第1羽 換羽

 初列風切。翼の骨格を手に当てはめるならば、指から手の平にかけて生えている大ぶりな羽根のことだ。羽根と言って多くの人間が想像するのはこの羽根の形だろう。

 淡い水色の髪をした有翼人、ユウは自分の羽根の部位を確認するように手を滑らした。初列風切から次列風切へ。これは手の平から肘にかけての部分にあたる。続けて三列風切。胴体と翼全体を繋ぐ役割を持っている。

 背中に生えた羽は飾りではない。飛ぶ為に使う重要な器官だ。異常がないか点検し、手入れをするのは多くの有翼人にとって当然の行いだろう。ユウも空いた時間があれば、こうして自室で羽根の手入れをした。

 翼の先端から根元に向かって触れていくと、羽根が一枚ひらりと落ちた。初列風切のうち、最も身体側に近い羽根だ。痛みはない。

「もうそんな時期なんだ」

 ひとり言を呟く。落ちた羽根は真白く、空を飛ぶ事に最適化された形をしていた。

「あー、換羽か? そういや、もう暖かくなってきたもんな」

 誰に向けた言葉でもなかったのだが、ルームメイトのヒビヤはそう答えた。ユウは確かにねと返しながら窓の外を眺める。木々の緑は若々しい色をして、花々のつぼみも膨らんでいる。春の到来だ。

「部屋の掃除が大変になるね」

「まぁな、細かい羽根が抜け始めたら余計に。あんまりバサバサさせんなよ。俺も気を付けるけど」

 有翼人は春と秋に換羽を行う。古い羽根から新しい羽根へと生え替わる時期のことだ。同じく翼を持つ鳥類と似た工程を辿っていく。有翼人の場合、換羽の始まりは初列風切からになる。続けて風切り羽根を覆うように生える雨覆へと移っていく。

 ヒビヤはユウから抜け落ちた羽根を拾い上げ、ごみ箱に捨てた。生えている間は手入れを欠かさず、一枚欠けても大事だと騒ぎ立てるが、こうして自然と翼から離れたものは不要なごみだ。何の感慨もなく捨てられる。

 もうじき、ごみ箱はユウとヒビヤの真っ白な羽根で埋め尽くされるだろう。換羽はゆっくりとした速度で行われるが、二羽分の羽根が次々に落ち始めれば、その量はそれなりのものになる。想像してみたユウは小さなため息を吐いた。

 この時期があまり好きではないのだ。体力を消耗し、見た目の美しさが損なわれる換羽を嫌う有翼人は多い。だがユウはそれとは別の理由を持っていた。

 文字通り、自分が抜け落ちていく感覚がするからだ。昨年の秋から育んできた自分が剥がれ落ちていく感覚がする。新しいものに生まれ変わらなくてはならないと、細胞や本能、遺伝子から脅迫されているようで落ち着かない。急き立ててくる身体に心はなかなか追いつかなかった。生態と思考、本能と理性の解離がユウの目を伏せさせる。

 椅子に腰掛けると、背もたれに羽根が押し付けられて僅かに粉が舞った。羽繕いの際にまぶしたもので、撥水効果がある。こうして粉が舞うことは、ユウが普段から丁寧な手入れを欠かさないことを示している。白い粉は陽の光を反射して一瞬きらめいたが、すぐに空気中に溶けるようにして見えなくなってしまった。

 なぁなぁ、とヒビヤは軽い調子で語りかける。

「知ってるか? 外の人間って羽根が物珍しいから、こうやって抜けたやつを集めるんだ。ここだけの話、俺たちのごみ箱から回収して売ってるらしい」

 彼はごみ箱を指さして口の端を上げる。

「ええ? 嘘だよ、そんなの。いくら珍しいからってこんなの買わないでしょ」

 ユウやヒビヤが過ごすこの場所は「小鳥籠」だ。名前の通り幼い有翼人が育てられる施設となっている。言葉を理解出来るようになった頃に入学し、思春期の終わり頃を迎えれば卒業となる。教師役以外の人間を目にすることは少ない為、ヒトの暮らしについては不明瞭な点が多い。だがヒビヤはいつもこうして嘘か本当かわからない噂を持ってくるのだった。

「嘘じゃないって。あ、もうすぐ外の人間に会えるだろ。その時聞いてみようぜ」

「配達実習のこと言ってる? 確かに会えるけど。聞くのはやだよ、失礼だったらどうするの」

 ヒビヤが人間の話をするのは、暗くなりそうな空気を吹き飛ばしたい時だ。ここでは物珍しい話をすることで、悩みや苦しみから距離を開けようとしてくれる。ユウは昔からルームメイトのこういう所を好ましく思っていた。

 椅子に腰掛けたまま、ゆらゆらと足を動かす。ヒビヤの優しさに微笑みそうになったので、それを紛らわせようとしての行動だ。面と向かって好意を伝えるのは気恥ずかしかった。番号が刻まれた足環が椅子の脚に触れ、小さな金属音を鳴らす。

「俺は聞いてみるけどな。怒られても大丈夫だろ。人間が走るより俺たちが飛ぶ方が速いし、説教聞かされる前に逃げ切れるって」

 そう言っていつも教師役に結局捕まり、叱られているのはどこの誰だっただろうか。

「罰則っていうの、受けさせられても知らないよ。すごく怖いことらしいけど」

 ユウはくすくすと笑う。羽根が揺れる。風切り羽根が抜け落ちたことで空いた場所に風の流れが生まれた。乳歯が抜けた後のような落ち着かない感覚がする。

「ヒトって羽根がないから生え替わりしないんだね。換羽がないんだ」

 考えてみれば当然のことを口に出す。

「羨ましいのか?」

 他愛ない空想で、もし自分が人間だったらと考えてみたことはある。だがユウは人間になりたいと願ったことは一度も無いことに気付いた。

「ううん。気になっただけ。人間ってあんまり成長とかしないのかな」

 換羽のように成長を促されることがないのなら、無理に大人になる必要もないのだろうか。は虫類が脱皮をするように、有翼人や鳥が羽根を脱ぎ捨てるように、過去の自分と訣別する場面は人間の生涯において一度も訪れないのだろうか。

 これはどこか重い問いであるように思われた。だがヒビヤはあっさりと答える。

「そんな訳ないだろ。むしろあいつらすげぇ成長早いじゃん。八十年とかで死ぬらしいし。賢一もここ最近で一気におっさんになったよなー。あと百年くらいしたら俺たちもおっさんになるんだろうけどさ」

 ユウたちの学年の教師役である賢一の名前を出されると、ユウも納得せざるを得ない。僅か十五年ほど前まではまだ若々しいという印象だったのだが、今では皺も多くなり髪に白いものも増えた。

「賢一さん、ちゃんと僕らのこと見届けてくれるかな」

「どうだろうな。俺たちが卒業するくらいまでは居てくれると思うけど」

 寿命は人間と有翼人の間に存在する相違点の一つだ。人間は有翼人の半分ほどしか生きられないのだという。成長速度も異なっており、単純な見た目だけで互いの年齢を把握するのは難しくなっている。

「前から思ってたけどお前、人間に興味薄いよな。賢一のことも今やっと気付いたろ。言っておくけど、入学したすぐ後くらいに俺たちの間で割と騒ぎになったからな。自分達が成鳥になるより先に賢一が死んじゃったらどうしようって」

