第2羽 兄

 夜の小鳥籠に湿気が満ちる。職員棟から出た三羽は、背中の羽根が湿るのを感じた。

「日が落ちるとまだ冷えるわね」

 サキが身震いすると羽根から小さな滴が散る。本が濡れないように両腕で庇う様は本を抱き締めているようにも見えた。

「じゃあ、ユウもヒビヤもお休み。ちゃんとご飯食べてね。ユウは難しく考えすぎないでちゃんと寝るのよ」

 同い年だというのに年上ぶった発言をするのがどこか可笑しくてユウは「わかったよ」と言って笑う。サキが手を振って女子の宿舎の方へと飛んでいくのを見届け、ユウとヒビヤも戻ろうとする。整備された道の周りには草が茂っており、月の光に揺れていた。天井の継ぎ目と同じ形の、直線的な影が落ちている。

「いやー、サキも賢一も怒んなくて良かったな」

 ヒビヤは安堵のため息を吐き出しながら翼を広げる。先ほどの、羽根が擦れ合ってしまった事故についてのことを言っているのだろう。

「ちゃんと謝ったから許してくれたんだと思うよ。ヒビヤが怒られる時ってさ、全然謝らないっていうか、悪びれない時でしょ」

 教師役に叱られている時でも、ヒビヤは躊躇うことなく自分の意見を口にする。危険な飛行を咎められれば「飛べる以上は限界に挑戦したい」と真剣な顔をする。喧嘩の後は「相手にも悪いところがあった」と平等な裁きを求める。

「なんだよ。さっきのは俺が悪かっただろ。俺だって謝るくらい出来るんだからな」

「別に責めてないよ。むしろ適当に謝らないところはヒビヤの良いところだと思う」

 ユウから見たヒビヤは正直で、自由な存在だ。だから家畜扱いされている現状にも、何か思うところがあるのではないかと考えていた。しかし先ほどの反応を見る限り、特に不満などは持っていないようだった。

 夜食を受け取る為、食堂に寄ってから帰ろうと二羽は軽く話し合って地面から飛び立つ。夜露を振り払った翼の先端から飛沫が散って僅かに光った。それは小鳥籠のガラス越しの星に似ていた。都会の街明かりに薄れた星は、分厚いガラスを通して余計に輝きを失っている。ユウたちが慣れ親しんでいるのは、目を凝らしてようやく見える程度の星空だ。一つ一つの見分けなどつかず、薄ぼんやりと光る曖昧な輝きは、夜露よりも儚い。

 人間が走っても追い付けない程度の速さで飛びながら、ユウはすぐ横を行くヒビヤの様子を窺う。力強い羽ばたきがそこにあった。迷いのない飛行、無駄のない翼の動きに彼の真っ直ぐな性格が表れている。

「ねえ、ヒビヤ」

 風を切る音に負けないよう、ユウは声を張って呼びかけた。ヒビヤは前を向いたまま返事をする。

「僕たち、このままでいいのかな」

 話しながら飛ぶのはそう難しい事ではないが、言葉のはらむ意味があまりに不安定だった。ユウの体勢が乱れる。傾いた視界の隅が天井と夜空を捉える。

 渡り鳥は星を見て飛ぶのだと言う。鳥籠の中で、導きとなる星はかすれて久しい。ユウは迷ってばかりだった。

 自分を叱咤するように羽ばたいて姿勢を元に戻す。

「賢一としてた話だよな、それ。難しいこと聞かないでくれよ。俺、黙ってただろ。よくわかんなかったんだよ」

 風に流されてヒビヤの言葉は後方へと飛んで行く。

「俺たちの生き方に良いも悪いもないって。人間は天使を育てて、天使は人間の元で働く。何か駄目なことあるか?」

 彼の意見にもユウは納得出来る。長らく自分もそう考えてきたからだ。天使と人間の関係は良好と言える。人間は天使が生まれ落ちた瞬間から、命を終えるその時まで世話を焼く。生かしてくれる。だから天使はお返しとして人間の為に働く。何らおかしな事はない。ユウが抱えるこの違和感の方が異常なのだ。

 黙り込んだユウはヒビヤの真っ白な翼に落ちる、鳥籠の黒い影を見た。美しい白を穢すような黒を見た。言いようのない不安が胸の中にこみ上げてくる。

「でも僕らには自由がない」

「何?」

 荒げた声色の返答から、ヒビヤが不愉快になったのではないかとユウは身を縮ませた。だが単に彼は聞こえなかっただけのようで、何と言ったのかともう一度聞き返してきた。ユウはヒビヤが気を悪くしないことを願いながら、声を大きくする。

「もし、僕らが自由になったら何が出来るのかなって」

 周囲に他の天使がちらほらと飛び始めた。食堂に近付いてきている為だ。皆、白い羽根を羽ばたかせていた。

「自由ねぇ」と何度か繰り返すヒビヤは少し速度を上げた。彼の後ろ姿が他の天使に紛れて行く。天使の群れは冷たい夜に真白く映える。

 今視界に映る天使の誰もがこの小鳥籠の中で生きている。誰もが人間に飼われながら生きている。ユウはその事実に今さらながら驚きを感じる。何百羽という数の有翼人が小鳥籠に大人しく収まって暮らしているのは、一種の奇蹟のようにさえ思えた。自分と同じような違和感を持つ天使は一羽もいないのだろうか。そう考えるとユウは自分が恐ろしい孤独の中に置かれているような気分になる。

 前方を飛んでいたヒビヤはユウを置き去りにしかけていることに気づき、少しその場で停止した。ユウが追いつくと存外静かな口調で語り出す。

「自由になったらって言い方がよくわかんないな。俺たち、今は自由じゃないのか? もしそうだとして、自由になったら良いことがあるのか? 今は、幸せじゃないってことなのか」

 停止しているから風を切る音は聞こえない。ただユウとヒビヤの羽ばたきの音だけがした。周囲のざわめきが遠くに聞こえた。湿った空気がかき回されて、ユウの髪を揺らす。何と答えれば良いのだろうと迷っている内に、ヒビヤはいつもの調子を取り戻して「早く行こうぜ」と食堂の方へ下りていった。後を追いかけて地面に降り立つ。翼を畳んだ天使たちの群れに自分も紛れ込めば孤独感は薄れるかと思ったが、何一つユウの心は満たされなかった。こっちだと言うように手を振っているヒビヤの方へ無心で向かった。

 夜食の時間には食堂の職員は退勤しており、簡単に食べられるものが置いてあることが殆どだ。今日は乾燥させた果物やナッツ類が小分けにされた袋が並んでいる。よく見る眺めだった。

「お、苺ある」

 ヒビヤは机から苺が多く入った袋を手早く探し出す。大きさの割に軽い音がした。ユウは適当なものを一つ手に取る。アーモンドと何種類かのドライフルーツが雑多に詰め込まれていた。量はそれなりに多く、何日かかけて食べていく形になるだろう。好みとかけ離れたものを選ぶと、数日間ではあるが苦労する。自分にとっての良い食料を選び取ろうとする天使が集まり、食堂の空気はややひりついていた。長居しても良いことは起こらない。ヒビヤとユウは外へ出た。ひんやりとしたガラス一枚越しの夜が出迎える。

