わたしはかつてクリスチャンだった

 別ののエッセイにほんのちょろりクリスチャンだったと書いた。

 中学に上がる頃には、クリスチャンやめたと。


 ただ、いとこがクリスチャンだったり、小学生ならがら、洋画などを観て日曜学校ってイイ感じだなと思ったのが入信のキッカケだった。


 母親が無神論者の割に、やたら宗教を学ぼうとする人で、私に幼い頃から神話に親しむよう教育したたという背景もある。

 それもあり、私は聖書というのは神話だと思い込んでいた。


 所謂キリスト教というのは、カトリック、東方正教会、プロテスタントとされており、私はプロテスタントだった。

 宗教オタの母親に「プロテスタントにしておきなさい!」と言われたのだった w


 洗礼も受けた。洗礼名まで付けられたのは少し珍しいかもしれない。

 牧師を養成する聖書学校に連れて行かれ、そこに屋内の小さなプールみたいなものがあり、かっぽう着のようなものを着せられ、真冬だったが、そこの冷水に頭まで浸かるという洗礼だった。


 教会は暖かい雰囲気だったし、皆良い人だった。

 私は割と真面目だったのだが、それでもクリスチャンをやめた理由は、まぁ幾つかある。


 ・ゲイの大人がちょいちょい居たこと。

 まだ思春期だったので怖かった。私が行ってた教会だけかもしれないけど。


 ・ホラー映画を観るのがよろしくないということ。

 映画『エクソシスト』がダメだなんて。ちょっと酷いと思った。確かにあれは宗派が違いカトリックだが。

 それにしても『エクソシスト』は名画じゃないか。

『悪魔のいけにえ』もダメなのか。アートとして捉えてもダメ?(当たり前だろ w)



 それと、ふとしたことから人民寺院の事件を知って、すっかり宗教が恐ろしくなってしまったというのが大きい。

 しかも人民寺院は一応はプロテスタントだ。


 どうにか、クリスチャンをやめられないかと暫く悩んでいたものだ。


 ところがあっさりとやめることが出来た。

 元々、私はSF好きだったというのもあった。

 それも母親の影響なのだが w


 ある日、本屋で一冊の本と出会った。

 ドゥーガル・ディクソンの『アフターマン』であった。生物三大奇書として知られているひとつですね。


 それを見て、私は進化論てなんて面白いんだ! とつくづく思ったものだ。

 進化論に傾倒するというのは勿論、キリスト教に反していた。

 そっちにすっかりのめり込んでクリスチャンをやめることが出来たのだった。



 キリスト教は洗脳宗教だと言われる。

 一度、入信すると教会から離れても、また戻ってしまうというのは割とあるあるのようだけど、私はそれはなかった。


 まぁ、そのおかげで、西洋文化は入り易かったり、フィリップ・K・ディックの小説なんかとも親和性もある。


 ディック論で大岡昇平の『野火』が引き合いに出されてたのも面白い。

 塚本晋也監督版の『野火』も観に行ったし、マーティン・スコセッシの『沈黙』(塚本晋也が俳優として出演してたね)なんかもやっぱり気になって観たりした。


 ただ映画の『薔薇の名前』は凄い好きなのだが、ウンベルト・エーコーの原作となると、読むのが大変で結構辛いのだった……。



 最後に、私の経験としてのマメをひとつ書いておく。

 出会いがないという人はプロテスタントの教会にでも行くのもクリぼっちを避けれるし、ひとつの手だと思う。


 基本、来る人拒まず、入信の勧誘なんかもそうそうされない。気軽にぶらっと教会に寄ったりも出来るし、どうだろうか。


 信仰心があつければあついほどモテる傾向があるように思います。

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