第4羽 恋

 洋子といくつか天使についての話をしてから、ユウは郵便局へと戻った。友達にも持って帰るようにと持たされた菓子でポーチの中が重たい。

 飛び立つとき、洋子は暗い部屋の中で椅子に腰掛けたまま手を振っていた。そう頻繁に彼女への手紙が来るとは限らないので、次にここへ訪れるのは一週間ほど先だろう。実習生は皆、それくらいのペースで人間の家に訪れることになる。

 天使には自由がないと思い続けていたが、洋子と話した後ではそういった思いも和らいでいた。多少不自由な処遇であれ、こうしてやり甲斐のある仕事に就けるのならそう悪くないかもしれない。カナメもこうやって自分の気持ちに折り合いを付けていたのだろうかと推測する。

 赤いレンガの壁が見えてきて、着陸の準備をした。他にも戻って来た天使が見えた。皆、胸元は白かった。

 郵便局の芝生に降り立つと、ヒビヤの姿が見えた。彼の方でもユウを見つけたらしく、すぐに駆け寄ってくる。

「お帰り。お互い食われなくて良かったな」

 冗談を言ってヒビヤは曇り空を眺める。

「噂が嘘でほっとしたよ」

「いやー、サキはまだ帰ってきてないからな。あいつの話も聞かないと断言できない」

 まさか彼も噂話を本気で信じている訳ではないだろう。軽口を叩いてヒビヤ自身とユウの両方を安心させたいのだ。

 雲の隙間から青空の欠片が垣間見える。何羽かまとめて戻ってくる天使の中にサキの姿があった。周囲の天使と言葉を交わしながら庭へと着陸する。

 ユウはまだ此方に気付いていないサキの表情を見つめた。丸い目は誰かが楽しげな事を言う度に細められる。どれほど笑おうとも思慮深そうな瞳の色は失われず、一片の冷静さがサキの中に在り続けるのが分かった。カナメに向かって浮かべる笑みとは全くの別物だ。あの瞬間はサキの中にある理知的な光が一番弱まる。その代わりに慈愛や困惑、恋と言うほかない表情が生まれる。ただ一心に誰かを愛する様は恐ろしいほどに純粋だ。それをただ「規則違反だから」という理由で踏みにじるのはどうにも哀れな話だとユウは思った。

 ヒビヤとユウに気付いたサキは他の天使達に何事か言い、すぐに庭の方へと駆け寄ってきた。

「私より早く終わってたのね」

「そんなに変わらないと思うよ。僕、ついさっき帰ってきたところだから。多分ヒビヤも」

 三羽とも、まだゴーグルが付けっぱなしになっている。それを指さしてユウは笑いかけた。

「ああ、忘れてた。これさ、配達先の人間の子供にも好評だったぜ。格好いいってさ」

 ヒビヤはぐいとゴーグルを額に押し上げた。どこか誇らしげに見える。それを聞いてユウは、洋子に自分の服装や装備は全く伝わっていないのだろうということに気付いた。部屋の電気が点いていないという状況に慣れ、洋子の振る舞いに惹かれる内に彼女が盲目であることを忘れてしまっていた。

「ふうん。ヒビヤのことだから自慢したんでしょ」

 この後の予定は、世話を焼いてくれている天使が帰ってくるまで待機となっている。三羽は二羽の隅に腰を下ろした。

「当たり前だろ。格好いいよなーって言ってちょっと貸してやったら喜んでたし」

 ヒビヤが緊張して畏まった様子になることなど無いだろうと考えてはいたが、予想通りの振る舞いをしていたらしいことにユウは吹き出した。見知らぬ人間の子供とすぐに仲良くなる様が目に浮かぶ。

「届け先はその子供だったの?」

「いや、その子の親父さんだった。何か難しそうな手紙だったしな。俺は親父さんが手紙読んでる間、子供と遊んでやってくれって言われたんだ」

 天使は親子関係を持たない。人間同士の会話から偶にそうした関係のことを聞く程度だ。知識としては頭の中にあるし、ユウたちにも勿論両親が何処かに居る。だが天使達は生物学上の父母からは引き離されて育てられるものだ。

「子供の遊び相手として有翼人を選んだのかしらね。ちょっと高く付きすぎる気もするけど」

 天使を呼ぶにはそれぞれ何かしらの理由があるのだとカナメは言っていた。洋子の理由とは何だったのだろう。天使に良い感情を持っていることは確かだったが、それだけなのだろうかとユウは二羽の会話に参加しながら頭の隅で考える。

「さあな。でも俺みたいなのが行って良かったとは思う。座って大人しくしてるタイプの子供じゃなかったし、適当に騒いで遊んでたら時間が過ぎてた。ユウとかサキだったらただ遊ぶのって結構辛いんじゃないか? 真面目だからさ」

 ある程度、届け先の場所に相応しい天使が選ばれて割り当てられているのだろう。ユウが洋子の元に行くようになったことにも必ず何か意味がある筈だ。

 少し籠もった小鳥籠のチャイムが聞こえてきた。十二時の合図だ。ユウはポーチから菓子を取り出す。

「そんなに動き回ったならお腹空いてるんじゃない? これね、届け先のヒトがお友達と食べるようにってくれたんだ。皆で一緒に食べようよ」

 個包装に入った菓子を二羽に手渡す。煎餅と言うものだと洋子はユウに教えてくれた。受け取ったサキは物珍しそうに透明な包装の上から感触を確かめている。

「嗜好品ってやつよね。小鳥籠で見たことないもの。有翼人が食べても平気なの?」

「えっと、天使に詳しいヒトから僕らの食べられるものを確認したって言ってたから大丈夫だと思う。僕も食べたし」

 ユウは甘塩っぱい味をした煎餅を一口かじってみせる。ほらね、と言うとサキは戸惑った。小鳥籠での食事は基本的に栄養の摂取を目的としている。軽食として配られるのも果物などで、菓子類は入手することが難しい。味を楽しむ為の加工品を口にする習慣がない為に、サキは袋を開ける様子もなくただ煎餅の表面をプラスチック越しに撫でている。

 ユウも宮本家ではなかなか手を付けることが出来なかったが、洋子がにこやかに勧めるので勇気を出して食べたのだった。

「俺は昔にもらったことあるな。何年か前にガラス窓の掃除しに来た人間居ただろ。休憩時間に話しかけたらくれたんだ」

 あっさりとそんなことを言いながらヒビヤは包装を開け、軽快な音を立てて煎餅をかじる。続けて「美味いな」と笑みを浮かべてみせたが、サキは悩んだ末に開封しないまま自分のポーチへと仕舞った。

「サキの所はどうだったの? どんなヒトが居たのか聞いてみたいな」

「変わった話はないわよ。年配のつがいだった。違うわね、夫婦って言うんだったわ」

 へえ、と相槌を打ちながら内心ユウは驚いていた。カナメとの関係に悩むサキを恋愛関係の果てのような場所へ向かわせたのは何か意図があってのことなのだろうか。だがどう考えても、叶うはずのない恋をしているサキを老夫婦の元に通わせるのは悪趣味なようにユウは感じた。しかし小鳥籠の教師や郵便局の上司がサキの片想いに気付いている訳も無い。知っていたらこんな趣味の悪い巡り合わせを考える前に処罰を下すだろう。