 がりり、という音がしたのでそちらを見ると、ヒビヤが乾燥した苺をかじっていた。

「うん、美味いな」

 彼の口元から覗く歯が深い赤を噛み砕いていく。固い咀嚼音がやけに耳に残った。音はやがて小さくなり、苺を飲み込んだヒビヤは正面からユウを見る。

「俺は今、結構幸せだよ」

 そう言って笑い、ここに来るまで速く飛びすぎてはいなかったかと尋ねた。小ぶりな翼を持つユウへの気遣いだった。

 宿舎へ戻り、就寝時間になるまで二羽は他愛もない話をした。ヒビヤは天使の生き方について話すことを嫌がっているように感じたし、ユウも友人を困らせてまで話したいとは思っていなかった。話題の殆どは、明日来ると聞いていたカナメについてだった。

「カナ兄と前に会ったのっていつだっけ?」

「年明けの時でしょ。それからも何回か小鳥籠には来てたみたいだけど、僕らと予定が合わなくて。残念だったけど、仕方なかったよ。授業抜け出してまで会いに行ったらカナメさん困っちゃうもの」

 カナメとユウ、ヒビヤ、サキの付き合いは長い。幼い頃の記憶はおぼろげだが、まだ長く飛べなかった頃からカナメは偶に来ては面倒を見てくれる存在だった。三羽にとって、彼は理想の将来像であり憧れだ。

「卒業したら一緒に働けるんだよな。仕事するのは面倒そうだなーって思うけど、それだけは楽しみだ」

「待ち遠しいね」

 そんな話をしつつ、二羽は眠る準備を進めていく。食事や入浴を済ませてあれこれと時間を潰している内に夜は更けた。

 もう寝ようかと言いながらユウは壁際に寄せられた自分のベッドを整える。部屋の反対側の壁際にはヒビヤのベッドがある。ルームメイトはそこであぐらを組んでいた。

「電気、俺が消すよ」

 ヒビヤは電灯のスイッチに手をかけるが、なかなか消そうとしない。ユウに背を向けて指先を動かせないままでいる。何かやり残したことがあるのだろう、とユウは考えた。二羽の間では、電気を消して「おやすみ」と言えばその後はもう何も喋らずに眠ることが習慣付いていた。つまりは、電気を消せば今日一日が終わってしまう。何かしら、今日が終わる前にしておかねばならないことがあるからヒビヤは躊躇っているのだろう。

「どうしたの、ヒビヤ。まだ起きてようか。ちょっとくらい遅くなってもいいよ。明日は休みだし、カナメさんも朝早くから来ないだろうし。寝坊したっていいよ」

 穏やかに言ってみてから、この言い方で正しかったのかと不安がよぎる。賢一が似たような喋り方でヒビヤに語りかけた後、ヒビヤは大抵むっとした顔をするからだ。子供扱いは止めて欲しいよな、と後からユウに愚痴をこぼすこともある。

 そんな経験を思い出したユウは、ヒビヤが気を悪くして電気を消すことを想像した。だが意に反してヒビヤは背を向けたまま声を出した。

「あのさ」

 あの呼びかけは正解だったらしい、とユウはほっと息をつく。

「ユウ、お前さ、配達員になりたくないのか?」

 ヒビヤの表情は見えない。その手はスイッチにかけられたままだ。ヒビヤはいつでも話と今日一日を終わらせることが出来る。

「まさか。なりたいよ、すごく」

 嘘偽りのない気持ちで答える。飼育される有翼人の在り方に疑問はあるが、それと将来の夢とは話が別だ。ユウの夢は幼い頃から今現在まで一貫して、「立派な配達員になること」だった。

 ヒビヤは安堵した表情で振り返った。

「だよな。だってお前、大人になって手紙運ぶの楽しみだって昔から言ってたし」

 どこか焦ったように彼は言葉を紡ぐ。

「配達員の真似事して遊んだこともあったっけ。覚えてるか? 手紙を賢一に渡そうとしたんだけどさ、お前が職員棟に行くの怖いって言い出して。まあ人間しか居ないし子供には怖いよな。あれ、結局どうしたんだっけ」

 ヒビヤは遠い思い出話をすることで不安をぬぐい去ろうとしているかに見える。楽しげな調子で話しているが、無理をしている。それを感じ取ったユウはできる限りにこやかに答えた。

「カナメさんが助けてくれたんだよ」

 言いながら、当時のことを振り返る。職員棟の前で泣き出しそうな顔をするユウと、それを励ますサキとヒビヤの前にカナメが来てくれたのだ。どうしたのかと聞かれたヒビヤが経緯を説明すると、カナメの顔に一瞬影が差したのを覚えている。

 賢一を呼んでこようかとカナメは提案したが、それでは配達員とは言えないのだとユウが意地を張った。そうして最後は四羽でぞろぞろと賢一の所までゆっくりと歩いて行くことになったのだ。二十年近く前の出来事だが、ユウは今でも鮮明に思い出せる。カナメの大きな翼に隠れるようにして、手紙を握り締めた思い出は忘れがたい。

「ああ、そう言えばそんな気がする。でもカナ兄、褒めてくれなかったんだっけ。何か暗い顔してたよな。いつものことだけど」

 確かにカナメは楽しげな顔や明るい表情を見せない。確かにヒビヤの言う通りだとユウは笑った。

 呼応するようにヒビヤは笑い声をこぼしたが、その手は依然、電灯をいつでも消せる位置に置かれたままだ。笑みを残したまま彼は尋ねる。

「お前はあの頃のままだよな」

 その口元は確かに微笑んでいたが、部屋の中から笑いのさざ波が引いていくのが分かった。

「変わったように見えるんだね。だからそんな聞き方するんでしょ」

 あの頃は自分達の生き方に何の疑いも持っていなかった。人間に育てられた天使が配達員になることは、水を与えられた植物が花を付けるくらいに自然なこととして受け入れていた。今はずっと何かおかしいのではないかと考え続けている。自分の変化は明らかだとユウは自覚しながら、明言を避けた。

 ヒビヤは僅かな力を指先に籠めたようだった。冷蔵庫が低く唸るせいで聞こえづらかったが、スイッチの表面と爪が擦れる音がしたのだ。それはこの二羽の会話がひび割れようとする音だ。何かを間違えれば電気は消え、話も終わる。

「賢一に聞いてただろ。配達員以外になれないのかって。だから何かさ、お前がどっか遠くに行くのかなとか想像しちゃったんだよ。なんであんなこと聞いたんだ?」

 問いかけられたユウはベッドに腰掛けた。見上げるようにしてヒビヤの目を見る。

「単純に、どうなのかなって思っただけだよ。僕の夢は変わってない」

 そっか、とヒビヤは答えた。二羽の間の距離は数歩ほどしかないが、今ヒビヤの方へ歩いて行ったとしても彼には辿り着けないような気がした。ヒビヤはユウから視線を逸らす。

 数秒の沈黙があったが、かちりと分針が音を立てたのを切っ掛けにしてヒビヤは声を上げた。

「そっかそっか。カナ兄と俺とお前とサキで一緒に働くってちっちゃい頃から言ってたけど、それが嫌になったとかじゃないんだな。疑ってごめんな」

 照れ笑いをして謝るヒビヤを見てユウの心に芽吹いたのは罪悪感だ。四羽で働くのは確かに幼い頃からの夢であり、目標だった。だがそれは人間の思惑通りの道のりであることも事実だ。ユウの夢は変わっていない。しかし同時に、この夢に対して昔ほど純粋な憧れは持てないでいる。ヒトの思うままに生きるのが生涯の夢というのは、空虚に過ぎる。

