最終話 月の浜辺

 傾いた陽を追いかけるように月が水平線に顔を出す。

 

 潮風に吹かれ波の音を聞いているとザワザワ騒ぐ人の心も鎮まっていく。


 ザザーッ、ザザーッ。ザザーッ、ザザーッ。ザザーッ。

 

 寄せては返す波の音が全てを包み込む。


 

 母と一度宿に戻ったがどうしても気になって誠は車を借りた。

 浜からの帰り際、あの朽ちた舟に後ろ髪をひかれたのだ。


 呼ばれている気がした。いや確かに呼んでいたのだ。

 魂のうんと深いところに、自分を呼ぶ声が聞こえていた。

 

 ひとりで行かせることを母は恐れたが、

「いったい僕をいくつだと思っているんだよ」

 わざと怒ってみた。そして必ず帰ると約束した。

 

 西の浜は北回りに三十分も走ればたどり着く。

 海岸線の一本道だから迷うこともない。

 

 たどり着くと真っ先にあの消えかかっている「秀」の字に触れてみた。

 何も起こらない。もう一度触れてみるがやっぱり何も起こらなかった。


 諦めて波打ち際に向かい昇ってくる月を仰いだ。そこで待つことにした。

 聞こえてくるのは波の音だけ。

 

 ザザーッ、ザザーッ。ザザーッ、ザザーッ。ザザーッ


 月明りを受けている自分のこの身体は実体があるといえるのだろうか。

 自分の存在が心もとない。もしかして自分自身が幻なのではないのか。

 それもいい。この景色を前にすればそれもいいと思えてしまう。


 ザザーッ、ザザーッ。ザザーッ、ザザーッ。ザザーッ。

 

 波の音が満ちる世界。

 

 ふと、隣の人影に気が付いた。

 それが誰だかもう分かっていた。

 枯れた木のような老人。

 

 白い浴衣姿の老人は月明かりにぼんやり輝いていた。


「よお、やっぱり来てくれたか」と声をかけられ、

「うん、そりゃあ来るさ」と誠は応えていた。


 ふたり並んで月を仰いだ。


「きれいだね」「ああ、きれいだ」

「ねえ、ひいお祖父ちゃん、あなたが、ヒデだったんだよね」


 老人はいたずらっ子のようにふふんと笑う。それが答えだと思った。

「そうか、やっぱり。」


 ほっとした。

 たとえそれが幻覚幻聴だとしてもこうして会えたことが嬉しかった。

 

「すまなかったな誠。あの時、わしの気力は尽きてしもうた」

「あれはいったい、なんだったの?」一番訊きたいことだった。

 

「それはな・・・・」と口を開く老人に少年ヒデの姿も重なった。

「人の業、いや、わしの業、とでもいうのか、」


 ただもう嬉しかったのさ、ひ孫の誕生が。お前と会えることが。

 そしてただただ遊んでみたかっただけ。それだけだ。

 

 鯨が好きというひ孫に銀の鯨も見せてやりたかった。

 海へ続く川の始まりもふたりで見に行きたかった。

 自分の中の全うできない想いを叶えたかったのさ。

 それが最期の望みだった。と老人はいう。


「それにしても、お前には大きな傷を負わせてしまった。

 ほんにすまんことだった。」

 (本当はお前の心の傷を癒してやろと思っていたのに)


「いいんだよ。ひいお祖父ちゃん。」


 あの頃感じていた父と母の不協和音。

 それをちいさいまことは、気付かぬふりをし、

 ちいさいながら、なんとかしようと試みた。

 

 だが父と母のやるせなさがまことに向かうばかりだった。

 傷といえばもうそこで十分傷ついていた。

 むしろ目に見えるまことの傷は一時期、歪な形ではあったが、家の中に調和をもたらしていた。


 いつしかひいお祖父ちゃんは少年ヒデになって何度もごめんなと謝った。

「大したこと、なかったんだよ」

 誠は、ちいさいまことになってそんなヒデをなぐさめる。

  

「そういえばヒデ、もうひとり来るって、いったよね、」

 その言葉が終わる前に、ザッザッザッと、砂を踏みしめる音がした。


 誰かがやってきた。

 振り向くと二日前に見たあの顔。今度はこちらに笑いかけている。

 ひいお祖父ちゃんによく似た笑い顔だった。


「なんだ、お祖父ちゃん、だったのか」

「いや、オレは、ケンイチのケンさ」

 そういってふたりに並ぶと同じような高さになっていた。


 三人で月を仰いでいた。

 欠けたところのないまん丸な月を。

 目の前の海にできた銀の道のその先を眺めていた。


 

 ケンイチ祖父さんは亡くなる前、誠の母に、

「誠に謝りたいと、いうてる者がいるから、

 なんとか一緒にこちらへ来てはくれないか」と

 夢枕に立った曽祖父の伝言を伝えていたのだが、

 誠がそれを知るのはもう少し後のことだった。

 

 

そして月が中天を過ぎたころ三人はそれぞれが帰るべき場所へ戻って行った。





拙作にお付き合いいただきありがとうございました。

今後の誠の行く末はまたどこかでお伝えできればと思っています。

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あの夏の日 あんらん。 @my06090327

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