 記憶を辿ってみれば、確かにそんな騒動があった気がする、とユウは思い出す。未熟で感情の制御が出来ない子供達が悲しげに泣くのを、賢一が優しくあやしていた。ヒビヤも泣いていたのだっけ、と思い返そうとしたが彼のプライドをいたずらに傷つけそうなのでやめておいた。

「心配しなくても賢一さんは僕のこと見届けてくれる気がしてたんだよね、何故か」

「何だその自信。優等生で可愛がられてるからそんななのか? お前」

 眉根を寄せてヒビヤはしかめ面をした。

「優等生なユウはこのままほっといたらさ、勉強とかし始めちゃうんだろ。外に遊びに行こうぜ。仕事が始まる前にいっぱい遊んでおきたいんだよなー。な、行こう」

 ユウが返事をするよりも早く、ヒビヤはドアを開けていた。今にも飛び立っていきたいのだと言いたげに翼が持ち上がっている。飛翔の前の予備動作だ。

「屋内で飛んだら叱られるよ。待って、僕も行くから」

 立ち上がり、ヒビヤを追いかける。残された椅子の背もたれには脂粉が薄く付いていた。


 廊下を抜けて宿舎を出ると、眩しい陽射しと喧騒が溢れていた。地面には柔らかな草が青々としている。芝生というよりも草原という表現が似合うだろう。シロツメクサの柔らかそうな緑が点在している。

「あ、あそこ遊んでるな。混ぜてもらおう」

 上空でボールを投げたり落としたりしている子が数羽居るのを見つけ、ヒビヤは羽ばたいていく。出遅れたユウは手で目元に日陰を作りながら友人の後を視線で追いかける。ガラス張りの天井が見えた。

 空が何かに覆われている風景を眺め続けてもう二十年は経つ。これはユウに限った話ではないが、物心がついてからずっとこの閉じた空を見ている。小鳥籠には数百人の幼い有翼人が暮らしているが、誰も外に出たことは無いだろう。外に出たところで行く当てもない。ユウたちにとって小鳥籠の中が世界の全てだった。数十メートルの高さの空間を飛び回っては外、空と呼んだ。閉じた環境ではあるが窮屈に感じたことはない。

 だがもうすぐ、本当の空に出る日が近づいている。その日は着々と近付いており、ユウと同年代の子たちは皆どこか落ち着かない。

「入って良いってさ。ユウ、来いよ!」

 見上げた眩しいガラス越しの太陽に紛れながらヒビヤが呼びかける。うん、と答えながらユウは翼を広げる。やや小ぶりな羽根だが、飛ぶのに不自由するほどではない。羽ばたくのとほぼ同時に地面から足が離れる。次列風切が空気を押し下げ、身体を浮かす。更に翼を動かせば、風切り羽根が空気を掴む。ユウはすべらかに囲われた空へと飛び立った。

「ボール落としたり地面に触ったりしたら負けな。いつものやつだよ」

「あれね。わかった」

 慣れた遊びには名前がなかった。第二次性徴が現れたくらいの頃からこの遊びをしているので、かれこれ十五年以上遊び続けているのだな、と感慨深い気持ちになった。

 小鳥籠全体の羽数は数百にもなるが、こうして思い切り遊べる同年代の有翼人となると人数が限られてくる。今仲間に入れてもらった子たちも顔見知りだ。遊びにわざわざ名前をつけなくとも、最低限の言葉で伝わる。だからこの遊びにも名前がなかった。

 ボールを持って高く舞い上がった一羽が手を離す。重力に従って落ちていくボールが地面に着くより早く、他の有翼人が追いかけて掴む。ボールを得た子はすかさず上昇し、また上空からボールを落とす。これを繰り返すだけの単純な遊びだ。

 蹴鞠やバレーボールみたいですね、と賢一が感想を漏らしたことを覚えている。十年ほど前の事だ。調べてはみたものの、人間ではないユウにその二つの競技の面白さは今ひとつ分からなかった、賢一にも自分達の遊びの本当の面白さは分からないのではないかと思う。何をこんなに夢中になるのかと理由を並べ立てても、翼がなければきっと理解は難しい。

 この遊びは突き詰めてしまえばキャッチボールと変わらなくなってしまうのだが、地面すれすれのところでボールを捕まえた方が格好良くて素晴らしいのだ、という価値観が共有されている為に度胸試しの一面も持つ。これはどれだけ上等な飛行技術を持っているかのお披露目の場であり、新たな飛び方を模索する場であり、飛ぶことの楽しさを存分に味わう場でもある。

 上空で旋回していた子がボールを手放す。皆で一斉に追いかけるが、ヒビヤが頭一つ抜け出して急降下していった。大きく広げていた翼をすぼめ、弾丸のように地面とボールの隙間に突っ込んでいく。すぐ横を飛んでいたユウにはヒビヤの挑戦的な表情も見えたし、翼の中にある骨や筋肉が精緻に動く音さえ聞こえた。

 地面間近でボールを掴み、ふわりと体勢を整えたヒビヤに目を奪われる。遊びに興じていた誰もが驚いていた。

「どうだ、今の」

 息を切らせながらも自慢げにヒビヤは言い、「ちょっとタイム」と地面に降り立った。あのまま地面に激突していたら、怪我では済まなかっただろう。思い思いの声を上げながら、ユウたちはヒビヤの元へと向かう。声色は様々だったが、誰もが興奮しているようだった。

「あんな急降下、危ないよ」

 そう言ったが、ユウも今の飛行には胸が高鳴っていた。あんなスピードで飛んでみたら、一体どんな景色が見えるのだろうかと考えずにはいられない。

「今のうちにやれることはやっておきたいんだよ。ずっと試してみたかったんだよな」

 悪びれた様子もなく、ハヤブサの急降下を真似たのだとヒビヤは説明する。彼は不真面目に見えて、独学での勉強は欠かさないのだ。人間の話もあながちでまかせではないのかもしれない。

「俺もやってみたいな、真似してもいい?」

「結構難しいぞ。やってみて分かったけどめちゃくちゃ怖いしな。あと賢一は絶対怒る」

 見慣れない飛行方法を披露したせいであれこれ質問されているヒビヤは、そのどれもに明るく正直に答えているように見えた。こうした気質だから友人が多いのだろうな、とユウは団らんの輪から外れつつ考える。

「あれヒビヤ、羽根ちょっと汚れてるよ。何か緑色に」

「草むらに擦れちゃったんじゃない?」

 さえずるようなお喋りに疑問符が混ざり始めた。足環を鳴らしながら、遊んでいた面々が草むらを調査する。換羽を迎えた有翼人が何羽も上空を飛び回ったものだから、地面には羽根が散らばっていた。やがてヒビヤがボールを捕まえた辺りの草が乱れていることが判明する。

「えー、地面にちょっとついてたってことか? じゃあさっきのアウトか。ユウならもっと上手くやれたかもなー」

 どれだけ上手く飛べたとしても、地面に触れてしまったら負けというルールだ。残念だったねと周囲は口々に言い、名前が出たユウの方に視線をやった。まさか注目を浴びるようなことが起こるとは思っておらず、ユウは気恥ずかしい心地で顔を伏せる。