「僕の夢は変わらない」

 夢に対する姿勢については触れないで、先ほども言った言葉を繰り返す。ずるいやり口だとユウは思った。

「そうだよな。お前は変わってないよ。変わらない」

 ヒビヤはそう答えたが、心の底ではユウへの疑いを捨てていないのだろう。ユウを信じ切れない自分自身を諫めるような口調だった為に、そう感じられた。

「寝るんだったな。電気消すから。お休み、ユウ」

 話が終着点に辿り着いたのを確認して、ヒビヤはスイッチを押す。軽い音と共に部屋は暗くなった。

「お休み、ヒビヤ」

 ベッドに潜り込み、ユウは翼を身体に力一杯引き寄せた。中空になった骨が軋む。独りになっていく感覚がしたのだ。孤独は何故か、寒く感じられる。温かい筈の布団の中で、羽根を握り締めるようにしてユウは眠りに就いた。


 一晩明けた日曜の午後、いつもの三羽は小鳥籠の入り口近くの階段に集まっていた。カナメが来るのを待つ際はよくこの場所に来る。幅の広い階段には三羽程度が座っても邪魔にはならないし、やって来たカナメからも見つけてもらいやすい。

「ここに居ると、ヒトばっかり目に入るわね」

 入り口を出入りする存在を眺めながらサキは言った。彼女の言う通り、小鳥籠を出入りするのは天使よりもヒトが多い。皆、階段で退屈そうにしゃがみ込むユウたちの横を通り過ぎて行った。小鳥籠の厳重な門を抜けた後は、階段かスロープを通らなければどの施設にも行けないような構造になっているのだ。天使は羽ばたいて階段を越えてしまう為、階段もスロープも人間だけが歩む。

「ずっと地に足着けて生きていくのも大変かもな」

 ヒビヤが翼を広げて数メートル上へと飛び上がる。高い位置で、できる限りカナメを早く見つけようとするのはいつものことだった。羽ばたきの風を受けながら、ユウとサキは座りこんだまま入り口を見つめる。手持ち無沙汰だったのでポケットから小袋を取り出す。昨日、食堂で得た袋の中身を小さく分けたものだ。砕けたアーモンドを口に含み、噛む。香ばしかった。

「サキに聞いてみたいことがあるんだけど、カナメさんが来るまで話してもいい?」

「いいわよ。黙って待ってても退屈だもの」

 今日のサキは本を持っていなかった。暇つぶしの手段が少ないせいか、ユウの話を快諾してくれる。

「ありがとう。あのさ、ヒトはどうして僕らのことを天使って呼ぶんだろう。昨日サキが言ってたよね、天使と有翼人は違うものだって。じゃあどうして天使って呼ばれるのかな」

 聞かれたサキが少し考え込んだので、その隙にヒビヤの方をちらりと見る。視線に気が付いたヒビヤはどこか含みのある笑みを浮かべた。天使も有翼人も同じだというのがヒビヤの考え方だから話に入れないのを、十分に理解している顔だった。どうしても何もないだろう、と言いたげだなと思ったユウは曖昧に笑って返す。

「はっきり言ってしまうと、混同されてるのよ。本当の意味での天使の姿って知ってる? 人間に翼が生えた姿をしてるの。それで一緒くたにされてる」

 サキは自身の翼に手をやる。彼女も換羽が始まっているようで、よく見ると風切り羽根が一つ抜け落ちていた。

「今からするのは本当の天使の話ね。私たちのことじゃない」

 そう前置きしたサキは、頭の中に置いた書物のページをめくるように静かな瞬きをした。

「天使は神様の使いよ。神様はヒトの前に姿を現さないから、天使は仲介役をしてるの。誰かがそうやって神様の意思とか言葉をヒトに伝えなきゃいけないでしょ。神様はそうそう直接のお言葉なんてくれないのよ」

 この言い振りからも分かることだが、サキは信心深い訳ではないのだ。彼女が珍しいという話でもなく、小鳥籠の有翼人の中にキリスト教や仏教、神道その他宗教への信仰は存在しない。それはヒトの間にある既存の宗教はどれも、ヒトを対象にしたものだからだ。有翼人に関する記述は何処にもない。

 天使が信仰を得る為には、天使たちの中から自発的に宗教が生まれる必要がある。しかし、何かを信じたいという思いの裏には「救われたい」という願いが必ず存在するものだ。救いを求めるほど小鳥籠の中の天使たちは困窮していない。故に彼らは何を信じるでもなくただぼんやりと、世話をしてくれる人間への感謝の思いを抱くにとどまっている。

「私たちは神様の言葉なんて聞けないし、運べないでしょ。だから天使じゃないの。そもそも神様のこと信じてすらないんだから。全然違うわ」

 サキは靴の踵を階段にこつりと打ち付ける。整然と話す彼女は凜としており、有翼人という俗っぽい呼び名よりも天使という美しさを伴った呼称が似合うように見えた。サキの意見に真っ向から反対することになるので口には出さず、ユウは「そうだね」と相槌を打った。だがヒビヤが上空から口を挟む。

「でも俺たち、将来的には手紙を運ぶだろ。あれは人間の言葉だ。言葉を運ぶってことはやっぱり大体一緒だろ。雇い主が神様から人間になっただけで」

 また喧嘩が始まるのではないかとユウは身構えたが、サキは神妙な顔をしただけだった。ヒビヤも意外だったらしく、羽ばたきの速度が緩やかになった。高度が下がる。サキは階段を歩いて行く人間たちを見送って言う。

「ヒトも、そう思ってるのかもね。だからずっと私たちのこと天使って呼ぶんだわ。うん。天使って呼ばれるのはもう仕方のないことよ。私の中ではずっと前から諦めがついてる」

 有翼人を天使と呼び、言葉を運ばせる人間は神にでもなったつもりなのだろうか。ユウはそんなことをヒビヤとサキの発言から考えていた。違和感は募る。それでもヒトを嫌う気持ちは全く生まれてこなかった。ここまで何不自由なく育ててもらった恩と愛着を捨て去るのは容易なことではないらしい。

「でもね」

 そう言ってサキは軽くヒビヤを睨む。不意を突かれたヒビヤは羽ばたきを止め、階段の上に下りてきた。

「有翼人が天使を自称するのは嫌なの。私たち、天使みたいに奇蹟なんて起こせないわ。敵の軍勢を滅ぼしたり、疫病を送り込んだりなんて絶対に出来ないじゃない。それなのに天使を名乗るのって何だかおかしくないかしら。強い言い方かもしれないけど、何だか傲慢だなって思うの。どうかしらね、ヒビヤ」

 優しく首を傾げながらも、その口ぶりには真剣さが宿っている。挑発する言い方ではなかった。口喧嘩をするのではなく、意見が聞きたいのだろう。だがそういった話し合いはヒビヤの苦手とするところだ。ヒビヤは誤魔化すような笑みを浮かべる。

「あー、いや。俺はお前みたいに賢くないからさ。天使って呼ばれたら反射的に天使って名乗っちゃうんだよな」

 助けを求めるようにヒビヤはユウの方を見た。サキは不満げにため息を吐くだけだ。ユウにはサキの言い分も、ヒビヤの感覚もどちらも理解出来る。

 これから実習に赴き初対面の人間に出会った際、天使だと名乗った方が恐らく歓迎されやすいだろう。神の使いである天使の名前を借りることによって、人間の害意を抑制することが出来る。天使とは神聖なものであるという印象を利用するのだ。ただ、これはサキの言うようにどこか傲慢で、かつ姑息なやり口であるとも見える。

