 俺はちゃんと見ているんだぜ」

「ああ……何となく気付いていたけど、お前は歴としたストーカー野郎だな。お前の方こそ、実はあの獏女のことが好きなんじゃないのか?」

 茶化す訳でもなく、僕は至って冷静に問いかけた。それまで饒舌だった獏男の舌先がぴたりと止まる。片頬がわずかに歪んだ。

「……そうだな、好きだぜ。遊び相手として、あいつは最高だからな。俺がちょっとからかっただけでビクビク怯えてさ、マジで楽しいぜ」

「そうか。ストーカー気質の上に、変態なのか。本当に救いのない野郎だな」

「おい、お前。さっきから俺にケンカ売っているように聞こえるのは、気のせいだよな?」

「だとすれば、何だと言うんだ?」

 僕が横目で睨み問いかけると、獏男は乾いた笑い声を漏らす。

「ハハ、そうかよ。お前、よほど死にたいんだな?」

「何をバカなことを言うか。僕のように優秀な人材が、ころりと死んで良い訳がない」

「だったら……ド派手にぶち殺してやるよ!」

 直後、獏男の右拳が僕の頬に突き刺さった。その威力によって、僕はベンチから吹き飛ばされた。口の中が切れてしまったようで、鮮やかな鉄の味が広がった。

「おっと、悪い悪い、不意打ちを食らわしちまって。けど、大分手加減してやったんだぜ?」

 獏男はにやりと笑う。僕はズレたメガネを元の位置に戻した。

「それはありがたいな。お前のように野蛮な人外とまともにやり合っては、僕の崇高な文化人としての体はひとたまりもない」

「ハッ、そうかよ!」

 獏男は力強く地面を踏み、立ち上がりかけた僕に一瞬で肉薄した。今度は痛烈な左拳が僕の頬を殴り飛ばす。後方に大きく吹き飛んだ僕は強かに背中を打った。

「おい、お前。僕の端正な顔に何をしてくれるんだ。将来的に僕が出会う麗しい淑女達が悲しむだろうが!」

「おう、そりゃ悪かったな。けど、俺に殴られたおかげでより一層良い男になってるぜ?」

 獏男は口の端を吊り上げて、にやりと笑う。この野郎、小癪なことを言いやがって。僕は軋む体を何とか起こし、立ち上がる。

「なあ、もうやめておこうぜ。お前が俺に勝てる訳がないんだよ」

「確かにそうかもしれないな。けど今の僕は、変態ストーカー野郎にギャフンと言わせてやりたい気分なんだ」

 そこで僕も負けじと、歪んだ笑みを浮かべて見せた。

「そうか、分かったよ……」

 獏男の体がゆらりと揺れた。次の瞬間、強靭な脚力で一気に僕との間合いを詰める。

「じゃあ死ねや!」

 固く握り締めた拳が僕の頬を撃ち抜く。それだけに留まらず、胸や腹にも拳の連撃が襲いかかる。嵐のような連撃を前に、僕は為す術もなく打ちのめされてしまう。衣服もボロボロになった僕の髪の毛を獏男は掴んだ。