「天使に会ってみたかったんだって言ってたわ。あんまり真っ直ぐに言われるものだから、本当は天使とは別物だって言い出せなかった」

 ユウは洋子から無邪気な天使への憧れを聞いた際、否定するまでにそう躊躇いは生まれなかった。それは憧れ方が少女の持つそれであり、柔らかに話せば分別ある大人として聞き入れてくれるだろうと思ったからだ。洋子の天使への思いを成鳥指せることが出来ると感じた。だがサキの場合は違ったのだろう。

「信仰深いヒトだったの?」

「何て言うか、奥さんが『天使様はこういうものよね』って信じ切ってる感じがしたわ。旦那さんはそこまでじゃなかったけど」

 サキがため息を吐く。

「天使は恋なんてしないのにね」

 皮肉な笑みを浮かべてそう言った。小鳥籠の有翼人は恋をしないと決められているからそう言ったのだろうか。それとも、ともう一つの可能性を考えたユウは尋ねてみる。

「聖書の天使も恋をしないの?」

 曇り空の向こうに天国は見えない。本当の意味での天使は郵便局の何処にも居ない。こんなにも白で覆い尽くされているというのに、明快な答えはどこにも無い。此処はただの地上に過ぎず、ここに居るのは思い悩む有翼人たちだ。サキは一つ息を吸い込んだ。

「天使同士の恋愛はよく知らないわ。でも、人間に恋をした天使は堕天使になるそうよ。堕天使は神様から離れた天使のことね。私たちが天使だとしたら、神様にあたるものは何なのか話したことはあったかしら」

 どうだったかな、とユウが答えると意外なことにサキはくすくすと笑いをこぼした。

「ヒトよ。

 恋をした天使は神様の元にはいられない。恋をした有翼人はヒトの元では生きていけない。ね、やっぱり私、天使なんかじゃないのよ」

 自分を卑下する言葉を吐きながら、彼女の声はいっそ爽やかだ。ごく当たり前の事実を確認するようなやり方は、苦しそうに打ち明けられるよりも深くユウの棟を抉った。ヒビヤも同感だったのか、煎餅の包装紙を乱暴に丸める音が耳障りに鳴り始めた。咄嗟に何か言うより前に、音だけで抗議しているのだろう。ええとな、と言葉を探しているがなかなか出てこない。ビニール袋の雑音に後押しされ、ユウはろくに考えないまま話し出す。

「あの、でもね。サキが来たから奥さんは天使を信じられたんだと思うよ。僕だったら駄目だよ。堂々としてないし、翼も小さいし、天使様って呼ばれるような威厳もないし」

 ヒビヤが手元で丸めた袋を通に投げ上げる。

「俺も駄目だろうな。届け先の人間、誰一人俺のこと天使って呼ばなかったし。翼が生えてるだけの子守だと思われてる」

 自分の悪いところを挙げていくだけになりそうだったが、それでサキを励ませるなら良い事だとユウは考えていた。ヒビヤが投げ上げた袋をキャッチするのが見えた。

「みんな天使って呼ぶほど輝かしい存在じゃないよ」

 本当の意味での天使は、誰も目にしたことがないからこそ存在の穢れのなさが保たれる。現実に存在するユウたちは天使と呼ばれているが、結局のところ生き物だから全く汚れないでいることは不可能だ。

「だな。俺たち、羽が生えてるだけのただの生き物だ。天使って呼ばれてるから天使に近付かなきゃいきないなんて決まりはないし。人間が勝手に呼んでるだけなんだからさ」

 羽があるせいであれこれと悩むなど、聖書の中の天使はしないだろう。呼び名こそ同じだが、全くの別物なのだとヒビヤは話す。

 羽の様子を確かめようとユウは自分の背後に首を回した。翼は小さくも存在感を主張するかの如く羽ばたく。換羽の影響で所々空白が生じているが、羽の美しさは損なわれていない。思うに、この羽は美しすぎるのだ。天使と見間違えてしまうほどに白く綺麗で、実在を疑うほどに整った形状をしている。

「ゆっくり伝えていったら良いんじゃないかな。もう少し仲良くなって、サキのこと見てくれるようになったらその奥さんも自分で気付くかもしれないよ」

 洋子から「ユウくん」と呼ばれたつい先ほどの出来事を思い出す。徐々に空から地上へと降りていけば良い。少しずつ地面に足を付け、翼を畳み、視線を合わせるようになればきっと過度な神聖化も収まっていく。翼を広げていては人間とわかり合うことは難しい。

「ん、これから時間はあるものね。ありがとう」

 湿った風が吹く。サキは目元にかかった髪を手で払いのけた。

「その家にサキが行ったのは良いことだと思うよ。天使の在り方を普段から考え続けてるサキだったら、奥さんに言葉を届けられるんじゃないかな。天使と有翼人の違いも、サキなら丁寧に説明出来るでしょ。だからその、すごく意味のある仕事だと思う」

 話していて、随分な重荷を背負わせていることに気付く。しまったという顔をすると、ヒビヤがわざとらしく「あーあ」と声を上げた。

「カナ兄から聞いてはいたけどさ、届け物するだけじゃ駄目なんだな、やっぱり」

 面倒なことだとヒビヤは愚痴っぽく言ったが、口元には笑みが浮かんでいた。小さな子の面倒を見るのは彼の性に合っているのだろう。

 その時、上空から羽音が響いた。配達員の天使達が帰ってくる音だ。サキがぱっと顔を明るくする。

 見慣れた黒髪と大きな翼が目に入った。他の実習生の幼鳥たちも、指導役が帰ってきたことで庭に集まり始めている。たちまち庭は天使の群れで満杯になった。

「もっと隅っこに行くか。慌てて駆けつけることないだろ。それにカナ兄、いつも小鳥籠の中で何百と天使が居たって俺たちのこと見つけ出してくれるしな」

 何処に紛れ込んでも、カナメなら事も無げに三羽の名前を呼んで現れてくれるだろうとサキもヒビヤもユウも信じていた。

 庭の隅に追いやられるようにして三羽があれこれと話していると、やはりカナメは天使をかき分けながら向かってきた。途中でサキが手を振ると、相変わらず笑いもせずにただ頷く。大ぶりな翼を器用に背中にたたみ込み、混雑した中をすり抜けて彼は何度も呼んできた三羽の名前を口に出した。その額に汗が滲んでいる。いつも涼しげな顔をしているものだから、ユウは珍しいなと思いじっとカナメを見つめた。あちこちを飛び回る作業は重労働なのだろう。

「お帰りなさい、カナ兄。皆で待ってたの」

 サキは愛情深い微笑みを浮かべる。だがそれを受け止めてやれる者は何処にも居ない。カナメは再度「ああ」と頷いただけだ。

 無機質なベルが会話を遮って鳴る。数羽の天使が顔を上げて音の源を探すように視線をさまよわせた。

「昼休憩の時間だ。俺はまだ少し仕事があるから、適当な場所で待っていてくれ」

 カナメはそれだけ言うと、郵便局の中へ足早に戻って行く。提げた鞄からはやや膨らみが失われていた。二回目の配達の分がまだ残っているのだろう。

 カナメを待つ間、ユウは洋子の話をしたが当たり障りのないことだけを話した。彼女が盲目であることや、部屋が暗かったことは言い出せなかった。黙っていろと誰かに言われた訳ではなく、洋子の視覚が失われていることを隠すべきだと感じた訳でもないのだがユウは語らなかった。洋子とユウだけが知っているあの暗い部屋は大切に自分の心の内だけに仕舞っておきたかった。