 ユウは自分の考えをまとめながら話し出す。

「賢一さんとかはさ、ちゃんと分かってくれてると思うよ。僕らが本当の意味での天使じゃないってこと。だってこんなにずっと一緒にいてくれてるんだし。僕らが自分のことを何て呼んでも、きちんと僕らのことを見てくれるよ」

 他の人間がどうかは知らないが、賢一だけは自分達の悩みも苦しみも分かってくれる理解者だ。話しながら、ユウは賢一のことを深く信頼していることに気が付く。彼はきっと、自称する肩書きについて悩むサキの気持ちもつぶさに感じ取ってくれるだろう。

「ね、僕らが自分のことを天使だって言っても賢一さんは傲慢だなんて思わないよ。有翼人だって名乗っても受け入れてくれる。どっちでも受け入れてくれるヒトが居るんだから、好きな方で良いんだよ、きっと」

 中立的な意見を言い終えたユウは一粒のアーモンドを指先につまむ。どこも欠けていない綺麗な形をしていた。

「外には色んなヒトが居るんでしょうけどね」

 サキは組んだ腕の中に顔を埋めて言う。三羽の横を人間が無言で通り過ぎる。

「そりゃ賢一みたいな人間は珍しい方だろ。大体の人間は天使のこと、言葉をわめくでかい鳥くらいにしか思ってないって聞くし」

 ヒビヤは後ろを向き、階段を上っていく人間の後ろ姿を見ていた。つられてユウも何人かのヒトの背中を見る。三羽に対する関心は無さそうだ。小さい頃から何度もこの階段で座りこんで出入りする人間とすれ違ってきたが、話しかけられたことはおろか、目が合ったこともない。尤も、ユウたちの方も出入りするだけの見知らぬ人間と交流する意思はなかったので互いに不干渉を貫いてきただけの話だ。

 明日から実習が始まる。この人間たちの居る街へと羽ばたいて行かねばならない。上手くやれるだろうかと空を見上げる。ガラス越しの青空は鉄骨の仕切りで細かく区分けされていた。

 実習の話をしても良いのだが、三羽とも外に対する知識は似たようなものだ。憶測と希望、悲観が入り乱れるだけの会話になりそうで、ユウは少し話題を戻してみようと思い立った。

「ねえサキ。僕たちさ、手紙以外のものも運ぶって聞いたよ。手で持てる範囲の荷物とか。本当の天使も何か言葉以外のものを運ぶことってあるの?」

 名前を呼ばれた先はゆっくりと顔を上げる。腕の中に顔を突っ伏していたせいで前髪が乱れていた。

「ミカエルって天使は魂を運ぶって読んだわ」

 理解は出来るものの、想像することは難しかった。天使の中に宗教がない以上、死後の世界や魂といった観念も曖昧だ。

「すごいんだね。どこに運ぶんだろ」

 ユウは小さく光る炎のようなものを魂の形として想像してみた。自分達によく似た姿をしたミカエルは、どんな飛び方をするのだろうか。どこを目指して飛ぶのだろうか。

「天国かしら。あっち、かな。空の果ての方。わからないけど」

 先はあまり自信が無い様子で空を指さす。四角い区切りの向こうに雲がのんびりと浮かんでいた。興味の薄そうだったヒビヤも「あっちねぇ」と眩しそうに空を見る。空の水色の奥をいくら見つめても、天国は影すら出てこなかった。遠くを見やる三羽の周囲をヒトが通り抜けていく。

 そこに羽ばたきの音が近付いてきた。ユウたちの座っている場所から数段下りたところに一羽の天使が舞い降りた。大きな翼が着陸する為に空気を押しやり、ふわりとその黒髪の天使の服の裾をなびかせる。彼はゴーグルを付けており、反射する光で目元は見えなかった。だが三羽はすぐにその天使が誰であるか判別することが出来る。ヒビヤが真っ先に声を上げた。

「カナ兄。やっと来た」

 階段を駆け下りるヒビヤを見て、その天使は小さく頷いた。

「ユウ、ヒビヤ、サキ。久しぶりだな」

 そう言ってゴーグルを外し、素顔を露わにした彼こそが三羽の待ち続けた天使のカナメだった。傍から見れば再会を喜んでいるとは思えないような表情の硬さだったが、ユウは気にせず駆け寄っていく。カナメが顔をほころばせることは滅多に無いが、別に怒っている訳ではないことは長年の付き合いで分かっている。

 ヒビヤとユウはすぐに彼の元へと近付いたが、サキは遅れてやってくる。カナメには身だしなみを整えてから会いたいのだとユウによく言っているから、乱れた髪や翼を整えていたのだろう。

「カナメさん、話したいこと沢山あるんです。今日はどのくらい居られるの?」

 肩からかけた鞄の中にゴーグルをしまいながら、カナメはユウの問いに思案する。

「そうだな、夜には帰らないといけない。だがお前たちと話す時間は沢山ある。賢一さんに会う以外の用事は特に無い」

 会話を続ける最中、大きな羽根が畳まれていく。美しい翼だとユウは感じた。カナメもまた換羽の時期を迎えており、数カ所羽根の抜け落ちた跡があったがそれは些細なことだ。小鳥籠で戯れとして飛ぶユウたちとは違う、明確な目的を持って飛ぶ翼はどこか洗練された印象を持つ。ユウたちの年齢であれば成長は既に終わっており、成鳥のカナメと生物学的な差異はない筈だ。それでも何かが違うとユウは感じている。

 自分達の翼は未熟だ。それは本当の空を飛んだことがないからだ。そして、人間の重いが籠もった手紙を運んだことがないからだ。責任を持った飛行をしたことが未だ無いからだ。

 とりわけ、自分の翼は未熟に過ぎるとユウは劣等感を滲ませる。他者よりも小さな翼はどうにも欠点に思える。誰も嘲笑ったことなど無いのだが、ユウの内心には絶えず侮蔑する自身の声がこだましていた。

「なあカナ兄、聞いてくれよ。最近サキもユウもややこしい話ばっかなんだ。配達員になるってそんなに難しいことか? 人間に言われた通りに飛べるだけじゃダメなのか?」

 ユウが折りたたまれるカナメの翼を見ている内に、ヒビヤが思いの丈をぶつけていた。カナメは配達員の証でもあるゴーグルが入った鞄に手をやる。革製の鞄には足環と同じ番号が刻印されていた。

「少し聞こえたが、確かに随分難しい話をしていたな。天使の話だったか」

「天使は何を運ぶのかって」

 サキは気まずそうな顔をして口をつぐんだ。ヒビヤの言い振りにはごく軽いものだが、サキへの非難が含まれていたからだろう。カナメがあまり深くこの話に踏み入ると、サキとヒビヤの間に険悪な空気が流れるのではないか。ユウは気ぜわしくカナメを見た。彼はそれで何かを察してくれたのか、会話を整えるように「ああ」と短く言ってから言葉を続けた。

「そんな話題が出るということは、そうか、実習が始まるのか。もう人間の家には行ったのか」

 ガラスにおおわれた小鳥籠の中で暮らしていると、そう強い風に出会うことはない。だが入り口に近いこの場所では時折外部からの風が流れ込んだ。春風が吹き抜けていく。花の香りがした。

「ううん、まだ。明日から始まるの」

 いつもより少し高く、細い声でサキが答える。カナメと会うときはいつもこうだ。幼い印象の笑顔が増える。彼のことが好きなのだろう。ユウとヒビヤも勿論カナメのことは好きだが、サキの好意は二羽のそれとは少し違った意味合いを持つように感じられる。

