第3羽 白

 月曜の朝は緊張から始まった。昨晩、カナメと話は多少したものの、不安や悩みが完全に消えることはなかった。弱い光がカーテンの向こうにぼんやりと漂っている。電気の点いていない部屋は水底のように青っぽく見えた。時計を見れば起きるには随分と早い時間で、当然のことではあったがヒビヤは眠っていた。穏やかな寝息を聞きながらユウは仰向けになり、天井を見つめた。

 もう一眠りしようかと目を閉じても、今日から始まる実習のことや初めて出る外の世界のことを考えると胸の内がざわつく。秒針の音や鳥の鳴き声が気に掛かって眠れない。

 仕方がないので、ユウはヒビヤを起こさないようそっと身を起こした。眠ろうとした時は周囲の様々なものが喧しく思えたが、起きると決めてかかれば辺りは随分静かに感じられる。ユウが黙っている時はいつも、ヒビヤが何かしら声をかけてくれることが常だからそう思うのだろうか。窓の外から聞こえてくるのは鳥のさえずりのみで、人間や天使の話し声は一切聞こえてこない。自分以外は宿舎の誰も、いや、小鳥籠の誰も目覚めていないのではないかという想像がユウの中に膨らんだ。「ひとりきりだ」と感じる。

 ここ最近妙な疑問を抱えているせいで、ユウは底知れない孤独感と向き合わざるを得なかった。疎外感と行っても良いかも知れない。自分の持つ環境や境遇、将来への不安は他の天使と交わることは無さそうだった。唯一カナメは理解を示してくれそうだったが、彼はまた小鳥籠の外へと飛んでいってしまった。

 籠の中には大勢の天使が居る。薄い青色の部屋には互いに安心して過ごせる友人が居る。だが起きているのはユウただ独りで、答える者は誰も居ない。今のこの状況は、ユウの心象風景そのものに感じられた。

「今日、外へ出てみれば何かが変わるんだろうか」と窓の外を見る。籠を取り囲むガラスの向こうに目をこらしても、太陽はまだ出ていなかった。ヒビヤが起きるまでの数時間をどう過ごそうかと考える内、翼の手入れでもしよう、と思い立つ。初対面の人間と会うことになるのだから、できる限り綺麗な状態でいた方が良いだろう。

 なるべく静かにベッドから抜け出し、ユウは洗面所の方へと歩いて行く。宿舎は新しいとは言えない建物で、どれだけ気を付けても微妙にずれたフローリングが軋んだ。

 洗面台の鏡には不安そうな面持ちをしたユウが映っていた。いっそ滑稽なほど頼りない顔をしていたので、自嘲の笑いが鼻から漏れた。その表鋤雲移り変わりは見ていて愉快なものではなかったので、ユウは無表情になるよう努めながら鏡に手をかける。その奥にある収納に用があった。手の平に乗る程度の大きさの缶を取り出す。蓋にはデフォルメされた天使のイラストが印刷されている。そっと蓋を開ければ真っ白な粉が顔を出す。脂粉と呼ばれるものだ。撥水性を持ち、羽根全体に付けることで汚れや水から守ってくれる。粉を吸い込んで咳き込めば、流石にヒビヤも目を覚ますだろう。ユウはなるべく息を殺して脂粉を指先に取った。しっとりと肌に吸い付いてくるそれはほんのりと冷たかった。少し、雪に似ている。

 狭い洗面所の床に座りこみ、一枚一枚の羽根先をつまむようにして手入れをする。手元があまりに暗いので途中で電気を点けた。その時にヒビヤが何事か言って寝返りをうったが、起きてはこなかった。

 羽根先は寝癖がついて乱れていた。指先で整え、綺麗になった毛の流れの上に粉をまぶして塗り広げる。元々白い羽の色はさして変わらないが、僅かに艶めいて見える。まるで化粧をしているようだと思わずにはいられない。身繕いという点は同じなのだから化粧と呼んでも良いのだろう。違う点といえば、羽繕いは欠かすと体調不良の原因になり得るという点だ。汚れを弾かなければ雑菌を長く身体に触れさせることになるし、水を弾かなければ身体が冷える。

 だがそんな必要性を抜きにして、ユウは羽繕いをよくした。自らの羽の小ささは劣等感を刺激するが、手入れに熱中していれば大きさのことは忘れることが出来た。

 至近距離で羽根の一枚一枚を見つめる。どれも飛ぶという役割に特化した、完成された形をしていた。これだけはきっと、人間に飼われる前から変わらないものだ。ユウたちが野生だった頃から「飛ぶ」という特徴だけは変わっていない。翼は天使の象徴だが、それと同時にユウにとっては自分が一つの独立した生命であることの証明だ。これは僕らの誇りだ、と抜け落ちた風切り羽根の根元を撫でる。

 そうする内に程よい時間になったのでユウは缶の蓋を閉めた。全ての羽根を一気に手入れするのは骨が折れる。続きはまた少しずつやっていけば良いだろう。初対面の人間に対して恥ずかしくない程度には手入れ出来た筈だ。収納に缶を片付けて鏡を閉めると、再び自分の顔と対面する。多少ましな顔つきになっていた。次は羽が気に掛かる。なんとも小さく貧相な翼だ。息を吸い込み、翼を膨らませてみるがそれでもヒビヤやカナメのものには遠く及ばなかった。誇りである筈のものがこれではどうにもならない、と結局自嘲めいた笑みを浮かべることになる。視線を落とす。床に少し脂粉が散っていた。雑巾を手に取り、蛇口を捻って濡らしているとヒビヤがベッドの上で起き上がる気配がした。

「何してんだお前、こんな朝っぱらから。うわ、まだ六時前じゃんか」

 ベッドに座ったまま、ヒビヤは眠そうな声でそう問いかけてくる。

「起こしてごめんね。羽繕いしてたんだ。まだ寝てていいよ」

 床を拭きながら答える。ルームメイトは欠伸を一つして「真面目だなぁ」と言ったかと思うとまた横になった。彼の方を振り返って分かったことだが、青っぽかった部屋は段々と陽の光に暖められ、橙色に照らされ始めていた。

 ユウは今日の予定を思い返す。実習は実際の仕事場見学の意味も兼ねる為、八時前には郵便局に行かなければならない。そこから説明を受け、配達先の確認や荷物の受け取りを済ませた後に十時から配達が始まる。カナメなどの実際に働いている者はこの後もう一度配達に出るが、実習生のユウたちは一度目の配達が終わり次第小鳥籠に帰ってくる。この基本的な流れを一年繰り返し、余程下手なことをしなければ来年の春にはみな配達員として働くことになるというのが賢一やカナメのしてくれた説明だ。

 だが昨晩サキはカナメに尋ねていた。

「本当に皆が配達員になれるの? 私、その『余程大きな失敗』っていうのが気になるわ。私が何かしてしまったらどうなっちゃうんだろうって。平気かしら」

 カナメは、賢一も同じ事を言うだろうと前置きした上でこう答えていた。

「サキは心配無い。優秀な子だと言うことはずっと昔から知っている。何かあったら俺が無理やりにでも何とかする。大丈夫だ」

 安心させるように頷いたカナメは鯵の南蛮漬けを口に運んでいた。食堂のやや高いメニューと言えば魚料理だ。ユウも同じものを食べながら話を聞いていた。

 カナメなら確かに何とかしてくれそうだという信頼はあった。だが、失敗をしでかしたらどうなってしまうのか、という点について彼が話すことは結局なかったので何か誤魔化されている気分になった。

 床を拭き終えたユウは雑巾を絞りながら考える。賢一は「配達員以外になることは難しいでしょう」と言っていた。それでいて、実習で何か失敗すると配達員への道は閉ざされるらしい。配達員になれなかった天使は何処へ行くのだろうか。ユウの目に入る大人の天使は全て郵便局に勤めている。狭い籠の中で暮らしているとはいえ、配達員以外の天使の話を一つも聞かないというのは不自然ではないか。

 排水溝に濁った水が流れていく。ごぼりと溺れるような音がした。

 ユウは嫌な想像に辿り着く。自分達は人間に好き勝手に生み出された命なのだから、死まで人間の管理下なのではないか。つまりは、配達員になれなかった天使は処分されてこの世にいないから姿一つ、話一つ確認出来ないのではないか。

 自分の想像が怖くなり、蛇口を大きく開いた。豪快に水が流れる音で恐怖を紛らわせる。この後から始まる実習は、もしかすると生死に関わるものなのかもしれないと考えると羽根が逆立った。全身が総毛立つ感覚がする。そんなわけは無いと言い聞かせながら雑巾を洗う。なかなか白い汚れは落ちなかった。