 ただ、洋子と次に会う時の為にこの話だけは話題に出した。

「歌が好きな人だったんだ。ねえヒビヤ、前歌ってた曲、今度教えてよ」

 ヒビヤはサキに聞こえないようユウの耳に口を寄せた。

「あの曲ってあれか、恋のやつだろ。別に良いけどサキの前で言うなよ。どんな曲って聞かれたらどうすんだ」

「ごめん」

 そこまで気を遣わなくても良いだろうとユウは内心思ったのだが、ヒビヤはサキの恋心をひどく恐れているように見えたので咄嗟に謝った。彼を慌てさせたことへの謝罪だった。

「歌わなきゃいけないなんてユウも大変ね。あなたが歌うところなんて想像付かない。人前で大声出すの苦手でしょ」

 サキは同情した様子でユウの方を見る。彼女の言う通り、誰かの前に出ることは苦手だ。ヒビヤやカナメやサキ、賢一といった存在に対してはそこまで臆せず話す事が出来るがそれ以外の存在の前では萎縮してしまう。初対面の洋子に対してびくびくせずに済んだのは「天使さん」という呼び方が他人事のように聞こえたからだ。

「でも喜んで欲しいからやるよ」

「よっぽど気に入ったんだな、その家の人間のこと」

 ヒビヤが歌の話から離れるように話の舵を切る。だがその発言は妙な発見をユウにもたらした。

 友人である二羽が向かった家に自分は馴染めないだろうと感じる。話に聞いただけだが、子供の面倒を見るのも天使様と呼ばれるのも御免だ。その家の主人に歌えと言われたところで、素直に応じられるか分からない。だが、洋子から頼まれた訳でもないのにユウは自然と歌を歌おうという気持ちになっている。洋子を楽しませたいと心から望んでいる。

 ユウが特別恵まれた環境の家に向かわされたのだろうか。いや、とユウは考え直す。サキもヒビヤも、配達先の人間に対して悪い印象は持っていないようだった。実習先は相性の良い家庭があてがわれるという話があったが、それは建前などではなく本当によく考えられているのだろう。

 人間に報いたいという気持ちは天使全体に植え付けられた共通の感情だが、こうして自分から奉仕の欲求を抱かせるように適切な家に送られているのだろう。天使を育てるために随分な手間をかけるものだ、とユウは呆れると同時に感嘆した。

 ユウ、と呼びかけられて思考から醒める。人間の思うがままに育っている事実に息苦しさを感じたが、洋子に非は無い。だから笑って答えた。

「うん、洋子さんはすごく良いヒトだよ」


 仕事を終えたカナメに郵便局の中へと呼ばれ、昼食の時間となる。ユウ達は小鳥籠の食堂で弁当を持たされていたのでそれを広げた。カナメはどこかで買ってきたのか、手早く食べられそうなパンを机の上に置いている。

「さて、初仕事はどうだった。無事に戻って来られただけでも手放しで褒めたいぐらいだが、詳細を聞かないとな」

 先ほど三羽で話していたこととそう大差ないことを順番に話していく。カナメはパンの袋を開けようともせず、それぞれと目を合わせて話を聞いていた。話に区切りが付くと、目尻に向けて少し吊り上がった目を伏せて短く相槌を打つ。そして全員が話し終えると、嫌な事はなかったかと尋ねた。隠し事をしているのを見透かされたようで、ユウは身じろぎする。腰掛けているパイプ椅子が軋んだ。

 その横でサキの顔が曇る。躊躇いを見せた後、彼女は思い切ったように口を開いた。

「ツバサ持ちって言われたの」

 ユウはぎょっとして箸から白米を落とす。幸いそれは弁当箱の中に落ちて行った。

「俺も俺も。あの家、お爺さんが居るんだけどさ。『おいツバサ持ち』って俺の事呼ぶんだよ。おっかない声で」

 ユウの知る限り「ツバサ持ち」は天使のことを侮蔑した呼び方だ。授業で使われることは決して無いし、賢一たち教師は冗談でもそんな呼び方はしない。翼を持っていることだけが天使の価値だと断じる呼称は誰も使わないと思っていた。

 ユウは恐る恐る二羽に尋ねる。

「それ、何て答えたの。ヒビヤもサキも」

 サキは困った顔をして首を傾げた。ヒビヤは記憶を辿って視線を上に向けた。高く冷たい天井は答えてはくれない。

「別に普通に『はいはい何ですか』って。そりゃびっくりはしたけどさ、そこで怯えたら何か負けた感じするだろ。お爺さんもそれで気分悪くした感じじゃなかったし、それでよかったかなぁ?」

 ヒビヤはカナメに向けて言葉尻を上げて尋ねた。

「お前らしいな。そのままで上手くやっていけるだろう」

 洋子がユウをツバサ持ちと呼ぶ日は来ないだろう。名前を呼んでくれた時の温かさを思い出す。適切な家庭に送られると思っていたが、その中でもユウは恵まれた場所に運良く行くことが出来たのかもしれない。

「サキの向かった家は年配の夫婦だったな。俺と同じくらいの歳かもしれない。それなら一つ、伝えておきたいことがある」

 天使と人間の寿命差、成長速度の違いからカナメの言葉に混乱するが、生まれてから七、八十年も経てば人間はすっかり老いる。一方で天使にとってはまだ働き盛りの年齢と言って良い。

「昔の話を引っ張り出してきて悪いが、俺が幼い頃は天使という呼び名の方が忌避されていた。皆ツバサ持ちと呼ばれていたが、それはごく普通のことだったんだ。だから年配の方なら、悪意なくそう呼ぶこともある。昔の習慣でな」

 あまり聞かない話だった。ツバサ持ちという呼称を使ってはいけない理由は教わるものの、日常的にその呼び方が使われていた時代の感覚など考えもしなかった。

「どうして天使って呼び方がいけなかったの?」

 ユウの質問にカナメは遠い目をした。今まで歩み、飛んで来た生涯を振り返っている目は深く沈んだ色をしており、容易には触れられない。

「まぁ、時代と言う他ない。他国の文化が受け入れられない時期があったんだ。戦争もしていたし。天使はキリスト教のイメージが強すぎる」

 日本の歴史は一通り学んだ。戦争をしていたことも当然ながら知っている。だがそれが天使の日常にどう関わってくるのかについては深く知らなかった。今現在、争いごとに天使が駆り出されることはないのでそう深く知る必要も無いのだろう。

「話が逸れたな。俺が言いたいのは、ツバサ持ちと呼ぶ人間にはそれほど悪気が無いのかもしれないということだ。そう怯える事では無い。ヒビヤのように明るく流しても良いし、修正してもらえるようなるべく穏便に掛け合ってみるのも手だ。サキはそういったやり方が得意かもしれないな」

 カナメはヒビヤとサキを順に見た。ユウは一羽だけのんびりと洋子の家で過ごしていたことに負い目を感じていたので、カナメと目が合わないよう弁当の中身ばかり見ていた。冷えた卵焼きを箸で割る。

「仕事をしていていれば、今の時代でもツバサ持ちと呼ばれることはある。それが差別的な意味を持っていて、明確に俺たちを害する意思があるのなら抗議しなければならない。だがそんな事例が全てでは無いんだ。呼称だけに囚われず、人間のその他の要素も見た上で判断して欲しい。親しく名前で呼んでくれる人間の中にも恐ろしい奴は紛れている」

 洋子がこれからユウに何か酷いことをするとは考えにくかったが、念のためユウはカナメの話を覚えておくことにした。思ったよりも塩辛い卵焼きを食べながら、ヒトも天使も表面上だけでは何も判断できないのだとユウは考えた。