「こいつさ、ちょっと小柄だろ。翼も小さめだし」

 ヒビヤはユウの隣に立ち、ぐいと肩を寄せる。無茶な飛行をして高くなったままの体温が伝わってきた。それに漠然とした不安を抱く。まだやや浅く早い呼吸も、間隔の短い脈拍も、ヒビヤの刹那的で生き急いだ生き方そのものだ。ユウの不安を気にすることもなくヒビヤは続ける。

「だから身体の制御も上手いんだよな。多分俺よりもっと地面ギリギリのとこで止まれる。いや、多分やってくれないんだけどさ。優等生だからなー、危ない事は危ないって言ってくれんだよ、こいつ」

 ヒビヤとユウは恐らく、親友という間柄なのだろう。ヒビヤが叱られそうな時はユウが庇いに入り、ユウが孤立しそうな時はこうしてヒビヤが輪の中に迎え入れる。

「僕らはハヤブサじゃないんだからさ、飛ぶ鳥を捕まえるなんてことしなくて良いんだからあんな危ない飛び方することないよ」

 皆が真似でもしだして取り返しの付かないことになってはいけない。実習が控えている今はなおさらだ。

「でもかっこよかったろ?」

 ユウの肩を叩き、ヒビヤは笑う。反省や後悔といったものは微塵も感じられない。純粋にあの飛行が素晴らしいものだったか聞きたいのだ。

「うん、まぁ、凄かった」

 真っ直ぐな視線に根負けして、ユウは正直な感想を口に出す。

「じゃあ続きしようぜ。安心しろよ、今日はもうやんないから。二回もやったら心臓潰れるって。皆も止めとこう、もうちょっと上手く出来るようになったらちゃんとやり方教えるからさ」

 ボールはユウに手渡され、遊びが再開する。

 ガラスに沿って上昇していくと、陽射しが熱い。風が吹かないので余計にそう感じるのだろう。太陽光以外を遮断された場所を「外」と呼ぶのは可笑しな話かもしれない。映像で見る外部の世界はもっと壮大だ。自然界はこの箱庭ほど優しい場所ではないとも聞く。

 小鳥籠全体を覆うガラスは数年前に新調された。人間の施設であれば地面の上に囲いや塀を設置するだけで良いのに、と修理に来た業者の人間がいつか嘆いているのを見た。ユウたちはそうした言葉の断片から、ヒトの暮らしや生き方を部分的に知る。

 天井付近に到達して、ユウはふと鉄筋とガラスの向こうの街に目をやる。ちらほらと空を飛ぶ影が見えるが、仕事に励む有翼人なのか、ただの鳥なのか判別が付かなかった。視力は良い方なのだが、ガラスの汚れが邪魔をする。

 人間の手では二メートル程度しか届かないので、壁面や天井のガラスはユウたち生徒が清掃の時間に拭いている。ただ、生徒が外に出ることは出来ないのでどうしても外側の面が汚れてきてしまう。卒業した有翼人が清掃してくれたり、大がかりな足場を組んで人間が掃除にかかったりすることもあるのだが、その機会は数年に一度ほどだ。雨の流れた跡や埃の付着はすっかり染みついてしまっていて、街の景色をぼんやりとさせる。

 割れる訳もないのに、繊細な手つきでユウはガラスに触れてみる。薄汚れているのに、内側は丹念に掃除されているせいで手触りは滑らかだ。これは透明なせいで薄く儚い壁に見えるが、実際は堅固な防護壁なのだと触れれば理解出来る。分厚いガラスはそう簡単にひび割れないだろう。ユウは呟く。

「守られてる」

 決して閉じ込められているのではない。自分達は守られている。透明な膜で丁寧に保護されている。決して傷つかないように、ガラス製の鳥籠で育まれている。この考えに異論を唱える有翼人は小鳥籠の中に居ないだろう。

 だがユウはここ最近、本当にそうなのだろうかと考え込むことが多くなっていた。換羽の時期に突入した羽根がむずがゆい。少し前までは小鳥籠の意義など考えもしなかった。ユウの中で何かが変わろうとしている。実習を終えれば卒業が控えているからだろうか。長い時間を過ごした学び舎を去る間際になって、恩知らずなことを考えそうになっている。何故って、ここから見える空は埃に塗れていてもあんなに綺麗で広く見えるじゃないか。ユウは拭えない汚れを拭き取るように服の袖でガラスを磨いた。外側にはどうしても届かなかった。

 ボール投げて、と下方で飛び交うヒビヤたちから催促されてはっとする。考え事は一羽でいる時にした方が良い。謝りながら声をかけ、適当なタイミングでボールを落とす。地面に真っ逆さまに落ちるボールはみるみる小さくなっていく。爪ほどに小さくなった頃、ヒビヤたちが一斉に追いかけるのが見えた。上空から見下ろしていると、彼らの背中の白い羽根が一所に集まっていくところがよく見える。それは与えられる餌を啄もうと群がる小鳥にも似ていた。


 やがて日が傾いてくると、誰からともなく「そろそろ戻って何か食べないと」と言い出した。それが別れの挨拶のようになり、自然と解散した。ハヤブサの真似事はヒビヤがした一度きりだった。

 有翼人は小まめな食事を必要とする。ヒトよりも消化器官が短く、食べたものが長く身体の中に残らない為だ。これは身体の軽量化に一役買っている。

 健康的に飛び続けていたいなら、一度に多くの食事を口にして身体を重くするべきではない。かと言って、食物を長く摂らないでいると飛ぶ為のエネルギーが枯渇してしまうから気を配らねばならない。これらは有翼人の誰もが知っている話だった。

 尤も、これは教師役の人間から教わった知識に過ぎない。実際に食べ過ぎると飛びにくくなるのか試してみた者は居ない。本当に自分達の消化器官が短いのか確かめてみた者は居ない。自分達で学習した生活習慣でもなければ、生存競争の中で得た習性でもない。皆、人間の言ったことを従順に守っているだけだ。

 ユウはここにも何か引っかかりを感じるようになっていた。だが同時に、これまでの生き方を急に変えることも出来なかった。具体的に言えば、昼前に食堂で昼食として受け取ったサンドイッチはこまめな食事の為にきちんと、まだ半分ほど残してある。部屋の冷蔵庫にヒビヤの分と一緒に入っている筈だ。疑問を抱きながらも人間の言いつけに逆らう気は不思議と起きなかった。

「飛ぶと腹減るよなぁ。楽しいんだけどさ。お前もそうだろ?」

 ユウの安全を意識した飛行も、ヒビヤの危険な飛行も楽しいの一言でまとめ上げてしまう友人に何か言ってやらなければならない気がした。

「ヒビヤ、外に行った時に事故とか起こさないでね」

 部屋に戻る廊下は狭く、隣に並んで歩くと翼が触れ合う。ヒビヤの翼の方が大きく、力も強いのでユウの羽は触れる度に押し返された。

「大丈夫だって。言っただろ、仕事するまでに遊んでおきたいんだよ。仕事が始まったら俺だって真面目にやるさ」

 大げさにため息を吐くと、ヒビヤは頭を掻いた。

「信用無いんだなぁ、俺」

 多少は申し訳なく思っているのか、彼はいつになくしおらしい様子で「どうぞ」と二人の部屋のドアを開けた。薄暗くなり始めていたのでユウは電気を点ける。夜目は利く方なのでいやに眩しかった。手洗いを済ませ、冷蔵庫の中から二人分の食事を取り出す。サンドイッチはいつも通りだが、ヒビヤの分は見慣れないものだった。