「大丈夫かよ」

 いつの間にか隣に来ていたヒビヤがそう言いながら蛇口を閉めた。ユウは手を止める。

「水もったいねーって。そんな洗わなくてももう綺麗だよ」

 雑巾を奪い取ったヒビヤは両手でそれを絞る。吐き出される水は彼の言うとおり、もうすっかり透明だった。あぁ、と気の抜けた声を出してユウは相手の顔から目を逸らした。

「そうだね。おはよう」

「うん、おはよう。また小難しいこと考えてたんだろ」

 視線が合わないことを気にした様子もなく、ヒビヤは雑巾を窓辺に持って行く。小さな窓縁だが日当たりは良く、此処に干しておくとよく乾くのだ。

「そうかも」

 妙な想像をしては、他の者には言えないと口を噤むことを最近多い。曖昧な答えにヒビヤは笑った。寝癖のついた髪と翼が楽しげに揺れる。

「かもって何だよ。また実習のことか? 一昨日ぐらいからずっとその話だもんな。行ってみりゃ何とかなるって。あの仏頂面のカナ兄が普通にパスしてんだから、愛想の良い俺たちなら余裕だろ。何か失敗しても素直に『ごめんなさい』って言えば平気だ」

 ユウの居る洗面所に戻り、手を拭いたヒビヤは楽観的なことを次々に口にする。ユウを気づかってのことだろう。部屋はもう朝日で一杯になったというのに、鏡で見た今のユウの顔は青い色をしていた。

「あとほら、楽しみなこともあるだろ、お前」

 ベッドを整え、朝食のパンをテーブルの上に並べ始めたヒビヤは明るい声を出す。

「えっとごめん。何だっけ、僕が楽しみなことって」

「何だよ、忘れてんのか? 配達員の道具、色々もらえるってこと」

 言われてみて初めてその事に気付く。確かに、配達員にとっての大事なものが配られるのは実習の初日からだと聞いていた。郵便物を入れる鞄や風を防ぐ為のゴーグル、食料を入れておくポーチ。正式な配達員ではないから、制服は支給されないがそれ以外のものは殆ど今日もらうことになっているという話だった。

「あ、確かにそれは嬉しい。どれも憧れだったしね」

 この憧れが本当に自分の意思なのかも定かではないが、羨ましいとカナメの姿を幼い頃から追いかけ続けたことは確かだ。この話をしている今、気分が高揚しているのも確かなことだ。

「俺も楽しみなんだよな。あのゴーグルとか格好いいし、好きだ」

 適当なパンをユウの分も並べたヒビヤは冷蔵庫から牛乳を取り出す。

 ゴーグルに関しては、昔の飛行機乗りが付けていたものに似ているとカナメは言っていた。日本が戦争をしていた時代をぎりぎり知っている世代なのだということは賢一から聞いた話だ。笑うことが少ない性格の背景には、昔の話も深く関わってくるのだろうか。カナメはユウたちと出会う以前の話をしないので推測するしか出来ない。

 ヒビヤは小鳥籠の制服のポケットを探り、乾燥した苺の袋を手にとって皿に出していた。そこへ牛乳を注ぐと赤い色がしみ出していく。

 血なまぐさい話題は何処へ行っても聞くことがない。歴史や物語の中だけの話に思える。丁寧に保護されたガラスの籠の内側では、流血沙汰など起こらない。飛ぶのに失敗してすりむいただとか、無理に羽根を抜いて血が滲んだだとか、その程度のことだ。ユウは皿いっぱいに広がっていく赤を見て考えに耽る。小鳥籠とは、どこまでも安全な場所なのだろう。血だまりを目撃することなど無く、果物の汁を見て連想するくらいしか出来ない。殺人事件や戦争といった文言から想像を膨らませてみても、空想の中の血だまりはベリーの匂いがした。

「苺はやらないぞ。俺の分だからな」

 ヒビヤが視線を遮るように手を差し入れてくる。冗談めかして言う彼の翼は今日も真っ白だ。彼の背中越しに見えるごみ箱からも抜け落ちた羽根が白く溜まっている。

「取らないよ」

 どれほど翼の手入れをしても、行き着く先はごみ箱だ。清潔に生きていく為に必要なことではあるが、どこか空虚な感じがする。羽繕いしたばかりの翼をユウは軽く振った。また羽根が一枚落ちた。


 郵便局に行くには小鳥籠を出る必要がある。実習開始の日、幼鳥はおおよそ二十年ぶりに外の世界へ飛び出すのだ。とはいえ、この放鳥は郵便局に移動するだけの僅かな時間と距離で行われるに過ぎない。飛行は禁じられ、ただ列をなして歩くだけだ。

 これは事前に決まっていたことだが、ユウやサキ、ヒビヤが含まれる十数人のグループは小鳥籠と隣接して建てられた郵便局に行くことになっている。外を味わえるのはごく短い、数分間の道のりだ。

 だがユウは小鳥籠から郵便局までの十数メートルの距離を心震わせながら歩いた。建物に挟まれてはいるが、ガラス越しでない朝の空は抜けるような青さをしている。雲と空の境界は時に明確で、時に滑らかだ。絶えず風が吹き、知らない匂いを運んでくる。何もかもがとどまることなく、移ろいゆく。サイダーの中にいるようだ。風という炭酸の泡が弾けては身体をくすぐる。花の甘い香りが代わる代わる抜けていく。空が近い。手をかざせば、手の平が青に染まってしまうのではないかと錯覚するほどだ。

 他の天使の反応は様々だった。何の感慨もなく隣の建物へと真っ直ぐ進んでいくものも居れば、記念に外の花を摘もうとする者も居た。風の冷たさに文句を言う者も居れば、小鳥籠の中とそう変わらないと言う者も居る。

 ヒビヤはこの場所について深く捉えていないようで、真偽不明の人間のうわさ話をして周囲を笑わせていた。ユウがふと思い立って後ろを振り返ればサキが居た。彼女は空を見上げて決意を固めたような顔をしていた。そのまま数秒立ち止まっていたが間もなく女生徒の友人に話しかけられ、何事もなかったように歩みを進めた。

 皆が付けている足環があちこちで鈴のように鳴っていた。

 久々の外を味わった幼鳥たちは続けて、郵便局という籠の中に入る。赤いレンガ造りの洋風建築は歴史を感じさせた。内部の壁は磨き上げられた大理石で、ひんやりとした雰囲気が漂う。物音がよく反響するようになっており、たった十数羽の幼鳥たちの足音は波のようにとどろいた。

 働いているのは二十名ほどで、人間と天使が半々ほどだろうか。人間は紺色の制服を着込み、天使は白いシャツを着て背中から羽根を生やしているのですぐに見分けが付く。配達員の天使の格好はユウたちの着ている小鳥籠の制服と似ているが、首元に赤いリボンタイが付いているのが明確な違いだった。

 二つの種類の生き物は種族の区別無く、始業前の時間を穏やかに過ごしていた。派閥を作ることもなく語らっているように見える。眺めていると、出勤してきた見知らぬ人間がユウたちを見てにこやかに挨拶をしたので幼鳥たちは慌てて挨拶を返す。

「はい、おはようございます。今日から頑張ってね」

 郵便局の人間は、小鳥籠に居る職員と似た態度で接してくれるのだと分かってユウたちの間に安堵の空気が流れる。外の人間は有翼人と接する機会が少なく、差別の目に晒されることも有り得ると聞かされていた。うわさ話では「食べられる」などのより過激な内容もあった。だから初対面の人間に対して緊張感が走ったのだが、まだ此処は天使に理解のある場所らしい。考えてみれば当然の話だった。郵便配達と天使には密接な関係があり、好き好んで郵便局に勤めようという人間は自然と天使との付き合い方を学ぶことになる。言ってしまえば、天使と付き合えると覚悟した人間が望んでここに勤めているのだ。

「感じの良いヒトだったね」

 隣にいるヒビヤに話しかけると、どこか不敵な笑みを浮かべている。

「そりゃ、まだここは外じゃないからな。そんな風に油断してたら、外の人間に食われちゃうかもしんないぞ。羽根とかむしられるんじゃないか?」

 そう言って、手で何かを食べる口の形を作ってユウの羽にかじりつく真似をする。脅かそうとするのは慣れているのでユウは「嘘だぁ」と言い返しながら笑った。

 八時になり、朝礼が始まる。集まった局員の中にはカナメの姿も見えた。今日の業務についての説明をする中で、ユウたちのことも触れられる。

「今日から実習の生徒さんが入ります。まだ分からないことも多いでしょうし、しっかり支えてあげてください。生徒さんそれぞれの配達先は前に貼り出しますので、この後知り合いの局員は一緒に確認して細かいことを教えるようにお願いします」