 サキが弁当の中身を残したまま蓋を閉じる横で、ヒビヤは思い出したように新たな話を始めた。

「ああ、あと一つ気になったことがあったんだ」

 ヒビヤの片脚が無造作に投げ出される。揃いのハーフパンツから出た足は健康的な筋肉の付き方をしている。

「あの家の子供が足環のことじっと見てたんだよ。それでどうかしたかって聞いたらさ『可哀想だね』って」

 足が揺れる。取り付けられた足環の刻印、その溝に天井の明かりが溜まっていた。ヒビヤという個体名は此処に刻まれない。ただ管理の為の番号のみがある。

 カナメは周囲に軽く目を走らせた。ユウもそれを真似て他の人間や天使を見る。人間は足首まで覆う長ズボンを身に着けていた。天使の制服は常に足首が見えるよう丈が短い。些細な違いだが、管理している者とされている者の差だ。

「お前は自分のことを哀れだと思うか? ヒビヤ」

 カナメは顎に手をやりながら尋ねた。ヒビヤは簡潔に答える。

「いやぁ、全然」

 空っぽの弁当箱を片付けた彼は足を引っ込めた。

 足枷のように見えたから、その子供は可哀想だと言ったのだろうか。ヒビヤは不便に感じていないようだが、足環はまさしく足枷だ。常に監視されてこそいないが、発信器の機能が付いている。例えどこかへ逃げ出せたとしても、すぐに居場所は判明するだろう。切断することも可能だが、その場合は大きな音が鳴るようになっているらしいと聞く。人間が居る場所で足環を外せばすぐに知られる。人間の居ない場所には規則上行くことが出来ない。こうして天使は閉じ込められている。

 しかしユウも自分を憐れんではいない。現状に違和感こそ抱いているものの、自分達が可哀想な存在だとは思わない。もう少し自由に生きていけないかと思うだけだ。人間を憎んでもいない。誰かに一方的にいじめられているのであれば天使は哀れと言えるかもしれないが、人間は必要があって天使を管理している。違和感はなかなか憤りにまで発展しなかった。それ故にユウはじめじめとした違和感と共に悩み続けている。

「皆がヒビヤのような考え方をしていれば、誰も悩まずに済むのかもしれないな」

 カナメが呟く。ヒビヤは照れたのか、けらけらと笑った。

「はは。カナ兄、それわかりにくいけど褒めてるんだよな? 悩みの少ない馬鹿って言われてる感じもするけど、そんな嫌味言わないよなーカナ兄は」

 昼休憩の時間は終わりに近付いていた。一向に昼食を取る様子の無いカナメは首肯する。

「勿論だ。俺もお前のような考えが持てていたらどんなに良かっただろうと思う。ただ、この歳になって今から新しい考えを持つのも難しい話だ」

 カナメは心からヒビヤの考え方を肯定しているように聞こえた。真っ向から褒められたヒビヤは気恥ずかしそうに顔を背ける。四羽の間に訪れた空白を埋めるようにサキが口を開いた。

「いいじゃない、カナ兄はカナ兄で。皆がヒビヤみたいだったら疲れるわ。ずっと喧嘩する事になるもの」

 軽い笑いが起こり、その後は他愛も無い話をして昼食の時間が終わっていく。結局、カナメが食事を摂ることは無かったのが気がかりだった。

 午後二時には二度目の配達が始まる。その前に配達員は残りの配達物を確認し、行くべき道筋を組み立てるのだ。ユウたち実習生は。カナメが他の天使達と話し合いながら地図と向き合っているのを見学する。今はまだ洋子の家に行くだけで精一杯だが、一年後には正式な配達員として彼らに混ざって働くことになっている。たった一年でそれだけ成長することが出来るのか、とユウは羽のむず痒さに急き立てられる。

「一年って短そうだね」

 ヒビヤにこっそりと耳打ちすると、彼は顔をしかめた。

「花壇の花が一巡するだけの期間だろ。そりゃ短いさ」

 賢一の好きなキンセンカが咲き、枯れ落ちてまた咲くまでの期間がどれだけのものだっただろうとユウは思い出そうとした。賢一は何度も「キンセンカがまだ咲かない」と待ちわびていたが、ユウにとってはすぐに咲くものだという印象が強かった。人間と天使の寿命の違いが時間感覚の違いも生み出しているのかもしれない。

 二回目の配達に飛び立っていく配達員を見送る。一度目の配達よりも天使の寮は少なく、二羽が白く覆われることは無かった。ただ彼らが飛び立った後、静まり返った庭がやけに寂しく見えた。

 配達員が帰ってくるまで、ユウたちは残った人間の局員に仕事内容を教わることとなる。そこで、天使と呼ばれる機会が少ないことに気が付いた。配達先の人間と違い、天使を見慣れているからわざわざ種族名を呼ばないのだろう。郵便局内の人間は、カナメ達のような配達員のことを「飛んで配達してるヒト達」だとか「空から行くヒト達」だとかまるで人間のように表現した。

「皆さん、どうですか。仕事内容については概ねわかりましたかね」

 この呼び方にも最初は慣れなかった。ユウたちをまとめて呼ぶ際、賢一は「天使の皆さん」や「君たち」と呼んでいた。今までなんとも思っていなかったが、あれは天使である生徒達と人間である賢一を明確に分けようとする意図があったのかもしれないとユウは推測する。

「どうしたの、君。ぼんやりしてるよ」

 個体名が浸透していない為に、そんな風に呼びかけられることもあった。知り合いとしか話さなくとも十分にやって行けた小鳥籠では聞かない、新鮮な響きにユウは目を瞬かせた。

「いえ、すみません。こんなに沢山のヒトと関わるのは初めてなので、ちょっと圧倒されちゃって」

 郵便局員の人間は、ユウの返答を聞いて心底可笑しいといった風に笑った。そして可愛い子が来たものだね、と言って肩を軽く叩いた。

 十数羽の天使が飛び立ってしまった後の郵便局は静かだ。人間の配達員も数名出ているので、今や正式な職員よりも実習生の天使の方が多い。幼鳥の頼りない足音があちこちに大きく響いていた。

 時計が午後四時を指すと配達員の天使達が戻って来た。赤いリボンタイが羽ばたきの風に揺れる。一時間もしないうちに終業時刻となり、実習の一日目は無事終わった。

 カナメはここから彼の暮らす寮へと戻るのだが、小鳥籠とは逆方向な上にまだやることがあるからと帰路を共にすることを断った。

 郵便局の入り口で荷物を抱えたサキは何か考え込んだ後、「待ってても良いかしら」と尋ねた。

「早めに帰った方が良いと思うが」

 手ぶらで見送りに来ていたカナメは困ったようにユウを見る。ユウには何となくサキがこう言っている理由が分かったので、カナメの助けにはなれないと目を逸らした。彼女は二羽だけの時間が欲しいのだ。

「えっと、じゃあサキが遅れるって言っておこうか。僕とヒビヤで」

 二羽だけで話したいというのなら、ヒビヤとユウが立ち去れば事は楽に進むだろう。

「あー、そうするか? 実習のことでカナ兄に質問してるって言えば皆納得するだろうし」

 協力してくれと要請するような話の振り方はしたものの、ヒビヤが賛同したことにユウは驚いた。恋愛はやめておけと言っていたから、多少渋るだろうと考えていた。

「分かった。籠のことはユウとヒビヤに任せる。なるべく早めに終わらせるが、サキ、一羽で待てるか?」

 何度も頷くサキの頭を撫でようとしたカナメの手が止まる。以前言っていたように、もう昔のような子供では無いのだからと制する気持ちがあるのだろう。だがそれ以上に、恋愛感情を向けてきている相手に触れるのは意味合いが変わってくるという懸念があるのかもしれない。カナメは引っ込めた手を背中の方に隠した。