「わ、何これ。美味しそうだね」

 それは皿の上にころりと転がっていた。きつね色に焼かれた生地は全体を包んでおり、クロワッサンに似ている。中に何か入っているようで食欲をそそる香りが漂っていた。

「こんなの食堂にあったっけ。僕が気付かなかっただけかな」

 ヒビヤは洗面所で手を洗いながら頻りに翼を気にしている。上の空に見えたが、返答はあった。

「ああいや、違うんだ。それ多分メニューに無いやつでさ。んー、何かここら辺むずむずする。抜いちゃいたいな」

 答えながらも、風切り羽根をゆっくりとあちらこちらへと引っ張っている。羽根を無理に抜くと出血することもあるのだが、抜けそうな羽根なら恐らく問題無いだろう。ヒビヤから視線を外し、ユウは二つの皿を取り出して机の上に並べる。

「ふぅん。これ温める?」

「あー、頼もうかな。それさ、食堂が混んでて困ってたら女の子がくれたんだよ。見たことない顔の子だった。これ何ですかって聞いたら『ミートパイ』って言ってた。痛っ」

 どうやら羽根は上手く抜けたらしい。見慣れない料理を温めている電子レンジの前にやってきたヒビヤの初列風切、その一番内側が空いている。それだけでなく、ヒビヤは抜けた羽根を両手で弄っていた。片手で羽軸を持ち、もう片方の手の平で羽先を遊ばせている。

「これお肉なんだ。珍しいね。何でか知らないけど、食堂に肉料理ってあんまり無いから」

 料理についての話を進めながら、ユウはヒビヤの抜け落ちた羽根を横目で観察する。教室に置いてある机の短辺くらいの長さはありそうだ。羨ましいな、と思った。昼下がりにユウも羽根を落とした。あれは全く同じ位置の羽根だったが、ヒビヤのものより随分と小さかったのを思い出さずにはいられなかった。

「何でなんだろうな。気づかわれてるとか? 俺たちが鶏肉とか食べてたらちょっと不気味に見えるんだろ、きっと。同族食いっぽいもんな」

「また適当なこと言ってるでしょ」

 羽根をくるくると回しながら言うヒビヤを冗談交じりに咎めると、電子レンジがチンと相槌を打った。

 ヒビヤは可笑しそうに笑うと、羽根を無造作にごみ箱へと放り捨てた。ユウのうっすらとした劣等感を察した、出来たルームメイトは空いた手で電子レンジを開けてミートパイを取り出す。冷えていた時より何倍も良い香りがした。

「ユウも食べたかったらやるよ。結構美味かったからさ。半分こしよう」

 テーブルの上に置くが早いか、ユウの返答も聞かずにヒビヤは素手でパイを割る。湯気がふかふかと湧き出た。

「いいの? じゃあサンドイッチ半分と交換にしよう。いつも食べてる普通のサンドイッチだけど釣り合うかな」

「妙なこと気にすんなよ。食べ物にすごいも普通も無いだろ。どっちが上等とかも無いって」

 ユウはそう言われて黙り込む。熱いなこれ、と手を振るヒビヤには気付かれていないようだ。

 今、二羽を照らしているのは何の変哲もない電球の明かりだ。窓の外は夕陽が落ちきり、気の利いた音楽の一つも流れていない。小さな冷蔵庫が稼働する音が低く唸るように続いているだけだ。何もかもが馬鹿らしい程に普遍的だった。昨日と同じであり、明日も同じ風景が続く。だからわざわざ記憶に刻むようなことではない。

 しかし、ヒビヤの今の言葉は忘れない気がした。ヒビヤの周りの、悲しいくらいにいつも通りの風景も含めて忘れられないという確信があった。それは自分の劣等感や疎外感を見透かされたような心地になったからだ。

「そう。それなら良かったな。ありがとう」

 やっとのことでそう返す。

「何かお礼言われることあったっけ。早く食べようぜ。多分だけど温かい内に食べた方が美味いんだ、これ」

 初めて食べるミートパイはさくさくとして、濃い肉の味がした。ほんのりと甘い生地が深い味わいを引き立たせる。ほんの一口で終わってしまったが、また食べてみたいと思った。

「小鳥籠の外でなら食べられるのかな」

「そうかもな。またあの女の子見つけたら聞いてみる。お礼も言わなきゃいけないしさ」

 短い食事を終え、考え事に耽る。

 有翼人は皆、足環を付けている。そこに刻まれた番号で管理されている。そして小鳥籠の外に出ることは出来ない。人間に出入りの制約は無く、よくこの施設と外を行き来している。

 当然のことではあるのだ。自分達が外に出たところで別段なにも素晴らしいことは待っていない。外部の世界にたった一羽放り出されたとして、生きていけるとも思えない。

 有翼人の生き方や将来は生まれた時から決定されている。皆、郵便物を運ぶ仕事に就く。「有翼人には遠く速く飛べる羽があるのだから、手紙を運ぶのは天命だ」といった意味の言葉を千年以上前の誰かが言ったらしい。

 小鳥籠の中で卒業まで安全に管理されていれば立派な成鳥になれる。教師役の言うことを聞き、脱走など考えず大人しく暮らしていれば配達員になる道は用意されていく。丁寧に舗装された道だ。実習の機会まで与えてくれるのだから。

「実習まであと二日しか無いね。月曜からだし」

「まぁそうだけど。緊張してんの? 最近実習の話よくするよな、お前」

 曖昧な返事で誤魔化しながら、ユウは窓の外に答えを探す。小鳥籠全体を覆う透明な壁と窓ガラスの二枚とを透かして見える街明かりは、ひどくおぼろに潤んで見えた。

「緊張。そうかもね。立派な配達員になるのはずっと僕の夢だったから、いざ叶いそうになって不安になってるのかも」

 あの大空を羽ばたいた時、どんな心地がするのかと考えると空恐ろしかった。何も遮るもののない空を飛べば、ユウは危うい思想を抱くかもしれない。例えばこういった考えだ。

 有翼人という種族は窮屈で不自由な生き方を強いられているのではないか。

 とてもヒビヤには聞かせられないなとユウは心の中で苦笑する。呼吸が浅くなりかけたので、落ち着こうと深く息を吐く。

 被害者ぶるのは良い事ではない。ここまで何不自由なく生きてきた。小鳥籠の覆いに疑問を抱くようになる前は、不自由を感じたことなどただの一度も無かった。今もそうだ。本や映像で得た知識と照らし合わせて現状にユウは疑問を抱くようになったが、小鳥籠での暮らしへの率直な感想を挙げてみると何も不満の言葉は含まれない。ならば、きっと自分は幸せなのだろう。多少の違和感は気にしなくて良い。自分は真実、幸福なのだから。

 そう納得しようとしている中で、ユウの価値観に激しい変化をもたらしそうな外へ行くのが怖いのだ。

「あのさ」

 再び深く息を吐き出した拍子にヒビヤがユウに話しかけてきた。

「こんなこと聞いて答えてくれるかわかんないんだけどさ、お前、何か悩んでるのかなって。遊びの時も外の方じっと見てただろ。気になることあるなら言えよ」

 ヒビヤは真剣な話をするのが苦手だ。無理をしてこんな話題を口にしているのだろう。普段は彼の人柄を反映するように大きく開いている羽根が、小さく折りたたまれて背中にぴったりと付いている。腕も所在なげにもう片方の腕を撫でさすっていた。