「無理するなよ。困ったことがあればすぐ誰かに言え。俺でも良いが、籠の中の人間に相談するのが一番だろうな」

 まだ三羽がほんの小鳥だった折は、カナメはよくユウたちの頭を撫でた。今もその名残で彼の腕は持ち上がったが、すぐに思い直したように下げられていく。サキやユウの身長はまだカナメよりも低いが、ヒビヤの背丈はカナメに追いついている。頭を撫でて喜ぶような歳でもなかったな、と言うようにカナメは下げた手を背に隠す。

「子供の成長は早いな」

 老成した物言いだ。青年と言っても差し支えない彼にはそぐわない。ただ、ユウたちが舌足らずに話していた頃からカナメの風貌には殆ど変化が見られないので、そう感じるのも無理はない話なのだろう。

「お前たちが運び屋の真似事をして遊んでいたのが、つい先日のようにも感じられる。良かったな、ユウ。あの頃からずっと配達員になるのが憧れだったんだろう」

 ユウは笑みを浮かべて頷いた。カナメとの会話を断ち切りたくなくて、咄嗟に嘘を吐いたのだ。だが無邪気に遊んでいた頃の自分はもう居ない。純粋な憧れは違和感に包み込まれてしまった。ユウの本心の片鱗を見ているヒビヤやサキは今の笑みを不可解に思ったかもしれない。

 そんなことを考えていると、口の中でアーモンドの欠片が喉に転がり込んでつっかえた。小さく咳払いをする。

「そんな古い話、覚えててくれたのね」

「俺にとってはつい最近だ」

 カナメはユウの嘘に気付いた様子もなく話しを続けている。ヒビヤやサキもユウの本心については触れなかった。

「でもカナ兄、俺たちがあの遊びしてるのあんまり好きじゃなかっただろ。何でかはわかんないし、気のせいかもしれないけど」

 昨晩もヒビヤは似た事を言っていた。まさか本人に直接聞くとは思っておらず、ユウは目を見開いた。

「お前はよく見ているな、ヒビヤ」

 カナメは気分を害した様子もなかったが、表情を和らげることもない。

「移動しながら話しても良いか。到着したことを職員棟に行って伝えないといけない」

 そう言って腕時計を確認したカナメは羽根を広げる。ユウたちがそれぞれ同意するのを見て彼は階段の最上段まで羽ばたいた。階段を蹴る音は力強く、耳に残る。次に飛び立ったのはサキで、軽やかな足音を残してカナメのすぐ横に着地する。それはあまりに近すぎる距離に見えた。ヒビヤは「あいつ」と呟いて羽根を広げる。ユウもそれに続いて短い距離を舞い上がった。

 ヒビヤは最上段に落ちていた砂利を踏み、何か言いたげにサキとカナメを見て口を開いた。だが言い淀み、無理に話を切り替える。

「昨日さ、新しい飛び方やってみたんだよ。ユウは危ないって言ったけど」

 返事は求めていないらしく、ヒビヤは誰の顔も見ずにそう言ってさっさと歩き出す。四羽は翼を畳み、職員棟までの道のりを一歩一歩進んでいく。辿り着くまでにそれなりの距離があるが、飛んで行かないのには理由がある。

 成鳥と幼い天使は翼の長さが異なる。どれほど成鳥が気づかっても、幼い天使は大人の天使に追い付けない。ただ一回の羽ばたきで成鳥と幼鳥の差は大きく開いてしまう。

 ユウたちの羽根がまだ小さく未熟だった頃の名残で、カナメは三羽と長い距離を移動する際は地面に足を付けて歩くことを好んだ。

 とはいえ今のヒビヤ、サキであればカナメと遜色ない飛行が出来るだろうな、とユウは自分の背に意識をやる。平均よりも小さな翼は何処へ行くにも忙しなく羽ばたかせなければならない。誰も口には出さないが、今こうして歩いているのはユウ一羽の為なのだろう。前を行く三羽の背を見る。カナメはひときわ大きな翼を持っていた。羨ましい、と感じた。

 小鳥籠の入り口から離れて行けば風が弱まる。空気の流れが緩やかになり、ぬるい酸素が肺を満たす。休日を謳歌する他の天使たちが籠の中の空を飛び交う。地面をゆっくりと歩いているのは見た限り、ユウたちだけだった。

 ふと気に掛かって宿舎の大時計の方を確認すれば、その針は午後二時を指している。何の憂いもない春の陽気だ。上空から聞こえる天使の笑い声が平穏な風景を理想郷のように仕上げる。

 カナメは安穏とした情景に懐柔されることなく、固い声を出す。

「誰に教えられるでもないのに、有翼人は空を飛ぶ。何故だろうな」

 そのすぐ隣を歩くサキは考えながら答える。

「羽根があるからかしら。鳥もそうよね。教わらなくても飛べるわ」

 飛ぶ理由を思い出してみようとユウは古い記憶を辿るが、物心がついた頃には既に何の疑問も持たず羽ばたいていた。飛ぶ事も歩くことも、意識して身に着けた行動ではない。

 カナメは一つ頷いた。サキの表情が和らぐ。

「そうだな。本能に刻み込まれているんだ。

 では、配達員になりたいと願うのはどうだろう。小鳥籠の有翼人は誰もが配達員になるのだと一生懸命だ。誰かに強制された訳でもないのに、皆一様に一つの職業に向かって邁進する。これは何故だろうな」

 今度はなかなか答えが出なかった。箱庭の停滞した春の中に、カナメの話が異質な雰囲気を持って転がる。冷たく鈍い色をした疑問は、だが確かにユウの抱いた違和感と同じ色合いをしていた。答えが出ない沈黙を、ユウは思い切って破る。

「あの、僕も実は同じこと思ってたんだよ。カナメさんにその事を聞きたかったんです。どうしてなのかなって。教えてください。考えてもわからなくて。賢一さんに、配達員以外のものになれないのか聞いたんですけど難しいって言われて」

 ぬるい空気が身体に纏わり付くようだ。満ち足りた筈の小鳥籠で、こうした違和感や疑問を持つことは悪い事のように感じる。春がユウを苛むようだ。

 カナメは意外だったのか、目を僅かに見開いてユウの話を聞いていた。サキとヒビヤはこの話題を嫌うように視線を銘々の方向へと逸らしている。カナメの表情に大きな変化は見られなかったが、緊張をほぐすように翼が震えた。

「人間は俺たちを作る時に夢も本能に組み込んだ。人間の役に立ちたいと願う個体を選んで掛け合わせた。家畜とはそういうものだ。都合の良い形に練り上げられた生き物だ。俺たちが自発的に配達員を目指した方が、人間には都合がいい。だからだろうと俺は考えている」

 話を続けながらも歩みは止まらない。皆が一歩踏み出すごとに足環がほんの小さな金属音を奏でる。今に聞こえだしたものではないのだが、いやに耳障りだった。

「楽しい話ではないな。すまない。ユウはともかく、サキやヒビヤに聞かせるべき話ではなかったかもしれない。もっともらしく言っているが、全て俺の推測だ。聞きたくなければ忘れて欲しい」