 はい、とばらけた返答が局員の中から上がる。ユウ、ヒビヤ、サキを導くのはカナメがしてくれるだろう。だが返事をした者の中には人間も居たのでユウは少し驚く。ユウたち実習生は、見知った者や、事前に関係を持つよう決められていた者が居る郵便局に振り分けられると聞いていた。郵便局員という籠の外の人間と深い関係を持つ天使がグループの中に居るのか、成鳥に知り合いが居ない為に人間をあてがわれた天使が居るのか、どちらなのかは分からない。ただ、賢一のように天使と深く関わってくれる人間が此処に居ることは確かだ。それが何だか嬉しかった。

「それから、生徒さんたちにはお渡しするものがあります。今から配ってしまいますね。少し待っていてください」

 皆の前に立って話している局長の傍には、大きめの段ボール箱が幾つも積み上がっている。数人と数羽が協力しながら箱を開けて中身を取り出す。ビニール袋に包まれた鞄やゴーグル、ポーチが顔を出した。近くの机の上に並べられていくのを幼鳥たちはそわそわとしながら見守る。ユウも例外ではない。いつかあれを身に着けて、手紙を運んでヒトの役に立つのだと考え続けてきた。この夢を疑う時間も最近は多かったが、やはり実物を目にすると憧れが鮮やかに蘇る。

「申し訳ないのだけど、まだ生徒さんたちの名前が覚えられていないので番号で呼びます。その方が間違いも少ないだろうし。呼ばれた子からこっちに来てください、諸々渡しますので。そうだな、その後みんなに名乗ってもらおうか」

 足環に刻まれた番号は、天使なら記憶しているものだ。試験の答案はこの番号を書く所から始まるし、健康診断の時も番号で呼ばれる。小鳥籠でさえそうなのだから、仕事を果たす場ではより厳しい管理下に置かれて名前など呼ばれないのではないかと考えていた。だが名乗って欲しいと言われたことで、杞憂だったのかとユウは肩すかしを食らった気分になる。

 そして、此処は過ごしやすい場所だと感じている自分が居た。疑問の火はまだ燻っている。それでも不思議と、この場所で働くのは幸福なことなのではないかと思うのだ。

 番号が呼ばれていく。鞄、ゴーグル、ポーチの三つを受け取った天使はこわばった顔で名前を言って一礼した。順番にそれが繰り返され、ユウの番号も呼ばれる。見知らぬ局員が見つめる中に出ていくのは気恥ずかしかった。顔が赤くなっているのを自覚しながら前へと進み出る。

「はい、どうぞ。君の名前は?」

 局長はビニール袋のがさがさ言う音に負けない、良く通る声で尋ねた。配達員を構成するいくらかの部品を受け取ったユウは唾を飲み込んで息を整える。皆の方に向き直った。幾つもの視線が集中しているのが分かる。

「ユウです。宜しくお願いします」

 広々とした空間に弱々しい声が響く。それ以外に言うことは思いつかず、頭を下げた。その拍子にゴーグルが腕の中から転げ落ちそうになる。小さく声を上げて荷物を再度抱え直したユウは足早に元の場所へと戻った。「宜しく」と皆が答えてくれたが、俯きながら会釈をすることしか出来なかった。頼れるものはこれだけだと言うように、両腕の中の荷物をぎゅっと抱え込む。鞄にはユウを識別する番号が刻まれている。透明な袋の中でそれが強調されるように歪んだ。

 ヒビヤとサキもやや緊張気味だったが、無事に全員へ配達員の部品が行き渡った。これらを身に着けた天使は徐々に幼鳥から成鳥へと変わって行くのだ。

「では、朝礼はこんなところで。皆さん、今日も頑張りましょう」

 そう締めくくられると同時に場の緊張感が和らぐ。幼鳥の中から、わぁ、と抑えた歓声が漏れ出た。或いは安堵の声だったかもしれない。皆、興奮に頬を赤くして自分の鞄やゴーグルを触っている。壁に使われている大理石の冷たさとは対照的に、微笑ましい光景が広がっていた。局員たちも、可愛らしいものを見つめる目つきで幼鳥たちを見ている。

「ゴーグルにも番号付いてるよ。ほらヒビヤ、横のところ」

「お、ホントだ。ってことは取り違えたら怒られるやつか」

 新しい玩具をもらった小鳥のように与えられた荷物をいじり回していると、サキを連れたカナメがやって来た。サキはカナメとの距離を測りかねているようで、落ち着き無く脚を動かして近付いたり離れたりを繰り返している。

「ユウ、ヒビヤ、おはよう。今日から宜しく頼む」

 カナメは昨日とは違い、赤いリボンタイを付けている。仕事中だからだろう。正式な配達員である証だ。はい、とユウが背筋を正して言うと戸惑った顔をする。

「そんなに畏まらなくても良い。いつも通りに接してくれて構わない。緊張をほぐす為に、知り合いの居る郵便局に振り分けられるのだから。配送先を見に行こう」

 混雑しないよう、壁には同じ内容の紙が何枚か少し離して貼られていた。いつも通りと言われたユウは、それでも何だか決まりが悪くてカナメの後ろを黙って付いていく。ヒビヤは物怖じせずカナメの横を歩いたので、サキと二羽きりで静かに歩いた。

「外で危ない飛行はしないようにな」

「やんないって。俺だって仕事と遊びは分けて考えられるんだから」

 前方を行く二羽はそんな会話をしている。昨晩、ヒビヤの急降下について聞いた時は「気を付けるように」と注意していたカナメだが、今はより強い口ぶりで注意した。ヒビヤの言う通り、仕事場と小鳥籠では話が変わってくるのだろう。

 貼り出された紙を覗き込むと、ユウたち実習生の番号と届け先の住所や受取人の氏名が記されているのが見える。メモを取った方が良いとカナメが言ったので、ユウたちは各々手帳や紙片に書き写した。

 綺麗に並んだ氏名はどれも漢字で構成されている。どの届け先も人間なのだな、と今さらなことを思った。天使の名前はカタカナのみで付けられると決まっている。

 ユウの番号を目で辿ると、その先には宮本洋子、と書かれていた。

「みやもとようこさん」

 小さな振り仮名に目を凝らし、メモと見比べながら名前を読み上げる。長い名前だ、と感じたがカナメが後ろから声をかける。

「馴染みがないかもしれないが、人間には苗字というものがある。苗字と名前、全てをまとめて呼ぶことは少ないな。実際に顔を合わせたら宮本さんか洋子さんと呼んだ方が自然だろう」

 小鳥籠の授業で聞かされてはいたが、言われるまで忘れていた。サキは小さな手帳に熱心にカナメの言葉を書き留めている。

「ふぅん。でもさ、名前呼ぶ機会なんてあるのか? 荷物は手渡ししろって言われたけど。そんな話すこととか正直思いつかないぞ」

 ヒビヤの言葉を聴いたカナメは頷いて答えようとしたが、口を開く前に少し考え込んで三羽を手招いた。それを見て大人しく成鳥の後に付いて歩く三羽は、自分達がごく幼い頃に戻ったように感じた。天使と人間が群がる場所から少し離れたデスクへと誘われる。恐らくカナメのデスクなのだろうが、置いてある物が少なく今ひとつ判断は下しにくかった。

 引き出しの中から地図を取り出し、カナメは天板にそれを広げる。細かく書き込みが為されており、道路だけでなく取るべき飛行経路まで記されている。

「この地図は後でお前たちにも同じ物を渡す。住所から届け先の場所を確認するのに使ってくれ。今は一緒に見ていこう」

 そう言って彼はユウとサキの届け先を丁寧に指で示した。最後にヒビヤの行くべき箇所に指を置いて、しっかりと三羽の目を見つめた。

「天使に郵便配達を頼む人間とは、どんな人間だと思う?」

 ユウは、技術の発展した現代において天使に配達をさせる意味はそう無いのだという話を思い出した。

「信仰深いヒトとかかしら。有翼人のことを天使に当てはめて、伝令役に選びたいヒト」

「ああ、それはあるかもしれないな」

 そこに答えがあるはずだとでも言いたげに、サキは地図から目を離さない。ユウもそれを真似て使い古された地図を見る。無数に書かれた家を表す四角形の一つ一つに人間が住んでいるのだと思うと、気が遠くなる。