「何も無いよ。さっきも言ったけど、ちょっと不安になってるだけ」

「そんな訳ないだろ。何年一緒に居ると思ってんだ」

 安心させようとユウは笑顔を作りながら言ったのだが、癇に障ったらしい。やや苛立った様子でヒビヤは身体を揺すった。

「人間の前で優等生するのは勝手だけどさ、あいつらの見てない所でもそうやってニコニコすんの止めろよ」

 なぁ、と大声で返事を促される。彼は彼で、人間と有翼人の間に線を引いている。ヒビヤにとって「俺たち」と「あいつら」は違うものでなければいけないのだろう。彼は有翼人同士の仲間意識を大切にしている。よそよそしい態度や隠し事は嫌いだろうと分かっていたが、ユウはどうしてもこの悩みだけは打ち明けられそうにない。

「ごめんね。悩みって言うか、考え事してるんだ。自分だけで考えてみたかったから黙ってた」

 ヒビヤの背中で羽根が擦れて軋むような音が鳴る。力を込めて羽根を押さえ付けているのだろう。手も固く握り締められていた。だがそれも数秒のことで、ぱっと翼と拳が開かれる。

「そっか。俺じゃ頼りにならないよな。ユウは頭が良いから考えることも難しいんだろ。話してもらったところで分かってやれるか怪しかったな、うん。おっきい声出して俺の方こそごめんな」

 切り替えが早いのか、物わかりの良い振りをしているのか。長年付き合ってきたがユウにはまだその判別は付かない。表面上は機嫌を直したように見える。そうだなぁ、と考える様子を見せたヒビヤは明るい顔をしてユウの手を引く。

「じゃあもうあれだ。賢一のとこに行こう。今日は休みだし、ちょっと話す時間くらいあるだろ。『困ったことがあったらいつでも言いに来て下さい』っていつも言われてるじゃんか。行こうよ。俺がダメなら賢一だ」

 ユウの返答もそこそこにヒビヤが再び外へと誘うので、思わずユウはつんのめる。咄嗟に出した足がヒビヤのすぐ傍に着地する。二羽の足枷が触れ合い、金属音がした。


 小鳥籠で働く人間が過ごす建物は職員棟と呼ばれている。宿舎よりも大きく、設備も整っていると聞くが中に入って確かめたことはないのであくまで噂の域を出ない。人間は有翼人よりも大柄であることが多いので、建物の大きさもそれに応じて大きくなるのは想像しやすい。だが内装が異なるというのはどういうわけだろうか。噂を流した有翼人は、どこか人間に対して「良いものを独占する支配者」のようなイメージを抱いたのだろうか。そこまで想像してみて、考えすぎかもしれないとユウは思い直した。

「賢一さん、迷惑じゃないかな」

 ゆったりとした速度で飛行しながらヒビヤに尋ねる。併走するように飛ぶルームメイトはちらりと宿舎に取り付けられた大時計を見た。

「まだ八時過ぎだぜ。寝るには早いだろうし、暇してるって、きっと」

 楽観的にも聞こえるが、実際いつ賢一を尋ねても快く出迎えてくれる。丁寧に話を聞いてくれるので、ユウと同年代の子の多くは彼のことを慕っている。ユウも例外ではない。

 職員棟の明かりが見えてきたところで、入り口付近に一羽の有翼人が立っているのが見えた。

「誰か居るよ」

「女子だな。本みたいなの持ってるし、サキじゃないか?」

 少し速度を上げて近付いて行くと、ヒビヤの言う通りサキが背筋を伸ばして佇んでいた。彼女はよく分厚い本を携えている。ユウやヒビヤと同世代の友人だが、最近は性別の違いからか昔ほど仲良くじゃれることはなくなってしまった。

 翼を大きく広げ、空気を包み込むようにしてブレーキをかける。巻き起こった風にサキの髪が揺れた。

「あれ、ユウにヒビヤ」

 乱れた髪を整えて二羽を見た後、サキは意外そうに瞬きをした。丸く大ぶりな目は周囲の明かりを大げさなほどに反射している。

「こんばんは、サキ。何してるの?」

 数歩後ろに下がりながらユウは尋ねる。着陸した位置ではサキとの距離が近すぎると感じたからだ。

「賢一さんを待ってるの。お話ししたいって言ったら入り口で待つように言われたから」

 ヒビヤと話すよりも遠い距離感でサキとの話は進んでいくが、そこに不仲な空気や居心地の悪さは生まれなかった。互いに一歩離れた位置で話すことが好ましいと感じている。それが正しいと感じている。身体に性差が出て来てからは自然とこうなっていった。

「じゃあ俺たちも待たせてもらおう。賢一に会いに来たんだ。サキは何か聞きに来たのか?」

 春の夜が温い風を運んでくる。折角整えたサキの髪はまた風に流された。

「うん。もうすぐ実習でしょ。ヒトと会うのは初めてだから、ちょっと不安なの。賢一さんに相談に乗ってもらいたくて」

 サキも自分と同じように不安なのだと知り、ユウは安堵する。ユウが恐れているのは実習を通して自分が変わってしまうことだから、悩みの細かな色合いは異なっているかもしれない。それでも友人が似た色味の感情を抱いていることは寄り添い合える未来を予期させる。嬉しかった。

「僕も。おんなじだよ」

「相談相手になるくらい、俺にも出来ると思ったんだけどな。実習も全然不安じゃないし」

 ユウの話し相手になれなかったのだと冗談めかしてヒビヤは言う。サキは小さく笑った。

「ヒトの話はヒトに聞くのが一番だわ。ヒビヤのするヒトの話、嘘か本当か怪しいもの」

 からかうような調子でサキはユウとヒビヤを見つめる。視線が絡まり合うと、きゅっと目を細めて微笑んだ。

「そんなこと言ってサキ、あれだろ。俺がこの前、人間が俺たちのこと食べるらしいって言ったのまだ怖がってんだろ」

 わざと眉間に皺を寄せ、サキは怒ったような表情を作る。

「あんなの絶対嘘だから怖くないわ。ヒトにとって有翼人がどんな存在か知ってたら、すぐ嘘だって見抜けるわよ」

 ごく幼い頃であれば、こんな口論の末に入り乱れるようにして飛び回っただろう。サキとヒビヤが追いかけ合い、程よいところでユウが美味く二人の間に割って入っては止めるのだ。皆に比べて小ぶりな翼はそういう時に役だった。昼間にヒビヤも言っていたが、友人二羽の間のような狭い場所に潜り込んでも翼が邪魔にならない。三羽はよくこうして戯れていた。だがそれも昔の話だ。

「俺、作り話はしないってー。全部誰かが言ってたうわさ話だ。噂になるってことは多少真実も紛れてるってことだろ?」

「あんた、お喋りだから良いように使われてるんじゃないかしら。嘘八百の話吹き込まれて遊ばれてるのよ」

 言葉の応酬は激しくなっていくが、サキの翼はしっかりと畳まれたままだ。背中に収まって動かない。ヒビヤの翼は時折感情に呼応して広げられるが、飛び立つ様子は見られない。

