第8話 白銀の皇女

 レインはダルマハルへ向かってゆっくり馬を進めた。吹いていた風もやみ、辺りが急に静かになった気がする。すると、200メートルほど先にあるダルマハルの城門で動きがあった。


──歓声がやんだ……。


 レインが目を細めると城門から騎兵の一団が出てくる。先頭を進む三人は父ロイドと母サリーシャ。そして、ハイゼル将軍だった。

 

──父上と母上だ!!


 レインは思わず声を出しそうになった。二人の姿は遠目にも威風堂々としており、レインが憧れる姿そのままだった。だが、再会できることを喜んでいる場合ではない。


 視線の先ではロイド、サリーシャ、ハイゼルが軍勢を左右に展開させてゆく。人馬に統率の乱れはなく、城門の左右に整然と陣を構築した。やがて、城門からまっすぐに伸びる道ができあがる。その道を今度は帝国軍旗をかかげた一団が進んできた。


 『翼竜よくりゅう』の紋章が縫いこまれた軍旗は皇族のあかし。リリー直属の皇女親衛隊だった。皇女親衛隊は一台の馬車を幾重いくえにも取り囲み、厳重に警護している。馬車の車体は金や銀で縁取られ、屋根には黄金色こがねいろに輝く『翼竜』の彫像をいただいている。


──儀装ぎそう馬車ばしゃだ……。


 レインは幼いころに父から聞いた話を思い出した。儀装馬車は皇族のみに使用が許されており、藩王の父ですら先帝ルキウスの戴冠式で見かけただけだという。儀装馬車が進むと、ロイド、ハイゼル、サリーシャも馬上で一礼する。親衛隊は馬脚をそろえて行進し、やがて止まった。


──あの馬車のなかにリリー殿下がいらっしゃる。


 レインの唇は緊張で乾ききり、喉を鳴らす唾すら出てこなかった。すると……。


 馬車の絢爛豪華けんらんごうかな扉が開かれて一人の女が降り立った。女は小柄で遠目にも銀髪だとわかる。青と白を基調とする軍服に似たドレスを着ていた。


──リリー殿下だ!!


 レインは鼓動がどくんと高鳴るのを感じた。目を凝らしていると、リリーはこちらへ向かって歩き始めている。


──リリー殿下は歩いてこちらへ来られるのか!?


 レインは驚きで目を丸くした。リリーは一歩一歩、白い大地を一人で進んでくる。ときどき立ち止まり、青い空を仰ぎ見ていた。近づいてくるたびに空気が張りつめてゆく。


──僕はどうすれば……。


 レインの心は乱れた。レインの知る帝国式儀礼では、皇女が馬か馬車で目の前までやってくる。それを拝礼して迎えればよいはずだった。だが、向こうが歩いてくるとなると、どのように出迎えればよいのかわからない。いや、少し考えれば同じように出迎えればよいと気づきそうなものだが、動揺するレインにその冷静さはなかった。


──と、とりあえず僕も馬から降りなきゃ!!


 レインは慌てて馬から降りた。慌てるあまり、足を乗せるあぶみが引っかかり、転倒しそうになる。寸でのところで態勢を持ち直し、やっとの思いで白い砂を踏みしめた。


──落ち着け、父上や母上もご覧になっているのだぞ!!


 気づけばリリーがだいぶ近づいている。向こうも立ち止まってこちらへ顔を向けていた。レインははやる気持ちを押さえて歩き始める。「走った方がいいかな?」と逡巡しゅんじゅんするが、「慌てて走り出すのは見苦しい」と思い直した。


──仮にも僕は一軍の将。落ち着いて胸を張るんだ。リリー殿下に呆れられるぞ。


 レインが歩き始めるとリリーも歩みを再開する。レインは必死になって心を鼓舞するが、近づいてくる皇女の威厳に気圧されてリリーを正視せいしできなかった。伏し目がちになり、リリーの足下を見つめながら歩いてゆく。


 二人の距離が30メートルほどに縮まるとレインは帯剣を抜いてその場にひざまずいた。抜身ぬきみの剣を両手でささげるように持ち、頭を下げてリリーの到着を待つ。膝から砂の熱が伝わり、照りつける陽射しが首筋をじりじりと焼く。時間が無限の永さに感じられる。やがて、遠くから砂を踏みしめる足音が聞こえてきた……。


──いよいよだ……。


 足音が前方で止まる。レインの視界に革のが付いた軍靴が入った。


──リリー殿下がすぐ前にいらっしゃる。


 レインは顔を伏せたまま声を張り上げた。


「リリー殿下におかれましては遠路のご来訪、祝着しゅうちゃく至極しごくに存じます。わたしは神聖グランヒルド帝国よりウルド国を預かる、藩王ロイド・ウォルフ・キースリングの息子、レイン・ウォルフ・キースリングでございます。リリー殿下をお迎えに上がりました!!」

