第9話 視線

「リリー殿下、みんなが見ております……」

「え?」


 レインは二人を見守る軍勢の目を気にした。大軍を待機させているのにリリーと腕を組んで歩く……その事実に引け目を感じていた。しかし、リリーはまったく気にしていない。


「未来の夫婦が腕を組んで歩く。いけませんか? レインは嫌なのですか?」

「いえ、嫌ではありませんが……」

 

 リリーは少しわざとらしく眉根を寄せてレインを見上げてくる。青く澄みきった瞳はあまりにも切なげで、レインは言葉に詰まってしまった。何も言えないでいると、二人の間に気まずい沈黙が訪れる。すると、リリーが話題を変えるように砂丘の合間を指さした。


「あれはウルドの砂船すなぶねですか?」


 そこには巨大な軍船が停泊している。軍船の帆には大きく『狼』の紋章が印されていた。


「はい。戦列艦せんれつかんと言いまして砂の上を帆走はんそうすることができます。船首についているのは巨大ないしゆみで、弩砲どほうと言います。石や槍、または炸裂弾を放つことができます」

「まさに砂漠の帝国海軍ですね。とても勇壮な姿です」


 リリーが戦列艦を褒め称えると気まずかった空気がふっと軽くなる。レインは張り切って説明を続けた。


「ありがとうございます。あの艦は『キースリング』という船名で、我がキースリング家の家名を冠しております」

「そうなのですね」

「リリー殿下には『キースリング』に座乗ざじょうしていただき、藩都はんとウルディードまで向かいます」

「なるほど……わっ!?」


 砂に不慣れなのか、リリーは覚束おぼつかない足取りだった。態勢を崩すとレインの腕へ強く抱きついてくる。そのたびにレインは腕に柔らかな胸の感触を感じて思いきり顔を赤らめた。動揺して口調もたどたどしくなる。


「リ、リリー殿下、お気をつけください」

「……はい。わかりました」


 リリーは赤面するレインを見上げながら微笑んだ。その笑顔にはレインの動揺を見透かすような余裕が含まれている。やがてリリーはおもむろに手をほどき、二~三歩進んでその場にしゃがみこむ。


「本当に綺麗」


 リリーは両手で砂をすくい、さらさらと大地へこぼした。細い指の合間からこぼれる白い砂が陽射しを浴びてキラキラと輝き、風になびいて斜めに落ちる。リリーは何度も砂を掬いながら、ぽつりと呟いた。


「砂に含まれる石英せきえいが光に反射して、白く輝いて見えるのですよね?」

「さようです……リリー殿下はウルド砂漠についてお詳しいのですね」 


 レインはリリーが白砂はくさの由来を知っていることに驚いた。リリーの真後ろに直立し、腕を後ろ手に組んでリリーを見守る。目の前のリリーは砂遊びに夢中になる少女のようで、会ったばかりだというのに、とても愛おしく感じられた。『傾国姫けいこくき』と噂される皇女にはとても見えない。


「詳しくもなります。ウルド砂漠を見てみたいと、ずっと願っていました。だって、あなたの故郷なのですから」

「……」


 レインは無言だったが胸の内は歓喜で震えていた。


──リリー殿下は僕と同じようにウルドを愛してくださるかもしれない。


 レインにとって結婚とは価値観の共有そのものだった。同じ世界に生き、お互いを尊重しながら喜怒哀楽を共にする……レインが読んできた恋愛小説では、すべてがそう描かれていた。


 恋愛の経験がないレインは小説を鵜呑うのみにし、『現実世界もそうなのだ』とかたくなに信じこんでいる。痛々しいまでに結婚という儀式に幻想を抱いていた。リリーが語る言葉のすべてを信じこみ、『本当にそう思っているのですか?』と心の奥底へ踏みこむ必要性をまったく考えなかった。


「やっと願いが叶いました」


 レインの心中をよそに、リリーはゆっくりと立ち上がる。レインへ振り向きながら風に流れる銀髪を耳へかけた。


「ねぇ、レイン……先ほどから『リリー殿下』と呼んでいます。『リリー』ですよ」

「で、ですが……」


 リリーの声はレインの耳元を優しくくすぐる。レインは困り顔になって目を伏せた。女の名前を親しげに呼び捨てにするなんていまだかつて経験がない。それに、結婚相手とはいえリリーは神聖グランヒルド帝国の皇女。「リリー」とれしく呼ぶことはできなかった。しかし……。