 追いかけっこをした頃から、何度換羽を迎えただろうか。少しずつ自分達は変わっているのだとユウはどこか寂しい気持ちになった。

「もう。ヒビヤもサキもやめなよ。賢一さんが来てもそうやって口喧嘩するつもりなの?」

 ユウの制止に二羽は適当な返事をしつつ、徐々に挑発的な物言いを引っ込める。遊びが行きすぎて苛烈になる前にユウが止める構図は変わっていないのだな、と三羽全員が同じ事を考えたらしい。誰からともなく笑みがこぼれた。

 さえずりに似た笑い声が届いたのか、職員棟の扉が開く。

「すみません、お待たせしました」

 少し息を切らせて扉を開けたのは、三羽が待っていた賢一だった。急いでやって来てくれたのかトレードマークの眼鏡がずれている。柔らかい室内の明かりが肌寒い外にもれ出した。彼は眼鏡をかけ直しながら顔をしかめて三羽の方を見る。

「サキと、ユウとヒビヤですか。暗くてあまり見えないのですが声で分かりました。入って下さい。お茶くらい出しますよ」

 やはり自分達より早く老いていってしまうのだな。さあ、と招き入れる手を見てユウはそう思う。たかだか十数年前に飛び回ってはしゃいでいたユウたちを捕まえてくれた力強さは失われている。骨張った手だった。

「お邪魔します」

 ユウたちは口々にそう言い、橙色の光が眩しい建物の中へと入って行った。人間が過ごすことを想定されている為か全体的な横幅が狭く、翼があちこちにぶつかる。ユウはすぐに慣れたが、ヒビヤは苦労しているようだった。サキは途中から腕で翼を押さえ付けることで対処している。

 職員棟の中にはまだ仕事をしている人間や、休憩している人間が何人か見られた。廊下の窓越しに、羽根がない生き物が過ごしている様を横目で眺める。話に聞く「動物園」とはこんな雰囲気の場所なのだろうかとユウは空想した。自分とは違う生き物をガラス越しに眺めるという点では、街から見た自分達も似たようなものだ。奇妙な入れ子構造に面白みを感じる。

 先導する賢一の背中にも、当然羽根は生えていない。人間という生き物は生涯飛ぶ事もなく、換羽も行わず、あっという間に年老いてしまう。見た目の違いと言えば背中の羽根くらいなものだが、その一点を起点として果てしなく深く理解し難い溝が形作られている。

「狭くて通りにくいでしょう。改築する機会があれば、君たちも過ごしやすい内装にしてくれるよう掛け合ってみます。」

 賢一以外の人間と密に接することは少ないが、こうして歩み寄ろうとしてくれる人間は貴重なのだろう。

 案内された部屋は簡素な作りだったが、机と椅子が整然と並んでいた。散らかった様子もない。

「お茶を用意しますから、待っていてくださいね」

 椅子の数が四脚以上あることを確認した賢一は、三羽を残して部屋を出て行こうとする。ヒビヤが慌てて引き留めた。

「別に要らないですよ。俺たち人間の客じゃないんだし」

 人間が有翼人をもてなすのも、教師が生徒を気づかうのも居心地が悪い。だが賢一はにこやかに首を横に振る。

「そう言わず。休みの日にわざわざ私を訪ねてきてくれる方なんて最近は居ませんからね。ささやかですが歓迎させてください」

 ユウたちが幼く、賢一が若かった頃は今よりも随分忙しかったのだろう。有翼人の子が怪我をしたとか、仲違いをしてしまったとかで小鳥籠の中を駆け回っていた姿はユウの記憶にも残っている。卒業が近付いてきたユウたちは昔ほど問題を起こさなくなった。今も小鳥籠の中に幼い有翼人は何百と居るが、賢一の担当ではない。老いてきた身体に無理をさせたくないな、とユウは考えていた。茶の準備をしに出て行く背中は昔ほど伸びてはいなかった。

「行っちゃったな」

 賢一が居なくなった途端、椅子に座っていたヒビヤは足を無造作に投げ出す。

「遠慮しすぎるのも失礼よ」

 それとは対照的に、サキは姿勢を正したまま行儀良く賢一を待っていた。ユウはきょろきょろと辺りを見渡してみたが、特に変わったものは見つけられなかった。強いて言うならば、部屋の隅に置かれたホワイトボードに有翼人の絵が落書きされていた。ユウはその絵に視線を留めたままサキに話しかける。

「ねえサキ。悩み相談なら賢一さんと二人きりで話したかったんじゃない? 僕らも一緒にいていいのかな」

 落書きの有翼人の頭の上には、消えかけているものの小さな輪っかが描かれていた。それで有翼人ではなく天使を描いたものなのだと分かる。

「うん、平気。別に聞かれて困る話じゃないもの。ユウも同じ悩み持ってるんでしょ。なら一緒に聞いた方が賢一さんも手間が省けていいじゃない」

 そこまで話したサキは、ユウが部屋の隅を見つめていることに気付いたらしい。不思議そうな声色で、何見てるの、と囁いた。

 ユウは黙ってホワイトボードにいる消えかけの天使を指さす。サキにはすぐにそれが何か分かったようだった。

「わ、可愛い。キリスト教の天使の絵ね。私たちじゃない、本当の天使」

 サキは両手で持った本を動かしてユウの視線を誘導した。タイトルや表紙を見てユウは頷く。宗教の中で、天使や悪魔がどのような役割を果たしているのかを記した本だ。サキはよくこの類いの文章を読んでいる。

「何だよ、本当のって。似たようなもんだろ」

 賢一の出て行ったドアを退屈そうに見つめていたヒビヤが口を挟む。間髪入れずサキは言った。

「全然違うから」

 この話に関して詳しい分、熱の籠もった言い方だ。宗教上の天使についてはサキが三羽の中で一番造詣が深く、間違いに対しても厳しい。ヒビヤがそれを気にする様子はなく、天使の落書きも一瞥しただけだ。

 サキがわざとらしいため息をつき、ヒビヤは「わかんないなぁ」と言ってそれをかき消す。これも単なるじゃれ合いで、不穏な空気にはならない。ユウが困ったように笑うと、扉が開いた。ヒビヤが慌てて姿勢を正す。

 賢一の手には盆があり、上に載った四つの湯呑みからは湯気が上がっている。彼は待たせましたねと言いながらテーブルの上に茶を並べていった。

「聞き忘れていましたが、この時間の食事は摂りましたか。君たちはヒトよりも頻繁に食べる必要があります。職員が一日二食ほどしか食べていないのを見て、自分も大丈夫だなんて考えないようにしてくださいね」

 賢一は顔を合わせる度に似た話をする。ユウたちのことを見守ってくれているのは理解出来るが、思春期の盛りであるユウたちにはその甲斐甲斐しい優しさが煩わしく感じる時がある。

「俺とユウはちゃんと食べましたよ。飛べなくなったら嫌だし」

 ヒビヤが答えるが、どこか投げやりだ。サキも賢一の言葉を受け流すように笑うだけだった。

「良かった。君たちが立派に育ってくれて本当に嬉しいです。それで、今日はどんな御用ですか。天使の皆さん」

 椅子に腰掛け、賢一は三羽の顔を順に見た。彼に限らず、人間はユウたちのような有翼人のことを「天使」と呼称する。ユウはホワイトボードの稚拙な天使を思い出した。

「どうしよう。話すの、私からでいい?」

 先ほどはヒビヤに突っかかったサキだが、賢一から天使と呼ばれてもそのことを気にした様子はない。

「勿論。元々サキが話す予定だったんだから」

 ありがとうと答えるサキの頭上に天使の輪はない。光り輝いてもいない。

「賢一さん、小鳥籠の外に居るヒトと接する際に気を付けるべきことは何でしょうか。私は、上手く振る舞えるでしょうか。配達員として働けるでしょうか。ちゃんと、やれるでしょうか」

