第36話34 白藍(びゃくらん)の鎧 1

 その日は突然訪れた。


 レーゼはいつものように起きて、顔を洗い、ルビアが作った朝食を食べ、表の畑に出て頃合いの豆をちぎる。

 いい豆は匂いでわかるし、この夏が暑かったおかげで小さな畑の実りはいい。

 レーゼは籠いっぱいの豆をもぐと、さやを洗い、夕食のスープにするために井戸端ですじ取りをする。

 今日は天気がいいから、厚めの帽子を被って目を保護しているが、周りがどれだけ美しく、光にあふれているかは感じることができる。


 ナギは今頃どこで、どうしているかなぁ?


 レーゼは頬の汗を拭った。

 額を覆う包帯から紫のあざがはみ出している。それは少しずつ、しかし確実にレーゼの肌に広がり続けているのだ。

 ナギがゾルーディアを滅ぼすと誓ってここを出て行ってから、一年半が過ぎようとしていた。


 彼と過ごしたのは、たった半年余り。

 それでもレーゼにとっては、宝石のような時間だった。

 一つ年下にも関わらず、彼はレーゼより強く、彼女を守ると言ってくれた。

 レーゼと共に生きるために、魔女を倒すのだと誓って結界を破り、ここを出ていった。

「……」

 レーゼはそっと胸の石を握りしめた。

 ナギに与えた宝石の双晶の片割れを、あれからずっと身につけているのだ。

 王家の守り石でもある青い石。いにしえから王家にゆかりがあり、しかも元は一つであった石だ。

 もしナギの身に異変があれば、レーゼの血に流れる力によって、何かが伝わるはずだ。ナギには王家の血は流れてないが、あの石にはたっぷりと王家のしがらみが染み込んでいる。

 それに、石をナギの額に埋め込んだ時、わずかであるがレーゼの血も混じってしまったのだ。

 レーゼはそっと青い石に唇を寄せた。

 石は澄み切った青い色に似合わず、ほんのりと温かい。


 きっと今日も無事だ。


 二人の間には、幾重いくえにもつながった運命がある。

 レーゼは運命ではなく、ナギを信じている。

 彼がくれた温もりと優しさを信じている。

 朝に夕に思い出しては、心の中で宝物のように温めている。

 けれど──。


 レーゼは豆を洗う手を止めた。

 この閉ざされた塔から解き放たれたナギは、旅路の中できっと様々な人たちと出会うだろう。

 世の中には、たくさんの人間がいるということはレーゼだって知っている。

 男、女、子ども、老人。

 賢い人、美しい人、強い人。

 その中でナギは、レーゼよりも深いつながりを持つ人ができてしまうかもしれない。

 幼い頃読んだ物語にもあった。

 旅の戦士は、悪者をやっつける旅の途中で、大切な仲間と出会う。友人や師匠、そして恋人。

 そして皆で協力して悪者を倒すのだ。


 だって、きっと一人ではゾルーディアを倒せないもの……。


 本当なら自分も共に旅に出て、ナギと一緒に戦いたいとレーゼは思っていた。

 しかし、実際にはレーゼは、この結界から出られないし、力も弱いから役に立たない。それに体の痣は少しずつではあるが確実に広がっている。

 命の火が消えるまでに、ナギはここに戻って来られるのかどうかも、実のところはわからない。


 もし私が生きている間に戻れなかったら……?

 もし、私以上に大切な人ができて、その人の方を守りたくなったら?


 明るい前庭で豆のすじを取りながら、ふとレーゼの心が曇った。

「馬鹿レーゼ! 信じるって言ったのは嘘なの!?」

 レーゼは一瞬の弱気を吹き飛ばすように怒鳴った。

「ナギは誓ってくれたんだもの! 絶対に戻ってくる! 大丈夫よ!」

 ──その時。


『疑ったな?』


 くらい声が闇のように下りてくる。さぁっと日差しがかげり、辺りの彩りが灰色になった。

「誰!?」

 かすれた声で精一杯レーゼは叫んだ。

 体中の皮膚が泡立っている。

 唯一の力である鋭い感覚が、最大限の危険を告げていた。

 かつて、同じ感覚を味わったことを思い出す。それは幼い頃、全てなくしたあの夜のこと。


 これは──魔女だ。

 ついに魔女がここまでやってきた!


「……エニグマ、なの?」

 レーゼは悪意を放つ空間に向かって尋ねた。

『ようわかったなぁ。さすがゴールディフロウ王家、最後の血を引く姫じゃ』

 レーゼの目の前の空間に、禍々しい気配がり固まる。

 光だけを感じ取れるレーゼの視覚にあって、それは夜よりも昏い人形ひとがたの闇だ。

『そうとも。我が名はエニグマ。厄災の魔女と呼ばれる者である。だがな、姫──いや王女よ。我とて、そなたの血筋なのだぞ』

「ちすじ? どういうこと?」

 レーゼは厳しい声で言った。弱気を見せたらすぐに取り込まれるだろう。

『ふむ、そうだな。我も同じゴールディフロウの王家の出身。わかりやすく言うなら、そなたのご先祖様じゃ』

 魔女はおかしそうに言った。

「……エニグマなんて名前は知らないわ。聞いたこともない」

『ふふふ。わからぬのも無理はない。我らが姉妹の名は、とっくの昔に王国の系譜から抹消されているでの。さてそれも、二百年以上前のことだが』

「長生きで良いわね。それで今更なんのご用? 私はもうすぐ死ぬ身なのよ」

『知っておる。我が出来損ないの姉、ゾルーディアがそなたにくだらぬ情けをかけ、命を長らえさせた。まぁでも、たかだか数年のことであるし、よかろうと思って放っておいたが、最近我が手下てかのギマどもが多く失われはじめての」