 ヒビヤは肯定とも否定ともつかない返答をし、サキは首を横に振った。

「確かに俺はお前たちの遊びを喜ばしい気持ちで見ていなかった。こんなに幼い頃から、人間に植え付けられた本能に忠実なのかと暗い気分になったからだ」

 カナメは真っ直ぐに前を見ながら話していた。誰とも視線は交わらなかった。彼の横顔は兄らしいものから、一羽の有翼人としてのものに変わっていた。

 ユウは、自分以外にも似た感情を抱いている存在が居ることを嬉しく思った。だが同時に、カナメがここまで強い反発を持っているとは考えていなかったので戸惑った。

「人間に作られたって話さ、そんなに気にすることなのか? 誰に作られてようと俺は俺だと思うんだけど」

「確かにな。お前はお前だよ、ヒビヤ。サキもユウもだ」

 答えるカナメに愛情深い兄の面が数秒だけ覗く。

 自分の夢は作り物なのだろうか。ユウは思考する。配達員になることは憧れだ。カナメの姿を見るたび、自分もああなりたいと願っていた。配達員の制服も、持つように定められた鞄もユウの夢の象徴としてあった。

 ユウはカナメが今も提げている鞄に視線をやった。洒落た装飾一つ無い、口の広い革製の鞄だ。下部に個体を識別する為の番号が刻まれている。

 配達員として働くことは、人間の思惑通りだというのがカナメの推測だ。ユウも似た事を考えている。明日からの実習に不安を感じているのもそのせいだ。このまま進んで良いのだろうかと立ち止まろうとしている。

 だが同じ事を考えているカナメは配達員として働いているではないか、と気付いたところで齟齬が生じる。彼はユウたちが幼い頃から何十年も勤勉に働いている。制服を着崩した所さえ見た事が無い。だから彼がここまで不満のようなものを抱いているとは思わなかったのだ。

 彼は天使の現状を暗い気持ちで見つめながら、それを受け入れて生きていることになる。矛盾した生き方だ。暗澹たる道のりだ。カナメの表情がいつも固い理由を垣間見てしまったように感じ、ユウは心の中で謝罪して目をきつく閉じた。

「鳥が空を飛ぶのは悪い事じゃないわ。私たちが配達員を目指すのも同じよね。悪いことでも悲しいことでもないと思うの」

「ああ。お前たちを責めているのでも憐れんでいるのでもないんだ、サキ。今のままでしっかりと前に進んでいける奴にはどうでも良い話だ、これは。そうだな、巣立ちの時期が来ているのにあれこれ考えてしまって、なかなか飛び立てない奴に必要な話だ」

 そう言ってカナメはユウの腕に軽く触れる。目を開けると、カナメはヒビヤとサキに二人で話していて欲しいと頼んでいた。この二羽が仲良く会話することなど無いだろうな、とユウは考えたがヒビヤもサキも了承する。

「少しだけ俺とお前だけで話そうか、ユウ」

 段々と歩調を早め、ヒビヤとサキから距離を取るカナメに着いていく。その駆け足が返事の代わりだった。

「他にも聞きたいことがあるなら聞こう。友達の前では言いづらいこともあるだろう」

 職員棟まではもうすぐだった。整備された花壇に、賢一の好きなキンセンカが混じり始めている。

「カナメさん、ヒトのこと好きですか」

 賢一のことを思い出した為に出た質問だった。人間に管理されている状況に疑問はあるが、ユウは賢一や他の人間の事が好きなままだ。だが考えてみれば、管理下にあることを嫌うのであれば人間のことも嫌うのが自然だろう。カナメは職員棟の方に視線をやった。ユウもつられて同じ方向を見る。窓に人間の影がいくつもあった。

「嫌いではない。賢一さんには世話になったし、郵便局に居る人間たちとも上手くやっていると思う。ただ」

 カナメはそこで一呼吸する。短い沈黙の間、ユウの耳は後ろの二羽が案外落ち着いた調子で何事か話しているのを聞き取った。

「ただ、対等ではないんだよ。俺たちと人間は」

 賢一と話した際に、自分もそんなことを言ったとユウは思い出した。

「僕も何だかそんな気がしてます。その、家畜と飼い主って関係だから。適当に扱われたとか、酷いことをされたとか、そんなことは一回もないんだけど」

 安堵した様子でカナメはユウの頭を軽く撫でる。だがすぐに手は離れ「もう子供ではないのにな」と謝られた。

「まだ子供です。こうして相談に乗ってもらわないと悩んでばかりだし。ほら、僕はまだ巣立ちが出来ない小鳥なんですから」

 そう言ったが、もうカナメがユウの頭を撫でることはなかった。代わりに言葉が向けられる。

「有翼人の配達員など、昔ほど必要無いものだ。人間もバイクを使えば速く移動出来る。トラックの方がより多くの荷物を運べる。情報を届けたいだけならいくらでも、もっと便利な他の手段がある。電話やメールや、他にも様々だ」

 賢一や他の人間が触れてこなかった話だ。ユウたちも現代の社会で手紙自体が衰退した文化であることは知っている。だが小鳥籠に居る有翼人は配達員になるために生まれてきたのだと教わってきた。その通りに育つことが、人間の役に立つ行動なのだと言われ育ってきた。

 疑問を差し挟みたかったが、カナメは話を続けた。

「人間は俺たちをまだ育てているが、そこに昔ほどの切羽詰まった感情はない。伝令として重用されたのは遠い過去の話だ。

 ユウ、人間は俺たちなどもう必要としていない。だが俺たちは人間が居ないと生きていけない。これが天使とヒトの間にある歪みだ。対等にはなれない」

 キンセンカの橙色が視界を占める割合が多くなってきた。賢一は授業の合間にこの花を眺めるのが好きなのだとよく話したのをユウは思い出す。それと同時に、いつの間にか職員棟に到着していたのだと気が付く。この建物の中には人間しか居ない。カナメの話を聞いた後だと、威圧的な建物に見えた。

「悪い。賢一さんも待っているだろうから行かないといけない。あまり話せなかったな。また今度にしよう。

 これだけ言っておくが、小鳥籠や人間への疑問は大事にするといい。天使にとっては持つことが難しいものだ」

 口早に囁いたカナメは、後方を着いてきている二羽に手を振る。サキとヒビヤは開いた距離を数度羽ばたいてすぐに埋めた。

「お前、カナ兄と並ぶとちっちゃく見えるな」

 ヒビヤはそう言ってユウをからかったが、悪意は無さそうだった。ただ思ったままを言っただけだろう。

「まだ伸びるよ。成長期終わってないんだから」

 ユウが応じるとヒビヤは可笑しそうに笑う。

 その横でサキはカナメに駆け寄っていた。スカートが揺れて、細く白い足が見える。サキは「あのね」と背伸びをしてカナメの耳元に口を寄せる。屈んで話を聞くカナメは何度か頷いていた。口元を隠す為にサキは手をあてる。それがカナメの頬に触れる。

 サキの翼が広がる。一連の流れはサキとカナメの間だけで取り交わさなければならないのだとでも言うように、彼女らを包む形に羽根が広がった。腕こそ回していないが、まるで抱擁だ。

「わかった。約束しよう」

 カナメにそう言われたサキが、嬉しそうに頬を染めるのが彼女の羽根の合間から見えた。

「約束ね」

 羽根の奥で二羽の小指が絡む。ユウとヒビヤは意味の無い話をだらだらと続けながら二羽のやり取りから目が離せないでいた。

 サキの羽根が淑やかに、抱擁の形を保ったまま閉じていく。翼を腕と見なすのであれば、抱き締める、という表現が適切だろう。随分と危うい行為だとユウは動向を見守っていた。羽根さえ擦れ合わなければまだ良い。だがユウの危機感も他所に、サキの羽根に力が込められていく。

 そしてサキの翼の内側が、カナメの閉じた翼に触れたように見えた。確かなことではない。カナメの表情がはっとしたものに変わったので、そうではないかと推測したのだ。ユウは何か言わなくてはと口を開くが、何も出てこない。喉の奥で声にならない息が詰まった。その時、真横から快い声が飛び出した。