「今すぐに謝れば、命だけは助けてやるぜ?」

 僕は口内に溜まった血泡(けっぽう)を吐き出す。

「冗談を言うな。僕の清廉なる魂が、お前のような薄汚い男に屈服する訳ないだろうが」

「ああ、そうかよ。お前は賢ぶっていても、本当にアホなんだな。この世に命よりも大切なものなんて無いんだぜ!」

 獏男は強烈な右拳を放つ。必殺の一撃が、僕の頬を撃ち抜かんとして迫り――

 刹那、突然現れた影が獏男を突き飛ばした。そのおかげで右拳の軌道が逸れ、僕の顔面は打ち砕かれずに済んだ。

「敬太郎さん、ご無事ですか!」

獏女は血相を変えて僕に駆け寄った。ボロボロになった僕を見て、怯える様に息を飲む。

「こんなに傷付いて……」

 僕に対していたわるような視線を這わせる。背後で獏男がむくりと起き上がると、獏女は一転して鋭く彼を睨んだ。

「勝さん、あなたよくも敬太郎さんをひどい目に遭わせてくれましたね?」

「いやいや、勘違いするなよ。そいつが俺にケンカを売って来たんだぜ? 自業自得だろ」

「だからって、ここまでする必要は無いでしょう?」

 震える声で、獏女は言う。獏男を睨んだ。

「お、何だその目は? じゃあまたお前が俺とやり合うか? まあ、どうせ俺が勝つに決まっているけどな」

 相手を威圧するように顎を反らせて獏男は言った。対する獏女はどこか怯えたような表情で彼から視線を逸らした。

「おい、お前達。何を勝手に話を進めているんだ」

 それまで沈黙していた僕が声を放つと、獏男は「あ?」と目線をこちらに向けた。

「僕はまだ負けた訳じゃないぞ」

「ヒャハ、冗談はよせよ。今のお前は散々俺にボコられて死に体じゃねえか。それなのにまだ負けていないとでも言うのか?」

「だからそう言っているだろう。何度も言わせるな、頭の悪い奴だな」

「テメェ、口先だけは一丁前だな」

 獏男はぎろりと僕を睨む。

「良いぜ。その口、完全に利けなくしてやるよ」

 獏男の目の色が変わっていた。バキバキ、と指の関節を鳴らす。そんな彼の前に獏女は立ちはだかった。

「やめて下さい。敬太郎さんには、指一つ触れさせません」

「そうかよ。けど今の俺は機嫌が悪いから、お前のことを今までにないくらいいたぶっちまうぞ?」

 獏女は一瞬たじろぐが、鋭く獏男を睨み返す。

「やれるものなら、やってみなさい」

「ほう、言う様になったじゃねえか。弱虫桜のくせによぉ」

 両者の間で険悪なムードが漂う。体を強張らせて相手を睨み付ける獏女に、僕はそっと触れた。彼女はぴくりと小さく跳ねて、僕に振り向く。

「お前は下がっていろ」

「でも、敬太郎さん。その体じゃ……」

「良いから、ここは僕に任せておけ」

 少し語気を強めて僕が言うと、獏女は目を丸くした。そんな彼女を脇に押しのけて、僕は再び獏男と対峙する。

「おいおい、マジかよ。本当にまだやるつもりかよ? 死ぬぜ?」

「女を盾にして自分が助かるくらいなら、死んだ方がよほどマシだ」

 僕が言うと、獏男は一瞬目を丸くして、直後に破顔した。

「ヒャハハ! かっこ良いねぇ! 本当に口先だけは一丁前だな!」

「何を言うか。僕は口先だけの薄っぺらい男なんかではない。今から得と見るが良い」

「あー、お前マジでウケるわ。面白すぎて殺すのが惜しいけど、殺しても良いんだな?」

「お前に僕は殺せない」

 冷然として僕が言い放つと、獏男はかっと目を見開いた。

「マジで殺す!」

 拳を固く握り締め、猛烈な勢いで地面を蹴り、僕に迫った。

 痛烈な一撃が僕の頬を撃ち抜く。獏男は間髪入れずに拳の雨を降らせた。

「おらおらおらぁ! 死ねやこらぁ!」

 獏男はぎらつく目で咆哮を上げた。僕は必死にガードを試みるが、大して威力を殺すことも出来ずにダメージが蓄積して行く。そして腹部に鋭い一撃を食らった瞬間、またしても後方に大きく吹き飛ばされた。僕は地面に無様に転がる。