「そうだ。裕福な人間がよく頼むって聞いた事あるよ」

 カナメが指し示した四角は三つとも、他の家よりも大きめの敷地を持っていた。

「確かにそうだ。金銭に余裕のある人間が天使を呼べる。ユウもサキも正しい。

 つまりだ、ヒビヤ。配達先の人間は、何かしらの理由があって天使に会いたい人間なんだ。通常の配達より金をかけても構わないと決断した人間だ」

 ヒビヤは呆れたように息を吐き、肩をすくめた。ユウは空気が悪くなってはいけないと慌てて口を開く。

「会いたいってことは、僕らとお喋りしたいって人間が多いんだね。だから名前もきちんと呼べた方がいいんだ」

 会話を滑らかにしようとするユウの試みはあまり上手く行かなかった。ヒビヤはまだ見ぬ届け先の人間たちを小馬鹿にするように鼻を鳴らした。

「気遣いってもんを求められてるって事だろ。俺はそういうの上手くやれないと思うよ、カナ兄」

 サキの顔に不安げな影が差している。ユウも上手くやれる自信は無かった。カナメは表情を変えず、首を横に振る。

「いつも通りで良いんだ。普段、小鳥籠で賢一さんと話す時のような感じで問題無い。きちんと振る舞えると判断された小鳥が選ばれているのだから、不安に思うことは何も無い」

 その言い方に少し引っ掛かるものがあった。選ばれているとカナメは言ったが、籠に居る天使達に何らかの選別がなされた記憶は無い。同学年の天使は今日、皆がどこかの郵便局に割り当てられている筈だ。話の腰を折らないよう、おずおずとユウが首を傾げるとカナメは付け加えた。

「人間と上手く関わっていけない有翼人は、小鳥籠での生活に馴染めないだろう。人間から常に学ばされる身な訳だから」

 広い郵便局のあちこちで、天使と人間の話し声が聞こえてくる。どれも不安と期待が入り交じっているように聞こえた。

「上手くやれなかったら、カナ兄に迷惑がかかるかしら」

 サキは自分の指先を重ね合わせ、目を伏せながら尋ねた。カナメは再度、首を横に振る。そして何か言おうと口を開いたが、思いとどまってただサキの頭を撫でた。ヒビヤは眉間に皺を寄せ、難しい顔をしている。

「天使と有翼人を混ぜるなって言うサキの気持ちがやっと分かった気がするな。配達先で聖書に出て来る綺麗な天使様みたいに接されたらちょっと困る。俺は清く正しくとか似合わないし。神様からのお言葉とか期待されても応えられない」

 それを聞くと、こわばっていたサキの表情が僅かに緩む。「そうでしょ」と小さく呟くのが聞こえた。

「楽しみに待ってくれてるのかもしれないしさ、頑張ろうよ」

 ユウは二羽に向かって前向きなことを言ってみせたが、内心では自分の言葉に疑いを持っていた。届け先の人間が全員、賢一のように好意的で理解のある人間だと信じ込むのは危険だろう。

「楽しみにねぇ。そこまでして俺たちに会いたい理由って何なんだろ。ただ翼が生えてる以外、人間と大した違いは無いんだけどな。カナ兄、心当たりあるのか? 今まで配達した人間ってどうだった?」

 ここに居るのは天使ばかりではない。人間の着ている制服の紺色が視界の中にちらほらと見える。その中で人間についてあれこれと話すのは失礼にあたるのではないかと思ったが、誰も気に留めた様子はなかった。周囲のざわめきがユウたちの会話を隠してくれていた。

「人間による、としか言えない。本当に様々だった。余裕があれば理由について考えてみても良いかもしれないな。実習の配達先とは先これから長い付き合いになる」

 実習生は未熟な為、数多くの配達先は任されない。基本的に実習を終える時まで、一つの配達先に荷物や手紙を運び続ける。運ぶものがない際は、郵便局にとどまって配送以外の業務について学ぶ時間となる。

「実習生をわざわざ選ぶにも理由があるのだろうから」

 また気に掛かることを言うので、ユウは真意を尋ねてみようとした。だがカナメは地図の読み方についての説明に入る。仕事の話を遮る訳にもいかず、ユウは黙って話を聞いた。

 他の幼鳥たちも、届け先の人間と何かしらのコミュニケーションを求められると聞かされていたのだろうが誰も大きな反発はしなかったらしい。耳に残るほどの大声は上がらなかったし、誰もが粛々と初仕事に向けて準備をしているように見えた。

 人間に媚びを売るような真似は出来ない、とは誰も言わなかったに違いない。人間と関わる仕事だと言われた時から皆うっすらとわかっているのだろう。天使の配達員を利用するには通常の運送よりも金額がかかる。これは、天使と触れ合うこと自体に付けられた値段だ。ただ荷物や情報を届けるだけならカナメが以前に言った通り、天使以外の有用な方法がいくらでもある。

 天使が配達員をすることで生じる利益は、小鳥籠や成鳥が暮らす成鳥舎の運営資金になる。後輩の天使や自分達が変わらずこれからの日々を生きていたいのなら、人間に気に入られ続けなければならない。世知辛い、とはこういうことを言うのだろうかとユウはカナメの話を聞きながら頭の片隅で思考する。

 地図をたたみかけたカナメが「質問は無いか」と聞き、サキが幾つかの疑問を投げかけている時もずっとユウは考え続けていた。

 何の為に生まれてきたのか、何の為に生きていくのか。仕事をこなして人間に報い、その繰り返しで命が終わるその時を待つだけの生涯で満足が出来るのか。

「幸せになって欲しい」とよく言われる。主にカナメや賢一がそう言う。だがこのまま籠の中で生き、配達員として生きる道筋は真に幸福なのかと言われると答えが出なくなるのだ。ヒビヤは今の状態を指して「幸せだ」と言った。自分は欲張りなのだろうかとユウは自分の醜さを見つめようとする。

 籠の外を自由に羽ばたければ幸福になれるのではないかと考えてきた。郵便局の中から外を見られる場所はあっただろうかと周囲を見渡せば、重い大理石の壁に静かな窓が整列している。ガラスの覆いは此処にはない。小鳥籠よりも鮮やかな空は雲が多くなり始めていた。


 仕事内容について教わり、実際に配達する荷物を受け取りに行く時間になった。もらったばかりの鞄を提げて、幼鳥たちは担当者に付き添われながら指示された場所へと向かう。手紙や小ぶりの荷物が仕分けされて天使に渡される。全てが革の鞄の中に吸い込まれて行く。誰かが誰かに届けようとした想いが詰められ、鞄の口は金具でぱちりと留められる。

 ユウは誰かの想いや願いを届けるという行為自体は好きだと未だ感じている。だから皆の鞄が膨らんでいくのを見ると胸が高鳴った。ユウに渡されたのはたった一通の手紙であり、鞄に入れてもちっとも重たくならなかったが満足だった。

 いよいよ羽ばたく時が近づいている。重くならなかった鞄を携え、配達先への道を頭の中で何度も繰り返す。地図や名前を見ただけで分かることは少ない。先ほど、本当の外を見た時以上の驚きが待っているかもしれない。ユウは緊張から浅くなる呼吸を整え、できる限り平静を装った。

 慌ただしく動くカナメらの首元には赤いタイが揺れている。そして膨らんだ鞄の金具が音を立てる。小鳥籠にいる時のユウたちは何も持たず、ただ無垢な白一色の制服を着ていた。現在、実習生は深い茶色の鞄を身に着けて少しは色彩を得た。段々と外の色に染まっているような感覚がする。

 支度を調える中、ポーチの装着に手間取った。新品なせいかベルトの留め具が固い。ユウの華奢な腰に沿わせるには力が必要だった。

「付けようか」

 上手く出来ないものかと試行錯誤していると、カナメが傍に来て手を伸ばした。ユウが答えるよりも早く、あっさりとポーチが装着される。

「痛くないか」

「うん、大丈夫です。ありがとう」

 カナメはそれに軽く応じただけで、笑みを浮かべる事も無く続けてヒビヤの方へと向かった。

 周りでも着々と実習生の天使が服装を調えている。首元のタイこそ無いものの、それを覗けば皆立派な配達員に見えた。より正確に言うのであれば、大人だ、とユウは感じた。卒業を間近に控えたこの年頃になれば、背丈や体つきはもう成鳥と変わりない。真っ白な服装に何か大人らしいものを添えるだけで成長したかのように錯覚する。