「おいおい、サキもカナ兄と内緒話かよ。四羽で仲良く喋る方が俺は好きなんだけどな」

 わざとらしい程に快活なヒビヤの声を無視出来ず、サキは羽根を畳んだ。

「そうよ、秘密の話。だってユウばっかりカナ兄のこと独り占めするなんてずるいでしょ」

 先ほどまでの言動が嘘のように、サキは普段通りだった。何も無かったように振る舞うのが正解だと察したユウは、深呼吸をしてから場の空気を和やかにするための笑みをこぼした。

「それはごめん。確かに僕が独占しちゃったね。ヒビヤも二羽だけで話したいことがあるなら今度しなよ。今はカナメさん、職員棟に向かわなきゃいけないから難しいけど」

 ね、とカナメに話を向けると彼は頷いた。

「夕方には終わるだろうから、またその後で話そう」

 ヒビヤは首を横に振る。

「俺は一対一で話したいこととか無いからいいよ。それより用事が終わったらさ、皆で一緒に夕飯食べに行くのはどうだろ。折角カナ兄が居るんだから、いつも食べないもの頼もうぜ」

 僅かに羽ばたき、足取りを軽くしたヒビヤは踊るように皆を誘う。花壇の花が呼応して揺れた。ヒビヤの羽ばたきが引き起こしたのはごく柔い風だったから、茎が絡まり合うことも花々が傷付け合うことも無い。

「ユウとサキが良いなら俺も賛成だ。小鳥籠の食事は久々だな」

 結局、誰からも反対意見は出なかった。また後でと三羽に和やかに見送られ、カナメは職員棟の方へと去って行く。彼が扉をくぐり、姿が見えなくなると気まずい空気が流れ出す。我慢できないといった調子でヒビヤが口を開いた。

「なぁサキ」

 呼びかけに対する返答はなかった。仕方なくヒビヤは続ける。

「ああいうこと、しない方が良いと思うぞ」

 ヒビヤは敢えて何のことを指すのかぼかした言い方をしたが、カナメとの距離感についての話だとすぐに分かる。それ以外でこうも神妙な空気にはならないだろう。サキはカナメの行った方向を見て、数秒間しっかりと思考の時間を取ってから答える。

「言いたいことはわかってる。そういうのじゃないから。カナ兄と仲良くなりたいだけよ。それもいけない? いつも悪い子のヒビヤにあれこれ言われたくないわ」

 先ほどの抱擁まがいの行動は、恋愛感情から生まれたものではないとサキは言っているのだ。

 飼育下の有翼人は恋愛を禁じられている。人間の管理を外れた繁殖を防止する目的だ。天使の交配は人間が個々の特性を見て決定する。自由意思による繁殖は認められない。とはいえ天使は恋愛感情を抱きにくく作られている為、反発が生まれることはなかった。

 サキはどうなのだろう、とユウは付き合いの長い友人の目をそっと窺う。瞳の奥に迷いが見て取れた。

「私だってあんなの、はしたないと思ってるわよ」

 天使を新たに生み出す方法は人工授精が主だ。本来の形での繁殖の際、有翼人がどのような行動を取るのかなどは研究者でもない限り持たない知識になっている。ユウもサキもヒビヤもその実体は知らない。恐らく、生涯を終える時まで知る事はない。天使にとっての子供とは、人間が勝手に増やしてくれる存在だ。

 だが天使の中での共通認識として、異性と翼を触れ合わせることは交尾の前兆として捉えられている。禁じられている恋愛よりもより踏み込んだ行為を感じさせる為、天使たちは男女間での翼の距離をひどく気にする。

「仲良くなりたいって気持ちは昔と変わらないのに、もっと近づける筈だって思ってしまう時があるの。体温が上がって、触れ合いたくなって、そういう衝動に身をゆだねたくなるの。そういう時、どうしたらいいのかしらね」

 サキはヒビヤではなく、ユウに語りかけていた。三羽の足下で花が揺れる。蝶が飛んでいた。

「解決策は分からないんだけど、僕もサキと一緒かもしれない。昔は規則の中で生きて何も不自由しなかったのに、最近は決まり事を破ってみたい気持ちが溢れてくる。理性とか、冷静な気持ちとか、そういうものを吹き飛ばしたいって思うんだよ。それでね、どっちの自分を信じたらいいのか分からなくなるんだ。大人しくて冷めた僕と、意欲に溢れて後先考えない僕と。どっちも僕には変わりないからすごく悩む」

 花々が午後の光を受けて輝いている。蝶は密を吸い、花粉を運ぶ。花は受粉し、種を残す。ごくありふれた自然のサイクルが小鳥籠で廻っている。

 野生だった頃確かに持っていただろう恋という感情も忘れ、子孫繁栄をヒトにゆだねきった天使は花や蝶と同じだと語って良いのだろうか。カナメの言った通り、天使は人間が居なければ生きていけない生き物だ。花も虫に頼って子孫を残すが、その誕生から世話になりっぱなしという訳ではない。飼育されることは、自然の営みから外れることなのだろうかとユウは思考する。

「一緒かもね。悩みは尽きないわ。理性の私と本能の私はずっと喧嘩してる」

 そう言ってサキが職員棟を見つめるのを止めた時、ふと一匹の蝶がヒビヤの手の甲に触れた。さっと彼は手を動かし、翅を指の間に挟んだ。小鳥籠の中に居ながら縛られず、自由に空を飛んでは子孫を残すその虫は簡単に捕らえられた。

「俺は悩まないけどな。多分さ、ちっちゃい頃からずっと良い子にしてた反動だろ。俺みたいに悪さしないからそうなるんだ」

 モンキチョウかな、とヒビヤは呟いて二羽の方に蝶の黄色い翅を見せる。淡い色合いが可愛らしい。だがそれとは裏腹に、蝶は指から逃れようと懸命にもがいていた。脚がばらばらの方向にうごめき、優美だとは言えない。

「悩んだら真っ直ぐ飛べないだろ。俺は迷いなく飛びたいんだ」

 蝶がもがく。ヒビヤはその感覚を翅越しに丹念に感じ取っているように見えた。

「羽根を持って生まれてきたんだから」

 彼がその気になれば、指先の虫の翅をもぎ取ることも命を散らせる事も容易だ。勿論、ヒビヤがそんな残酷な行為に出ることはないだろう。だが蝶をつまむ友人の姿にユウは人間と天使の関係性を重ねた。天使も蝶も、どれだけ抗おうが指先に少し力を加えられれば握り潰されてしまう存在なのだろうか。ユウやサキの抱く衝動など、蝶の細い六本の脚のもがきに過ぎないのだろうか。

「そうだね。羽根があるなら何処までも飛べる筈なんだ」

 ユウがそう言うと、ヒビヤは頬を緩めてしゃがみ込む。

「ああ、何処へでも行ける。こいつも逃がすか。ほら、バイバイ」

 ぱっと花の近くに放たれた蝶が飛んでいく。自由ね、とサキはユウにだけ聞こえるような声で言った。

 蝶は花壇の鮮やかな色彩に紛れていく。ヒビヤは指先に息を吹きかけ、付いた鱗粉を飛ばした。陽射しに粉は煌めき、一瞬だけヒビヤの息が光る。そうしてささやかな輝きをまとった彼は笑みをたたえていたので、まるで本当の意味での天使のようだと感じる。その自然な姿は純粋に美しかった。