「……」


 頭上から視線を感じるが返事はない。レインは帝国における最上の礼法でリリーを出迎えている。地に膝をつけるのは無抵抗を意味し、剣をささげるのは『わたしの生殺与奪をあなたにゆだねる』ということを意味していた。予定ではリリーが剣の柄に触れて「拝謁を許す。おもてを上げなさい」と返答するはずだが……。


──む、無視されているのかな……。


 レインはひたいに冷や汗を浮かべて言葉を探す。すると、透き通るような凛とした声が聞こえてきた。


「レイン・ウォルフ・キースリング。一つ尋ねる」

「は、はい。なんなりと」


 レインは恐縮してさらに深々と頭を下げる。声の主は威厳あふれる声色で尋ねてきた。


「そなたは帝国最高の儀礼でわたしを出迎えるが……もしガイウス大帝おじいさま行幸ぎょうこうなさったおりには、いかにして出迎えるつもりか? 帝国にはこれ以上の敬意を示す儀礼はないと心得ますが……」

「そ、それは……」


 レインは言葉に詰まり、ひたいに浮かんだ汗が白い砂の上に落ちた。リリーは皇女の上位者である皇帝が来た場合のことを尋ねている。すでに最高儀礼をとっているレインには答えようがない質問だった。皇帝行幸の場合など露ほども考えなかった自分の浅慮を呪うしかない。


「か、考えておりませんでした……」

「……」


 レインが正直に答えると少しの間をおいて再びリリーの声が聞こえてきた。


「レインは正直な人なのですね、ふふふ……」


 リリーは呆れ気味に呟きながらも、どこか面白そうに笑う。先ほどまでの高圧的な雰囲気は消え失せており、レインは緊張と安堵が入りまじる複雑な心境になった。


「ごめんなさい。あなたの出迎えがあまりにも立派で圧倒されてしまいました。なんだか悔しくて……少しからかってみたくなったのです」

「……」

「許してくださいますか?」

「も、もちろんでございます!!」


 レインはやはり頭を下げることしかできなかった。すると、剣にかすかな重みが加わり、リリーが剣身けんしんに触れたのがわかる。


「出迎え、大義たいぎである。わたしはリリー・ルキウス・グランヒルド・フレイヤ。先帝ルキウスの次女にして、神聖グランヒルド帝国における皇位継承権第五位の皇女。レイン・ウォルフ・キースリング、おもてを上げなさい」

「はい……」


 拝謁が許されるとレインは恐る恐る顔を上げた。そこには、澄みきった青空を背に、銀色の髪を風になびかせた女が立っている。気品あふれる優雅なたたずまいにレインは息をんだ。


 サファイアのように輝く碧眼へきがん、さくら色に染まる薄い唇、そして透き通るような白い肌。何もかもが完璧で、『傾国けいこく』と異名が付くのも納得できた。


 砂漠の強い陽射ひざしを浴びて銀色の髪がまぶしいほどに輝いている。白銀の光をまとったリリーは美しさを増すばかりで、レインはまばたきができなかった。


「痛々しい傷ですね……」


 ふと、リリーはひざまずくレインのひたいへそっと手を伸ばした。そして、細い指先で縫い合わされた斬り傷へ微かに触れる。リリーの仕草はたおやかな風が吹き抜けるように優しく、レインは痛みを感じなかった。


「わたしの伴侶となる方にやいばを向けるとは、なんて不遜な……いずれ、報いを受けさせます」

「……」


 リリーはレインが襲撃されたことを知っている。レインは深く恥じ入った。


──リリー殿下とお会いする日に襲撃され、手傷を負うなんて……とんでもない醜態だ。


「リリー殿下、恥は自分ですすぎます。どうか僕の失態をお許しください」

「失態だなんて思っておりません……さあ、立って」

 

 リリーはレインの手を取って立ち上がらせる。ひんやりとした柔らかな感触に、レインは耳の先まで熱くなるのを感じた。赤面するレインを見たリリーはさくら色の口元を柔らかにほころばせる。


「レイン・ウォルフ・キースリング、堅苦しいのはここまでにしましょう。わたしはあなたの妻となるために来ました。気兼きがねなくリリーと呼んでください」

「!?」

「わたしも、親しみをこめてレインと呼びますから。さあレイン、ウルド砂漠を案内してくださらない? 白い砂の砂漠だなんて、素敵だわ……」


 リリーは当然のようにレインの左腕へ両手を絡めてくる。銀髪が舞い、爽やかな香料の香りがレインの鼻孔をくすぐった。レインは寄り添うリリーを見下ろしながら戸惑うことしかできない。胸の中心がけるように熱くなり、鼓動は痛いほど早く脈打っていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る