「それじゃあ、ユウとヒビヤはここでお別れだな。今日はお疲れ様。気を付けて帰ってくれ。サキのことも宜しく伝えておいて欲しい」

 手は引っ込めたものの、ほんの小さな子供に接するようにカナメはサキの前で少し屈む。視線を合わせた。

「三十分もかからない筈だ。良い子でな」

 相変わらずの仏頂面だったが、サキは顔を赤らめて「はい」と頷いた。カナメはそれを見届けると建物の中に戻って行く。いつもの三羽が残された。

「迷惑かけてごめんなさい、少し話したいだけなの」

 サキはヒビヤとユウに近づき、囁いた。

「わがままでごめんね」

 ユウ相手ならともかく、ヒビヤに向けてもこんな姿を見せるサキはいつもと違うなと感じた。これも恋という感情がそうさせるのだろうか。サキが僅かに羽ばたいて脂粉が舞う。甘い香りがした。

「迷惑かけられてないのに謝られても困るんだよな。適当にカナ兄と話して早めに帰って来いよ」

 ヒビヤはそれだけ言うと、さっさと歩き出してしまう。ユウはふと不安がわき起こってきてサキと距離を詰める。

「ただ話すだけだよね。サキ、無茶なことしないよね」

 衝動で行動してしまいそうになるのだというサキの気持ちが理解出来るからこそ、無謀な行為に走らないかと心配だった。ユウ自身、ガラスの覆いを無くしてしまいたいだとか規則違反を承知で外に飛び出してみたいと考えることがある。その先にあるのは厳重な処罰だ。牢屋めいた場所へ収監される、謹慎を求められるといった処分が想像出来る。それ以上に重い罰となると上手く想像出来なかった。

「何もしないわよ。本当にただ話したかったの」

 ね、と悲しそうにサキは言う。

「引き留めちゃったわね。ユウとヒビヤが早く帰らないとみんな叱られちゃうのに」

 ヒビヤが道の向こうで早く来いよと呼んでいる。ユウは慌てて駆けだした。

「ううん、大丈夫。また後でね、サキ」

 最後に手を振って別れを告げたユウとヒビヤはこそこそと話し合う。ここまで来る時は何度も見上げた空が、今はもう殆ど気にならなかった。空いっぱいに広がった雲が夕焼けをすかして橙色になっている。

「ややこしいことになったな」

 ヒビヤがため息交じりに切り出すものだから、ユウは苦笑いして答える。

「前も恋はややこしいものだって言ってたよね。どこで知ったの?」

 カラスが鳴く。わざわざ徒歩で小鳥籠に向かっているのが悲しくなるほど、カラスの鳴き声は素早く通り過ぎていく。

「人間のそういう映画の話、偶に聞くんだよ。掃除のおじさんとか食堂のおばちゃんとかから。あらすじ聞いただけだけど、恋してなかったら全部上手く行きそうなのになって思う事よくあるんだよな」

 ユウは後ろを振り返る。サキは郵便局の入り口を見つめてじっとしていた。

「今もそう思ってるの? ヒビヤは」

「だってサキがあんなこと言い出さなきゃ、今頃カナ兄にあっさりバイバイって言って三羽で仲良く帰ってただろ。お前は随分あいつに協力的みたいだけどさ」

 本気で怒っている訳では無いようだが、少なからずユウを責める口調だった。

「それはその、サキ、一生懸命だから」

 こんな風に言い訳めいた言い方をしていると、自分に非があると認めているようになるなとユウは他人事のように感じた。ヒビヤは苛立った様子で足早になる。

「そりゃ分かるよ。何でかは知らないけどサキは頑張ってる。俺は規則違反がどうとか言いたいんじゃなくてさ、そんなに頑張っても成果は出ないだろって事なんだよ」

 声が大きくなったので、サキに聞こえてはいないかと不安になる。だがヒビヤは気にした様子も無く続けた。

「恋愛なんてさ、カナ兄もよくわかんないんじゃないか? 誰か一羽をとびきり大切にするなんてやらなさそうだし。ああ見えて誰にでも優しいだろ、カナ兄」

 説得力のある話だ。カナメがサキの想いに応える未来は実のところユウにも想像出来ていない。できる限りサキの想いをねじ曲げることはしたくないが、上手く事を運べる自身は全く無かった。

「それはそうなんだけど。でもヒビヤもこうしてサキに協力してるじゃない。それはどうして?」

 無責任な自分の行為への嫌悪をそのまま押し付けるように、ユウもヒビヤに対しての声量を上げる。彼はむっとした顔をした。

「別にサキのことは嫌いじゃないから、邪魔しようとかは考えないだけ。ただ止めておけば良いのにって思うのは本心だから、サキにもそう伝えてる。それだけだ。それだけなんだよ」

 ヒビヤは小鳥籠に続く道を振り返る事なく歩いた。殆ど走っているような速度だった。置いて行かれないようにユウは小走りで後を追いかけた。

 鳥は変わらず上空を飛んで行く。配達員として働く時を除き、天使は私有地以外の場所で飛ぶことを禁じられている。天使には羽があるが、何処までも自由に飛ぶことは不可能だ。

 ヒビヤの背中から視線を外し、雲越しの夕焼けを眺めた。鳥の影が過ぎ去っていった。


 小鳥籠に帰り、賢一にサキのことを話すと「彼女は熱心ですね」と微笑まれた。

「食堂が閉まる前に帰ってくると良いのですが。あまり遅いようだったらユウ、様子を見に行ってくれますか」

 サキは問題無いと語っていたが、彼らを二羽だけの状況に長く置いておくのは不安だ。衝動は侮れず、思いつめた末の行動は誰にも読めない。サキ本人でさえ、意図しない行動に出る可能性はある。ユウは賢一の要請にすぐに頷いた。

「入れ違いになることもあるだろうから、ヒビヤはこっちで待っててあげてくれない?」

 また協力を願い出る形になったので、流石に申し訳ない気持ちになった。ユウが頭を下げるとヒビヤは複雑そうな顔をした。

「まぁいいけどさ。お前が謝るのは変な話だよ」

 結局、サキはなかなか帰って来なかったのでユウが郵便局まで様子を見に行くことになった。出歩く許可を出したのは賢一だ。彼が誰かに外出許可を出すところを、ユウはこの二十年で初めて見た。

 夜になっても空は曇っていた。月がおぼろげに見える程度で、星は一つも見えない。大仰な門は閉ざされていた。ユウは賢一に教わった脇にある小さな扉をくぐる。

「実習生なのか。夜遅くまで取り組んで偉いね」

 そう言って扉の鍵を開けてくれたのは門の守衛をしている人間だった。正式な手続きを踏めば厳しい目を向けられることもなく通過できる。いつか自由を求めてここを飛び出せば、彼の優しい顔も恐ろしいものに変わってしまうのだろう。まだここからの逃走を具体的に企てたことは無いのに、今から憂鬱な気持ちになる。

 ガラスの無い夜空を見上げながら郵便局までの道を行く。この小道に足を踏み入れるのはこれで三度目だ。気温が下がり、肌寒い。その短い道の上でカナメとサキが言葉を交わしていた。

 慌ててユウは物陰に身を隠したが、二羽が気付いた様子は無かった。何もこんな所で話さなくてもとユウは思ったのだが、人目に付かない場所が此処くらいしか無かったのかもしれない。現にこの会話を聞いているのはユウ一羽だけのようだ。