 ヒビヤは飾らない、いつもの調子でサキに話しかける。

「恋とか知らないけどさ、やめとけよ。ややこしいもんだろ、あれは。さっさと賢一に言えば何とかしてくれるんじゃないか?」

「嫌よ、恥ずかしい」

 ヒビヤはしゃがみ込んだ姿勢のまま職員棟を指さしたが、サキはすぐにその手を下ろさせる。ヒビヤに近づきはしたものの、翼が擦れ合わないように気を付けているのがわかる。恋とはただひとりに向けられるのか、とユウはどこか物珍しい気持ちでそれを見ていた。

「じゃあもうさ、いっそカナ兄に相談すれば?」

「馬鹿じゃないの、あんた」

 真剣さが支配していた場の空気が柔らぎ始める。

「まあまあ。案外、本当にカナメさんなら親身になって聞いてくれるかもよ。サキがそういう気持ちだってことはきっともう分かってると思うし」

 サキは二羽から顔を背けた。どちらの意見も気に食わなかったようだとユウはヒビヤと顔を見合わせる。ヒビヤはそのまま、こそこそと耳打ちをしてくる。

「まだ相手がカナ兄で良かったよな。これで相手が人間だったら大事だ。いや、いっそその方がサキもさっさと諦めたかな」

 ユウはどうかな、と苦笑いをこぼした。サキは頑固な所があるから、人間相手でも真面目に向き合いそうだと思ったのだ。

 天使同士の恋は禁止という形をとっているが、有翼人と人間で子供を作ることは禁忌とされている。いくら言葉が通じ、意思疎通が可能に思えても有翼人と人間は別の生き物だ。異種交配によって生まれる子供には何かしらの悪影響が出るとされる。

 恋仲になるのが難しい理由は、こうした生物学的な問題だけではない。有翼人は人間よりも長い年月を生きる。仮に人間の恋人が出来たとして、高確率で相手の方が先に死んでしまうのはきっと辛いことだろう。恋人というものがどれだけ失いがたいものなのか、ユウには想像するしか出来ないのだが悲しいことに思えた。

「もう帰るわ。夕食の時間にまた会いましょ」

 そう言ったかと思うと、いささか乱暴に羽根を広げてサキは飛び立っていく。花に群れていた蝶は煽られ、花弁から引き離された。

「行っちゃった」

「俺たち、あんま力になれないしな。正解だろ」

 ヒビヤは大人びているような、幼い子が拗ねているような、どちらとも付かない返事をする。ユウは昔からの友人であるサキに頼ってもらえないことがやや寂しかったが、自分も似たようなことをしていたなと不満を漏らしそうになるのを飲み込んだ。小鳥籠の在り方に疑問を抱き、ヒビヤやサキには分かるまいと心のどこかで思っている。口には出さないが、自分は独りだと思い込むことで周りをやんわりと拒絶しているのがここ数日のユウだ。

「どっか行くか。カナ兄が出てくるまで此処で待つっていうのはちょっと退屈だし」

 二羽はあれこれ行き先を考えたが、結局自分達の部屋に戻るのが一番だと答えが出た。何か大層な娯楽の準備があるわけではないが、くつろぐには最適の場所だ。

「朝ご飯の食器って洗ったっけ。流しに下げたのは覚えてるんだけど」

「あー、ほったらかしだな。カナ兄が来るって言うから慌ててた」

 他愛ない会話をしながら翼を広げる。軽く羽ばたけば羽根の内側が空気をはらむ。地面を軽く蹴り上げて、二羽は宙へと飛び立った。

 ヒビヤは相変わらず、緩やかな速度で飛んで行く。もう少し速くても追い付けるのだけど、とユウは思っているのだが言い出せない。二羽の間で「もう少し」の度合いが異なっており、ヒビヤに追い付けなくなってしまったら気まずくなるだけだと考えてしまうのだ。そんな訳で、人間が走るよりも速いが有翼人にしては抑えたスピードで二羽は飛ぶ。

 斜め前、少し下方を飛ぶヒビヤは向かい風に目を細めていた。その口元が小さく動く。同時に落ち着いた声が響いた。歌っている。聞き覚えのない歌だった。歌詞はヒビヤもうろ覚えらしく、所々しか言葉になっていない。それでも断片的な歌詞は落ち着いた旋律に乗せられていく。幸せ、別れ、好きだといった言葉がちらほらと聞こえてきたのでユウは尋ねてみた。

「聞いた事ない歌だね」

 小鳥籠で流れる曲よりもしっとりとした印象だった。ユウの知る限り天使は作曲などしないので、人間が作ったものには違いないだろう。

「なんか外で流行ってるらしい。ここでは流行しないだろうな、天使と人間の好みって違うっぽいし」

 それは確かにそうだとユウは同意する。人間に向けて作られた映画や音楽を鑑賞することも今までにあったが、どれもそこまで興味を惹かれなかった。天使に向けて作られたものの方が、やはり面白いと感じることが多い。

 感じ方の差が生まれる理由の一つには、天使が恋愛感情を持たないことも関係してくるのだろう。恋の要素は共感しづらく、楽しむのは難しい。

「サキは好きになるかもよ。恋愛の歌でしょ、それ」

「でもこれ多分上手いこと行かなかった恋の話だろ。怒られるぞ、お前」

 ヒビヤだってカナメさんとの恋を諦めさせようとしている癖に、と前を飛ぶ背中に向かって言うが、彼は聞こえていない振りをした。

 宿舎へと飛ぶ最中、幾羽もの天使とすれ違う。誰も籠の外を見たことがないというのはどうしても奇妙なことに思える。地上に縛られることなく飛び回る天使は、その実、規則という縄で雁字搦めにされている。恋愛ごとを禁じる決まりもそうだ、とユウはサキの顔を思い出す。

 自由になれば、純粋な恋とやらも咎められることがなくなるのだろうか。

 向かい風に隠すように、ふっと吐き出した息が後ろへ流されていくよう願いながらユウは独り言を漏らす。

「何の為に僕らはここに居るんだろう」

 カナメが、人間と天使は対等ではないと語った時から考えていた。さして必要とされていないのなら、何故この籠の中で育てられているのか。何の為に縛られているのか。

 美しさを買われているのかもしれない、という漠然とした推測がユウの頭の中に去来する。天使の造形は美しい。すれ違う天使も、すぐ前を飛ぶヒビヤも健康的な肢体をしている。鳥によく似た翼は空気を掴む度に滑らかに動き、薄く白い羽毛は重なり合って白をより純粋な白へと変える。

 穢れないように、雑味が入らないようにと育てられてきた。宿舎に到着し、一足先に舞い降りたヒビヤの羽根がばさばさと揺れる。何枚かの羽根が抜けていく。

「ああ、散らかった。拾わないとだ」

 ヒビヤが羽根を拾い集めるのが見えたので、着地位置をずらす。巻き起こした風で吹き飛ばしてしまっては悪いと思った。少し離れた場所に降り立てば、手の中に細かな羽根を握り混むヒビヤが居た。手伝おうと脚を向けたが、すぐに掃除は終わってしまったようでヒビヤの方から近付いてくる。

「また捨てないとな。それとも外の人間に売るか?」

 冗談を言いつつ、ヒビヤは羽根を適当にポケットへとねじ込む。売れるわけがない、と即座に答えるのは何だか躊躇われた。先ほどの推測がまだ頭の中の大半を占めていたからだ。それに改めてまじまじと見てみれば、握られた羽根はごみ箱へ入れられるにはあんまりに惜しい白さをしていたのだ。

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