「敬太郎さん!」

 離れた所から獏女が叫んだ。再三受けた拳のダメージによって、僕は立ち上がることができない。獏男は肩を怒らせた状態で歩み寄り、僕を見下ろした。

「ざまぁねえな。大口を叩いておいて、結局これかよ」

 僕は言い返すことをせず、地べたにうずくまっている。獏男はため息を吐いた。

「このままお前を殺すことは簡単だが、それだけじゃつまらねえな。せっかくだし、いつも桜に食べさせてやっているそのイメージ、俺もこの機会に味あわせてもらおうか」

 そう言って、獏男はわざとらしく舌なめずりをした。

「お前みたいなクズ野郎に、僕のイメージを食わせてやるもんか」

「うるせえよ」

 獏男の靴の先が腹部に減り込んだ。「ぐふっ」とくぐもった息が漏れてしまう。

「さて、お前のイメージはどんなもんかな……おっ!」

 獏男は目を見開いた。

「桜のためにさぞかし甘ったるいイメージが詰まっているかと思ったら……俺好みの辛いイメージじゃねえか。これは冒険活劇を読んでいやがったな」

 口元でにやりとほくそ笑む。

「やめろ、食うんじゃない……」

「うるせえな。俺にその激辛冒険活劇のイメージ、食わせろよ」

 そう言って、獏男は大きく口を開いた。すると僕の頭から赤色の粒子が漂い、彼の口元に吸い込まれて行った。彼はバクバクと、咀嚼をする。

「くぅ~、良いスパイス利かせてんじゃねえか。凄まじい想像力だな。こりゃ、桜がハマるのも納得だぜ」

 大層ご機嫌な様子で、獏男は僕のイメージを食って行く。バクバク、バクバクと。

「ああ、うめえ、うめ……」

 ふいに、獏男の表情が固まった。至福の顔から一転、まるで苦虫でも噛み潰したような渋面となった。

「に……苦えぇ! 何だこれ、ぺっ、ぺっ!」

 今しがた食べたイメージを地面に向かって吐き散らし、獏男はきっと僕を睨む。

「おい、テメェ。何を仕込みやがった!?」

 その問いかけに対して、僕は含み笑いで答えた。

「……だから食べるなって言ったのに、僕の言葉を無視したお前の責任だぞ」

「良いから何を仕込んだか答えやがれ!」

 すっかり怒り狂った獏男は、血走った眼で僕に詰問してきた。

「今しがたお前が食したのは、『激辛冒険活劇~ほろ苦い青春模様を包み込んで~』だ。お味はいかがだったかな?」

「だから苦いって言ってんだろうが! ていうかほろ苦いどころじゃねえ、激苦じゃねえか!」

 激昂する獏男に対して僕は至って冷静だった。彼が食べたのは僕のこれまでの青春。苦渋を舐め続けた日々。小学生から現在に至るまでの僕の軌跡。その一部を彼好みの辛口イメージで包み込んで。そして案の定食い付いたのだ。

