ケリドゥエン・マージョリー・ミルテンアスター(1)

   ◆




 主塔の最上階にある重く古めかしい扉を開け、わたしたちは学長室にたどり着く。

 学長室は半球状の天井を持った円形の部屋で、質素な修道院と天文台を足して二で割ったような雰囲気を纏っていた。

 壁面には明かり取りの窓と魔導書が詰まった本棚が交互に配置され、部屋の最奥には天蓋付きのベッドが置かれている。中心には年期が入った立派な円卓が据えられていて、ふたりの魔女が既に席についていた。


 飛行学部教務主任、メラニー・ロウマイヤー。

 呪文学部教務主任、メリダ・ヘスティア・ハクスリー。

 彼女たちとミスター・コーシャーソルトを合わせると、エルダー・シングス全学部の教務主任が一堂に会したことになる。


 ふたりの魔女は、それぞれが思い思いの表情を浮かべていた。

 ミス・ロウマイヤーは、自らの学院の生徒が他校の生徒を傷つけたことに対する、忸怩たる思いと激しい怒りの入り交じった苦々しい表情で。対照的にミス・ハクスリーは息をするのも面倒くさいといった顔でこちらを見ていた。


 彼女たちふたりは出で立ちも対照的だった。

 ミス・ロウマイヤーはかっちりと模範的に魔女のローブを着込み、まとめ上げた髪は後れ毛のひとつもないのに対して、ミス・ハクスリーの雰囲気はまるっきり浮浪者のそれだった。いつ洗ったのかも定かでないよれよれのローブに、生まれてから一度も櫛を通したことのなさそうなぼさぼさで脂ぎった黒髪。やつれた土色の顔の中で、ぎょろぎょろとした目玉が異様に目立つ。


 彼女たちの授業のいくつかは薬学部においても必修科目だったから、彼女たちと顔を合わせるのは初めてではなかったけれど、どちらも親しみやすい先生とは言い難かった。

 ミス・〝へんくつ〟・ロウマイヤーは四角四面で厳しすぎたし、ミス・〝変人〟・ハクスリーはそもそも誰かに何かを教えるつもりが全くないように見えた。

 今から振り返ってみれば、彼女らには彼女らなりの考えがあったことが実感としてわからなくもないのだけれど、当時のわたしにとっては苦手な大人の代表格として真っ先に名前を挙げるべきふたりだった。


「……やあやあ、来たね。我が校の誇り、不遜なる代表箒手たち……。それに王立学院のお客人たちも……おや、ひとり足りないようだけれども」


 最初に口を開いたのは、ミス・ハクスリーだ。気味悪くと笑って、肩を揺らす。

《幽鏡》のドロレスが怪我を負って寝込んでいることは、仮にも教務主任たるミス・ハクスリーに伝わっていないはずがなかった。相手が客人だろうが初対面だろうがお構いなし、とりあえず皮肉をぶつけようとするのはミス・ハクスリーの悪癖だ。

 礼節と様式を重んじる魔術学院において、彼女のような人物が重要なポストに就けたのは奇跡と言える。


「偉大なるエルダー・シングスの魔女のお二方、お初にお目にかかります。王立学院筆頭箒手のエルトダウン・アレクシア・フォン・ユンツトと申します。お恥ずかしながら、当校の魔女、ドロレス・ベルナデッタ・アンダーソンは貴校の医務室でお世話になっております。貴校学院長への謁見を控えてのこの醜態、ざんの念に堪えません」


 気後れることなく、洒脱な物腰で問いかけに答えるエルトダウンの姿は、とても立派なものに見えた。いっそのこと、わたしよりも上級生に思えるくらいだ。

 エルトダウンの返答に意地悪く笑って、ミス・ハクスリーはナコト先輩のほうを見やる。


「……ナコト・ヴィルヘルミナ・フォン・ユンツト、大金星だねえ……。〝書架〟の魔女を病室送りにするとは、担任として鼻が高いよ」


 水を向けられたナコト先輩は、眉ひとつ動かさず「それはどうも」と答えた。


「いまのは皮肉だよ、くそガキめ」


「存じております」


 涼やかにミス・ハクスリーの言葉を受け流すナコト先輩に、今度はミス・ロウマイヤーが声を荒げた。枯れ木のような彼女の両手が円卓の天板に叩きつけられる。


「ミス・ユンツト、あなたは自分がしでかしたことをわかっているのですか? 紹介状を持った正式な客人を、あろうことか撃ち落としたのですよ? 断じて許されることではありません。魔女としての素養以前の話です!」


 怒鳴っているあいだにも、彼女の中で怒りはどんどんと増幅されているようだった。彼女の年季の入った顔面は怒りのせいで蒼白にひきつれ、机に置かれた両の拳はぶるぶると震えている。良くない兆候だと思った。