「……」

『たかがギマなどは、いくらでも作れるゆえ別にいいのだが、業腹ごうはらなのは、生意気にも我が魔力に屈せず、立ち向かおうとするやからが増えたことである。ゆえに我はここに来た』

「どうして?」

『我が姉妹に向けられた憎悪は多い。大抵はどうでもいいものだが、中でも一番強い殺気は非常に強く純粋で、それは少々厄介と見た。その気配を辿ったのよ。古い王家の結界は強いが、一部もろくなっていたのでな。なんとかして入れぬかと探っておったところに……』

 ゆらりと闇が揺れる。まるで気配が一歩踏み出したように。

『疑いの感情を感じた。そなたの心に芽生えた揺らぎをなぁ。だからそこから我の思念を滑り込ませることができたのじゃ』

「わ、私が揺らいだ?」


 ほんの一瞬、ナギのことを疑ってしまったから?

 私が弱いからなの?

 ナギ!


 レーゼは額に守り石を押しあてた。

 無意識にやったことだが、こうすることで更に感覚が極まる。こんなに集中したのは初めてだった。

 エニグマがわらう。

『おや、何をしておるのか? この役立たずの姫は。無駄なことだというに』

 しかしレーゼはもう動じなかった。深く強く石に気持ちを集中させる。

 遥か遠くに感じる、懐かしい気配。

 それは、真っ直ぐにレーゼの方に向いていた。それは何かと激しく戦っているようだった。


 レーゼ、レーゼ、レーゼ……!


 レーゼは自分の弱さを恥じた。


 ナギは私のために戦ってくれている!

 なのに私は、なんてことを一瞬でも考えたんだろう。


『もうよかろ? レーゼルーシェ王女。王家の忌み子よ』

「そうだ。私は忌み子。だからなに?」

 レーゼの声は、もう弱くはなかった。

『今、あの若者を思うていたな』

「……」

『そなたの命を今ここで断てば、あの若者の意気いくじくじけようなぁ』

「私を殺すつもりなの?」

『そのつもりじゃ。だがすぐに殺しては面白うない。我ら姉妹も、かつてゴールディフロウ王家の忌み子で、そなたよりももっと酷い扱いを受けたのだから』

「……」

『我らは能力を使ううちに、緋色だった髪や眼の色が黒く変化してしまってのう。そなたも知っているだろう。王国で邪悪な色とされるのは黒、次に忌まれるのは白藍。我らの美しかった髪も目も、皮膚の一部も人々の忌み嫌う黒と変わった」

「なぜ?」

「……さぁな」

 意外にも、エニグマの気配が少しだけ揺らいだ。

「我が姉妹の未来は閉ざされ、実の父によって東の大陸に売られたのだ。だから同じ忌み子どうし、ちょっと遊ぼうかと思ってのぅ。そなたには我の座興ざきょうにつき合ってもらう』

 エニグマの気配から、闇のわだかりが広がった。

 その中から出てきたものは。

「な……こ、これは!」

 王冠をつけたケープの老人、金の輪をつけた壮年の男、立派なドレスを着ているが悲しそうな女、それに豪華な金髪の少女。

 つまり、このかつて人だったものは──。

 レーゼの祖父である国王、父である皇太子、皇太子妃である母、そして双子の妹ジュリアだったのだ。

 皆かつての魔女たちの襲撃で死んでいる。しかしその死体は見つからなかった。

 エニグマによってギマにされていたのだ。

「なんてことを……!」

 悪意ある魔法のせいだろうか、レーゼにはそのギマ達の姿が見えた。

『そうじゃ。今まで大事に取っておいた甲斐があったというもの。そなたはそなたを無碍むげにした、身内によって殺されるが良い。なんならそなたもギマにして、そなたが疑った男の元へ送ってやってもよいぞえ』

「お爺さま! お父さま! お母さま! ジュリア!」

 レーゼは必死で家族の名前を呼んだ。

「お母さま! 私よ! レーゼよ!」

 しかし家族で唯一自分に優しくしてくれた母の目は、どろりと濁り、レーゼをものであるかのようにぼんやりと見ている。いや、顔を向けているだけだった。その目に娘が映ることは永遠にないのだ。

 祖父や父の顔は、かつて自分を見下げた通り、嫌悪にゆがんだまま固まり、双子の妹のジュリアに至っては、姉を嘲笑った微笑みを浮かべたギマとなっている。

 そして彼らは足を引き摺りながら、レーゼに向かって腕を伸ばした。

 服も装飾品はそのままだが、破れていたり血がついたりしていた。きっと殺された時のものだろう。祖父である国王のギマは首に噛み跡があるし、父の指は血桶に漬け込んだように真っ赤だ。母と妹は、一見どこにも傷はないようだった。

 だが、それでも死体は死体だ。ギマである。

 祖父の手がぬっと伸びる。

「い、いやあああああ!」

 レーゼは必死になって逃げた。特にジュリアのギマは執拗に、豪華な金髪を振り乱しながら、かつての姉を追い回す。

 彼らには感情や知能などないはずなのに、どこか楽しんでいるように見えた。もしかしたらそれもエニグマの魔力かもしれない。

「来ないで! 来るな!」

 祖父の豪華な指輪をはめ込んだ手が、レーゼをつかもうとした瞬間、塔の中からルビアが飛び出してきた。

「レーゼ様! こちらへ!」


   ***


レーゼの話です。

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