「いやー、お前には感謝するよ。僕のほろ苦い青春模様を食ってくれたおかげで、嫌な記憶が消えてくれたよ。いやはや、何てお礼を言って良いか分からないね」

「うるせえ、黙れ! あー、苦ぇ! おい、何とかしやがれ!」

 喚き散らす獏男を見て僕は嘆息した。ズボンのポケットから一冊の文庫本を取り出す。

「仕方ないな。今から僕がこの恋愛小説を読んで苦いイメージを相殺できる甘いイメージを用意してやる」

「じゃあ、早く用意しやがれ!」

「ただし、そのためには条件がある」

「何だよ!?」

 僕はちらりと、獏女の方を見た。

「彼女に対してきちんと詫びろ。そうすれば、その苦みを相殺させてやる」

 獏男は一瞬きょとんとして、すぐに目を怒らせる。

「ふざけんじゃねえ! 何で俺が桜ごときに謝らなくちゃいけないんだよ!?」

「お前は彼女を襲い肉体的、精神的に傷付けた。その罪は重い。だから、謝れ」

「ハッ、お断りだ!」

 尚も拒否をする獏男に冷たい視線を注ぎ、吐息を漏らす。

「そうか、じゃあお前はその苦みに悶え続けろ。言っておくが僕が味わった青春の苦みは、そんじょそこらの冴えない奴らの比じゃないぜ」

 わざとらしくニヒルな笑みを浮かべ、僕はその場から立ち去ろうとした。

「あ、ちょっ……ま、待てよ!」

 すると、背後からうろたえた叫び声が聞こえた。振り向けば、獏男が焦りの表情を浮かべている。

「何だ? お前は彼女に謝る気が無いんだろ? だったら、僕はその苦みからお前を助けてやらない」

「……っ! わ、分かったよ……」

「ん、何がだ?」

「だから、そいつに謝ってやるって言ってんだよ!」

 叫び続けたせいか、獏男は肩で大きく息をしていた。僕は彼に正対し、じっと見つめた。

「分かった。じゃあ、早速謝ってもらおうか」

 僕が言うと、獏男は片頬を歪めた。先ほど食した苦いイメージも相まって、苦渋の表情を浮かべる。彼は獏女にちらりと視線を向けた。

「……悪かったよ」

 ふて腐れたような口調で言った。

「おい、これで良いだろ?」

「ダメだ」

「あぁ?」

「僕はきちんと詫びろと言ったはずだ。それが相手に対して謝る態度か? きちんと真っ直ぐに相手を見て、しっかり頭を下げろ」

「テメェ……!」

 獏男は一瞬拳を握り締めるがまだ口いっぱいに広がる苦い味によって、力無く解かれた。

「さあ、謝るんだ。ここで謝ることができなければ、お前は終わりだ。色々な意味でな」

 獏男は凄まじい目つきで僕を睨む。しかし、僕は動じない。毅然とした姿勢を崩さない。ただ静かに、その挙動を見つめている。

 しばらくの間、獏男は苦渋の顔付きでその場に立ち尽くしていた。だがそれから、ようやく顔を上げて獏女へと歩み寄った。彼が歩み寄ると、彼女は少し強張った顔になる。二人が向かい合うと、その場が緊張感に包まれた。

「……悪かった」

 ぼそりと、獏男は言った。

「お前に対して嫌な思いをさせて、悪かった」

 そう言ってから、獏男はゆっくりと何か大きな抵抗に遭うようにして、頭を下げた。獏女はそんな彼を、半ば呆気に取られたように見つめていた。

「……だそうだ。おい、獏女。お前はこいつをどうする?」

 半ば呆然と事態を見つめていた獏女は、きゅっと唇を引き結んで黙考した。

「……私は小さい頃から彼にいじめられて、辛い思いをいっぱいして来ました。正直に言って、彼のことが怖くて、苦手で、嫌いでした」

 やがて静かに、獏女は口を開いた。獏男は瞳を歪める。

「でも……こうやってきちんと謝ってくれましたから、今回の件は許します」

 顔を上げた彼女は、毅然とした面持ちで彼を見据えて言った。その様子を見守った後、僕は手に持っていた恋愛小説をさっと読み、手早く甘いイメージを作り出した。

「ほら、食えよ」

 僕が言うと、獏男はどこか抜け落ちた表情で振り向き、細々とした口の動きで僕のイメージを食い始めた。恐らく、このイメージで僕のほろ苦い、いや激苦い青春のイメージは相殺されたはずだ。だが、彼はまだ浮かない表情をしていた。

「敬太郎さん、お怪我は大丈夫ですか?」

 気が付けば、獏女がそばに来ていた。いたわるような眼差しを僕に向けている。

「ああ、問題ない。普通に歩けるよ」

 ずれたメガネのブリッジをくいと押し上げ、僕は言った。

「では、帰りましょうか」

 獏女が淡く微笑んで言うと、僕達は肩を並べて歩き出した。

「……待てよ」

 その直後、背後から獏男の声が響いた。振り向けば、彼はまた固く拳を握り締めた。もしかしてやはり今の結果に納得が行かず、僕達を痛めつけてやろうと思っているのではないか。僕は警戒心を高めるが、ふと彼がどこか悲痛な面持ちでいることに気が付いた。