「私は降りかかる火の粉を払っただけです。払った火の粉がたまたま紹介状を持っていたとして、なぜ私が叱責されないといけないのかしら? ミス・ロウマイヤー」


 はらはらするわたしをよそに、ナコト先輩は鷹揚な態度で火に油を注ぐ。これで彼女自身には特段悪意はないのだから、ひどくが悪かった。

 老魔女ふたりの瞳から、すうっと温度が無くなって、わたしは反射的に首を引っ込め目を細める。烈火のロウマイヤーとねちねちハクスリーがこれから同時に怒り出そうというのだから、そうなるのも仕方がない事だった。


「あー……、ミス・ロウマイヤー、それにミス・ハクスリー? 言いたいことは沢山あるでしょうが、とりあえず、座っても? 僕たちは三十分も学院内を歩き回って、ようやくこの部屋にたどり着いたんです。もう、くたくただ」


 助け船を出したのは(ナコト先輩はそんなもの必要としてはいなかっただろうけれど)、ミスター・コーシャーソルトだ。彼の持つある種の気が抜けた雰囲気というか、辛辣な物言いをすればだらしのない雰囲気は、緊張感の腰を折るのにうってつけだった。

 おそらく本人もそのことを自覚しているのだろう、さも苦難の道のりだったと言うように、大げさに息をついて言葉を続ける。


「少し階段を上っただけでも息切れしちゃうんです。ちょっと運動不足かな? ねえ、ミス・ヒールド」


「……先生に限って言えば、煙草の吸いすぎだと思います」


「なるほど、そうかもしれない」


 はらわたを煮えくり返らせた老教諭ふたりを目の前にして、煙の魔術師はにっこりと笑ってみせる。学院に在籍していた間、わたしはコーシャーソルト先生から色々なことを教わったけれど、こういった面の皮の厚さはわたしが彼から学びそびれたもののひとつだ。


「そういうわけで、座っても構いませんよね、ミルテンアスター学長? お客人を立たせたまま話をするっていうのも、当校の流儀に反すると思いますし」と、ミスター・コーシャーソルトは言う。

 声はふたりの老魔女の頭を飛び越えるようにして、部屋の奥、天蓋つきのベッドに向かって投げかけられた。


『もちろんどうぞ、煙の魔術師。案内ご苦労さま』


 間を置かず、返答が部屋全体――正確に言えば、半球状の天井が微細に振動して人の声を発していた――から返ってくる。老成した、優しい女性の声だった。


『お客人のおふたりと、私のかわいい魔女のたまごたちもどうぞ座って? お茶の用意もしてあるの』


 声と共に円卓の椅子がひとりでに引かれ、サービング・カートが部屋の奥から勝手に動いてきて円卓に横付けされる。カートの上には湯気立つ人数分のティーセットと、切り分けられたペストリーの乗ったケーキ・スタンドが置かれている。


『ごめんなさいね、姿も現さずに。年を取るというのは嫌なことね、身体を起こすのもおっくうで……。どうか、許してくださいね』


 エルダーシングス魔術学院学長、ケリドゥエン・ミルテンアスター。

 部屋全体が、彼女の理力マナの支配下にあるらしかった。

 先ほどまで雄弁だったふたりの教諭は、学長の次の言葉を待つように押し黙っている。コーシャーソルト先生にしても、ナコト先輩ですら、学長の声に静かに耳を傾けていた。


『荼毘の魔女、それから静寂の魔女。よく当校にお越しになられました。我々はあなた方を歓迎いたします』


「氷血の魔女、《雪花》のケリドゥエン・マージョリー・ミルテンアスター。大戦の英雄とお話しできることを、心から光栄に思います」


 学長の声に、エルトダウンがうやうやしく一礼して返事をする。それから、引かれた椅子に静かに座った。他の魔女たちが後に続いて席に着き、わたしもおっかなびっくり最後に空いた席に座る。


『荼毘の魔女、かしこまらないで。いまの私はただの寝たきりのお婆ちゃん。真に勇敢だったものは、もうみんな死んでしまったわ』


「そうだとしても、あなたの功名は語り継がれるべきものです。〝死にかけデッドリー〟・マージョリー。幾多ので、ただの一度も撃墜されなかった魔女」


『勉強熱心なのね、荼毘の魔女。ずいぶん懐かしいあだ名』


 くすくすと笑う学長の声が、部屋の振動を通して耳に送られてくる。

 ともすれば揶揄にしか聞こえない〝死にかけデッドリー〟の愛称は、どんな死地からも帰ってくる不死身の箒乗り、若き日のミルテンアスター学長を指して戦友たちが呼んだあだ名だった。


 学長はひとしきり笑い終えると、円卓に座る魔女たちの姿を見渡した。天蓋に閉ざされたベッドからはこちらの姿を認めることは出来ないはずだけれど、確かに彼女がわたしたちの顔を順番に見渡した気配がした。

