第9話 銀の鯨

「銀の鯨がくる」と、あの子はいった。


 

 ぎんのくじら・・・。ぎん、の、くじら、って・・・。

 誠はそれを見たくてたまらなくなった。


 幼稚園で大きな鯨の絵の中にみんなの似顔絵を張り付けた。

 段ボールにそれを組み立てお神輿にしたのは先週のこと。


 夏休み前の園の「七夕まつり」で鯨のお神輿を担いだのだ。

 後は廊下に飾ってあったから毎朝それを見るのが楽しみだった。

 

 誠はあの黒々としたくじらが大好きだった。

 幼稚園から帰るといつもの海の映像をセットして、

 悠々と泳ぐ鯨を飽きもせずずっと見ている。


「海から陸に上がったけど、餌を奪い合うのが嫌で海に戻ったのよ。」

 そう先生が話してくれたときますます好きになった。

 優しい鯨、気高い鯨、そして歌うようにささやく鯨が。


 その鯨が。しかも銀色だという。それはぜったいこの目で見なくては。

 港へ行く約束なんてとっくに頭から消えていた。


 岩場に戻って海側に立ったら風にあおられた。

「あぶない、」後ろから腕をつかまれその場にしゃがみこんだ。

 

 いつの間にか空は一面黒い雲に覆われ風が吹き荒れている。

 穏やかだった海は今は波が逆巻く嵐のようだった。

 

「なんだよ、まこと、海からはなれろっていったのに、」

「あ、えっと、おに、いちゃん・・・」「ああ、オレはヒデ、ヒデっていうんだ」

「ヒデ、にいちゃん?」「ヒデでいいよ」


「うん、ヒデ、くじら、ぎんのくじら、ほんとにくるの?」

「おまえ、鯨が好きなんだな。」「うん」

 

「しょうがねぇなぁ、ここじゃあぶないし・・

 よしっ、じゃあ安全で、しかも鯨が見えるとこへ行こう」

「つれてってくれるの?」

 ヒデは、へへんと鼻をかいた。まかせろということみたいだ。


 誠は気付かなかったが、岩に細い紐がくくられていた。

 それをヒデが手繰り寄せると岩陰からゴムボートが現れた。


 ゴムボートはもうすでに大波にもまれて頼りないが、

 ヒデに助けられながら誠は乗り込んだ。

「いいか落ちないようにしっかりつかんどけ」

 ヒデはこのまま海へ漕ぎ出すのだと誠は思っていた。ところが、・・・ 


 一瞬キラッとオールが輝いた途端、ボートが上へ上へと浮き上がっていく。

 雨もパラついてきたがものともせず飛び上がっていく。

 

 雲の中に入り込んだとき誠は思わず目をつぶっていた。

 そうしていつしか厚い黒雲を抜けていた。

 

 高い空から見えるのは陽の光に輝く真っ白な雲海だった。

 振り向くと島の中央の山々の山頂部分が突き出ていた。

 遠くに水平線が弧をえがいている。そこは海と空の境目だった。


 眼下の雲海が大きなうねりになってきた。

「くるぞ」とヒデが叫ぶ。誠はまばたきも忘れたようにそれをじっとみつめた。


 ゆっくりと何かがせり上がってくる。

 ゆっくりゆっくり、鼻先が突き出たと思うとみるみるうちに全身が現れた。


 雲の上に鯨がその体を横たえた。

 まるで大海を泳ぎ回ってひと休みするかのように。


 キラキラ銀に輝いている。本当に銀色だった。

 黒い瞳がこちらを向いた。


「あああっ、・・・」誠はそれ以上言葉が出なかった。

 くじらがくじらが、ぼくにウインクしてくれた・・・。


 オールを漕ぎヒデが鯨に近づいていく。誠は息を呑んだ。

 雲の海をボートのふたりと銀の鯨がゆったり漂っている。 

 

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