ケリドゥエン・マージョリー・ミルテンアスター(2)

 ナコト先輩がもともと王立学院ミスカトニックの生徒だったということは、そのときに初めて知った。

 けれど、そのことに特別の驚きはなかった。さもありなん、というよりは、エルダー・シングスのような凡庸な学校にナコト先輩が在籍していることが(ミルテンアスター学長には失礼だけれど)、そもそも奇妙な話なのだ。

「なるほど、そうなのか」以上の感想はわたしにはなかったし、その時点で知らなかった人間は、その場ではわたしひとりだけだったろう。


 少しでも競技滑翔スカイ・クラッドに触れたことある者なら、誰もがその名を知る空の女王――《柩》のナコト。ナコト・ヴィルヘルミナ・フォン・ユンツト。

 よくよく考えてみれば、わたしは彼女について何も知らなかった。


 彼女が何を思って王立学院を辞め、どうしてエルダー・シングスへ来たのか。

 どうして実の妹を頑なに無視するのか。

 何が彼女の逆鱗に触れ、書架の魔女たちを撃墜するに至ったのか。

 何を尊び、何を嫌悪するのか。何のために箒を駆り、空に何を懸けるのか。

 彼女が今、何を考えているのか。


 横目で盗み見たナコト先輩の横顔は、先刻と変わらず何の表情も浮かべていなかった。普段から作り物のように美しい佇まいがことさら人形じみて見え、いつにもまして何を考えているのかわからない。


 想像の中で、わたしは彼女に書架のローブを着せてみる。純白のローブは彼女の白い肌に、とてもよく似合っていた。


「ここに来た理由、ですか」と、エルトダウンは顎に手を当て、中空を見つめる。「さてどう説明したものか」というようなジェスチャーだったけれど、何とはなしに白々しさが漂っていた。

 ナコト先輩が起こしたジュディスやドロレスとの諍いがなかったとしても、それは必ず聞かれるだろうこと。回答を用意していないわけがないのだ。


「複雑な話なのです。ミスカトニックの問題とも言えますし、当家ユンツトの問題とも言えます。ともすれば政治的な理由とも」


『なるほど。王立学院の他に、アーロン侯爵――つまりあなたの御尊父が関わっていると?』


「ええ。ですからこれは、ユンツト家の総意であると同時に、黒杖院議員、アーロン・ヴィルヘルム・フォン・ユンツトの意向であるとも言えます」


「エルトダウン。ずいぶん大きくなったように見えるけれど、相変わらず〝能なしモーロン〟アーロンのお人形なのね、あなた」


 ひどく冷たい声で口を挟んだのは、それまでずっとエルトダウンを無視していたナコト先輩だ。エルトダウンとは目線を合わさず、吐き捨てるように言う。

 初めて聞く、嫌悪に満ちあふれた声音だった。


「人前で父さまのことをそんな風に言うものではないですよ、姉さま」


 エルトダウンがナコト先輩をたしなめる。

 よく抑制された声だったけれど、なぜか笑みを押し殺しているように見えた。

 ようやくナコト先輩に声を掛けられた嬉しさか、それとも自分の父親に付けられたひどいあだ名が面白かったのか。あるいは人形と呼ばれたことへの自嘲か。

 彼女の笑みが何を意味するものかはわたしには見当が付かなかったけれど、彼女たちが複雑な家庭環境に置かれているということだけは理解できた。


「……失礼、話の腰を折ってしまったわ。気にせず話を続けて? 