 周囲を見渡したユウはとある一点に視線を留めた。大きな窓ガラスに半透明の自分が映っていた。男性の天使にしてはやや小柄だが、成鳥だと言えば誰もが信じてくれるだろう。表情だけは不安そうで幼かった。カナメの表情を思い出しながら口を引き結ぶとそれらしくなった。

 ヒビヤと一緒に過ごす部屋の鏡でこんな自分を見たことはついぞ無かった。ユウが思うに、小鳥籠での自分達は未完成品だったのだ。こうして何か外部からの部品を得ることで完成品に近付いていくのだろう。小鳥籠とは、天使を配達員という品物にすることが目的の施設だ。鞄やゴーグル、ポーチがぴったりと合うように不揃いでない形に成長させる。

 ユウは完成品として稼働してもう長いカナメを見やった。腰に巻かれたポーチのベルトは飴色で、しなやかに彼の動きに合わせて動く。人間から託された手紙が詰まった鞄もまた使い古した革の色だ。道具はどれも大切に使い込んである。

 昨日カナメと話した際の印象と比べてみると、どこかちぐはぐだ。彼は人間と天使の関係に納得していなかった。少なくともユウはそう受け取った。そんな彼が心から喜んで仕事をするとは考えにくい。昨日の会話さえなければ、カナメは真面目に仕事に取り組むごく普通の天使だとユウは考えていただろう。道具を丁寧に扱っているのを見ても納得していた筈だ。だがカナメの内面を垣間見た今では、些細なことさえ奇妙に見える。ユウと似た疑問を抱きながら、何十年も丁寧に働き続けるのは何故なのか。もしかすると、最近までそう悩むことはなかったのかもしれない。だが今も彼はサキやヒビヤ、ユウが立派な配達員になれるよう手助けをしてくれている。心の底で、本当にカナメが考えていることは一体何なのだろうとユウは思いを巡らせる。ただ、幼い頃から彼はずっと優しい兄だった。それだけは変わらない事実であって欲しいと願った。

 考えながらずっとカナメの方を見ていたので、ユウは彼が独り言を漏らすのにすぐ気付いた。

「曇ってきたな」

 事実を述べただけの短い言葉は、誰に届くこともなく消えていった。カナメの言う通り、湿度が高い。サキの方を振り返るだけでも、空気中の水分が纏わり付く。

「どうしたの、ユウ。何かあった?」

 サキはポーチにチャック付きのビニール袋を入れていた。携行食だ。乾燥したブルーベリーだろうと透けた色合いから推測する。彼女の好物だ。

「それ、好きだね」

「緊張するって分かってたもの。自分が一番美味しいって感じるもの食べたら気が紛れるかもしれないでしょ」

 そう口にしながらもサキの表情は明るいとは言えない。彼女は今にもため息が出そうな顔で翼を軽く羽ばたかせた。水を浴びた後に身体を震わせる動きに似ていた。不安をはじき飛ばすような動きだった。

「途中まではカナメさんも付いてきてくれるんだよね。迷う事は無いだろうって言ってたし、心配することないよ。それに配達するのって一軒だけだし、数時間後にはまた此処に戻って来るじゃない」

 あれこれと言ってみせたが、どれもサキの暗い顔を一変させるような効果は無かった。彼女は物憂げな表情のまま口角を上げる。

「ユウは優しいわね、いつも」

 そう言われるのは一度目ではなかった。幼い頃からユウの性格を言い表す時、他者は大抵こう表現するのだ。励ますに至らなかった自分の言動を逆に慰められているようで、ユウは「ごめん」と答える。

「どうして謝るのよ」

 サキはやっと無邪気と呼べそうな笑い声を上げた。カナメがこれを見て愛らしいと感じてくれたらと心の隅で思う。ユウは今ひとつ恋を理解出来ないが、サキが悲しむ顔は見たくなかった。とはいえ、規則を破れば罰が下るのは目に見えている。それはそれで悲しい目に遭うのだから、彼女の恋路をどう見守れば良いのか分からなかった。決めかねていると言っていいだろう。

 カナメや他の職員が外に集合するよう呼びかける声が聞こえる。もう羽ばたく時間だ。ユウはサキに「行こう」と行って歩き出した。無意識のうちに、あの流行っているというラブソングの断片を口ずさんでいた。隣を歩くサキの胸元はあどけない白色をしていた。

 郵便局の敷地内に小さな庭がある。そこから配達員の天使は飛び立つことになっている。この郵便局での数は少ないが、人間の配達員は道路からバイクに乗って同じくらいの時刻に出発するのだと言う。目にする機会は無さそうだったが、遠くから聞こえてくるエンジン音がそれを裏付けていた。

「最初は俺に付いてくれば良い。その後、それぞれの届け先に近い場所で別れる。あまり速度は出さないようにするが、追い付けなかったら言ってくれ。俺もなるべく後ろには気を付ける。

 ゴーグルを忘れるなよ。今日は速く飛ばないからそこまで必要無いが、今から習慣づけておいた方が何かと役に立つ」

 カナメの説明を聞きながら三羽は頷く。新品のゴーグルは傷一つ無く、向こう側がよく見えた。また一枚透明な膜越しの世界だ、と思う気持ちもあったのだがユウは黙っていた。

「俺は他にも配達をするから、帰り道の世話は焼けない。迷うのが心配なら、そう離れてもいないから高度を高めに取れ。街全体を見下ろして、屋根の緑と壁のレンガの赤色を目印にすれば良い」

 言いながらカナメは翼を広げる。二十羽以上の天使が思い思いに羽を広げていた。羽ばたく前の準備だ。上空から見れば、庭に敷かれた芝生が白に埋め尽くされているのだろう。

 ユウは羽や脂粉でむせ返るような地上から、誰も居ない空へと視線を移す。空の青さを覆うように白い雲が一面に千切れ飛んでいる。誰かの抜け落ちた羽根が視界の隅に入り込んでは消えて行った。

 ユウも翼を広げたが、どうにも初列風切の箇所がむずがゆくて気が散った。抜けた箇所から新しい羽根が生えてこようとしているのだ。

 そうじている内にベルが鳴った。小鳥籠で聞こえるチャイムとは違う事務的な音だ。それと同時に天使達の脚が芝生の緑から離れて行く。力強く蹴られた足下から細かな葉が舞う。芝刈りをした後の匂いが僅かにしたが、上空へと羽ばたく内にそれもすぐに消えてしまった。

 最初に向かうことになっているのはサキの配送場所だった。三羽の担当する家の中で、一番郵便局から近い。そこまで速く飛ばないとカナメは言ったが、バイクに匹敵するほどの速さだった。カナメの翼は大きい。一回の羽ばたきで遠くへと行ってしまう。彼が一度羽を振り下ろすまで、ユウは二度三度と忙しなく羽ばたかなければならない。ヒビヤがユウの方を振り返ったが、こうした飛び方には慣れている。まだ余力はあるから大丈夫だと視線で答える。

 小さなエナガが大きく優美な白鳥と並んで飛ぶには、懸命な羽ばたきが必要だ。地面に足を付けて歩いていた時から、自分の翼が小さいのは分かっていた。だからこうなる事も予期していた。

 ゴーグルのお陰で視界は良好だ。小鳥籠でスピードを出して飛んだ際は風に目を細めて飛ばなければならなかった。羽ばたくせいで早鐘を打つ鼓動を落ち着かせようと、ユウは透明な膜の内でゆっくりと瞬きをする。深い呼吸もした。

 籠の中から見ていた街を越えていくのは快い。このままどこまでも行けると勘違いしそうになる。実際はただの運送に過ぎず、すぎに籠の中に戻る。だがこの錯覚にもう少し浸っていたかった。行き止まりのない空を真っ直ぐに飛んでいける翼に感謝しながら、天使という存在に酔いしれていたかった。

 だが、前を行くカナメが徐々に速度を緩めたのを切っ掛けに夢想の時間は終わる。仕事のことを考える時間だ。

「サキ、見えるか」

 近くに呼び寄せたサキに向かって前方の建物を指さしたカナメは注意事項を再度伝えていた。はい、と固い口調で言いながら頷くサキは、羽ばたきに紛れ込ませるように息を吐いた。それは安堵とは程遠く、泣き出す前に呼吸を整えているかのようだった。

