第3話 丸まって。丸まって。

 何も、食べられませんでした。

 何も、飲みこめませんでした。

 何も、考えられませんでした。


 ベッドの上、涎まみれの毛布をめちゃくちゃに抱きしめて。振り回して。身体にこすりつけて。

 あなたは、何日も、何日も。泣き、わめき、続けました。


 涙の跡。と、垢。にまみれた肌が、べとつきました。

 粘っこい皮膚。毛布から、ペロの抜け毛が絡みついて。


 絡みついて。

 絡みついて。

 絡みついて。


 あなたはだんだん、だんだん。

 そう、毛むくじゃらに。顔も、腕も、足も。


 8歳とは思えない、立派なお髭。


 声が枯れました。

 悲哀は言葉にならず。

 ただ、しゃがれた音色だけが、声帯から漏れ出ました。


 わふ、わふ、と。

 奇妙な音が、空中、弾けます。


 まるで、ミニチュア・シュナウザーみたい。

 ようやくベッドを離れ。

 数日ぶりに鏡を覗いたあなた。

 まるで、ミニチュア・シュナウザーみたい。

 そんな風に、思いましたね。


 あなたは、服を脱ぎ捨てました。

 身体の至る処。ペロそっくりに、ふさふさ。

 毛だらけの、犬。みたいな、姿。


 あなたは。


 飛び出ました、家を。

 散歩コース。いつもの。ペロと一緒に。

 ドーナツになった後も、歩いた。あの道。


 わふ、わふ。

 鳴きながら。

 彷徨って。


 正体の分からぬ、恨みと。

 正体の分からぬ、憎しみと。

 正体の分からぬ、哀しさに。

 あえぎ、ながら。彷徨って。


 そうして、たどり着いた、川のふもと。橋の下。

 あなたは、あの人に、拾われたのでした。


 煮しめたようなニットキャップ。

 目深にかぶって。丸眼鏡の向こう。

 にやけづら。


 優しく伸ばされた、その手指に。


 あなたは、噛みつきました。

 何なら、噛みちぎってやろう、とまで思いました。

 すべての恨み、憎しみ、哀しさ。発散してやろう、と思いました。



 できませんでしたね。



 ペロと同じ、味がしたから。

 ニットキャップの、指から。


 感じたのでしょう。


 ペロの、声が。

 ペロの、愛が。

 ペロの、夢が。 


 なぜ、この汚れた浮浪者から。

 わかりません。

 わかりません、が。

 涙が。出し尽くした涙が。再び。あなた。


 ニットキャップに噛み付いた口を離しました。あなたがつけた傷跡。流血。舌で、舐め取りました。


 かつて、ペロがあなたにしてくれたように。


 ニットキャップは、あなたを川べりへ。

 冷たい水。端の割れた、たらいで、掬って。

 荒っぽく、あなたに、流しかけます。


 汚れた毛が、川に流れていきます。

 ペロの、毛。

 亡くなった、愛犬の、毛。

 あなたが食べた、ドーナツの、毛。


 ニットキャップが、あなたに水をかけるたび。

 思い出の毛が、川を下っていくのでした。


 毛が剥がれるにつれて。

 あなたは、身体が縮んでいくように、感じました。

 頭が。腕が。首が。腹が。尻が。足が。

 どんどん縮んで。何が、どこに、あるのか。わからなくなって、いきました。


 そうして、だんだん、丸まって。

 丸まって。

 丸まって。

 端、と、端。

 つながって。


 気づくと、あなた。

 今の姿に。

 ペロと同じ、今の姿に。

 ドーナツに、なっていたのでしたね。


 ニットキャップは、首をかしげました。

 犬と思って拾った、あなた。

 綺麗にしようと洗ってみたら、ドーナツになっているのですから。


 あなたは、望みましたね。

 食べられたい、と。

 ペロと同じ味のする、ニットキャップに。食べてほしい、と。

 そう、願いましたね。


 困惑した、ニットキャップ。あなたの願いは、いったん彼方。家の中に運んで。不思議そうに、見つめました。

 何日も。何日も。

 不思議そうに、あなたを、見つめました。


 そうしていくうち。

 あなたにも、ペロと同じ、蒼い、綺麗な、カビが生えてきて。

 ついに。ニットキャップは、決心してくれたのです。

 ホットミルクと、ナイフ、フォーク、並べて。

 お上品に。



 そうして。

 ようやく、あなた。食べてもらえますね。


 思い出しましたか。これまでのあらまし。

 思い出しましたね。これまでのあらまし。


 さあ、ニットキャップ。あなたのまんまるな。輪っかの。身体を、持ち上げて。


 食べやすいように、ふたつに、裂いて。

 痛くない。

 痛くない。

 痛くない。

 少しだけ、ぽろり。あなたから、揚げた小麦粉の、破片。


 ニットキャップを、左右から、あなたは眺めます。

 左右に裂かれた、あなた。

 左手と右手、交互に。ニットキャップの、口へ。


 あなたは、運ばれていきます。



 むしゃ、むしゃ。


 もしゃ、もしゃ。


 みしゃ、みしゃ。


 ごっ、くん。



 ええ、ええ。

 よかったですね、あなた。

 ようやく、あなた、食べてもらえましたね。



 なんとも、しあわせな人生、だったことでしょう。

 なんとも、満ち溢れた人生、だったことでしょう。



 それでは、また来世で。あなたとお会いできること。

 心より、祈念し続けております。


 さようなら。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ドーナツ 二晩占二 @niban_senji

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