「何で俺が小さい頃から、お前をいじめていたか分かるか?」

 突然、そのようなことを言い出した。問われた獏女は少し困惑した様子である。

「それは私が弱々しくていじめやすかったからでしょう? それから私のことが嫌いだったからでしょう?」

「違う……」

「違うって、じゃあ何でいじめていたんですか?」

 少し苛立った様子で獏女は問い詰める。一方、獏男は次の言葉を紡ぐことに躊躇しているようだった。唇を強く噛み締めている。

「……好きだったからだ」

 やがてぼそりと漏れた声は、非常にか細いものだった。

「え?」

「だから、お前のことが好きだったからだよ!」

 獏男の叫び声が辺りの桜の木々を揺らした。言われた当人は元より隣に立つ僕もまた、目を丸くしていた。こいつ、まさか本当に……

「……私のことが好きだった? あなたが? 嘘ですよね?」

「こんな時に嘘を吐いてどうすんだよ」

「その好きっていうのは、友人としてですか?」

 慎重な声音で獏女は尋ねる。傍から聞いていても、それは意地の悪い質問だと思った。

「違えよ。俺は女として、お前のことが好きだった。いや、今でも好きなんだ」

 太陽はすっかり沈み、薄暗くなった空には月が昇っていた。その頼りない明かりが、この場を照らしている。

「……そうですか、初めて知りました」

 獏女は静かに言った。獏男は強張った表情のまま、彼女を見つめている。

 今さらであるが、僕はとんでもない現場に居合わされているのではなかろうか。図らずしも、男女の告白の場面に立ち会うことになるなんて。他人様の告白のシーンを覗き見たいという不純な野次馬根性を持ち合わせない僕にとって、今この状況は如何ともしがたい。このまま息を殺してドロンしようかと考えるも、僕に忍者的スキルが備わっている訳もなく、ただその場に立ち尽くしていることしかできなかった。

「正直に言って、驚きました。まさか、勝さんにそんな風に思われているとは知りませんでしたから」

「そうかよ」

「はい。それでお返事ですが……」

 獏女が言うと、獏男の顔が一気に緊張感を帯びた。心底どうでも他人事なのに、なぜだか僕の心臓もドキドキしてしまう。僕も大概ピュアな男である。

「……後日改めて、という形でもよろしいでしょうか?」

 彼女の提案を聞いて、獏男の顔が緊張から解放された。どこかホッと胸を撫で下ろすように肩を上下させた。僕もなぜだかホッとしてしまう。我ながら見事な感受性である。

「ああ、分かった。それで良い」

 少しぶっきらぼうな口調で言うと、獏男はくるりとこちらに背中を向け、駆け足で去って行った。

 二人きりになった僕達の間に、自然と沈黙が訪れた。この気持ちは何だろう。目の前で他人の他人による他人のための告白劇を見せつけられ、その片割れと今こうして並んで立っている。そういえば昔のテレビ番組で、大勢の前で告白をするという青春バラエティを見たことあるが、彼ら彼女らはよほどナルシスト、あるいはかまってちゃんなのだろうかと思っていた。今回の告白ではあくまでも僕一人が目撃者であるが、それにしたって告白っていうのはもっと人目を憚る行為ではなかろうか。つまり何が言いたいかと言うと、やるなら他所でやれ。僕の目の前でくだらない青春の一ページを実演するな。まあ演技では無かったが。獏男はあくまでも本気で告白していたのだが、それが余計に青臭くてむず痒い。

「敬太郎さん」

 ふいに獏女が声をかけて来た。僕はなぜだかびくりと反応してしまう。それは彼女が告白をされた女というベールをかぶっているせいだろう。普段からそのしとやかな佇まいを盾に好き勝手に振る舞っている彼女だが、あのような告白された場面を見た後だと、なぜだか気を遣ってやらねばならないという気持ちが湧いて来る。誠に不本意ではあるが、まあそれもこれも僕の紳士たるゆえんだろう。そう、僕はとても紳士なのである。よし、これで全て納得いく結論が出た。

「何だ?」

「帰りましょうか」

 月明かりに照らされて、獏女はしとやかに微笑んだ。その時、ほんの少しだけ彼女が色っぽく見えたのは、彼女が告白をされた女だからだろう。全く、いらん補正である。







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