第57話 逃亡


 …………!

 私は思わず悲鳴を上げそうになった口を自分の両手で塞ぐ。

 

 男はこちらを凝視している。

 もしかしたら私の存在も気づかれてしまったかもしれない。

 念のためそっとカーテンの隙間を閉じると、私はその場に座り込んだ。


 X集落の橋で出会った、あの狐面の男……なのだろうか?

 だとしても、どうやってここに?

 ――しかもこのタイミングで。

 

 もちろん狐面を付ければ素顔は誰だか分からないし、体格や服装から

直感的に男性だと私は判断したけれど、実は女性である可能性も否定

できない。


 いずれにしても、不審者がこの寮を見張っていることは事実。

 この状況で、この寮から逃げ出す方法は――?

 

 私は懸命に頭を回転させる。

 しかしその間も、勝手に例の言葉が脳内で再生される。 


 『ハシ ワタリシ モノ ニゲラレナイ』

 ニゲラレナイ……、逃げられない……。  

 

 嫌だ。

 絶対に私はこんな訳の分からないことで、どうにかならない……!

 なりたくない!

 逃げられないと言われても、逃げる。

 逃げて、逃げて、逃げ延びてやる!

 

 決意を新たにした私は30分ごとに、そっと外の様子をカーテンの隙間

越しに観察しながら、その時が来るのをひたすら待つ。

 

 そして2時間が過ぎた頃、もうその頃には明け方になっていたが、

ようやく男の姿が消えた。


 ようやくその時が来た。

 ――そう判断した私は最小限の荷物を手に、静かに自室を出た。


***


 まだ新聞配達の人たちが動き出す前の、いまだピリッとした冷たさの

残る空気の中静まり返っている寮内を足を忍ばせてエントランスに向かう。

もちろん周囲の警戒も欠かせない。自然と行動が慎重な分、緩慢になる。

 

 それでもまだ常駐の管理人さんも出勤していない時間なので、なんとか

エントランスの自動ドアをすり抜けると、駅へと急いだ。


 音がせぬようキャリーバッグではなく、ボストンバッグを選んだのは

正解だった。


 速足で構内へと続く坂道を降りていく。

 ヒンヤリとした朝の空気が気持ちを引き締め、遠くで聞こえる鳥のさえずりが朝の訪れを告げ「足を速めろ」と急かしてくる。


 言われなくとも分かっているとばかりに、一層足を速める。

 もともと距離の短い構内のこと。すぐに構内に辿り着いた。


 初めて訪れる誰一人いない静かな構内は、いつもとはまるで違う顔を

していて、急いでいるというのに立ち止まって少しだけ見入ってしまった。

手にしていたボストンバッグが重くて、少し休憩が必要だったという事情も

あるが。


 その時、背後に気配がしたような気がして振り向くと、寮へと続く坂道

のちょうど寮の前あたりに人が立っていた。


……。

…………。

――嘘でしょ。


 立っているのは、狐の面を被ったフード姿の人物だった。


 今度は、はっきりと私に視線を向けている。

 思わず小さく悲鳴を上げると、次の瞬間、私は無我夢中で走り出した。


***


 もう後ろを振り返ることはない。

 まっすぐに最寄り駅に向かい、一番最初に来た電車に飛び乗る。


 とにかくあの場所から離れないと。

 行く先は電車内で考えればいい。


 そこから先のことは、自分でもはっきりとは覚えていない。


 できるだけ複雑な構造の駅を選んで降りて、そこから更に何度も

乗り換えをした。周囲に気を配り、怪しそうな人物とは距離を取り、

電車が来るのを待つときには、突き飛ばされぬよう最後尾に並んだ。


 幸い出勤ラッシュの時間へと近づくにつれて乗客は増えていき、

構内で狐面の人物を見かけて以降、怪しげな人物は見当たらなかった

こともあり、少しずつ私は落ち着きを取り戻していった。


 ちょうどその頃、私が寮から姿を消したことを察したのだろう。

 唯香からメールが来た。


『今、どこ? 10時に新幹線の××駅の改札で待っている。一緒に

帰省しよう。絶対に来てね。佳奈美を守るためだから』


 …………。

 返信のためフリック入力をしようとして、私は指を止めた。 

 

 ――これは本当に罠ではないと言える? 

 

 出来るだけ人の多い駅で遅い朝食をとり、考えをまとめる。

 客でごった返すファーストフードの店では、何もかもが明るく表に

出されていて、陰など侵入する隙が無い。周りから聞こえる日常に

あふれた会話を聞いていると、自分が必要以上に難しく考え過ぎて

いるような気持ちがしてくる。


 あまり食欲がない今、考えごとをしながら義務的に食べ物を口に

運んでいると、あっという間に、唯香が指定した午前10時が迫ってきた。


 約束の××駅は、それほど遠くはない。

 電車に乗ってしまえば、数分で着くことだろう。唯香のメールが

届いたから念のため、あえて近い駅のファーストフードの店を選んで

朝食を取ることにしたのだ。 


 …………。

 電車に乗り、わざと数分遅れて、待ち合わせに指定された改札の前を

見に行く。


 すると、唯香と――愛理、それともう一人見知らぬ男性がいた。

 その男性は、愛理から一歩下がった場所から、押さえつけるように彼女

の両肩に手を乗せている。


 やっぱり……!

 はじめから私をだますつもりだったんだ……!


 構内の柱の陰からこの光景を目の当たりにした私は、急いでその場を

後にした。


 その後は迷うことなく再び乗り換えに乗り換えを次いで、今まで駅名

すら知らなかった駅にたどり着くと、駅から最も遠いビジネスホテルに

チェックインをする。


 ホテルのオートロックの扉を閉めると、ようやく私は一息吐くことが

できた。

 

 ホテルに備え付けのティーバッグでお茶をつくって飲みながら、スマホを

確認すると案の定唯香から届いたメールと留守電話の通知がたくさん来ている。

 どれも「何時間でも待つし、待ち合わせの場所を変えてもいいから来て

欲しい」という旨のものだ。


 でも私はもう迷わない。

 通知の確認を終えると、私は寮の運営事務局に電話をかけることにした。

 持参したボストンバッグに入れてきた手帳を取り出して、電話番号を調べ

ていると――。


 トントン。


 誰かが客室のドアをノックする音が鳴った。

 ……?

 誰だろう。ホテルのスタッフが何か用事があるのだろうか?


 「はい」と返事をしてドアを開ける。

 するとそこには、あの狐面の男がいた。


 『ハシ ワタリシ モノ ニゲラレナイ』

 ニゲラレナイ……、逃げられない……。

 

 どうやら私は、逃げられなかったようだ。

 きっと、あのX集落の橋を渡ってしまった時点で、私の運命は決まって

しまったのだろう――私は静かに絶望した。

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X集落の橋 音織かなで @otoori

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