 ナコト先輩が言う。なんだかひどく居心地が悪かった。

 確かにナコト先輩は尊大だし、意外とわがままだし、人を振り回すことをなんとも思っていない人ではあったけれど、こんな風に誰かに冷たい敵意をぶつける人では無いと思っていた。失望というにはほど遠いけれど、なんとも言えない感情がちくちくと胸を刺していた。


「ええ、姉さま。……では、本題に戻りましょう。つまるところ、我々がこちらに伺った理由について、いくつかの力が働いているということです。王立学院だけでなく、七十二花紋バロンズ、ひいては黒杖院の力が、です。要するに――」


『要するに、いまからこちらには拒否権のない要求をする、ということね? 荼毘の魔女』


 あくまで柔らかな声を崩さず、ミルテンアスター学長が言う。


『明け透けすぎる物言いは多くの場面で煙たがられるけれど……かといって迂遠に過ぎるのも優雅さに欠けるとは思わない? まずは単刀直入にそちらの要求を教えて頂けないかしら?』


「仰る通りです、学院長閣下。我々も話が早いほうが助かりますわ」


 エルトダウンは細く息を吐いて背筋を伸ばす。それから、よく通る声で言った。


「王立学院といたしましては、貴校筆頭箒手ヘッド・ライナー、ナコト・ヴィルヘルミナ・フォン・ユンツトの身柄引き渡しを要求いたします」


 一瞬、エルトダウンの言った意味がわからなかった。「引き渡し」、という言葉の意味を、わたしは頭の中の辞書から探し出そうとする。


 引き渡し。

 当事者の合意に基づく占有の移転。

 拘束した人や物を他に引き渡すこと。


 ナコト先輩が? 王立学院に? なぜ?

 言葉とその意味が上手く結びつかず、心のどこかでつむじ風が感情の地平を撫でた。つむじ風はエルトダウンの言葉のひとつひとつを巻き上げ、あっという間に不吉な砂嵐を形作る。


 王立学院といたしましては――

 混乱の砂嵐がわたしを飲み込んでしまおうとするとき、ばがん、という衝撃音が学長室に響き渡った。重厚な円卓がほんの少しだけ浮き、それからずしんと着地する。

 話をずっと黙って聞いていたクリス先輩が、円卓を蹴り上げたのだ。


「どういうことだよ、くそ王立学院ミスカトニック。いまあたしには、うちの筆頭箒手さまをさらって行くって話に聞こえたぜ」


 尖った犬歯をむき出しにして、クリス先輩は低い声で唸る。猛禽類の翠眼が、容赦なくエルトダウンを睨みつけていた。

 ゆらりと立ち上がったクリス先輩の矮躯を覆う淡い理力放射マナ・ラジエーション光は、彼女の肉体が理力によって強化されていることの証左だ。

《鎧通しの杖》は、とっくの昔に杖帯ホルスターから抜き放たれて彼女の左手に収まっていた。


「その通りです、暗銀の魔女。……親しみを込めてクリス先輩と呼んでも?」


 切り株に剣を突き立てるようなクリス先輩の声に、エルトダウンが口角を上げて目をすがめる。初めて出会ったときの笑顔が嘘のような、じっとりとした笑みだった。


「御免だね。尊敬を込めてダレット先輩って呼びな」


「わたしたちは魔女の同胞はらからです、。そんな風に杖を突きつけられたら、わたし泣いてしまいます」


 哀れさを誘う芝居がかった声とは裏腹に、エルトダウンの不気味なにたにた笑いは止まらない。恐らくはこれが彼女本来の笑顔なのだろう、ゆっくりと立ち上がるエルトダウンの整った顔に、その毒花のような笑みはしっくりと馴染んでいた。


「人の話を聞かねえのは姉貴譲りだな? お前ん家はみんなそうなのか? ああ?」


 クリス先輩は舌打ちとともに吐き捨てて、眉根を寄せる。


「お貴族さまのご意向なんか知ったことか。お前らの家庭事情もだ。けどな、あたしからあたしの友達ツレをぶったくってこうって話なら、相応の理由が必要だぜ」


 一触即発の空気を漂わせながら足を踏み出すクリス先輩の進路に、いつの間にか立ち上がっていた《嵐》のジュディスが割って入った。エルトダウンを庇うように身体を割り込ませて、クリス先輩を制止する。


