第38話

 途端に視界が涙でぼやけて、つんのめって、貯水タンクにおでこを打つける。


目に装着してたグラスは壊れずに済んだけど、勢いがついていたせいで結構痛いしクラクラする。本日最初のダメージで、多分私が今までの人生の中で、一番響いた。




『大丈夫、ですかっ。怪我は、大丈夫ですかっ』


「う……気にしないで、うん。ちょっとその、うん」


『……フフ、そうだ。こうやって、自分の持てるのものを解き放ったアイツは、綺麗なんだよ』


「……追撃すんのやめろ、バカ師匠」


『聞こえてるぞ、バカ弟子』




 冷静になろう、うん。なんか最近、あのお姫様みたいに綺麗な女の子に、振り回されすぎな気がする。暗殺者はクールでないといけないから、うん、ちょっと深呼吸しよう。




『目標地点にバイヤーの姿は確認した。標的の姿も……現れた。いけるか?』


「うん、大丈夫。……姫の体調は?」


『少し、熱はありますが、大丈夫です。まだ、サポートできます』


「そっか、でも無理はしないで。ここからなら、私が何とか、絶対するから」


『はい、ありがとう、ございます』


「それから、帰ったら話したいことあるから、ちゃんと聞いてね」


『……はいっ、帰るのを、待っています』


『……アハ、何だー? 急に素直になるじゃないか』


「うっさい、ほっとけ」




 そしてまた駆け出す。私がやっている事は、パルクールを私なりにアレンジしたものだ。


 障害物や足場になるものを、全身のバネを使って踏みつけ、跳躍、そして建物の高所から高所へと疾走する。


路上を走ることは否応なく周囲の目をひくし、その中に敵対者が混じっている可能性を考えると、ただ目的地に向かって走るのはリスクが高い。


しかし建物の上なら、しかも闇に紛れていれば、最初から見上げている人間以外には気付かれない。


私がこの年齢までやってこれたのは、師匠のおかげでもあるけど、誰にも見つからず、かつ都会であれば何処へでも行ける移動手段を得たからだ。




『なぁ、姫。相手にとってってどんな奴だと思う?』




 あるいはフェンス、あるいは梯子、貯水タンク、何にもないただの端っこ、壁。そういうものがあれば、私が駆けるのには充分だ。


ケースを背負ってるのが少しだけ煩わしいけど、そんなものは力技でどうにかできる。




『冷静に、狙撃に必要な要素を計算する頭脳を持つものでしょうか』


『それもまた必要な事だな、だが違う』


『であれば、精密な射撃を可能にする、銃火器への習熟度を有している者、とか』


『それはもう、狙撃手皆が有していて然るべきだな。だから違う』


『どんな環境でも標的を狙える、不屈の精神性を持つものなどは、どうでしょう』


『根性論、嫌いじゃないし、実際必要になる場面は存在する。けど違う。怖い狙撃手ってのは』


でしょ。……よ、っと……」




 道なき道を掴んで、蹴って、捻って、跳ねて、ただひたすら駆ける。そうして狙った獲物をこの牙にかける、そんな獣のような狙撃手が、私だ。




『言わせろよ。……アイツは、それが出来る狙撃手だ。その身に宿した力を最大限生かす事で、自由にフィールドを駆けずり回り、相手を追い込むことが出来る』


「上機嫌だね。まったく」


『今までこんなことを話せる相手が居なかったからな! アハハ! ……勘違いしないで欲しいのは』


『はいっ……わかっています。彼女はその身体に大きな力を宿していても、決して獣なんかじゃない。素敵な、人間ですっ』


『そういうことだ』


「……うー……どいつも、こいつも」



 跳ねて、駆けて、そしてビルを出発してから3分後、ようやく目の前に、最初に見たあのボウリングのピンが、照らすことのないスポットライトに囲まれて、姿を現した。

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