「呼んでみてください。ほら、早く……」


 

 リリーのさくら色の唇が艶めかしく動き、甘い声色で催促してくる。レインは頭の奥が熱くなるのを感じた。


──名前を呼ぶだけなのに、どうしてこんなにも緊張するんだ……。


 レインの戸惑いは大きくなるばかりだった。今まで知らなかった熱い感情が心を支配し、思うように言葉が出てこない。やっとの思いで口を動かすが、声は震えていた。



「……リ、リリー」



 レインが名前を呼ぶとリリーは気恥ずかしそうにうつむいた。



「頼んでおいて言うのもおかしいですけれど……なんだか……照れますね」



 はにかむリリーは仕草までが可愛らしく、レインは返答に困ってしまった。やがて、乗ってきた馬の近くまでくると話題をらすようにリリーへ乗馬をうながした。


「リリー殿下、この馬にお乗りください。手綱たづなを持っていただけたら、僕がくつわを引きます。あの……えっと……」


 レインはやはり「リリー」と呼べなかった。一人で馬に乗れるのか? と尋ねたかったが、うまく質問することもできない。すると、リリーはレインの疑問を察して微笑んだ。


「馬くらい一人で乗れます」


 リリーは身軽な動作でひらりと馬へ横乗りする。しかし、その瞬間ドレススカートの裾が乱れ、青色のスカートから白い太ももが露わになった。


「リ、リリー殿下。あ、あの……」

「え?」


 レインが慌てて目を伏せるとリリーはすぐに自分の態勢に気づいた。しかし、慌てる素振りを見せず、レインの反応を楽しむかのようにわざとらしく太もも動かしながらスカートの裾を直す。


「このドレスは軍服に似せて作らせたのですが、乗馬には適していませんね。それと……」


 リリーは眉をよせ、少し困ったような表情を作る。


「さっきからリリー殿と呼んでいます。リリーですよ……」

「申し訳ございません、リリー殿……リ、リリー」

 

 レインは反応に苦労するばかりで会話にならない。それでも、リリー根気よく話しかけた。


「レイン、わたしたちにはもっと親しくなる必要があるようです。一緒に乗ってください」

「で、できません!! 僕なんかがリリー殿下と一緒に乗馬するなど……」

?」


 レインが答えるとリリーは少し首をかしげた。口元からは笑みが消え、苛立ったように目を細めている。


「レイン・ウォルフ・キースリング。わたしは従者に会いに来たのではありません。婚約者に会いに来たのです。帝国軍が見ているのですよ……何度も言わせないで」


 落ち着いた口調だが、言葉の端々からは冷たい感情が伝わってくる。レインはギクリとして背筋を伸ばした。


「畏まりました!!」


 レインは鞍に手をかけるとリリーの後ろへ飛び乗った。横向きに乗るリリーを抱きかかえるようにして手綱を持つ。その動作はあまりにも素早く、リリーは驚いた様子でレインを見上げた。


「さすがはウルドの戦士。乗馬にはれているのですね」

「はい。一応は……」


 レインの緊張がけることはない。レインは儀礼用の軽装甲冑を着ているが、高鳴る鼓動がリリーに聞こえてしまわないかと不安になる。すると、リリーが続けて尋ねてきた。


「こうやって誰かと一緒に乗ったことはありますか?」

「そ、そんなことはありません!!」

「そうですか……」


 リリーはレインの胸へよりかかり、身体をあずけてくる。だが、レインは腕のなかにいるリリーを見れなかった。強張こわばった顔のまま前を見すえ、緊張しきった声で出発を告げる。


「それでは、参ります」

「はい、お願いいたします……」


 レインが鞍を蹴ると馬はゆっくりと歩き始める。すると、二人を見守っていた軍勢に動きがあった。


 

「リリー殿下、万歳!! レイン・ウォルフ・キースリング万歳!!」 



 陣太鼓を叩く音が乾ききった熱い空気を震わせる。兵士たちが祝福する声は地平線の彼方まで響いていた。

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