「行く前にちょっとだけ腹ごしらえしても良いかしら」

 ゴーグルの反射で目元はよく見えない。サキは涙を見せたがるような性格でもないなと思った。

「ああ、勿論」

 サキはポーチから取り出したブルーベリーを口に含む。あまり噛まずに飲み込んだように見えた。細い喉がこくりと動く。つぐんだ口元が無理に笑顔の形になる。

「また後でね」

 そう言ったきり、彼女は振り返らずに飛んで行ってしまった。スピードを上げた後ろ姿はみるみる内に小さくなっていく。すぐにまた会えるという事実は安心感に繋がるが、同時に何処までも羽ばたいて自由になることが出来ないことも示していて複雑な気持ちになった。靴のすぐ上に位置している足環が弱い太陽光を反射して光る。

「気を付けて」

 カナメがとても聞こえないような距離になってからサキの背中に向かって呟いていた。

 続けてヒビヤの届け先に向かう。湿った風が吹いた。

「地図で見た時も思ったけど、結構大きな家だな」

 カナメに指し示された場所を見て、ヒビヤは驚きの声を上げた。まだ遠いがそれでも広大さは目に付いた。品の良い塀に囲まれた敷地内に瓦屋根が幾つも連なっている。

「裕福な人間が呼ぶって話してたもんな。ちっちゃい家でも羽が引っ掛かって大変そうだ。うん、あの家で良かったって思う事にするよ」

 ヒビヤは満足げに頷いてみせる。

「玄関から訪ねてきて欲しいという話だったな。呼び鈴が分かりやすい場所にあれば良いが」

 カナメは家の前まで付いていきたいと言いたげだったが、ヒビヤは「大丈夫だって」とカナメの進路を塞ぐように前に割り込んだ。

「いつも通りやってくるからな。また後で色々話そうぜ」

 挑戦的な目つきで届け先の豪邸を見やると、ヒビヤはユウの方を振り向いて笑いかけた。方向転換をする際に翼がねじれる。ずり落ちた鞄の紐を引っ張り、斜め下方向へと視線を向けたヒビヤは一瞬急降下の構えを見せた。

「危ないよ」

 咄嗟にユウがそう言うと、ヒビヤは出鼻をくじかれたようだった。急降下の姿勢からホバリングの姿勢に変える為、羽をばたつかせる。

「わかったよ、やらないって」

 働くようになれば真面目な飛び方しか出来なくなる、とヒビヤは愚痴をこぼしていた。彼の中で実習は仕事と遊びのどちらに属するものかまだ定まっていないのだろう。

 それを抜きにしてもハヤブサのような急降下は危ない。自分の制止を素直に聞き入れてくれたことにユウは感謝する。ヒビヤは昔から彼のしたいことを勝手にするが、ユウが強く反対すれば「わかったわかった」と受け入れてくれた。皆はユウのことを優しいというが、ヒビヤも同じくらい優しい有翼人だ。あまり伝わっていないことが多く、じれったい気持ちになる。

「じゃあな、行ってくる」

 ヒビヤはそう言い、滑らかな飛び方で下降して行った。足環が鈍く光るのが見える。ぼやけた輝きは、またすぐにヒビヤとも郵便局や小鳥籠で会えるだろうとユウに思わせた。

 ヒビヤを見送り、カナメとユウの二羽だけになる。あまり懸命に羽ばたかなくともカナメに追い付けたので、カナメが飛ぶ速度を抑えてくれているのだと分かった。

「急がなくて平気なの?」

「予定より早いからな。最終的に時間内に届けられるなら、ゆっくり飛んでも問題は無い」

 カナメはサキ、ヒビヤ、ユウの案内を丁寧にしようと時間を多めに取っていたのだろう。今の彼は余った時間を味わうように翼を緩やかに動かしていた。ユウにはその様が、時間に追われることなくただ自由に飛んでいる鳥に似て見えた。

 力強い羽ばたきをこのままずっと続けていれば、街を飛び出せそうだ。そうして遠くに見える山々をも越えて、どこか自由な場所へと辿り着くことが出来そうに思える。カナメと並び立って飛んで行けば、新天地へと一緒に辿り着けるのではないか。そんな風に考えてしまう。

 だが彼の足下にも足環がある。そしてカナメは希望に満ちた目ではなく、とても鋭い目をしている。それで何処へも行くことなど出来ないのだと理解した。

 傍を鳥が飛んでいく。一つの話を思い出していた。

「鳥は空を飛ぶために徹底的な軽量化を図りました。彼らの骨は中空構造になっています。これは有翼人も同じことですね。そのせいで鳥や有翼人の骨は非常に脆いです。言うなれば、飛ぶ為に重さや頑丈さを捨てたのです」

 賢一が授業で話していたことだ。ユウは小さく彼がこう付け加えたのを覚えている。

「遠く離れた場所へ行くのであれば、私たちは何かを捨てなければならないんです」

 ユウは考える。自由が待っているかもしれない遠い何処かへ行くには、何を捨てれば良いのだろう。鳥は飛ぶ為に骨の中身を捨て去った。自分達天使も同じようにした。だが鳥と違って遠くへは行けない。なら自分達はこれ以上、何を捨てるべきなのだろう?

 羽ばたきを繰り返す。空は相変わらず曇っていた。何に縛られる事も無く鳥は飛んでいく。

 すぐ前を行くカナメにも翼はあるのに、何が違うのだろうかとユウは考えを巡らせる。

 鳥は重さを捨てて自由になった。天使は自由に飛べない。何の違いがあるのだろうか。自由でない天使の飛行を、鳥と同列に語っても良いのだろうか。

「僕らは本当に飛んでいるのかな。いや、真の意味で羽ばたくなんて出来た試しがないんだ、きっと」

 心の中で途中経過の考えをそうまとめ上げる。

「この近くだな」

 カナメの言葉に顔を上げる。考え込む内に俯いてしまっていた。二羽はやがて一軒の家を指し示して話し出す。人間が立ち止まるように空中で飛んだまま停止した彼らの横を鳥は通り過ぎていった。このまま遠くへと行くのだろう。

「あの家だ。庭に松の木が生えているのが分かるか。あれを目印にすれば良い」

 指さされた家屋を見下ろせば、白い庭石の中に花が咲いた鉢植えが並んでいる。その端に丁寧に整えられた松の木が目立っていた。やや古びた家は二階建てで、和洋折衷の趣だ。

「郵便局でも説明したが、上階のベランダから来て欲しいということだ。狭そうだな、気を付けてくれ。お前が来る時間は向こうも分かっているだろうから、軽く窓をノックすれば良い」

 人間の姿は庭や窓には見えなかった。どんなヒトが待っているのか考えたが上手く想像出来ずに終わる。

「お名前、宮本洋子さんでしたよね」

 ポケットからメモを取り出してユウは固い口調で確かめる。

「ああ。気になるようなら表札を見てみるのも手だ。大抵の家には玄関に苗字が書かれた板がある」

 目を凝らして見てみると、小さな門のすぐ横に何か文字の入ったプレートがあった。まずそこへ行こうとユウはささやかな計画を組み立てていく。その後は庭に置かれた花々の横を通り過ぎて、ベランダへと飛び上がれば良い。あまり激しく羽ばたいて花を散らさないようにしなければ。

「手紙、喜んでくれるかな」

 鞄から万が一にも手紙が溢れ出さないようにとユウは留め金を強く握り締める。冷たい感触が伝わってきた。

「何を言われてもそう深く気にすることはない」

 曖昧な答えだ。過度に励ましたり希望を持たせたりすることがないのがカナメらしい。

「ただ、言われたことは覚えておくと良いかもしれない。良い人間であれ、悪い人間であれ、どちらも併せ持った人間であれ言葉には意味がある。確かにこう言われたという記憶は色褪せないよう大切に持っておけば武器になるだろう。

 もし酷いことをされたとしても、何が起こったのかしっかり覚えておくことだ。あやふやな言葉では俺たち上手く味方になってやれない」

 想像出来る限りの「恐ろしいこと」を考えてみたが、果たしてそんな状況下で自分は言葉を記憶して持ち帰ることが出来るだろうか。血が流れる所も、おぞましい場面も実際に目にしたことはない。ましてや自分がそんな場面に遭遇するなど今まで有り得ないことだった。

「頑張ってみる」

 ユウの声はかすれていた。翼を強く空気に打ち付け、自分を奮い立たせる。羽先、指先が震えているのを感じた。

「怖がらせて悪かった。大丈夫だ、気を付けて」

 カナメを長々とここに引き留めるのも迷惑だろう。彼には仕事が待っている。膨らんだ鞄を見たユウは精一杯の笑みを作った。

「うん、行ってきます。また後で話せたら嬉しいです」

 どんな人間が待っていようと、これは最初の一歩に過ぎない。これからカナメのように配達員になるのであれば、数多くある手紙の内たった一通に心を乱されているようでは先が思いやられる。