 学長は枯れた、けれど柔らかな声で、わたしたちひとりひとりに声を掛ける。最初に水を向けられたのは、ジュディス・ヘイワードだった。


『静寂の魔女、昨夜は当校の魔女が失礼いたしました。学院を代表して謝ります。怪我の具合はどうかしら?』


 静寂の忌み名にふさわしく、ずっと押し黙ってエルトダウンの傍に控えていた《嵐》の魔女が、低い声で学長に答える。


「問題ありません。昨夜の件は、我々の無礼にも原因があった。晒した無様に恥じ入りこそすれ、謝罪されるいわれはありません」


『そう……、あなたの寛大さに感謝します、静寂の魔女。……それから鉄棺の魔女?』


「はい」とナコト先輩が答える。


『お転婆もいいけれど、行為には責任が伴います。追って処分は伝えますが、構わないわよね?』


「ええ」


『それと、先生には敬意を払うこと。彼女たちは彼女たちなりにあなたのことを心配しているの。賢いあなたならわかるわよね? あまり先生がたを困らせては駄目よ』


「善処いたします、ミルテンアスター学長」と、短く色のない声でナコト先輩は言った。

 すげない返事に短いため息をひとつついて、学長はクリス先輩に声を掛ける。


『暗銀の魔女、お久しぶりね。貴女に最後に会ったのは去年の十月かしら?』


「……いや、今年の四月だよ。最後にナコトと喧嘩したのがそのくらいだったから」


『そうだったかしらね』


「うん、そうだった。またあんたと話せて嬉しいよ、ミルテンアスター学長。今回あたしは怒られないで済みそうだしな、ケーキ食って茶飲んで帰るよ」


 はすっぱな物言いに目くじらを立てるミス・ロウマイヤーを無視して、クリス先輩は答える。

 学長は『そうね、それがいいわ』と笑う。それから、最後の魔女に声を掛けた。


『ニナ・ヒールド』


「は……はい!」


 わたしは反射的に返事をしながら、どこを見て話をすればいいのか少し迷った。

 なにしろ、部屋全体から声が響いているのだ。恐らく天蓋の向こう側に学長が居るのだろう、ということはわかっていたけれど、感覚的にはしっくりとこなかった。

 エルトダウンや先輩たちはどんな風にしていたっけ? 咄嗟には思い出せなかった。


『あなたとは初めましてね、ニナ。あなたは……面白い子のようね。いろいろと話は聞いています』


「はあ」


 結局、わたしは声が発せられる方向――半球状の天井を見上げながら、なんともぼやっとした返事を返した。


 面白い? わたしが? 話は聞いている? 誰から?


 疑問は尽きなかったけれど、それをひとつひとつ質問するほどの図太さはわたしにはなかった。わたしにとってミルテンアスター学長は雲の上の人だったし、話を長引かせることでへんくつな老教諭に睨まれることも避けたかった。

 話の主題はナコト先輩と〝書架〟の魔女たちのいざこざについてであって、わたしの話ではない。ミス・ロウマイヤーとミス・ハクスリーの機嫌を損ねることが何か良いことにつながることは決してないのだ。

 とにかくこの会合が平和裏に終わって欲しかった。


 そんなことを考えながら間抜けな顔で中空を見つめ続けるわたしに、学長は声を掛ける。


『あなたはそのままでいい。けれど、それはあなたにとって難しいことね。いまのあなたは前に進み続けている。変わり続けている。だから、


 そう言うミルテンアスター学長の言葉に、わたしは心の中で首をひねった。どうにも彼女の言葉は抽象的に過ぎて、よくわからなかったからだ。

 だって、誰だってそうだ。誰だって、生きている限りは前に進むのだ。それが正解であれ間違いであれ、前に進んでいることには変わりない。生きている以上、後ろ向きに進むことはどうやったって無理だ。

 だから、わたしには彼女が言わんとしていることが理解できなかった。けれど、偉大な功績を持つ学長の言うことだから、きっと含蓄のある言葉なのだろう。

 わたしはわたしに可能な限り神妙な顔をして、「はあ」と再度言った。


 なんとも言えない空気が流れた。

 ハクスリー女史が腕を組んで目を閉じ、眉根を寄せる。


「……ミスター・コーシャーソルト」


「すみません」


 コーシャーソルト先生が短く答える。眼鏡を外し、卓に置いた。眉間を指で揉みほぐす。


「僕の指導不足です」


 珍しく恥じ入る様子を見せるミスター・コーシャーソルトを尻目に、「……そろそろ本題に移りましょう、学長」と、深くため息をついてミス・ロウマイヤーが言う。

 どうもわたしが作り出したらしいしめやかな雰囲気の中、朗らかに学長が答えた。


『それもそうね、雷鱗の魔女。では、さしあたって御用向きをお伺いしましょう、〝書架〟の魔女たちよ。遠路はるばる当校までお越しになったのには、相応の理由があるのでしょう? まさかかつての学友と旧交を温めるために空中戦を演じたわけでもないでしょうし』


 あくまで柔らかな声色を崩さぬまま、ケリドゥエン・ミルテンアスターは尋ねる。彼女の声には、なんの硬質さも含まれてはいなかった。

 お茶の時間に天気の話をするような、牧歌的な音色。けれどでも、彼女の理力が満ちる部屋の空気が重さを増したのが、わたしには確かに感じられた。

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