 カナメの低い声が何事か言うと、サキが心底楽しそうに笑う。囀りだ。夜に似合わない囀りが道の向こうで交わされていた。あれほど楽しげにしているサキの邪魔をしては悪いと考え、ユウはあと少ししたら出て行こうとその場にとどまり続けた。盗み聞きをするつもりは無かったが、話の内容は耳に入ってきた。

「それでね、ユウがお菓子くれたの。今日行ったヒトの家でもらったんだって」

 物陰から顔を覗かせてサキとカナメの様子を見る。郵便局の入り口にある頼りない明かりがスポットライトのようだった。サキはポーチを開いて煎餅を見せる。

「食べないのか」

 カナメの声は嬉しそうなサキとは対照的に落ち着いていた。だが冷たくはなく、穏やかだった。

「太るって聞くからどうしようかしらと思って」

「一枚くらいなら平気だ」

 本当に? と聞くサキは実に楽しげで、いつになく幼かった。自由について語る時、自分もああやって幼い表情を見せるのだろうかとユウは想像する。理性よりも本能が勝つ時、即ち天使としてではなく有翼人として振る舞った時、獣に近付いた時に幼さが顔を出すのは奇妙な感じがした。

「なら悪くならない内に食べようかしら」

 ポーチの金具を留める音がユウの元に鮮明に届いた。しばしの沈黙が訪れる。この隙に声をかけようとユウは道に一歩を踏み出す。だが二羽の様子を見て急いでもう一度身を隠した。

 一瞬、カナメが翼を広げたのだとユウは思った。羽で彼の胴体が覆われているように見えたのだ。だがよく見てみれば、サキが向き合ったカナメを翼で抱き締めていた。恐らくは、恋仲のように。扇状に広がったサキの翼は、ユウの目からカナメを隠す。彼女の翼で覆われた二羽は一塊になっていた。寄せた頭と二対の脚だけが翼の上下から見えている。

「サキ?」

 困惑したカナメの声がした。慎重にユウが再度そちらを覗くと、サキの翼全体が呼吸に合わせて揺れ動いているのが見えた。そのペースは速く、恋をすると動悸や呼吸が速くなるという話は事実なのだと感じさせた。

「カナ兄、こういうことされるの嫌?」

 苦しさにあえぐようなサキの声がする。カナメの胸元に顔を埋めているから、声は籠もっていた。今にも死んでしまいそうにか細い。サキの翼は震えていた。

 カナメは抱きすくめられたまま返事をする。

「そんなことは無い。サキの抱いた感情は全て大切にして欲しいと思っている。ただ、俺は恋を知らない。応えてやれないのが申し訳なくてな」

 二羽を包む翼が俄に膨らんだ。サキが大きく息を吸い込んだのだろう。それは小鳥が寒さに羽を膨らませるのに似ていた。温かな空気を羽の内側にはらむように、サキは恋心を白い羽の中にたっぷりと含ませていた。

「恋が分からなくてもカナ兄、そうやって拒絶しないでいてくれるでしょ。そういう所が好きよ」

 白く柔らかな羽に覆われ、サキとカナメは離れない。翼同士が触れ合っているかどうか、ユウの所からでははっきりとは見えないがあんなにも強く抱き締めているのだから擦れ合っていないと考える方が不自然だ。

 ユウは見てはいけないものを見ている。規則を守る模範的な天使であれば、ここでサキを止める為に飛び出していただろう。だがユウは二羽を引き裂く気にはなれなかった。サキに嫌われる勇気が無いのも事実ではあるが、それ以上に天使を縛る規則に抗いたい気持ちがあった。

 好意を伝えられてもカナメの表情は変わらなかった。だがサキを引き剥がすこともしなかった。

「お前と繁殖はしてやれない。身勝手な交配は禁じられているし、子供は産ませてもらえないだろう。何より、恋を知らない俺はお前に手を出す気がない」

 顔を埋めたサキに言い聞かせるようにカナメは語った。その口から生殖活動に関する言葉が自然と出て来たことにユウは動揺する。使ってはならない言葉のように感じていたからだ。

 恋愛の終着点、もしくは通過点に生殖があるといううっすらとした知識がある。だからこれはサキへの拒絶なのだろうとユウは考える。それにしては翼で抱かれることを嫌がる素振りがカナメには無いので、何を考えているのか不可解だった。

 ぽつりと一人気ごとをカナメが付け加える。

「いや、それでも何処かで俺とお前の子供が生まれている可能性はあるのか。同じ場所で生まれ育ったんだから」

 子をなす能力が備わった時点から、天使は生殖細胞を採取される。人間はその中から適切だと思われる組み合わせで人工授精を行い、新たな天使を生む。彼の言うとおり、知らぬ間に自分の子供が生まれている可能性は大いにある。それは天使であれば誰にでも言えることだ。

 サキは顔を上げて微笑んだように見える。

「十分よ。それにね、私はカナ兄と繁殖がしたい訳じゃないの。ただ一緒に居たい、もっと近くで触れ合いたい、そういう気持ち。今みたいにしてる時が幸せなの」

 翼の下から覗く二対の脚に、二つの足環がはまっている。ヒビヤが言われたことを思い出した。僕たちは哀れな存在なのだろうか、とユウは心の中で問いかけた。答えは出なかった。

「この前した約束、覚えててね。きっと守ってね」

 その後サキがカナメに告げたことはユウの記憶に焼き付けられた。それを聞いたカナメは長く深く息を吐き、答えを出すまでに多くの時間を使った。

「賢いというか、良い子だな、お前は」

 悩みの中身こそ違うが、規則と衝動の間で揺れる者としてサキとユウは同じだと思っていた。だがサキはとっくに規則との折り合いを見つけていた。そんなに早く、聞き分けの良い子にならなくても良いのに、とユウは考えてしまう。自分が置いて行かれるような心地がしたからだ。一足先に大人びた考えを身に着けたサキとは違い、自分は成鳥になって飼い慣らされることを拒む小鳥のままだ。

 カナメの「良い子だな」という言い方はサキの成長を歓迎するようなものではなかった。どちらかと言えば、そこにあったのは後ろめたさだった。何故彼がそんな感情を抱くのか、ユウにはわからない。ただカナメの嘆きがそこにあったことだけは確かだ。

 そうかしら、と何度か呟きながら、サキは愛しげに翼でカナメを抱く。そうしないとこぼれ落ちてしまうのだとでも言うように、強く抱き締める。カナメは嫌がる素振りを欠片も見せなかったが、腕や羽をサキの背中に回してやることもしなかった。

「ううん、私悪い子よ。こんなことしてるのバレたら、カナ兄にも迷惑かかるって分かってるの。ごめんなさい。好きになってごめんなさい」

 カナメの胸元にもたれかかり、何も無い夜を見つめてサキは懺悔した。熱いため息を胸に受けながら、カナメは黙って首を横に振っていた。

 おぼろげな月明かりがまだらに彼らを照らす。サキの羽がカナメを抱く衣擦れの音以外、何も聞こえなかった。ユウは息を殺してカナメとサキを見守っていたが、しばらくしてカナメが口を開いた。

「サキ、もう帰った方が良い。迎えも来る頃だろうから」

 隠れてのぞき見ていることが知れていたのだろうかとユウは身体を硬くした。カナメは此方を見ているように感じられた。サキは彼の言葉を聞き、名残惜しそうに翼を離した。

「そうよね。こんなに遅くなったら賢一さん、誰か寄越すわ。見られたら大変ね」

 彼らがそう言って離れたのは良い契機だと思い、ユウは物陰に隠れたまま後ずさりをする。彼らの死角を選んで夜道を戻った。そうして二羽は殆ど見えなくなったところで道の真ん中に出て、まるで今晩初めてこの道を通るかのように装って歩いて行った。