 ユウはカナメに軽く頭を下げ、地上へと下降していく。すぼめた羽が風を切って音を立てる。上空を飛んでいる際は雲の白が視界の大半を占めていたが、届け先である宮本家に近付くにつれアスファルトの黒が迫ってきた。空気全体を包み込むように翼を広げ、柔らかく着地する。計画を立てていた通り、腰ほどの高さをした門のすぐ前へと降り立つことが出来た。ヒビヤから「身体の制御が上手い」と言われていたことを思い出す。誇らしく思っても良いのだろうかと迷う。翼への劣等感は生半なことでは拭えなかった。

 気を取り直し、表札を見る。宮本という文字が石に刻まれていた。間違ってはいないようで良かった、と何気なく門に手をかける。すると軋んだ音と共に開いてしまった。門のすぐ傍にまで植木鉢が並べられていた為、花々の鮮やかな色彩が足下に溢れ出す。

 門の内側を確認すると簡易的な鍵が付いていたが、外れていた。勝手に開けて申し訳ない気持ちもあったが、元々庭へ入る予定だったのだからとユウはそのまま中へと踏み込んだ。庭石が足の下で擦れ合う。

 それ以外の音はしない。静かだ。ここへ下りる時も、道を歩く人影や車は殆ど無かった。改めて宮本家を見上げると、どこか寂しそうな印象を受ける。松の木や花々はただ静かに、微動だにせずこの家を飾っている。本当に中に人間が居るのだろうか、とさえユウは感じた。小鳥籠では絶えず誰かのさえずりや羽ばたきの音が聞こえる為に、これほど静かな建物は見たことがなかった。自分の足音ばかりが大きく聞こえる。

 そろそろ事を始めるべきだ。指定された時間帯に荷物を届けるのが配達員の義務なのだから。

 花びらが散らないよう、植木鉢の少ない場所を選んでそっと飛び上がる。代わりにユウの羽が落ちた。白い庭石に紛れてどこへ行ったか分からなくなる。

 ベランダに身体を滑り込ませると、窓の向こうは暗かった。薄手のカーテンが閉まっている。ユウは誰も居ないのかと訝しんだが、部屋の奥に何かが動くのを見つけて身体をこわばらせた。安楽椅子が揺れている。その上に誰かが座っていた。驚きはしたものの、人間が居るのならば持っている物を届けなければならない。部屋の中が暗いせいで、自分の姿がよく反射しているガラス窓をノックする。自分のあどけない空白の胸元がいやに目に付いた。赤いリボンタイを付けたカナメであれば、もっと上手くやれるのだろうか。

 安楽椅子の揺れる動きに変化が出る。座っていた人物は此方に気付いたようだ。あの、と細い声を出してから咳払いをする。

「こんにちは。天使の配達員です」

 人影はユウの声に立ち上がり、段々と近付いてきた。それに従ってその人物の顔が見えてくる。女性だ。宮本洋子という名前から女性だろうとカナメに教わっていたのだが、想像していたよりも歳を重ねている。

 女性、洋子はカーテンを開く。皺は多いが、穏やかな顔が露わになる。ユウは一礼したが、彼女が気付いた様子はなかった。

 洋子は窓枠を確かめるようにしてから手に力を込めた。透明な膜が開かれていく。からからという古いサッシの音は、一羽と一人の沈黙を誤魔化してくれる。だがそれもやがて鳴り止み、黙り込んだユウと洋子が閑静な住宅街に取り残された。先に口を開いたのはユウだったが、そこから出て来たのは「ええと」という意味の無い音ばかりだ。

 配達物を渡しさえすれば良いのだとユウは鞄に手をのばす。焦る気持ちを反映して、翼がばたばたと騒がしくなる。すると洋子は少女のように笑った。

「天使さん。こんにちは、初めまして。よく来てくれたわねえ。上がってちょうだい。お茶があるの。良かったらおやつも食べて。靴は履いているのかしら。だったらそこで脱いでくれると助かるわ」

 ゆっくりと部屋の中に手招きする洋子だが、招かれる方向はほの暗い。何か重苦しいものが在るわけではなく、ただ電気が付いていないだけのようだ。

「お邪魔します。でもあんまり気を遣わないでください」

 人間と交流することも仕事の内だと聞かされていたユウは、緊張に目を見張りながら部屋の中に足を踏み入れる。

 曇り空ではあるがまだ陽は高いから、部屋の中は完全な暗闇ではない。数秒すれば目も慣れる。洋子は暗さを気にした様子もなく、部屋の隅でポットから急須に湯を注いでいた。やがて湯呑みが机の上に出される。

「あ、ごめんなさいね。電気付けていなかったかしら。見えないわよね」

 おぼつかない足取りで電灯のスイッチを探そうとする洋子を押し止めるようにユウは口を挟む。

「いえ、見えます。天使は目が良いんです。夜中に飛ばなくちゃいけない時もあるし。だからこのままで平気です」

 証明するかのようにユウは洋子の傍に迷い無い足取りで近付いた。洋子はユウの接近に気付かずそのまま歩いたのでぶつかってしまいそうになる。少しだけ身体が触れた。あ、と洋子は口元を両手で覆う。彼女の方も緊張があるのだろうか。安心してもらいたいと考えたユウは丁寧に言葉を続ける。

「あなたが危なくないなら、このままで」

 カナメのように低く落ち着いた声色、サキのように理性的な物言い、ヒビヤのように愛嬌のある抑揚。深く関わってきた天使の要素を組み合わせて理想的な自分を作る。

「じゃあごめんなさいね、このままで。ずっと昔から目が見えないものだから、部屋が明るくても暗くても変わらないのよ。あなたが本当に天使さんかどうかも本当はわからないの。でも翼の音が聞こえたから、きっとそうなのよね」

 恥ずかしそうにユウの居る方向を見つめる洋子の瞳は白く濁っていた。目が合うことは無かったので、ユウは一方的に瞳を盗み見ているように感じた。目を逸らす。

「僕は正真正銘、天使です。あなたにお届け物をするために郵便局から来ました」

 ええ、ええと頷きながら洋子は安楽椅子の方へ向かった。心から天使の到来を喜んでいるように見える。ユウが来た事を喜んでいるのではなく、天使がこの家を訪れたのが嬉しいのだとユウは自分に言い聞かせた。

 テーブルの上に菓子が並んでいる。ユウが来る前から歓迎の準備は出来ていた。それほど天使に出会いたかったのだろう。ユウを気に入ってくれるかどうかは未知数であり、今から嫌われる可能性も大いにある。

 最低限の仕事はこなそう、とユウは鞄に手をのばす。

「お手紙、忘れないうちにお渡しします。ここに置きますね」

 椅子の傍にある書き物机に、鞄から取り出した封筒を置く。暗闇の影に呑まれ、クリーム色の封筒は黒みがかって見えた。洋子の表情も一瞬陰ったように見えたが、すぐに柔和な笑みが戻る。

「ありがとう。空を飛んできてくれたのよね。この時間は天使さんが羽ばたく音が沢山聞こえて、とてもわくわくするし懐かしい気持ちになるの。あなたの翼の音がすぐそこで聞こえて本当に、本当に嬉しかったわ」

 洋子は愛おしむような視線をユウの方へ向ける。これだけ愛される天使とは何なのだろうとユウは考えずにはいられない。彼女は手紙を開封し、指で便箋の表面を辿った。視線はユウの方向を向いたままだ。その顔には宙に浮かぶ何かと会話するような、不思議な表情が浮かぶ。これには見覚えがある。本を真剣に読んでいる時のサキだ。小鳥籠で見かける彼女はいつも文字を食い入るように見つめるせいで表情をここまでつぶさに観察することは出来ない。

 何かを読む時には無言の対話が行われる。ええ、と首を縦に振りながら洋子は膝の上の便背を辿っていた。指が手紙の端まで行くと彼女は誰かと長話をした後のように深く息を吐いた。

「読めましたか。あ、いえ、何か嫌な事でも書いてありましたか」

 踏み入って良い話なのか判断が付かず、おずおずとユウは訪ねる。そもそも、どうやって読んでいるのだろうという疑問もあったがそれは無理やり隠した。

「気になる? ごめんなさいね、お手紙の中身はちょっと見せられないの。だけどどうやって文字を読んでいるのかは教えられるわ。こっちにお座りなさい、天使さん。あなた遠慮してずっと立ちっぱなしでしょう」