 最初は淡々とした口調だったが、徐々に自信が失われていく。サキの背中で綺麗に折りたたまれていた翼は、声が小さくなっていくにつれて開かれていき、持ち主の細い身体を包む。厳しい言葉や恐ろしい予測から身を守るようだった。

 賢一はサキに茶を飲むように仕草で勧める。サキは迷った様子を見せたが、持っていた本を膝の上に置いて湯呑みを手に取った。湯気の立つ茶を冷まそうと、息を吹きかける音がしばらく続いた。それも止む頃、ゆっくりと賢一が口を開く。

「サキ、実習の説明をしてくれる先生が居たと思います。その方も人間との関わりについて説明をしてくれたと思いますよ。先生は何と言っていましたか。私に教えてください」

 小さな子供にするように、俯いたサキと目を合わせようと賢一は前屈みになって尋ねた。ユウたちは親というものを知らないが、もし父親がいたらこんな風なのだろうかと考えてみる。

 湯呑みに口を付けたサキは温まった呼気を一つ吐き出して答えた。

「小鳥籠の中で失礼のない振る舞いが出来るなら、それで問題無いだろうと」

 それを聞いた賢一は大げさな程に嬉しそうな笑顔を見せる。目元に出来る皺が優しげな印象を強めた。

「では君は大丈夫です。サキが私に嫌な思いをさせたことは一度もありません。他の天使と仲違いを起こしたこともないですよね。ヒビヤと言い争っているのは昔からよく見かけますが、あれは遊びの範疇でしょう。サキはずっと皆と仲良くやれているではないですか。外も小鳥籠も同じです。いつも通りのサキで居ればその先生の言う通り、問題ありませんよ」

 ありがとうございますとサキは答えたが、翼はまだ鎧のように身体を守ったままだ。ふとサキが顔を上げてユウの方を見る。

「ユウは? あなたから見た私も同じ?」

 突如話に巻き込まれたことに戸惑いつつもサキの真意を探る。恐らく、賢一の評価はサキの自己評価からややずれているのだろう。賢一の前では誰でも多少、良い子の真似事をする。サキも賢一の居ない所ではヒビヤに対しての当たりが強くなる。より素顔に近い自分を知っているユウに、判断してもらいたがっているのだ。

「うん。サキと居ると楽しいよ。少し厳しいこと言う時もあるけど、後で必ず謝ってくれるじゃない。そういう所、僕好きだよ」

 正直な気持ちを口にする。サキの表情は固いままだったが、身体の正面を覆い隠そうとしていた翼が僅かに背中の方へ逸れた。

 賢一が茶を一口啜り、ユウにそっと目配せする。良い事を言ってくれましたね、と褒めているような眼差しだった。

「サキは熱心ですね。仕事に真剣に向き合ってくれているのが伝わってきます」

「いえ。正直な話をすると怖いだけです。一羽でヒトと会わなければいけないんですよね。ヒトの暮らす家の中に、私一羽訪ねていかなきゃいけないのはすごく怖い。賢一さんみたいに、有翼人への理解があるヒトばかりじゃないと聞きますから」

 サキは昔から口が達者だったが、こうして自分の気持ちを整理して言語化出来るのは美点だなとユウは考える。彼女の話を聞いていると、サキが何を恐れているのかよく理解出来る。

 少し退屈そうにしていたヒビヤが「あのさ」と呟いた。

「一羽きりってことないだろ。実習先って僻地とかじゃないんですよね? じゃあさ、近くに先輩の天使とか居るだろうし、俺たちとも離れてない場所かもしれないじゃん。酷いことされる前に頼れる奴のところに逃げたら良いんだよ」

 真面目な話はやはり苦手なようで、頻りに羽根を弄っている。サキはからかうことなく静かに話の続きを促した。

「人間が走るより俺たちが飛ぶ方が速いんだからさ。逃げたら良いんだ」

 逃げるという、彼にしては優しく消極的なフレーズが繰り返された。

「それも無理だったら大声で誰か呼んだらいいだろ。俺かユウが助けに行ってやるよ。近くて気が向いたらの話だけど」

 な、とヒビヤがユウの肩の辺りを叩く。翼の小さな自分が駆けつけたところで果たしてどれほどの助けになるものかという考えもよぎったが、ユウは大きく頷いた。逃げだすと言って、助けると言って、具体的な策は何一つ思い浮かばない。堅固なガラスの壁を触った時の感触を思い出していた。壁を割ることは出来ない。自分は無力だ。

「それは嬉しい、けど。本当に後先考えないわよね、ヒビヤ」

 馬鹿なんだから、とサキは二羽にだけ聞こえるような声量で付け加えて口の端を上げた。

 微笑ましそうに三羽のやり取りを見つめていた賢一だったが、咳払いを一つすると声を低めた。

「サキの不安も理解出来ます。私たちと君たちは違う種の生物です。どれだけ似ていると感じても、どれだけ慕ってくれてもこれは変えられません」

 賢一が三羽に向ける視線は優しい。優しすぎるとユウは感じている。最近湧き上がり始めた違和感は、その理由に嫌な理由を見出していた。

「ヒトと天使は違います。同じ言語を使い、通じ合えるように見えたとしてもです」

 眼鏡に電灯の光が反射する。賢一の表情が一瞬の間だけ読めなくなる。ユウの中には二つの思いが芽生えていた。賢一のことは今迄通り、優しく愛情深い親代わりの存在だと思っていたというのが一つ目。二つ目は、自分達を鳥籠の中にしまい込んで育てる男の本心を知りたいという気持ち。

 彼は人間と天使が通じ合えないと語るが、それにしては天使との距離が近すぎるように思う。ユウは唾を飲み込んでから尋ねてみる。

「でも賢一さんは僕たちに親切ですよね。天使のことを理解して、歩み寄ってくれます。僕らのことは全部分かってるみたいに見えます。どうしてですか?」

 思い切った言葉を吐いたせいか、語気は常より荒かった。ヒビヤはいつにもなくはっきりと話すユウに驚いている。賢一は余裕のある微笑みで応えた。

「生物は互いに尊重しながら生きていくべきだと思いますからね。敬意を持たなければいがみ合い、争いの原因となります。ヒト同士でもこれだけのことが出来ずにずっと揉めますから」

 それは正しい考えだ。理想的な物言いだ。だがユウが聞きたかったのはそういった話ではなかった。賢一から一つの言葉を引き出したかった。

 羽根の根元がうずく。新たな羽根が生えてこようとしているのだ。変わらなければいけない。

「そうやって賢一さんは僕らとヒトが対等みたいに言うけれど、でも、でも」

 言葉に詰まる。今にも立ち上がりそうなユウの足下で足環が擦れる。一度深い呼吸を挟む。賢一もヒビヤもサキも、ユウの言葉の続きを待っていた。

「でも、僕らは家畜でしょう?」

 ずっと胸につっかえていた二文字をようやくのことで捻り出す。

 部屋の中はしんと静まり返った。身動きすることも躊躇われるような空気の中、口火を切ったのはヒビヤだ。

「なに当たり前のこと言ってるんだよ」

 呆れた様子も馬鹿にした様子もない。そこに含まれていたのは純粋な驚きだけだ。

 ヒビヤの言う通り、天使が家畜であることなど誰もが知っている話だ。有翼人の家畜化の歴史は千年以上前に遡ることが出来る。天使が人間に飼われていることなど、もう誰も疑わないただの事実だ。原種である野生の有翼人は、もう殆ど生き残っていないのだと聞く。