 郵便局の入り口が見えるところまで行くと、丁度サキがカナメに手を振って此方に賭けだそうとしていた。カナメは建物の中に居るのだろう、その姿はもう見えなかった。

「あ、ユウ。迎えに来てくれたの? ありがとう」

 サキは相手がユウだったことに安堵しているようだった。もしカナメを抱き締めているところを見つかっても、ユウなら告げ口などしないだろうと考えてのことだろうか。

「ううん。早く帰ろう。賢一さんが心配してたよ」

 郵便局からもれ出す明かりは僅かだ。暗闇の中、サキにはっきりと見えるかわからないがユウは笑いかけながら言った。

 カナメとのやり取りを盗み見たことを知られたくないと思うあまり、サキに何と話しかけて良いのかユウは迷った。普段通りに接すれば良いのだと思えば思うほどに、上手い言葉は出てこなかった。サキの方も密会めいたことをしていた手前気まずいのか、なかなか話しだそうとしない。二羽は黙って歩いた。こんな時に飛んでいけたら気が楽だろうと思う。翼が風を切る音で沈黙はそう気にならないし、これほど短い道はたった数秒で駆け抜けることが出来る。ごく軽い素材で出来ている筈の足環が重かった。

「あの、さっきくれたお菓子あるでしょ。あれ、後でちゃんと食べるから」

 ぽつりとサキがそう言って、ユウが曖昧な返答をする。上の空だったのは、サキの羽の内側にはまだカナメの熱が残っているのだろうかと考えていたからだ。恋愛感情を知らず、そこに関連する規則を破る気も無いユウは恐らく一生、誰かと抱き合う感覚を知らずに過ごす。そのこと自体にさして不満は無いのだが、目の前で見た後は流石にどんな感覚なのか知りたい気持ちがあった。

「カナメさんと一緒だったんだよね」

 抱擁については触れないよう、ごく近い所をつつくような質問をする。

「そうよ。今日会ったヒトのこととか、お仕事のこととか聞いたの。それだけよ」

 ユウは何気ない質問のつもりで聞いたのだが、サキは警戒した様子で答えた。何かあったと暗に言っているようなものだとユウは苦笑したが、この暗闇ではサキに見えなかっただろう。

「サキにとって良い時間が過ごせたなら良かった。ヒビヤも多分同じように思ってるよ」

 ヒビヤが? とサキは可笑しそうに笑った。

「あなたに隠し事しても意味無いわよね。ええ、とても良い時間だった。カナ兄と居るとすごく安心するの。長く触れ合えば触れ合うほど、充実した気持ちになる。でも同時に、悪い事してるんだって不安になるわ。それを誤魔化したくて余計に強く求めるの。こんなの、健全な関係じゃないかもね」

 己の白さを疑うように、サキは翼を指先で強く掴んでいた。

 小鳥籠は天使を思い通りの形に育成する為の場所だ。その為に規則がある。規則に従えば、人間の思い描く美しい天使として羽ばたける。ならば、規則に疑問を持つサキやユウは歪んでいるのだろうか。醜く、穢れているのだろうか。ユウもそっと自分の羽を見つめてみた。換羽が進み、歯抜けになった羽は月影にまだらに染められている。物語に出てくる天使の羽は、いついかなる時でも生えそろっており純白だったと思い返さずにはいられなかった。

 話題を変えようとユウは考えを巡らせる。この道には誰も居ないが、小鳥籠の近くに行けば他の天使や人間が居るだろう。カナメとサキの関係について話し続けるのは好ましくない。

「今日は大変だったね。外のヒトは僕らのことよく知らないんだなってよく分かったよ」

 洋子の家に行ったことを思い出しながら、ユウは話し出す。換羽で乱れた羽をしていても天使と呼んでくれたのは、洋子が盲目だったお陰なのかもしれないと頭の隅で考えた。

「そうね。私たちとヒトは違う生き物だから。事前に全てを知っておくのは難しいわ」

 羽を触るのを止め、普段通りの振る舞いに戻ったサキは淡々と答えた。知っていることを丁寧に話す、少し冷たくさえ見えるいつものサキだ。

「実習が終わったら、他にも沢山のヒトのところに行かなきゃいけないよね。僕は今の洋子さんってヒトと上手くやれそうだと感じてるけど、たまたま良いヒトと巡り会えただけかもって思ってるんだ。だからその、サキみたいに今から困難に立ち向かってるのは偉いなって思うよ」

 率直な賞賛の声を聞かされた彼女はやや戸惑った様子だった。

「どうかしら。どこもそれほど苦労は変わらないんじゃない? 天使の配達員を頼むヒトの考え方にそこまでの差があるとは思えないもの。私が洋子さんってヒトの所に行っても私は同じように悩む。ユウの話からすると、彼女も天使と有翼人を混ぜて捉えてる印象を受けたもの。悩むのは私の性格の問題よ。どこに行っても私は悩むし、あなたは『良いヒトに巡り会えた』って思うんじゃないかしら。他者の良いところをすぐに見つけられるのはあなたの美点よ、ユウ」

 言葉尻が優しく跳ねたので、彼女が微笑んでいるのが分かった。だがサキはすぐに言葉を続けた。

「どこも変わらないって言うのはちょっと間違いかもしれないわね」

 どういう事だろうとユウは短い疑問符を発した。彼女は少しふざけるような笑いをこぼす。

「こんな遠い世界の話したってどうにもならないことだけど。西洋の方には居ないらしいの、有翼人。生活にも根付いてないみたい。だから海外まで行けば、この街やこの国とは全然違った見方をされるのかもしれないって思っただけ」

 知らない話だった。有翼人の生息域について、ユウは新鮮な心もちで聞いていた。天使の生きる場所は人間の住処の近くならば何処にでもあるものだとばかり思っていたし、絶滅寸前の野生の有翼人については漠然と、どこかでひっそりと暮らしているのだろうとしか考えた事が無かった。

「根付いてないってことは、籠も無いの?」

「その筈よ。昔から有翼人が居なきゃ、こうやって鳥籠で若い有翼人を育てる文化は生まれないんだと思う。取り締まられる対象が居ないんだから、あなたの嫌う規則も向こうには無いのかもね」

 自分は別に、規則を嫌っている訳ではないのだがと言いかけてユウは止めた。それより先に、別の考えが浮かんだからだ。

 天使の育て方に疑問を持ち、籠の外に出ても自由は無い。この街、この国にいる以上、足環と規則は効力を発揮する。だからただ脱走するという考えには今まで至らなかった。だがサキの話が真実だとすれば、海の向こうまで行けば良い話だ。それだけで本当の自由を手に入れることが出来るかもしれない。

 サキはとっくにこの可能性に気付いていたのだろうとユウは確信を持ちながら言葉を発した。

「海の向こうまで飛べたらいいね」

 カナメと共に自由な場所に辿り着ければ、サキの恋も実る。だが予想に反して彼女は荒唐無稽な夢を見る子供を相手取るかのように穏やかに話し始めた。

「どうかしら。渡り鳥なら出来るかもしれないけど、有翼人はそういう作りの身体はしてないわ。これはヒトに作り替えられたからじゃない。私たちは鳥籠に入れられる前から、そんなに遠くまで行けない存在なのよ」