 彼女は傍らの机に置いた本をユウに差し出す。不躾な疑問を見透かされていることに顔を赤らめる。年上の存在には敵わない、と賢一やカナメの顔が浮かんだ。

「視覚障害者の方に向けた文字を点字って言うの。この本も点字で書かれているのだけどね、一度見てみたらどうかしら。どうやって読んだのかちょっとは分かるかもしれないわ」

 ユウは洋子のすぐ隣にある椅子に座った。本を受け取り、ページを開くと白紙が広がっている。だが触れてみればすぐに、小さな突起がびっしりと並んでいることが分かった。突起の間隔は不揃いだが、その間隔の違いが文字に対応していることが予想される。

「これで読むんですか。これを指の感覚で全部読み取ってるんですか、すごい」

 先ほどから質問ばかり繰り返しているな、とユウは思ったがそれでも疑問は口を衝いて出た。洋子はにこやかに頷いた。

「私はそれ以外の読み方を知らないだけよ」

 洋子は何気なくそう答えたが、途轍もなく思い言葉であるように感じられる。ずっと昔から目が見えないと言っていたが、それは彼女の人生のほぼ全てを占める年月を指すのだろう。賞賛は的外れだったかもしれない、とユウは口を噤んだ。ユウとて、「小さな翼でよく飛べるね」と褒められたところで複雑な気分になるだけだ。

「すみません。失礼なことばかり言ってしまったかもしれません」

 彼女には見えていないだろうが、深々と頭を下げる。影を落とされ愁いを帯びたカーペットと見つめ合う。

「謝らなくていいのよ。天使はこういう立場の人間を見たことも関わったことも無いから、戸惑うかもしれないって聞いていたの。だからもっと酷いことを言われるかもしれないって覚悟していたけれど、あなたは優しいのね、天使さん」

 可笑しなことだ。カナメの話ではユウの方が酷いことを言われる被害者側だったのに、洋子は真逆の想定をしていたらしい。

「僕がものをよく知らないせいで、嫌な思いをしてませんか」

 人間とよく関わるヒビヤや本を読んで様々な情報を持っているサキ、経験豊富なカナメであればこういった自体にはならなかったかもしれない。天使の有り様ばかり考えているせいで、人間に対して無関心だった今までの自分を恥じた。

「全然そんなことは無いわ。まだ時間はあるのかしら。出来る事なら、もう少しお喋りがしたいの」

 空っぽの鞄を抱えたユウの表向きの仕事は終わりだ。だが暗に示されている人間との交流という仕事はまだ続いている。暗い部屋の時計を確認すると、郵便局に戻らなければいけない時間までかなり余裕があった。元よりこうした交流をさせる為に眺めに時間が取られているのだろう。

「はい、まだ大丈夫です」

 あなたの求めるような天使じゃないかもしれないけれど、とユウは心の中で付け加える。洋子は上の方へ視線をやった。閉じた視界の中で、恐らくそこに探すべき話題が幾つも浮かんでいるのだろう。

「そうねえ。天使さんは歌えるのかしら。聖歌隊のイメージがあるのだけれど」

 邪気のない質問にユウは安堵する。宗教の中の天使と、生物である有翼人としての天使の違いについて触れることにはなるが、そこまで深く傷付けることはないだろう。

「ごめんなさい、僕は歌、得意じゃないんです。僕たちは聖書の中の天使とは違うので。鳥に似ているから僕らの話し声を『囀り』って呼ぶこともありますが。鳥みたいに歌声になるわけじゃないし。すみません」

 洋子は予想通り、落胆することはなかった。そうなのね、と興味深そうに言った。宗教上の天使と混同されたままでは彼女を騙すような形になるので、こうして早めに話すことが出来て良かったと感じる。

 だが洋子の期待を裏切ってしまったのは確かだ、と気付いたユウは慌てて言葉を続けた。

「あ、でも僕たち天使は沢山居ますから、中には歌が得意な子も居ると思います。たまたま僕が苦手なだけで」

 歌を歌うこと自体、殆どやったことが無かった。配達員になるために必要だと思いもしなかったし、有翼人が歌手になる道はユウの知る限り用意されていない。

 だが過去に歌を習得して今ここで綺麗に囀ることが出来たら、洋子はより喜んでくれたのだろうと想像してみると、今までの生涯が途端につまらないものに思えた。人間を喜ばせたいと願うのは天使に植え付けられた本能だ。

 そう言えば昨日、ヒビヤが人間の間で流行りの歌を口ずさんでいた。ユウは小さな希望を胸に言う。

「今度友達に教わってきます」

 洋子は目尻の皺を深くした。

「あら、本当? 無理はしないで欲しいけれど、いつか聞ける日が楽しみねえ」

 部屋の中がふと暗くなった。雲が多くなってきているらしい。太陽の光が弱まっている。ユウが窓の外を見ている間に、洋子は濁った瞳で新たな質問を捕らえていた。

「そうそう。私ね、天使さんの羽に触ってみたいと思っていたのだけれど、これは失礼にあたることかしら。ごめんなさいね、私もあなたと同じように無知なの」

 同じ、と言う時に洋子はゆっくりとユウに言い聞かせるような口調になった。ユウばかりが悪いのではないと言ってくれているようだ。同時に菓子の載った皿が示される。

 そこまで甘えて良いものかと悩んだユウは湯呑みの茶を一口啜った。そして思案する。

「羽ですか」

「やっぱり駄目かしらね」

 天使の異性同士で羽を重ねることは不道徳な行いだとして禁じられている。恋愛関係に発展するのを防ぐ為だ。人間と天使の間の恋愛も禁忌だとされているが、羽の扱いに関しては聞いた事が無かった。どうしたものだろうと思った。不確かなことはやらない方が良い。後から知らなかったと言って済まされる類いの話ではないのだから。

 だが健康診断の際には人間の医師や賢一が翼にじっくりと触れるし、それで問題が起こったと聞いた事も無い。そもそも、サキのような実例を目の前にしてもなお、ユウは恋愛というものを実感できないでいる。ならば人間の洋子に少し触らせるぐらい問題無い筈だ。そう考えた。

 だが結局の所はどれも言い訳に過ぎず、本当は彼女の期待をもう一度裏切るのが申し訳ない気がしたのだ。今度こそ残念そうな顔ではなく、喜ぶ顔が見たかった。

「いえ、大丈夫です。換羽の時期なのでちょっと羽根が不揃いなんです。それが恥ずかしくて考え込んでしまいました」

 そう言ってユウは洋子に背を向ける。羽の端に自分で触れてみるが、今朝手入れした羽は白く柔らかく、誰かに触られるのを待っているかのようだ。自分の選択は正しい、とユウは手に残った感触を根拠にした。

「どうぞ。あなたの目の前に翼を広げてます」

 骨張った洋子の手が恐る恐るユウの羽に近付いて行く。触れたと思った瞬間、洋子はびくりとして手を引く。そのままユウが待っていると、再度躊躇いがちな手つきで彼女は触れた。点字を読む時のように繊細に指先が羽根を辿る。

「温かいのね。それに滑らか。懐かしい気持ちになるわ」

 羽根の形をなぞりながら洋子は何かを思いだしているようだった。しみじみと指先を動かしていく彼女に羽根を触られていると、ユウが言葉にしていないことまで読み取られてしまうように感じられる。丹念に羽根をかき分け、羽軸を擦り、羽弁を指の腹で挟む。洋子は髪を梳いてやるような調子で羽に触れていた。

 そしてそのまま話しかける。

「天使さん、お名前はあるの?」

 羽を動かさないよう、背を向けたままユウは首だけで振り返る。

「ユウです。でも好きに呼んでください」

 番号で答えても良かったのだが、流石にそれは外部の人間である洋子を驚かせてしまうだろう。個体名を言ったところで覚えてもらえるかどうかは分からない。天使さんと呼ばれ続けても苦痛に感じないよう、予防線を張った。

 洋子はぱっと表情を明るくした。

「ユウくん。可愛らしいお名前ねえ。今度からそう呼ばせてね」

 何の嫌味もなく天使の名前を呼ぶ洋子は最後に羽全体を軽く撫でた。

「触らせてくれてありがとうね。でも無理に私の言うことを聞かなくても良いのよ。嫌なことははっきり、嫌って言ってちょうだいね」

 出会ってからそう時間も経っていないが、洋子は対等にユウに向き合い続けている。ユウは彼女の事を好ましいヒトだ、と思った。洋子は顧客という立場だが、教師のようにユウを指導することはなく、上司のように指示を飛ばすこともない。賢一がいつか言ったような、対等な関係を初めてここで築けそうだとユウは思った。

 あまり皆を驚かせるような土産話は出来そうにない、ということだけが残念だった。

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