「《劔》のクリスティナ、彼女の無礼は謝る。どうか杖を収めて――」


 ああ、終わった、と思った。


「てめえ、今――」


 クリス先輩は、〝クリスティナ〟と呼ばれることを極端に嫌うのだ。

 クリスティナ・ダレットのことを〝クリスティナ〟と呼んで許されるのは彼女の父親くらいなもので、ジュディス・ヘイワードに悪意があろうとなかろうと、それは怒れるの尾羽根を力いっぱい引っこ抜くことに等しい行為だった。

 わたしは次の瞬間確実に訪れるであろう、取っ組み合いのらんちき騒ぎを覚悟して、ぎゅっと目をつぶる。


『暗銀の魔女、そこまで。【Senarmigi.兵装解除】』


 ばちん、という大きな音を立てて、クリス先輩の杖腕から《鎧通し》が弾き飛ばされる。

 鈍色の杖はきれいな放物線を描いて部屋の隅に落ち、からんからんと音を立てた。クリス先輩の口から、短い悲鳴が上がる。


「痛ってえ!」


『【Norda riglilo,北の閂、】 【Suda seruro,南の錠前。】 【Amphisbaena,双頭蛇の鎖、malliberejo.其を縛れ】』


 学長が拘束の術式を紡ぐと、光で出来た細く長い無数の蛇が床から音も無く現れて、クリス先輩の肌を這い、器用に縛り上げてゆく。


「……おっ……ごっ……」


 為す術もなく床に叩きつけられた暗銀の魔女が、肺から空気をひり出すように嗚咽を上げる間にも、蛇の縄はしゅるしゅると彼女の柔肌に食い込んでゆく。

 最初こそ戒めを解こうと暴れていたクリス先輩は、すぐにぐったりとして動けなくなった。

 薄紅の頬は水風呂に放り込まれたように真っ青になり、血の気を失った唇の奥から、かちかちと歯が震える音がしていた。


『はしたないですよ、暗銀の魔女。私の居る限り、私の部屋での暴力は許しません』


 ミルテンアスター学長は声を荒げることもなく、ただクリス先輩を諫める。

 慈愛に満ちた声のトーンは、他ならぬ学長本人が凄惨な暴力を行使していることに、すぐには思い至れないほどだった。


「…………死ぬ……」


『人はそう簡単には死ねません、暗銀の魔女』


 光の蛇に身体中の熱を奪われて凍死寸前のクリス先輩が上げる声をさらりと切って捨て、ミルテンアスター学長は言った。


『……度重なる無礼をお詫び申し上げます。ですが荼毘の魔女、あなたもですよ。暴力はいけません。を仕舞って頂けると助かるのだけれど』


「それ、とは?」


『皆の前で説明した方がいいかしら?』


「ふむ」と、エルトダウンはつぶやいて、顔に貼り付けた不吉な笑みを消す。それから肩をすくめて、「仰せのままに」と言った。


〝それ〟が何を差すのかはわたしにはわからなかったけれど、彼女が怒れるクリス先輩を迎撃するために何かをしようとしていた、ということは明白だった。


「術理は魔女の生命線。それを解析されるのは、いささか以上に困ります。こちらも言葉を選ぶべきでした。伏してお詫び申し上げます、学長閣下」


『自分で悪いと思っていないことをわざわざ謝る必要はないわ、荼毘の魔女。あなたのお姉さんのようにね。……さて、本題に戻りましょうか』


「ええ」


『では、理由を伺いたいわ、荼毘の魔女。どうして当校の生徒をあなたたちに引き渡さないといけないのかしら? それもユンツト卿の肝いりで』


 ミルテンアスター学長の質問に、エルトダウンは息をつく。それはやはり演劇じみた「どうしたものか」というジェスチャーだったけれど、半分は本心のように見えた。

 望ましくない場所に作り付けられた家具のような憮然とした表情で、けれど神妙な声で、エルトダウンは言った。


「――学院長閣下におかれましては、〝魔女狩りの血のいばら〟という者を、ご存じでしょうか」

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