 天使は長距離を飛行することが可能だ。この街全体に手紙を運ぶのに十分な力を持っている。このことを根拠としてユウは言ったのだが、サキは静かな目つきでそれを否定した。

「ああ、そうなんだね。サキは、サキは物知りだからきっと正しいんだね」

 ユウは膨らんでいた期待を恥ずかしさと共に踏みつぶす。

 小鳥籠で与えられる知識は、天使として生きるのに必要なものだけが選択されている。要するに、ユウが習った知識には欠けがあったのだ。天使は長距離を飛べるが、その上限については知らされていない。恐らくユウが想像していたように海を越えて羽ばたき続けられるような力は無く、数十、数百キロメートルが限度なのだろう。そしてサキは、海を越えるには出来ないと文献から知識として既に得ているのだろう。

 俯いたユウを気づかったのか、サキは歩く速度を緩めた。賢一にサキの様子を見てくるよう云われてから随分と時間が経つが、ここまで遅くなっては数分遅れたところで変わらないだろう。ユウはサキに甘え、絶えた望みを励ませるだけのゆっくりとした速度で歩いた。

「私たちはそういう生き物なの。だから私、海の向こうや外の世界みたいな場所に夢は見ないわ。ガラス窓にぶつかるか、海に墜落するかしかないもの。そうじゃなくってね、知識とか工夫があれば籠の中でも夢を叶えられるって信じてる。此処に自由がないとしても、願いが叶うこともあると思うの」

 どこに行けなくても構わないのだと結ばれるサキの話は前向きだったが、消極的だ。そういう生き物だと諦めて受け入れてしまうことにどうしても異を唱えたくて、ユウは勢いにのせて声を大きくする。

「家畜のままだとしても?」

 その生き方は物わかりの良い賢人めいているが、外から見ればただの大人しい家畜と変わらない。その荒々しい意見は静かな夜に大きく響いた。サキは驚いた顔をしていた。傷ついているようにも見えた。

「ごめん、言い方が悪かったよね。本当にごめん。でも聞きたいんだ。ガラスの壁に囲まれて、それを抜けても海に阻まれて、やりたいことが制限されてる生き方でサキは本当に満足なの?」

 ユウが必死になって尋ねると、サキは立ち止まった。暗闇の中、サキの表情を窺おうとユウは目を凝らす。彼女の目は閉じていた。やがて顔を覗き込むユウを見透かすように、サキは目蓋を上げて口を開く。

「あなたは、満足出来ないのね。ユウ」

 サキはただユウの意思を確かめただけだったが、話し相手を諫める強い光が瞳に宿っていた。そのせいで、ユウは自分と他者とを分けて考えなさい、と言われているような気分になる。実際、彼女は暗にそう伝えているのだろう。気圧されて「うん」と答えたユウにサキは「怒ってないわ」と言って再び歩き出した。

「私はこう生きるって決めたから、何を言われても意見は変わらない。ヒトの管理下であっても心だけは自由に生きる。私は、ヒトから逃れるよりもそっちに力を割きたいの」

 後を追いかけるユウをふと振り返り、サキは月夜の光を目に反射させた。

「まだ聞きたいこと、あるの? 何か言いたそうな顔してる」

 サキの背後に小鳥籠の門が見えた。鉄格子の向こうにぽつぽつと明かりが灯っており、逆光でサキの表情は隠される。ただその瞳だけは光を反射して、ユウを真っ直ぐに見つめているのが分かった。

「僕さ、その」

 一瞬口ごもったユウだが、サキを見つめ返して言葉を続けた。

「僕、ずっとどうしても他の子に聞いてみたかったんだ。本能や衝動に駆られて此処を飛び出そうと思ったことがないのか」

 向こうに見える籠は檻に他ならない。こうして身体が外に出ていても、小鳥籠に所属している事実は変えられず、本当の自由は手に入れられない。その辺りから生まれる筈の本心を問い質してみたかった。

「ここじゃない何処かに行ってしまいたいって思ったこと、一度たりとも無いのかってこと。もし他の誰かがほんのちょっとでもそう考えてたなら、僕だけがおかしいんじゃないって思えるから。それに、同じ考えの仲間がいたら協力して何処かに行くことが現実になるかもしれないって」

 あと数十歩で檻の中に逆戻りだ。恐ろしい夜を退けるように籠の中には電気が灯されている。小鳥籠は優しい檻だ。居心地は悪くないが、閉じ込められている事実は決して変わらない。

 サキは一歩ユウに近付き、二羽の間に人差し指を立てた。しー、と口を噤むよう柔らかに要請する。

「それ以上言わない方が良いわ。分かってるでしょ、勝手に外へ行くとか逃げ出すとか言うのは処罰の対象になるってこと。誰が聞いててもおかしくないのよ」

 冗談めかしてサキは言ったが、先ほどまで盗み聞きをしていたユウは笑えなかった。

「分かった、黙るよ。でも僕、カナメさんや賢一さんが言うようにサキには幸せでいて欲しいんだ。そうじゃなきゃ悲しいから。だからもし外へ、って思うなら力になりたい。無理に意見をねじ曲げるつもりは無かったんだ。言い訳ばっかりだね、ごめん」

 首を横に振ったサキはユウを誘うように羽を動かし、籠の方へと歩みを進めた。短い距離だが、随分と長い時間をかけて歩いてきたような気がする。門扉が近付くにつれ、鉄錆の臭いが空気の中に漂い始めた。ユウたちを威圧するようなガラスの壁も門の周りには張り巡らされており、迫り来るように見えた。

 重々しい門を目の前にして、サキは涼やかな声を出した。春の夜に似合いの、風にも似た囁きだった。

「ねえユウ。またいつか教えてあげる。私ね、カナ兄のことをただ諦めるだけで終わらせるつもりはないわ。ちゃんと上手くやれる方法は考えてるの」

 カナメと交わした約束のことを指しているのだろうなとユウは思い至る。彼女の抱える大切な秘密だ。盗み聞きして耳に入ってきた内容は胸の内に留めることにして、ユウは「楽しみにしてる」とだけ答えた。

 守衛の人間はユウの帰りを待っていてくれたらしく、二羽がチャイムを鳴らさずともすぐに気づき、門を開けた。お帰りと言われてユウは複雑な気分になる。足環の番号を確かめられた後で小鳥籠の中へと放され、ユウとサキはさっと羽ばたいた。賢一の待つ職員棟まで歩いて行くのは時間がかかりすぎるだろう、と二羽とも声に出さずとも考えていた。

 外とは違う、停滞した空気の中を切り裂くようにユウとサキは飛ぶ。景色が矢のように視界の中を流れて行った。サキは賢一に今晩の出来事をどう説明するのだろう、とユウは彼女へ顔を向ける。強い風に吹かれ、サキの髪は後ろになびいている。額が露わになり、すっきりとした眉の形がよく見えた。視線に気付いたサキは首を傾げる。

「困ったことがあったらいつでも言って」

 ユウの言葉に彼女は眉一つ動かさずに答えた。

「人間に背くのは嫌よ。神様に背いて堕ちるのはいや。天使なら、誰だってそうなんじゃない?」

 天使と有翼人を混同するその言い様は彼女らしくなかった。煙に巻かれているのだろうか。ガラスの向こうに厚い雲がかかっている。綺麗に磨かれているだろうガラスがひどく濁って見える。ユウの心模様も動揺で、何一つとして見えてくるものは無かった。

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小鳥が運ぶは無垢の白 とろめらいど @RinDraume

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