第24話 危険


 私は思わず「えええ?」と妙な声を出し、持っていたコーヒーカップを

落としそうになった。

 怒られることは覚悟していたが、こんな予想外の提案をされるとは……。


 だが唯香の顔は至って真剣。

 無理難題をふっかけて鬱憤うっぷんを晴らそうとしているようには思えない。


「ここって……この寮から離れろってこと? どうして?」


 唯香にどういう意図があるのかまるで見当がつかず、私は困惑していた。

 確かに奇妙なことは起こったけれど――。


「ここは危険だから」


 私の疑問に対して、唯香は一言ひとことで答える。

 でも、私が一番聞きたいのはそこじゃない。


「危険って、どういうこと? それって、ここを離れたら大丈夫なわけ?」


 思い切って私は本題に切り込んだ。

 しかしこうなる展開は予想していたのか、唯香の答えは、その部分だけを

器用に外したものだった。


「100%大丈夫とは言えない。でもここに居るよりは、安全だと思う」

 

 意味が分からない。


 この寮は個室にはオートロックで寮監先生も常駐しているためセキュリティ

は万全だし、何より周囲に友人や先輩たちが居てくれる。

 学生にとってこれ以上はないというほど安全な環境なのに、一体何が危険

なのかさっぱり分からない。


 しかし唯香はそれ以上の説明をしようとはせず、黙ってコーヒーを口に運び、

自分からはもう言葉を発するつもりはないようだった。

 

 二人の間に沈黙が落ち、置時計の秒針が時を刻む音がやけに大きく響く。

 時計の文字盤を見ると、時刻は夕方から夜へと移行しつつあった。


「で、どのくらい離れたらいいの?」


 沈黙に耐えられず、私は努めて明るく尋ねた。

 微妙な空気を変えた方が、唯香も答えやすいと思っての配慮だ。


「分からない。でもこうなった以上、出来るだけ早く佳奈美が帰って来られる

ようにするつもりだから」


 唯香は何かを誓うような、神妙な面持ちで言った。


 言葉のニュアンスからすると、唯香自身が私のために何か行動を起こすつもり

のように感じる。

 相変わらず理由はわからないけれど、少なくとも私のために行動しようと考えて

くれていることは伝わった。


 だからほだされたという訳ではないが、少しだけ私も譲歩しようと思った。


 「必修科目もあるから、寮から離れるといっても限度があるよ。長くて3日って

ところだけど、それでいい?」

 

 必修科目の中には、1週間に2回ある科目もあり、正直3日でもかなりギリギリ

のラインだ。それは同じ学科の学生である唯香なら十分すぎるほど理解している

はず。これで私の誠意は伝わったと思いたい。 


「そんな短期間では……無理。なるべく早くするつもりだけど、場合によっては

半年とか1年とか……」


 しかしそんな譲歩の末の私の提案に対して、唯香は論外だと言わんばかりに、

我儘わがままな子どもをさとしている母親」のような口調で返して

きた。


「半年とか1年?」


 あり得な過ぎて、声が裏返ってしまった。


 私も唯香もまだ大学に入学して3か月しか経過していない、新入生だ。

 当然必修科目が幾つもあるし、 学期末テストなんて一つも受けていない。

 

 こんな時に長い期間大学を離れていたら、確実に必修科目の単位は落として

しまうし、その結果留年も避けられなくなってしまう。


「え? いや、大学はどうすんの? 1年生から留年とかありえないんだけど!」


 我ながら百人いたら百人が納得する反論だと思うのだが、唯香は理不尽にも

ムッとした表情になった。


「私は行くなって念を押したよね? それでも行ったんだから、それくらい

我慢しなよ!」


 忠告を聞かなかった弱みがあるとはいえ、これにはさすがの私もカチンときた。


 唯香の言い分も分かる。

 でも留年するのとはまた別の問題だ。


 学費を払ってもらっている両親に申し訳が立たない。

 就職にだって影響が出るかもしれない。


「我慢するとか、我慢しないって問題じゃないよ。普通に考えてそんな長期間

休むことなんて出来ないよ! 大体どうしてそんなに長期間この寮を離れなければ

ならないの? 意味わかんないんだけど!」


 何がどうしてそういう結論になるのか理解不能だ。

 すると今度は強気一辺倒だった唯香の顔が、一瞬強張った。


「……それは言えない」


「それじゃあ私も言うことを聞けないよ。理由も分からず休学なんて出来ない

もの」


 これも我ながら当然の反応だと自負する一方で、今日この時まであくまで

筋道立っていた唯香の行動が、急に非合理的なものになったことに私は戸惑って

いた。 


「言ってしまったら、佳奈美はそれに縛られてしまう。それはいざという時に、

命取りになる」

 

 「私に打ち明けられるのはこれが限界」とばかりに、重々しく唯香は言う。


 でもこんな抽象的なことだけ打ち明けられても、納得して「はいそうですか」と

長い休みをとろうとは思えない。現実的に考えれば誰だってそうだろう。


 だが唯香はあくまで真剣で、おそらく私のためを思って言ってくれている。

 それはありがたいことなんだけれど、肝心のことを教えてくれないから、

私としても返事にきゅうしてしまう。


 私は無言のまま、今の私にとって最適な行動を頭をフル回転させて考えていた。

 すると――。

 

「そうしないと佳奈美は本当に……危ない」


 戸惑っている私に、唯香は言葉を選びながら再び警告する。

 どこか辛そうな唯香の表情と、真剣な目が酷く印象的だった。

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