 サキは丸い目をますます大きく見開いて、一体どうしたのだろうと言いたげにユウと賢一を交互に見つめていた。

「僕らは人間に生み出されて、人間の為に働く生き物なんだなって」

「そうね」

 サキの小さな同意の声にもどかしさを感じる。もっと憤って良い話ではないのか。だが以前まではユウもサキと同じだった。自分が何に対してこれほどまでに違和感を抱いているのか分からない。サキが同じ考えであれば、上手く言葉にしてくれたのだろうが。

「何だか、これで本当にいいのかなって思ってしまって」

 仕方なく、ぼんやりとした言葉を口に出す。何か返答をもらえないかと縋るように賢一を見た。

「確かに君たちは家畜に属します。ですがユウの言い方は卑屈過ぎるように聞こえますね。自分を低く見ることはないんですよ」

 彼はかんしゃくを起こした子供をあやすように、努めて丁寧に話す。

「君は間違っていませんよ、ユウ」

 たしなめるように名前を呼ばれると、心が凪いでいく。二十年近く育てられてきたが故に、賢一からこんな声を出されると申し訳ない気持ちになる。ユウは椅子に腰掛け直した。

「すみません。もっと考えをまとめてから話すべきでした」

「いいえ。君の気持ちが聞けて嬉しいです」

 賢一はいつもとそう変わらない調子を貫いているが、ヒビヤとサキはまだ困惑しているように見えた。意図せず、いつも二羽の言い争いに困らされている意趣返しが出来てしまい、ユウは数秒だけ家畜の話を忘れて笑みをこぼした。だがすぐに賢一の方へと向き直る。

「他にも尋ねたいことがあるんです。あの、天使は配達員以外の仕事に就くことは出来ないんでしょうか」

 サキはもっと勉強がしたいのだと言っていた。ヒビヤは安定した長距離飛行よりも、急降下のような冒険心に満ちた飛行を探求する方が向いている。決められた生き方を強いられるから、サキも不安を抱えてしまうのではないか。ユウはそう感じていた。

「ああ、申し訳ないですが難しいでしょう。配達員になるよう、私たちは天使を作り、生みましたから」

 事も無げに賢一は微笑んだ。それは本当におだやかで素朴な笑みだった。生き物を意のままに作り替える力を持った種族に相応しくない、ありふれた笑顔だ。

「そうですか。そうですよね」

 家畜は目的があって作られる。有翼人の場合は手紙などの情報を運搬させる為だった。本来の目的以外のことをやらせるなど無駄なことだ。飼い主である人間に利益がない。

 ヒビヤは興味なさげに茶を啜っている。何かを強いられることを嫌いそうな彼だが、将来の道が決められている事に対して不満を抱いている様子は見たことがなかった。

「実習のことなら、カナメも話をしてくれるかもしれませんよ。明日は此方に顔を出すそうです」

「え、カナ兄来るんですか。おい、やったな」

 先輩の天使であるカナメの名前を出されると、三羽は顔を見合わせて嬉しそうに笑い交わす。カナメはこの三羽と親しくしている天使で、配達員として働いて長い。賢一が父親だとすると、カナメは兄のような存在だった。働いているので会う機会は少ないが、話す時間はいつでも三羽にとって充実した時間だ。

 ユウの発言以降、ややぎこちなかった三羽の間の空気が氷解したのを見て賢一は目を細める。

「他に、私に聞きたいことはありますか? できる限り答えますよ」

 その優しさにユウの胸はざわつく。賢一がこんな風に優しいのは、天使が家畜だからだ。立派に育たなければ不利益が出る。無償の愛などでは決してないのだ、とユウの中で何かが絶えず黒く呟き続ける。だが同時に、彼の優しさは心からのものだと信じていたいのだ。相反する感情を抱えたまま、ユウは目を伏せる。どちらにせよ、賢一に好意を抱いているのはどうしようもない事実だ。

「僕はもう大丈夫です。ヒビヤとサキは?」

「俺は元々ユウの付き添いだし」

「私も平気よ。賢一さん、ありがとうございました」

 口々に礼を言って、三羽は席を立とうとする。だが人間用の距離感で置かれた椅子に座っていたものだから、一斉に立ち上がろうとすれば羽根がぶつかり合った。ヒビヤとユウであれば多少羽根が擦れたところでどちらも気にしない。だがサキとヒビヤの翼がぶつかるのは話が別だ。ヒビヤはやってしまったな、という顔をしていた。

「あー、ごめん。わざとじゃないんだよ、ホントに。俺が焦って立つからいけなかったな。近付きすぎた。謝るから許して欲しい」

 矢継ぎ早に言い訳を並べ立てるヒビヤを尻目に、サキは擦れた箇所の羽根を丹念に調べている。一枚一枚指先で白い羽根をかき分けて、瞬きもせず黙っている。

「サキ、どこも変になってないよ。ねえ、賢一さんも見てましたよね。ちょっとした事故ですよね」

「ええ、当たってしまっただけですね。誰も君を咎めたり叱ったりしませんよ、サキ」

 思いつめた表情でユウと賢一の言うことを聞いていたサキだったが、ばつの悪そうな顔で縮こまっているヒビヤの顔を見た途端に吹き出した。

「そんなしょんぼりした顔しなくても。ごめんなさい、実習のこともあって、ちょっと過敏になってたみたい。ヒビヤも大丈夫? 一応、ちゃんと羽根整えてから外出なさいよ」

 さっと羽根をなでつけて、サキはいつもの調子に戻る。殺伐とした場面に発展しなくて良かったとユウは冷や汗を拭った。三羽の関係性が壊れるのは堪らなく嫌だった。

「ではそろそろお開きにしましょうか。今度は気を付けて席を立ってくださいね。次から椅子の間隔は広めに取っておきます」

 厳しい人間の教師であれば、これほど寛容な対応をしてくれなかっただろう。賢一からのこうして親身になってくれるのは、自分達が家畜だからなのか、それとも子供のように思ってくれて居るからなのかとユウはまたもや考え込む。そして、実行する訳にはいかない一つの想像に行き当たった。

 もし配送の仕事を投げ出したら、賢一はどんな反応をするのだろう。悲しむのだろうか。怒るのだろうか。

 このひとは、温かいひとなのだろうか。冷たいひとなのだろうか。

 自分達の生き方についても深く考えたいのだが、結局それだけが知りたいのかもしれなかった。

「換羽の時期ですから、体調には気を付けてください。体力を消耗しますからね」

 サキとヒビヤが部屋から先に出たところで、ユウは湯呑みに口を付けていなかったことを思い出す。捨ててしまうのも勿体ないと、少し行儀は悪いが立ったまま自分の分の茶を飲み干した。一口も飲んでいなかった茶はすっかり冷めていた。

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